インテリは愚行を犯す。賢い貴方は気をつけて   作:実験者

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一話:調月リオ

 はじめまして、こんにちは。

 私は先生です。

 先生といってもシャーレに所属する先生ではなく、そこから派生した裏であり、闇の部分です。

 裏闇先生と読んでください。

 裏で、闇ではありますが、もちろん、生徒の皆さんに危害を加えるつもりはありません。先生という立場は同じです。ただし私が手を伸ばすのは『誤った生徒』です。

 

 私が発生するのは誤った生徒。その自己批判精神に則り、考える機会を与え、誤りを正し、何を謝るか。

 零れ溢れたものを掬う為に活動します。

 今回の相手は調月リオさん。

 彼女はどんなふうに自分を責めているのでしょうか?

 

 

 夕暮れの空が、灰色に沈み始めた頃だった。

 

 古びたアパートの廊下は、蛍光灯の白い光が薄く広がり、壁の剥がれかけた塗装に影を落としている。

 

 階段の踊り場から聞こえる、遠くの子供の笑い声が、妙に現実離れして響く。調月リオは、いつものように無言で鍵を差し込んだ。

 

 コンビニのビニール袋が、彼女の細い指に食い込むように揺れている。中身は今日も変わらない——温め直す必要もない、冷めた弁当と、味気ないミネラルウォーターのペットボトル。

 

 長い黒髪が肩から滑り落ち、白いタートルネックの襟元に影を落とす。ミレニアムの校章を模したヘアピンが、鈍く光を反射した。ドアの前に、僕が立っていた。黒い手袋をはめた両手を、萌え袖の中に隠したまま。

 

 黒ストの脚を揃え、静かに微笑む。

 

「お久しぶりです、リオさん」

 

 リオの足が、ぴたりと止まる。彼女の瞳が、わずかに揺れた。色白の肌が、廊下の蛍光灯の下でより青白く、まるで紙のように見える。

 

「……先生……? 先生? なんか違和感が」

「あ、気にしなくて良いですよ。そこは重要ではないので。先生は先生でも別側面や、別視点の話です。随分と酷い生活をされているようですね、良ければ相談になりますよ?」

 

 彼女は一瞬、眉を寄せた。だが、すぐにいつもの冷めた、氷のような表情に戻る。長い睫毛が、ゆっくりと瞬く。

 

「……別に必要ないわ」

「まぁ、まぁ、まぁそう言わず。必要あるか無いかは、相談したあとで決めれば良いんです。質は量が無いと生まれない。そのほうが合理的でしょう?」

 

 リオは小さく息を吐いた。諦めとも、疲れとも、苛立ちともつかない溜息が、廊下の空気に溶ける。

 

「……そうね。入って。立ち話は疲れるわ」

「失礼します」

 

 ドアが閉まる音が、静かに響いた。鍵の回る音が、まるで心の扉を閉ざすような響きを帯びていた。部屋の中は、予想通り——いや、予想以上に酷かった。

 

 ゴミ屋敷という言葉すら生ぬるい。床には空の弁当容器が無造作に散らばり、プラスチックの蓋が何枚も重なって小さな山を作っている。

 

 床の上には、脱ぎ捨てられた制服やブラウスが積み重なり、いつ洗濯されたものかもわからない。カーテンは半分しか閉まっておらず、薄いオレンジの夕陽が埃っぽい空気を染め、部屋全体をぼんやりと赤く照らしている。

 

 テーブルの上には、飲みかけのペットボトルが三本転がり、床の隅には黒いビニール袋がいくつも膨らんで、異臭を放ち始めていた。壁際には、かつてのミレニアムの資料らしきファイルが崩れ落ち、紙が床に散らばっている。

 

 埃が積もり、すべてが時間の停滞を物語っていた。

 僕はゆっくりと部屋を見回した。黒い手袋をはめた手で、萌え袖を少し揺らしながら。黒髪のショートカットが、首筋で小さく揺れる。

 

「汚いですね。不衛生です。愚かです。そんなことで、病気になってしまいますから、掃除することをお勧めします」

 

 リオはコートを脱ぎ、ベッドの端に腰を下ろした。長い黒髪が背中を覆い、肩がわずかに落ちる。グラマラスな肢体が、しかし今はただ重く、疲弊したように見えた。

 

