ストレンジャーの奇妙な冒険 — Doggy god’s street   作:ヨマザル

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作者ノート:
舞台は1985年11月、ニューヨーク
ジョジョの第三部開幕前
ストレンジャーシングス第三部終了直後となります。

登場人物
カリ(008): ホーキンス研究所から脱走した超能力者。人に幻影を見せる力がある。
      (ストレンジャーシングス S2, S5)

イギー:ボストンテリアの子犬。砂を操る砂のスタンド:ザ・フールの使い手
     (ジョジョの奇妙な冒険:第3部)

Dr.カミンスキー: ホーキンス研究所で働いていた研究者。今回のカリのターゲット。
(オリジナルキャラクター)


邂逅

 カリは首を傾け、向かってくる拳をかろうじてよけた。

 後方へバックステップし、距離を取る。

 

 濡れた髪が頬を打つ。

 背後の壁が近づいている。そろそろ逃げ場が無くなりつつあった。

 

「意外とやるじゃあないか」

 殴りかかってきた革手袋の男が、手を叩く。

 拍手の音が濡れた路面に沈む。

 

 狭い路地の突き当り、逃げ道を塞ぐように、5人の男がカリを取り囲んでいた。

 銃や刃物は持っていない。

 素手で十分、と判断しているのだろう。

 

 隙を見て、カリは足元に転がる鉄パイプを拾った。

 手が滑る。

「……カミンスキーに雇われたってワケ?」

 

 男は眉をひそめた。

「それを知ってどうする」

 もう一人が笑った。

「どのみちお前はおしまいだ。罠にも気が付かず一人でノコノコと出てきやがって。バカめ」

 

 カリは目を細めた。

(……やっぱり、あんたの手の者か)

「なら、話は早いね」

 

 その瞬間、

 

 ──ズチャッ

 何かが跳ねた音。

 

 次の瞬間、前にいた男の喉が裂けた。

 声も出ないまま、崩れ落ちる。

 血が、壁に飛んだ。

 

「どういうこと?」

 カリは、一歩後ろに下がった。背後の壁に激しく背中を打つ。

 

「……は?」

 誰かが銃を抜く。

「誰だ、今の──」

 

──ズチャッ

 

 男が倒れた。

 銃声が一発だけ響く。

 弾は壁を砕き、火花を散らす。

 命中していない。

「見えねぇ……どこだ……!」

 

 雨が強くなる。

(なにっ? 何が起こっているの?)

 カリの視界が滲む。

 

 路地の奥に、何かがいた。

 低く、四つん這いで、濡れた路面を這ってくるようだ。

 街灯の光は届かず、影しか見えない。

 その影の輪郭も、歪んでいる。脚の動きが妙にぎこちない。

 

「……犬……か……?」

「いや……違う……」

「おい、女……お前の仕込みか?」

「ふざけんな……なんだよこれ……」

 

 それは、跳んだ。

 

「うわ──ッ!」

 男達の喉が裂けた。

 血が飛び、壁に赤い軌跡を描く。

 

 銃声。

 肉が裂ける音。

 

 だが、止まらない。

 

「やべぇ、やべぇやべぇやべぇ……!」

「離れろ! こっち来んな──ッ!」

 

 首が折れた。

 腹が裂けた。

 喉笛が噛み千切られた。

 

「畜生ッ! うわぁああっ!」

 最後の一人が逃げようとした。

 だが、足を噛まれ、引きずり倒された。

 その男は絶叫をあげかけ……すぐに動かなくなった。

 

『犬』が動かなくなった男をくわえた。首を振り、死体を壁にたたきつける。

 

 壁が揺れ、死体はべしゃりと潰れた。

 

『犬』が、頭を上げた。壁際に張り付くカリを見つけ、牙をむく。

 その口は不自然なほど大きく開き、真っ赤な地に染まった牙をガチガチと鳴らす。

 

(何だあれは……とにかく、逃げないとッ!)

