アバカブ号の医務室。恭介はベッドに横たわり、激しい頭痛に耐えながらこめかみを押さえていた。まどかのサックスを聴いた瞬間に弾けた、あの記憶の火花がまだ脳裏に焼き付いている。
(――波の音。砂浜。誰かの、楽しそうな笑い声。あれは、誰なんだ?)
「少しは落ち着いた?」
ベッドの脇でまどかが冷たいタオルを恭介の額に乗せた。
「すみません、鮎川さん。あの曲を聴いたら、急に」
「無理に思い出そうとしなくていいわよ。300年も寝てたんだから頭の中がこんがらがってるのは当然よ」
まどかは淡々と言ったが、その瞳には恭介の過去に対する複雑な色が混じっていた。そこへ、慌ただしい足音と共にひかるが飛び込んできた。
「センパーイ!! 大丈夫ですか!? 悪い夢でも見たんですか!?」
ひかるは恭介に抱きつき、その心拍数を即座にスキャンする。
《対象:春日恭介。心拍安定傾向。脳波:異常な共鳴パターンの残滓あり》
「ひかるちゃん、大丈夫だよ。ちょっと……」
「ダメです! センパイは私が守らなきゃいけないんですから! 鮎川さん、センパイに変な刺激を与えないでください!」
ひかるはまどかを鋭く睨みつけた。その視線にはプログラムを超えた独占欲に近い熱がこもっていた。
その時、船全体を揺るがす凄まじい衝撃が走った。
「なっ!?」
スピーカーからマスターの怒号が響く。
『総員、戦闘配置! 特殊部隊のステルス艦だ! 完全に包囲されたぞ!』
船体各所で爆発音が響き、赤い非常灯が狂ったように回転し始める。
「特殊部隊ゴースト・スクワッドか! しつこいわね」
まどかが腰のピックを抜き、鋭い目つきで通路を見据えた。
「恭介、あんたはここで隠れてなさい」
「待ってください、僕も!」
「足手まといよ。来ないで!」
まどかは一瞬だけ、冷たく恭介を突き放した。それは、彼を戦火から遠ざけるための彼女なりの決断だった。
しかし敵はすでに船内に侵入していた。医務室のハッチが爆破され、黒い強化装甲に身を包んだ兵士たちがなだれ込んでくる。
「ターゲット確認。検体1号を確保せよ」
「させない! センパイには、指一本触れさせません!」
ひかるが恭介の前に立ち塞がった。兵士の一人が高圧電流の流れる電磁ネットを放つ。ひかるはそのネットを素手で掴み、強引に引きちぎった。
「私の、センパイに、触るなぁぁ!!」
ひかるの拳が兵士の装甲を粉砕し、壁まで吹き飛ばす。だが、その代償は大きかった。高電圧と衝撃によりひかるの頬の人工皮膚が大きく焼け、めくれ上がってしまったのだ。
「あっ」
ひかるがハッと自分の顔に手をやったときにはもう遅かった。裂けた皮膚の奥で鈍く、けれど精密に光るチタン合金のフレームが恭介の目に晒されていた。
「ひ、ひかる、ちゃん、その、顔」
恭介は頭痛に耐えながら、信じられないものを見る目でひかるを見上げる。
ショックでひかるの動きが止まったその瞬間、残りの兵士たちが一斉に銃口を向けた。
「そこまでよ」
通路の奥から鋭い声が響き、赤いピックが空を切り裂いた。兵士の銃口を正確に弾き飛ばし、まどかが猛然と現れる。
「鮎川さん!」
まどかはひかるの無残にめくれた顔を一瞥した。驚きはない。ただ、絶望に震えるひかるの瞳を見て、まどかはさらに鋭い目つきで兵士たちを睨みつけた。
「いいから、行きなさい! ひかる!」まどかが叫ぶ。
「でも、私、センパイに、見られちゃった、もう……」
自分の正体がバレ、すべてが終わったと立ち尽くすひかるの背中をまどかの怒号が叩いた。
「いいから行きなさい! あんたにはまだやることがあるでしょ!」
ひかるが目を見開く。
そうだ。正体がバレたことよりも、今この場所で彼を守り抜き、彼の運命を切り拓くこと――それこそが、自分が300年かけてパーツを継ぎ接ぎしてまで生き長らえてきた唯一の理由だったはずだ。
「っ! はい!」
ひかるは迷いを振り切り恭介を軽々と抱え上げた。
「センパイ、しっかり捕まっててください!」
「あ、ひかるちゃん! 待って、鮎川さんは!?」
「うるさいわね、あんたは自分の心配だけしてなさい!」
まどかが背後で不敵に笑う。
「ここは私が食い止める。あんたを連れて戦うには、この船は少し狭すぎるのよ」
まどかは迫り来る特殊部隊の真っ只中へと一人で飛び込んでいった。
ひかるは恭介を抱えたまま、機関室へと続く通路を駆け抜ける。
背後から聞こえる激しい銃声とまどかの鋭い気合。
恭介はひかるの硬い、けれど不思議と温かい機械の腕の中で、自分を逃がすために一人残ったまどかの背中をいつまでも目に焼き付けていた。
(第8話へ続く)