「難しいのよ、掃除って。綺麗にしても綺麗にしても汚れていく。無限の拷問ね」

「それは困りましたね。大変です。ミレニアムサイエンススクールで会長やってたら、世界を滅ぼすアリスちゃんを見つけて、学園と世界を守るために滅ぼそうとしたら、アリスちゃんの性格が普通に良かったから周囲の人達から大顰蹙をかって愛と勇気と正義に敗北して、小さなアパート暮らしになるくらい大変です」

 

 リオの肩が、わずかに震えた。彼女は顔を上げず、床のゴミを見つめたまま呟く。声は低く、掠れている。

 

「貴方は何しに来たの?」

「それは貴方が知っている筈です。むしろ逆に僕が問いかけましょう。貴方に何があったんですか?」

 

 無言。部屋に、重い沈黙が落ちる。外から聞こえる車のクラクションが、遠くで一度鳴って、すぐに消えた。僕は彼女の隣に、そっと腰を下ろした。黒ストの脚を揃え、手袋の指先で膝を軽く叩く。萌え袖が、ベッドのシーツに触れて小さな皺を作る。

 リオの唇が、ゆっくりと動いた。

 

「私は……」

 

 言葉はそこで途切れる。彼女は両手で顔を覆い、長い髪が指の間から零れ落ちる。指先が、わずかに震えていた。

 

 僕は静かに待った。なぜなら、僕は彼女の自己批判そのものだから。彼女が自分自身を責め、抉り、切り裂く声が、僕の声でもある。同一の存在だからこそ、逃げられない。やがて、彼女の声が小さく漏れた。

 まるで、喉の奥から絞り出すように。

 

「私は、そんなに罪深いかしら?」

 

 その言葉に、僕は微笑んだ。黒い瞳が、優しく、しかし冷たく彼女を映す。黒い瞳は、まるで底の見えない井戸のようだった。

 

「どうしてそう思うんですか? 世界を守るためなら、少数の犠牲は許容される。それが貴方の合理主義でしょう? アリスを抹殺すれば、キヴォトスは安泰。多数の幸福のためなら、自分を含めた少数を切り捨てる。それが正しいと信じて、実行した。なのに、今はなぜ、そんなに自分を責めているのでしょう?」

 

 リオの指が、震えた。顔を覆った手が、ゆっくりと下がる。涙で濡れた瞳が、僕を——自分自身を——見つめる。

 

「……やりたくなかった。殺すなんて……そんなこと、したくなかったのに」

「なのに、した」

「世界が……滅びる可能性があったから」

「滅びる世界を救うために、自分が悪役なることを選んだ。立派ですね。では何故、それを選んだのでしょう? 効率的で合理的だから? でも仲間を募ったほうが良いでしょう。破壊せず解決の道があったのかもしれない」

「そうね、その通りだったわ」

「正直ここは大切ではありません。後からああすれば良かったこうすれば良かったのタラレバ話ほど不毛なことはありませんし。大切なのは、調月リオはどうして一人(トキがいるけど)で行動したのか、という部分です」

 

彼女の瞳に、涙が一筋、頬を伝う。グラマラスな体が、初めて小さく見えた。肩が内側に縮こまり、長い黒髪が顔を半分隠す。

 

「リオさん。貴方は、アリスの破壊を決めた時、どういう感情があったのでしょうか」

「私は……見返したかったのかもしれない。理解されないままで、孤独のままで、それでも正しいことをしたって、誰かに認めてほしかった……でも、誰も……誰も、私のことを……」

 

 声が途切れ、嗚咽が漏れる。彼女は両手で口元を押さえ、肩を震わせた。僕は静かに頷いた。

 

「なるほどなるほど。では、何がいけなかったのか、あるいは正しかったのか、一つ一つ紐解いて行きましょう。何故、そう思うのか? 一般論ならば、あるいは私から見れば、貴方から見れば……」

 

 リオは顔を上げた。涙で濡れた瞳が、僕をまっすぐ見つめる。そこには、かつての冷徹な合理主義者の面影はなく、ただ、傷ついた少女がいた。

 

「真相ならぬ深層に辿り着けたのではないのでしょうか? そこから何を選び、どう行動するかは貴方が苦しんで決めることです」

 

 部屋の中は、静かだった。夕陽が完全に沈み、薄闇が広がる。ゴミの山も、散らかった弁当も、埃も、すべてが彼女の心の風景のように、そこにあった。

 