 カリは動いた。

 

 視界の端で、影を組む。

『犬』の視界に、

 “もう一人のカリ”を滑り込ませる。

『犬』の動きが一瞬だけ止まる。

 

 その隙に、カリは犬の横に踏み込んだ。

 拾ったパイプを両手で構え、振り抜く。

 

──ガンッ! 

 

 金属が骨に当たる音。

 犬の顎が跳ね、 壁に叩きつけられた。

 だが、倒れない。

 裂けた口元から、 ガボガボと泡まじりの息が漏れる。

 

「……まだ動くの……?」

 カリが後ずさる。

 指先が震える。

 

 カリの能力——幻影の力を再び構築する前に、 犬が跳ねた。

 

 カリの目に、巨大な血まみれの牙が、こちらに向かって飛び込んでくるのが見えた……

 

 その瞬間──

 

──ザラッ

 

 地面が、動いた。

 路面に乗った砂が、生き物のようにうねった。

 そして槍のように尖り、空中の犬に突撃した。

 

「ギャウゥゥッ」

 弾き飛ばされた犬は、再び立ち上がる。

 だが、脚が滑る。

 バランスを崩す。

 

 何かに引きずられるように、 犬が路地の奥へと消えていく。

 その後を、砂の塊が追いかけていく……

 

(一体何なの、これ……新たな実験をしているってワケ?)

 一人残されたカリは、その場に立ち尽くした。

 

 何が起きたのか、理解できない。

 ただ、“何か恐ろしいモノがいた”という感覚だけが残った。

 猛烈な悪臭が、路地に漂っている。

 

「……何だったの、今の……」

 誰にともなく呟く。

 返事はない。

 

 カリはフードをかぶり直し、

 濡れた靴で水たまりを踏みながら、

 路地を出た。

 

 ♦♦

 

 雨が降っていた。

 公衆電話の屋根に当たる音が、一定のリズムで響いている。

 

 カリは受話器を肩に挟み、濡れた髪を指で払った。

 黒に近い紫の髪が、頬に張りつく。

 目の下には薄い隈があり、眠れていないのがわかる。

 水を吸ったフードは重く、肩に沈んでいた。

 息は少し荒く、指先がかすかに震えている。

 

「……もしもぉーし」

 雑音の向こうで、仲間の声がした。

 苛立ちと焦りを押し殺した声。

 路地裏で育ったパンクス特有の、刺のある喋り方。

 

「カリ? やっと繋がったじゃん……どこほっつき歩いてんのぉ。

 戻れよ。みんな、あんたのこと──」

 

 カリは答えなかった。

 受話器の縁から、雨粒がぽたりと落ちる。

 

「逃がした……でも、まだ……終わってない」

 

 声は低かった。

 喉の奥に、言葉が引っかかっている。

 

 相手が舌打ちする気配。

「また追ってんの? あのクソ科学者を? 

 カリ、マジでやめろって。お前一人じゃ──」

 

 カリは受話器を握り直した。

 濡れた手が少し滑る。

「……1人でやる……」

 

 その一言に、相手の声が少しだけ荒れた。

「なぁ、放っとけよ。なんで一人でよぉ……」

「この街じゃ、アンタ達は目立ってしょうがない」

 

 カリは目を閉じた。

 雨音が近く、街のざわめきは遠い。

 胸の奥で、怒りとも後悔ともつかないものが揺れた。

 あの科学者──自分の、自分達の“人生”を壊した人間。

 落とし前をつけないままでは終われない。

 

「……ごめん。これを片づけたら、すぐ戻る」

 

 相手が何か言いかけたが、

 カリは勢いよく受話器を戻した。

 金属の音が、雨よりも重く響く。

 

 電話ボックスの扉を押し開けると、

 街の音と、人の流れが一気に押し寄せてきた。

 クラクションが鳴り、傘の群れが行き交う。

 

 誰も彼女を見ない。

 

 カリはフードを深くかぶり直した。

 濡れた靴が、水たまりを踏む。

 

 彼女の“能力”──知覚操作。

 相手の注意をずらし、見たくないものを見せない。

 逃げるための力ではない。

 奪われたものを取り返すための力だ。

 

