綾瀬先輩のヒント   作:ひまんちゅ

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経済学部編
選択と後悔


美琴(みこと)は講義ノートの余白に、同じ言葉を書き続けていた。

 

機会費用。機会費用。機会費用。

 

教授は言った。「直感的に分かるでしょう」

分からない。

“何かを選ぶと、何かを捨てる”というのは分かる。

でも試験問題になると、どこから手をつければいいのか分からない。

 

講義後、階段教室の最上段。

美琴はノートを閉じて呟いた。

 

「……結局、暗記だよね」

 

「暗記じゃないよ。道順がないだけ」

 

声がした。振り向くと、上級生の女性が立っていた。

落ち着いた目。軽い荷物。重そうな集中。

 

「綾瀬。綾瀬紗月」

 

美琴は慌てて頭を下げた。

 

「すみません、独り言で……」

 

「いいよ。聞こえたから来ただけ。

機会費用で詰まってるの?」

 

「……はい。選ぶと捨てる、というのは分かるんですけど、具体的な問題になると……」

 

綾瀬先輩は少し考えてから言った。

 

「じゃあ、選択の話を一個だけ。

いま、美琴ちゃんが持ってる時間は何時間?」

 

「え……今日は、あと三時間くらい……?」

 

「その三時間で、何ができる?」

 

「えっと、レポート……とか、友達とご飯……とか、寝る準備とか……」

 

「全部は無理だよね。じゃあ選ばなきゃいけない。

そのとき、“捨てたもの”が機会費用」

 

美琴は頷いた。でも、それは分かっている。

 

綾瀬先輩は続けた。

 

「大事なのは“捨てたもの”がいつも同じじゃないということ。

状況で変わる。だから暗記じゃなく、毎回“相手”を見つける」

 

「相手……?」

 

「何と比べているか。

選択肢Aを取ったとき、捨てたのはBかCか。

“いちばん惜しいやつ”が機会費用になることが多い」

 

先輩はノートに小さく図を描いた。

三時間という箱。その中に、レポート、食事、睡眠の札を置いて、入るか入らないかを動かす。

 

「図にすると、何が惜しいものかが見える」

 

美琴は目を細めた。

たしかに、“惜しい”が見える。

それは感情だけど、選択の中心だった。

 

「式は最後。もし数字が出るなら、差を取るだけ。

でも本当に欲しいのは、“何を失ってるか”の自覚」

 

美琴はノートの余白に書いた。

 

機会費用=選ばなかった中でいちばん惜しいもの。

 

たった一行。

でも、その一行は暗記ではなく、道順だった。

 

美琴はふと、別のことを思った。

“惜しい”って、誰が決めるんだろう。

価値は、人によって変わる。

なら、経済は、数字だけじゃない。

 

「先輩、これって……価値の話にも繋がりますか」

 

綾瀬先輩は少しだけ笑った。

 

「うん。繋がる。

だから経済は面白い。——問いが増えるから」

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