 僕はただ、隣に座っていた。手を伸ばさず、ただ見つめ、ただ問いかける。なぜなら、それが僕の役目だから。

 

 光の先生が手を差し伸べられない、闇の底に落ちた者を、責めながら、受け止めること。

 リオの嗚咽が、ゆっくりと部屋に響き始めた。外の街灯が点き始め、窓から淡い光が差し込む。

 

 彼女の涙が、床の埃の上に小さな染みを作った。僕は、静かに待つ。彼女が、自分自身と向き合うまで。

 

 散らかった弁当容器のプラスチックが、時折カサリと音を立てる。リオはベッドの端に座ったまま、膝を抱えるように体を縮めていた。長い黒髪が顔の半分を覆い、涙の跡が頬に乾いて白い筋を残している。

 

 僕は隣に座ったまま、黒い手袋の指を軽く組み、萌え袖を揺らしながら静かに言葉を紡ぎ始めた。

 

「こういう流れで、大変恐縮ではありますが、恐々しながら粛々と僕は問いかけたいんですけど……リオさんは恨み辛みはないんですか?」

 

 リオの肩が、わずかに動いた。顔を上げず、床のゴミを見つめたまま。

 

「恨み?」

「怨恨です。だって世界やみんなを守ろうとしたのに、そのみんなから否定されたわけですからね。怒りの一つでも覚えるものではないでしょうか?」

 

 彼女の唇が、ゆっくりと動く。声は低く、掠れていた。

 

「怒りや憎しみ……それはないわ。アリスを殺そうとしたのは事実なのだから、それに不服はない」

「なるほど。それは素晴らしい。それでしたら不服や不満はないんですか? 怒りや憎しみはなくても、嫉妬や妬みはあるのでは?」

 

 リオは無言になった。長い睫毛が、静かに伏せられる。僕は淡々と続ける。黒い瞳が、彼女の横顔をじっと見つめたまま。

 

「こんなゴミ屋敷に住んでいる貴方と、順風満帆に学園生活を送るアリスちゃんとその仲間達です。平凡だけど元気に、身の丈にあった幸福を享受している『みんな』。そこに何も思い入れもないと?」

「……ない」

「なるほど、ご立派です。しかし人間としては落第、いや異端でしょう」

 

 僕は小さく息を吐き、膝の上で指を軽く叩いた。まるで、授業の板書を続ける教師のように。

 

「では、少し一般論をお話ししましょう。僕が知っている範囲で、ですが」

 

 リオは反応せず、ただ聞いている。僕は言葉を続ける。

 

「正しいことをしたのに認められず、否定され、放逐された時の一般論——人間は、まず『裏切られた』と感じます。自分は善意で行動したのに、周囲がそれを理解してくれない。守ろうとした人々が、自分を悪者扱いする。そこに生まれるのは、まず怒りです。次に、怨恨。『なぜ私がこんな目に』という被害者意識。そして、最後には恨み。『あいつらが悪い』と、他者に責任を転嫁することで、心の均衡を取ろうとするんです」

 

 僕は首を軽く傾け、黒髪が頬にかかる。

 

「ところが貴方は、それがない。怒りも、怨恨も、恨みも。実に珍しい。あるいは、実に不自然です」

 

 リオの指が、膝の上でわずかに握りしめられる。

 

「次に、嫉妬や妬みの一般論。人間は比較する生き物です。特に、自分が失ったもの——地位、信頼、周囲の承認、居場所——を、かつての敵や、かつての味方だった者たちが手に入れているのを見ると、胸の奥に黒い炎が灯ります。『なぜあいつらが』『なぜ私は』という思い。ゴミ屋敷に住む自分が、アリスちゃんの笑顔に囲まれた日常を見ると、普通なら『羨ましい』『ずるい』『私だって……』という感情が湧くはずです」

 

 僕は微笑んだ。優しく、しかしどこか冷たく。

 

「なのに貴方は、それもない。『ない』と即答する。素晴らしい自己抑制力です。あるいは、素晴らしい自己欺瞞です」

 

 リオの肩が、震えた。声は小さく、ほとんど囁きに近かった。

 

「……私は、悪いことをしたから」

「そうですね。悪いことをしたから、罰を受けた。罰を受けるのは当然。だから恨む資格はない。妬む資格もない。そう思っているのでしょう?」

 