「……まだ終われない」

 その声は、雨に溶けて消えた。

 

 

 ────────────

 

 ニューヨークの夜は、雨に濡れていた。

 歩道には傘の群れが流れ、タクシーのクラクションが遠くで響く。

 

 カリはその中を、疲れた足取りで歩いていた。

 

 この街に来て、もう二週間。

 眠れた夜はほとんどない。

 肩に貼りつくフードが重く、呼吸が浅くなる。

 背中の筋肉が固まり、歩くたびに鈍い痛みが走った。

 追われている感覚は、ずっと消えない。

 

 角を曲がった瞬間、

 顎が弾け、視界が白く跳ねた。

 世界が一瞬傾く。

 口の中に、血の味が広がった。

 

 カリは、唾を吐きかけた。

「……汚ねぇな……」

 

 腰に手をやった男が、嗤った。

「よぉ、やっと見つけたぜ」

 軽い声だった。

 スパイを無造作に打ちつけた、ブーツを履いている。

 路上に溜まった雨の匂いと、どこかの生ごみの臭いが混ざり、鼻についた。

 

 カリは足を止めない。

 視線だけを横に流す。

 

 男は、昨日カリが情報を買おうとした相手の手下だった。

 裏切られたのは、わかっていた。

 

「金だけ取って逃げるとか、いい度胸だな」

 後ろからも二人が近づいてくる。

 靴音が濡れた路面に吸い込まれた。

 

 カリは小さく息を吐いた。

 疲労が声に滲む。

「……あんたら、暇なの?」

 その言い方は乾いていて、どこか挑発的だった。

 

 男が舌打ちした。

「口の利き方、教えてやるよ」

 手が伸びる。

 

 カリは一歩だけ後ろに下がった。

 その動きは静かで、音もない。

 

 次の瞬間、

 カリは頭の中で組んだ影の像を、男の知覚にそっと滑り込ませた。

 

 輪郭が薄れ、相手の焦点が空を切る。

「は? どこ行きやがった!」

 怒声が響く。

 

 カリは光の端をわずかにねじり、

 別の影を男たちの視界に置いた。

 

 注意がそちらへ流れていく。

 

 カリは人混みの影へ滑り込み、

 建物と建物の隙間へ身を沈めた。

 

 雨水が細い流れを作っている。

 空気がわずかに歪み、光がねじれた。

 彼女の“能力”が、存在感を薄くしている。

 

「クソ……見失った……」

 声が遠ざかる。

 

「クソっ……思いっきり殴りやがって……」

 カリは壁に背を預け、息を殺した。

 

 胸が上下し、呼吸が落ち着かない。

 疲労が全身にまとわりついていた。

 能力を薄く保ったまま、

 ゆっくりと路地の奥へ進む。

 

 水たまりを踏む音が、

 自分のものだけになった。

 

 その奥で──

 何かが倒れているのが見えた。

 

 

 ────────────

 

 雨の匂いが戻ってきた。

 冷たくて、少し鉄の味がする。その奥に、何かが腐ったような匂いが混じっていた。 生臭く、湿っていて、鼻の奥にまとわりつく。

 路地は狭かった。

 建物の隙間に雨が流れ込み、茶色く濁った水の筋が地面を走っている。

 街の喧騒は遠く、ここだけ音が沈んでいた。

 

 カリは能力をゆっくりと解いた。

 知覚の歪みをほどき、視界を静かに元へ戻す。

 

 この力は、相手が“見ている世界”そのものに触れるものだ。

 押し付けられた力。望んで手に入れた力ではない。

 便利すぎて、嫌いだった。自分の人生を狂わせた力。

 それでも──手放せない。

 

 暗がりの中で、小さな影がわずかに動いた。

 近づくと、それが小さな犬だとわかった。

 

 黒と白の毛並み。短い脚。小型のボストン・テリア。

 体高は三十センチほど。雨に濡れ、体がさらに小さく見えた。

 そのすぐ傍に、 砂がこぼれていた。 濡れた路面に、雨に流されず、それどころか砂粒は乾いて固まっている。

 乾いた砂の塊に、犬は寄りかかっていた。

 泥と血にまみれた体。腹部に深い裂傷。

 片目は腫れ、呼吸は浅い。

 胸が上下するたびに、濡れた毛がわずかに震える。

 

