アバカブ号は小惑星帯を抜け、次の目的地である中立セクターへ向かって静かに滑り出していた。
船内のトレーニング・ルーム。
薄暗い照明の中、恭介は額に汗を浮かべ空中に浮かべた数個のボルトをじっと見つめていた。
(動け、動いてくれ。今度は自分の意志で!)
ボルトが小刻みに震え、鈍い金属音を立てる。しかし、数秒後には力尽きたように床へ転がった。
「力任せにやっても、エネルギーが散るだけよ」入り口に立っていたまどかが、呆れたように、けれどどこか優しい声で言った。
「あ、鮎川さん。見てたんですか」
「マスターにあんたがここで妙な特訓をしてるって聞いたわ。どうして? 自分の力が怖かったんじゃなかったの?」
「怖いです。でも、この前のひかるちゃんを見て思いました。僕がこのままだと、また彼女や、鮎川さんまで危険な目に遭わせてしまう。守られるだけじゃ嫌なんです」恭介の真っ直ぐな瞳。
まどかはその視線を正面から受け止め、ふいをつかれたように唇を噛んだ。ひかるが300年以上も追いかけ続けた理由が、少しだけ分かった気がした。
「いいわ。戦い方は教えられないけど、力の抜き方なら教えてあげられる」
まどかは恭介の背後に立ち、その震える肩にそっと手を置いた。
「目を閉じて。自分の鼓動を、船のエンジンの振動と同期させるの」
一方、通路の影ではひかるがその様子を音もなくスキャンしていた。
《対象:春日恭介、心拍数微増。鮎川まどか、体温微増。親密度:警戒域》
ひかるの胸の奥で冷却ファンが激しく回る。
(ダメ。センパイの隣は、私の指定席なのに)
彼女は300年、彼を救うことだけを考えて生きてきた。しかし今の恭介が求めているのは、自分のような最強の盾ではなく、まどかが持つ導きなのではないか――。
そんな高度な推論が、ひかるのAIに嫉妬という名のエラーを発生させていた。
「センパ〜イ! まどかさーん! おやつ持ってきましたよ!」ひかるはわざとらしく明るい声を出し、二人の間に割って入った。
「あ、ひかるちゃん。治療したばかりなのに動いて大丈夫?」
「もちろんです! 私、センパイの心配してくれる顔を見るのが一番の特薬なんですから!」
ひかるは恭介の腕に抱きつき、まどかをチロリと睨む。まどかはそれに苦笑しつつ肩をすくめて部屋を出た。
その夜。
ラウンジで一人、まどかはサックスを奏でていた。
どこか物悲しく、けれど温かい旋律。それは300年前の地球で流行ったとされる古いラブソングだ。
通りかかった恭介がその音色に誘われるように足を止める。サックスの響きが彼の脳細胞を震わせ、封印されていた記憶の断片が火花のように弾けた。
(――白いワンピース。夏の終わりの波の音。誰かの、笑い声)
「うぅ……、あっー!」
恭介は激しい頭痛に襲われ、その場に膝をついた。
「恭介!? どうしたの!」まどかが演奏を止め駆け寄る。
恭介の脳裏に、かつてひかると過ごしたあの日の情景が、セピア色のノイズとなって流れていく。
「ひ、ひかる、ちゃん?」
恭介が呟いた、その名を物陰で聞いていたひかるの手が、壁の金属をギュリと歪ませた。それは彼女が最も待ち望んでいた瞬間であり、同時に最も恐れていた終わりの始まりでもあった。
記憶が戻れば彼は自分を選んでくれるだろうか。
それとも、まどかとの今を大切にするだろうか。
オレンジ色の光に包まれたラウンジで、三人の想いは激しく共鳴し始めていた。
(第7話へ続く)