 僕は静かに頷く。

 

「それが、貴方の『動かない心』の理由の一般論です。自己批判が強すぎるあまり、感情の回路を自ら切断している。『私が悪いのだから、恨むのはおかしい』『私が悪いのだから、妬むのは許されない』。だから、感情を凍結させる。怒りも、嫉妬も、被害者意識も、すべて『許されないもの』として封印する」

 

 僕は黒い瞳を細め、彼女の横顔を覗き込む。

 

「しかし、それで本当に心は平穏ですか? 感情を凍らせた氷の下で、何かが腐り始めていないですか? ゴミ屋敷のこの臭い、散らかった弁当、洗われない服、誰も訪れない部屋……それらは、凍った感情が、別の形で漏れ出している証拠ではないでしょうか?」

 

 

 リオの息が、わずかに乱れる。膝を抱えた腕に力がこもり、爪が布地に食い込む。

 

「貴方は、合理主義者でしたね。感情を軽視し、多数の幸福のために少数を切り捨てる。それが正しいと信じていた。なのに今、感情を完全に切り捨てて、自分自身を切り捨てている。実に一貫しています。実に……悲しいほどに」

 

 僕は萌え袖を軽く揺らし、言葉を続ける。

 

「一般論に戻ります。人間は、恨むことで救われることがあります。妬むことで、自分がまだ『生きている』ことを実感することがあります。感情を動かすことは、罰を受ける資格があるということの証明でもあるんです。貴方は、自分にその資格すら与えていない。『私は悪い。だから感情を持ってはいけない』。それは、自己批判の極致です。あるいは、自己処刑です」

 

 部屋は静かだった。街灯の光が、埃の粒子を浮かび上がらせ、ゆっくりと舞わせている。リオの唇が、震えながら開く。

 

「……それでも、私は……」

 

 言葉はそこで途切れた。彼女は顔を伏せ、長い黒髪が涙を隠すように落ちる。僕は静かに待つ。責めながら、受け止める。それが僕の役目だから。

 

「どうして? なぜ? 何を思ったのか?」

 

 問いかけは、優しく、しかし容赦なく続く。

 

「リオさん。貴方はいつも、『正しいことを、正しいように、正しくやりたい』と思っているようにお見受けします」

 

 リオの肩が、ぴくりと動いた。顔を伏せたまま、長い黒髪が頬を隠す。声は小さく、ほとんど自分自身に言い聞かせるようだった。

 

「……ええ。そうね。いつも、そう思っていた」

「それなのに、いつも認められない。合理的に考えて、正解を出したはずなのに、周囲はそれを理解してくれない。むしろ、貴方の『正しさ』を、嫌な部分だけ切り取って押し付けてくる。頭の悪い人々に辟易しそうです」

 

 彼女の指が、膝の上で強く握りしめられる。爪が布地に食い込む音が、かすかに聞こえた気がした。

 

「……合理的ではない世界に、疲れていた。みんな感情で動く。感情で判断する。感情で私を拒絶する。でも私は、感情を排除して、多数の幸福を最大化しようとしただけなのに」

 

 僕は首を軽く傾け、黒い瞳で彼女の横顔を覗き込む。

 

「ミレニアムを運営してきたときも、そうだったんですか? 合理化を極端に進めると不具合が生じる。だから、長期的な視点で、多くの不利益を認めつつ、秩序と自由を保障する形に落とし込んだ。貴方は、そういう柔軟性を持っていたつもりだった」

 

 リオの唇が、わずかに震える。

 

「……そう。『意味がないかもしれないけど、本気でやるなら評価する』。そういう余地を、ちゃんと残していたつもりだった。完璧な合理主義なんて、幻想だとわかっていたから。現実的に、みんなが納得できるラインを探して、妥協して、調整して……それでも、世界を守るために必要な決断は、ちゃんと下してきた」

「なのに」

 

 僕の声は、静かに、しかし確実に言葉を繋げる。

 

「なのに、みんなから嫌われて。嫌な部分だけを強調されて。世界を守るためにやっていると、説明義務を果たしたはずなのに、アリスが善良だからという理由で、リスクを無視して否定された」

 

 リオの息が、乱れた。肩が小さく上下する。

 