 カリはしゃがみ込み、距離を保ったまま観察した。

 

 そのとき、犬が薄く目を開けた。

 カリを見た。

 助けを求める目ではない。

「……あんた、動ける?」

 犬は短く鼻を鳴らした。

 “ほっておけ”と言っているようだった。

「……なんで、こんなとこで」

 独り言のように呟く。

 自分に言っているのか、

 犬に言っているのか、わからなかった。

 

 そのとき、

 カラスが一羽、

 犬の体に近づいた。

 黒い影が羽を広げ、

 嘴を伸ばす。

 カリは反射的に指を動かした。

 影の像をカラスの視界に滑り込ませる。

 鳥は驚いたように鳴き、

 羽音を立てて飛び去った。

 路地に静けさが戻る。

 

 カリは犬を見下ろした。

 濡れた毛が、雨に押しつぶされるように沈んでいる。

「……アンタも、戦ってきたの?」

 

 犬が、ニヤリと笑った気がした。

 

 近づくと、歯をむく。

 その態度が、気に入った。

 

 カリは犬に、手を伸ばした。

 犬の様子を観察しながら、ゆっくり、ゆっくり、近づけていく。

 

 犬がビクンと鼻を動かし、牙をむくのを止めた。

 

「……あたしの気まぐれだからね」

 そっと抱き上げる。

 軽かった。驚くほど。

 

 腕の中で、犬はわずかに体を固くしたが、暴れなかった。

 ただ鼻をひくつかせ、周囲のニオイを嗅いでいる。

 まるで──何かを警戒しているように。

 

 路地の奥に、何かが倒れていた。

 カリは気づかない。 濡れた髪を払いながら、足元の水たまりを避けて歩く。 視線は前を向いたまま。腕の中の犬に、意識が向いていた。

 

 そのすぐ脇、 崩れたゴミ箱の陰に、 黒い塊が横たわっていた。 泥と血にまみれ、 肉の裂け目から、まだ湯気が立っている。

 

 犬——イギーは、ちらりとそちらを見た。

 片目を細め、 鼻をひくつかせる。

 死んだ匂い。

 

 まだ生きているつもりで、喧嘩を売ってきたやつ。

 

 さっき、コイツからこの女を助けたのは、ただの気まぐれだった。

 

 カリの腕の中で、 イギーは口の端をわずかに上げた。

 ニヤリと、笑った。

 

 カリは気づかない。 ただ、雨の中を歩き出す。

「……帰ろ」

 

 イギーは、彼女の腕の中で静かに目を閉じた。

 その表情は、どこか満足げだった。

 

 

 ────────────

 

 ねぐらは、廃ビルの三階にあった。

 

 壁はひび割れ、落書きが重なり、

 窓ガラスは半分以上が割れている。

 雨の音が、隙間から細く入り込んでいた。

 

 床には段ボールが敷かれ、

 その上に古い毛布が一枚だけ置かれている。

 空き缶がいくつか転がり、

 湿った埃が光を吸っていた。

 

 カリは犬を毛布の上にそっと置いた。

 

 濡れたフードを外し、壁にもたれかかる。

 荷物の中から、潰れかけた缶ビールを取り出した。

 プルタブを引く音が、部屋の静けさに大きく響いた。

 

「……こんなとこで飲んでる時点で、終わってるよね」

 独り言は、誰に向けたものでもなかった。

 

 一口飲む。

 ぬるくて、苦い。

 それでも喉を通った。

 

 部屋の隅で、雨水がぽたりと落ちる音がした。

 

 カリは犬をちらりと見た。

 泥と血にまみれた体。

 呼吸は浅いが、生きている。

「……しぶといね、あんた」

 

 缶をもう一口。

 アルミの冷たさが指先に残った。

 

「昔はさ……もっとマシだったんだよ。たぶん」

 声は小さく、壁に吸い込まれていく。

 

