なんとな〜く、北瀬の話題を持ち出してみた。
俺が北瀬という言葉を口に出すと、湯島はピクリと反応した。そして、湯島は笑った。
「柚子木、アンタ知ってるでしょ?今、私がわざと音信不通にしてるってことぐらい」
彼女は笑いながらそう言うけれど、心は全然笑っていなかった。彼女の大きな心配の一つであることを俺は話に出したんだ。それぐらいは覚悟している。
彼女にとってこの話題はもうNGと言っていいほどである。彼女自身、そのNGについて何回も何回も頭を悩ませたが、いい答えが出なかった。
いい答えが出なかったのに、彼女はもう時間がなかった。だから、強行手段に出た。別れてもいい。その意志で彼女はこの手段を選んだ。
けれど、やっぱり今になって彼女は後悔している。自分のした行為はまぎれもない裏切りであり、北瀬に余計に迷惑をかけるんだって気付いた。
北瀬がサラッと自分のことを捨ててくれると思っていたばかりに、彼女は愚策を選んだ。けれど、北瀬の持つ湯島への一途な心に彼女は苦しまされていた。
嬉しいばかりに苦しい。それが彼女の現状だった。
彼女は下を向きながらこう言った。
「前まではさ、二人でいるのが普通だった。けれど、その時の私は気づかなかったんだ。……バカだよね、私。大事な人を、隣にいてくれる人を、簡単に突き飛ばした。その罪は重いんだ。……辛いよ、すごく」
彼女は辛いと感じている。なのに、彼女はそれでもまた北瀬と会うことを拒んでいる。
プライドであろうか。確かにそれもある。彼女は自分から突き放したのに、今さら北瀬に顔を見せようにも見せられない。
けど、それだけじゃない。
北瀬は来月にはサッカーでの大きな大会を控えている。北瀬は一年で唯一、サッカー部のレギュラーを獲得した男であり、今はそれどころではないだろう。
だから、湯島は自ら彼との間に距離を置いた。捨てられてもいい。その覚悟で彼女は距離を置いたが、大切なものがあるという大きな存在の価値に気づいてしまった。
時折鳴る彼女のスマホの画面には『北瀬守』と表示されているだろう。その画面を見て見ぬフリをするのは、彼女にとってどれほど辛いことなのかは少しだが想像できた。
だから、俺はその辛い思いに拍車をかけた。
「北瀬はさ、まだお前のこと想ってるぞ」
湯島はそれを聞くと元気なく口角を上げた。山茶花の花びらをじいっと見ながら、過去のことを振り返る。振り返って、幸せな自分と、今の自分を比べて彼女はため息を吐いた。
「なんで、こんなにもずっと想い続けてくれるんだろうね」
早く、彼女は彼から捨てられたかった。そうすれば自分で踏ん切りをつけることができるのに、肝心の北瀬はそれをしない。自分から縁を切ることができないのは弱さであり、湯島はその自らの弱さを思い知った。
早く捨ててほしい。それが彼女の願いであった。そうすれば、彼女はもう苦しまず、北瀬は湯島なんか気にしないで生活を送れる。二人にとってそれはとてもいい選択の一つであった。
だけど……。
「ムリだな。あのバカ、自分の気持ちを誤魔化すっていうこともできないから。自分の気持ちには率直に、嘘はつかない。それはお前が一番知ってるだろ?だって、お前は北瀬のそんなところに惚れたんだ」