「……アリスは、確かに善良だった。優しくて、勇気があって、みんなを笑顔にする子だった。でも……でも、彼女の中に『忘れられた神々の遺産』として、世界を滅ぼす機能があるのは事実だった。ケイという人格が、それを補助するシステムとして存在しているのも事実だった。私は、それを無視できなかった」

「無視できなかったから、抹殺を選んだ」

「……ええ。でも、それが正しくなかったと言われた。『アリスを信じろ』『アリスは善良だ』『リスクなんて、乗り越えられる』って。みんな、そう言って、私を悪者にした」

「愛と勇気と絆という同調圧力によってフルボッコです。報われない話です」

 

 僕はゆっくりと頷く。

 

「で、今、貴方はどうすれば良いかわからない、と」

 

 リオの声が、初めて途切れ途切れになる。

 

「……わからない。もう、何をどうすればいいのか……わからない」

 

 僕は静かに、しかし容赦なく問いかける。

 

「では、聞かせてください。貴方が本当に望んでいるものは、何ですか? 『正しいことを、正しいように、正しくやりたい』——それは、本当に貴方の望みですか? それとも、『誰かに認められたい』『誰かに正しいと言われたい』という、もっと素朴な願いが、合理主義という鎧に隠されている可能性はどうでしょう?」

「……認められたい、なんて……そんな子供じみたこと、思いたくなかった。でも……でも、誰も、私の『正しさ』を認めてくれなかった。説明しても、理解してくれなかった。嫌われて、孤立して、追い出されて……それでも、私は間違っていないと思いたかった」

「思いたかった。でも、今は思えなくなった?」

「……わからない。間違っていたのかもしれない。アリスを殺そうとしたのは、間違いだったのかもしれない。でも、もしあの時、何もしなかったら……本当に世界が滅んでいたら? 私は、責任を取らなきゃいけなかったのに……」

 

 僕は黒い瞳を細め、優しく、しかし冷たく微笑む。

 

「責任を取るために、自分をすり減らした。世界を守るために、自分を犠牲にした。それが貴方の『正しさ』だった。でも、世界はそれを望まなかった。世界は、貴方の犠牲を、必要としなかった。むしろ、貴方を排除したほうが、都合が良かった。だから、貴方は今、こんな部屋にいて、こんな風に自分を責め続けている」

 

 リオの嗚咽が、漏れる。声にならない声が、喉の奥から溢れる。

 

「どうすれば……いいのかしら? もう、正しくなんて、できない。合理的に考えても、感情的に考えても、何も……正解が見つからない」

 

 僕は静かに、言葉を続ける。

 

「正解が見つからないなら、探すのをやめてみるのはどうでしょう? 『正しいことを、正しいように、正しく』——その呪縛から、一度離れてみる。誰も評価してくれなくても、誰も認めてくれなくても、それでも生きてみる。感情を凍らせたままじゃなく、溶かして、汚れて、間違って、それでも前に進んでみる」

 

 リオは顔を上げた。涙で濡れた瞳が、僕を——自分自身を——まっすぐ見つめる。

 

「……それで、いいの? そんな、間違ったままで……」

「間違ったままで、生きる。それが、人間というものですよ。貴方は、もう十分に罰を受けました。十分に、自分を責めました。十分に、孤独を味わいました」

 

 僕は萌え袖を軽く揺らし、黒い手袋の指で、そっと彼女の肩に触れそうで触れない距離を保つ。

 

「だから、もう少しだけ、自分を許してみませんか? 許すことを、許してみる。『正しくなかったかもしれない。でも、それでも、あの時の状況では私はやれるだけのことをやった』って、自分に言ってあげる」

 

 リオの唇が、震えながら動く。

 

「……許す……なんて、できるかしら」

「できるかどうかは、やってみないとわかりません。でも、少なくとも、今のままじゃ、何も変わらない。ゴミ屋敷のままで、感情を凍らせたままで、自分を処刑し続けるだけです」

 

 僕は静かに息を吐き、黒い手袋の指を膝の上でゆっくりと開いた。萌え袖がわずかにずれ、指先が露わになる。

 

 部屋の薄闇の中で、街灯の橙色の光が僕の黒い瞳に映り、底知れぬ深さを強調していた。「リオさん。僕の私見を、言わせてください」リオは顔を伏せたまま、微動だにしない。

 