「犬、好きだった。

 パンの耳、あげてたっけ」

 缶を床に置く。

 金属が乾いた音を立てた。

 

「母さんが……笑ってた」

 そこだけ、声が少し揺れた。

 

 カリは目を閉じ、壁に頭を預けた。

 雨音が遠くなった気がした。

 

 そのとき、低い唸り声が聞こえた。

 

 カリは目を開けた。

 

 犬がこちらを睨んでいた。

 片耳を伏せ、牙をわずかに見せている。

 

「……起きてたんだ」

 カリは空き缶を指で転がした。

 缶が床を転がり、壁に当たって止まる。

「……あんた、名前あるの?」

 

 犬は唸りを深くした。

 毛布を鼻先で押しのける。

 

「ないなら、勝手に呼ぶよ。

 ……ポチ、とか」

 

 その瞬間、犬が跳ね起きた。

 カリの前髪に向かって、鋭く歯を立てる。

 

 ギリギリでかわしたが、

 前髪が数本、宙に舞った。

 

「……マジで噛むんだ」

 カリは一歩引き、手を上げて降参の仕草をした。

 

 犬は低く唸りながら、じっと睨んでいる。

 

「はいはい。ポチはナシね。

 ……あんた、普通の犬じゃないんだ」

 

 犬は背を向けたまま、毛布を鼻先で整えた。

 その動きは、弱っているはずなのに妙に落ち着いていた。

 

 カリはその様子を見て、ふっと肩の力が抜けた。

「……ククッ」

 喉の奥で小さく震えるだけの、短い笑いだった。

 

 ねぐらの空気は湿っていた。

 古い木材の匂いと、濡れた毛布の匂い。

 

 そこに犬の血の匂いが薄く漂っている。

 外から、車のクラクションが遠く響いた。

 街はまだ動いているのに、

 この部屋だけ時間が止まっているようだった。

 

 カリは壁にもたれ、ゆっくりと息を吐いた。

 

 犬は背を向けたまま、浅い呼吸を続けている。

 だが、耳だけはカリの方へ向いていた。

 

「……変な夜」

 その言葉は、雨音に溶けて消えた。

 

 

 ────────────

 

 ねぐらの空気は湿っていた。

 割れた窓から冷たい風が入り、

 古い木材の匂いと、濡れた毛布の匂いが混ざっている。

 外では車のクラクションが遠く響き、

 街がまだ動いていることだけがわかった。

 

 カリは濡れた髪をタオルで拭きながら、

 毛布の上で丸くなっている犬を見た。

「……ここ、あたしのねぐら」

 

 犬は背を向けたまま、

 耳だけがわずかに動いた。

 

「勝手に連れてきたのは、あたしだけど……

 まあ、しばらくなら置いてあげるよ」

 

 返事はない。

 犬は毛布を鼻先で押し、

 少しだけ体勢を変えた。

 

 カリは壁に背を預け、

 缶の残りを飲み干した。

 アルミが指に冷たかった。

「……アンタも家族になるかい?」

 

 犬がゆっくりと振り返る。

 片目が腫れているのに、視線は鋭かった。

 

 カリは小さく笑った。

「冗談だよ。

 あたしにはもう仲間がいるし……

 妹もいる」

 “妹”と言ったとき、声が少しだけ揺れた。

 エルの顔が、一瞬だけ脳裏に浮かんだ。

 短い髪。強い目。

 自分とは違う道を選んだ少女。

「……あの子は、もう別の場所で生きてるけどね」

 

 犬は何も言わない。

 ただ、じっと見ていた。

 

 カリは飲み干した缶を、床に投げつけた。

「ミックから聞いたよ。アンタ、その鼻で何でも分かるんだってね。

 あたしの機嫌とか、疲れとか……この場所に残ってる“昔”まで」

 

 犬は動かない。

 

「でも、味はあんまり分かんないんでしょ。残念だね、ビールの味が分からないなんて……あ、そうだ」

 カリはうなづき、ねぐらの隅に転がしていたザックを開く。

 ビニール袋を取り出す。

 中には、ボロボロのネコのヌイグルミ。

 

 カリはそれを慎重に取り出し、犬へ差し出した。

 

 犬の目が、険しくなった。歯をむき、唸りだす。

 

「ちがうよ、誤解しないで……こいつはアンタ向きじゃない。知ってる」

 

 唸り声は止んだ。眼は険しいまま。

 

「ねぇ、Bad Dawg(バッド・ドーグ)Bitch(ビッチ)のあたしと、手を組まない? 