「結局のところ、やってみないとわからないんですよ」

 

 僕は言葉を区切り、彼女の横顔をじっと見つめる。

 

「調月リオの抹殺計画が正しかったのか。それとも、アリスちゃんの保護が正しかったのか。それは、今の時点では誰にもわからない。未来がどう転ぶか、結果が出てみない限り、絶対の正しさなんて存在しない。貴方がどれだけ合理的に計算しても、どれだけ多数の幸福を最大化しようとしても、最終的な判定は『後から』しか下せないんです」

 

 リオの肩が、わずかに沈む。僕は続ける。

 

「だからこそ、行動するしかない。腐り落ちるのではなく、燃え上がるしかないんです」

 

 黒い瞳を細め、僕は静かに、しかし力強く言葉を重ねる。

 

「貴方はもう、立場も失った。人脈も失った。お金も、技術も、信頼も、すべてを失った。ミレニアムの頂点にいた貴方は、今、このゴミ屋敷で、誰も訪れない部屋で、自分を腐らせる道を選べる。でも、それで本当に終わりでいいんですか?」

 

 リオの指が、膝の上で震えた。爪が布地に食い込む音が、かすかに聞こえる。

 

「失ったものは、取り戻せないかもしれない。でも、唯一残ったものがある。貴方の『欲求』です。『正しいことを、正しいように、正しくやりたい』という、あの執念に近い渇望。あれは、まだ消えていない。凍らせたつもりでも、底のほうでくすぶっている。僕にはわかるんですよ——なぜなら、僕はその欲求の一部だから」

 

 僕は萌え袖を軽く払い、黒ストの脚を揃え直す。

 

「だからこそ、今一度、その欲求に真摯に向き合ってみてはどうでしょう? 誰も評価してくれなくても、誰も認めてくれなくても、それでも『やりたい』と思うことを、ただやる。間違っていてもいい。失敗してもいい。迷惑をかけても良い。燃え尽きてもいい。でも、少なくとも腐らずに、燃え上がってみる」

 

 リオの瞳が、ゆっくりと上がる。涙で濡れた黒い瞳が、僕を——自分自身を——捉える。

 

「……燃え上がる、って……どうやってやるのかしら? もう、何も残ってないのに」

「残ってるじゃないですか。貴方自身が」

 

 僕は微笑んだ。優しく、しかしどこか残酷に。

 

「世界を守るために自分を犠牲にした。みんなに否定された。それで終わりにするのか、それとも『次は何を守れるか』『次は何を正しくできるか』を、自分で決め直すのか。誰も許してくれなくても、自分で自分を許すことから始めてもいい。あるいは、許さなくてもいい。ただ、動く。動いて、間違えて、傷ついて、それでもまた立ち上がる」

 

 部屋の空気が、重く淀んでいる。埃が街灯の光に舞い、ゆっくりと落ちていく。

 

「これも結局やってみないとわからないんですよ、リオさん。貴方の『正しさ』が、本当に正しかったのか。それとも、ただの独善だったのか。それを知るためには、もう一度、行動するしかない。失ったものを嘆くのではなく、残ったものを燃やして、進むしかない」

 

 リオの唇が、震えながら開く。声は小さく、掠れていた。

 

「……怖いわ。もう一度、間違えたら……」

「それは怖いでしょう。失敗続きで、何ものこってない。失敗データが累積するんです。それはもう恐ろしい」

 

 僕は静かに頷く。

 

「でも、です。調月リオさん。失敗したデータは手に入れているんです。あとは改善したり適応する努力の強度だけ。それを無視して感情のまま腐るのは、それは合理的ですか? 調月リオの正しい在り方を、考え直す機会にしてください」

「先生……私はどうしたら良いの?」

「さてさて。私見と一般論と調月リオ専用の論理は違いますから何とも言えませんが、私はいつでも助ける用意はできてますよ。私はそこら辺にいますから、困ったら声をかけてください」

 

 リオは無言で、長い黒髪を指で梳いた。涙が一滴、床の埃に落ちて小さな染みを作る。僕はただ、隣に座っていた。責めながら、受け止める。

 

 問いかけながら、待つ。彼女が、自分で一歩を踏み出すまで。闇は、まだ深い。けれど、その闇の中に、ほんのわずか——火種のようなものが、灯り始めていた。

 

 

 

 

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