 このヌイグルミの匂いの持ち主を、探ってくれないかな」

 

 犬——Dawgは低く唸った。

 牙を見せるでもなく、

 ただ「調子に乗るな」と言いたげに。

 

 カリは手を引っ込めた。慎重に、ヌイグルミを袋に戻す。

「……だよね。

 あたしも、誰かと組むのは得意じゃない」

 

 外でまたクラクションが鳴った。

 ねぐらの壁がわずかに震えた。

 カリは視線を落とし、

 Dawgの傷を見つめた。

「……あたし、探してる人がいるんだ。

 “Dr.カミンスキー”。

 あたしを作った人。

 壊した人」

 言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。

「見つけたら、終わりにするつもり。

 コイツは、奴のアパートで見つけた。

 でも奴は見つからなかった」

 

 Dawg(ドーグ)は背を向けた。

 毛布に顔を埋め、浅い呼吸を続ける。

 だが、片耳だけはカリの方へ向いていた。

 

 カリはその背中を見つめ、

 小さく笑った。

「……ま、都合のいい話だったね。忘れて。

 でも、しばらくはアンタとあたし、同居人ってことで」

 

 ねぐらには、

 雨音と、

 Dawg(ドーグ)の静かな息だけが残った。

 

 

 ────────────

 

 ねぐらには、静けさが戻っていた。

 雨音は遠く、

 割れた窓から入り込む風が、

 濡れた段ボールをかすかに揺らしていた。

 

 カリは壁にもたれ、目を閉じていた。

 疲労が骨にまで染みていた。

 毛布の上で丸くなっているDawgは、

 背を向けたまま動かない。

 呼吸は浅いが、安定していた。

 

 Dawg(ドーグ)——イギーは、世界の形をまず匂いで知る。過去の痕跡さえも、匂いが伝えてくれる。

 そして空気の揺れが、その先の動きを知らせる。

 

 イギーは目を閉じたまま、空気の流れを嗅いでいた。

 湿った木材。

 古い埃。

 濡れた毛布。

 それに──女の匂い。

 この部屋に長くいた。

 三日。いや、四日。

 壁際の段ボールに、背中の形が残っている。

 そこが“いつもの場所”。

 包帯の匂い。

 薬品と血の混じった匂い。

 左肩のあたり。

 

 何かを隠している。

 食べ物の痕跡。

 パンの耳。

 ピーナッツバター。

 缶詰の匂いは、昨日の夜。

 

 食べたのは、あの壁際の鉄パイプのそば。

 

 仲間の匂いは、ない。

 最後に女以外のニンゲンがここにいた匂いは、女がここに住み着くずっと前のもの。

 

 女は一人でいる時間が長い。 その匂いが、部屋に染みついている。

 毛布の端に、汗の匂いが残っていた。少し前のモノ。だが汗からは恐怖の匂いがした。

 

 女は、口にしていた飲み物を放り投げた後、少しだけ震えていた。

 怒りと緊張、恐怖の匂いがする……

 強がっている。

 それは、すぐにわかる。匂いが、そう言っていた。

 

 ♦♦

 

 幽かな異臭……

 

 空気が、裂れた。

 湿度が跳ね、

 ねぐらの薄い空気が一瞬だけ重く沈む。

 

 イギーは目を開けた。

 匂いが変わった。

 鉄。油。血。

 それに──“死んだ匂い”。

 

 女が動くと、奇妙な“幻の匂い”を感じる。

 獣のようで、花のようで、焦点の合わない匂い。

 

 イギーは毛布を蹴り、静かに立ち上がった。

 

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