ストレンジャーの奇妙な冒険 — Doggy god’s street 作:ヨマザル
女はすでに動いていた。
幻の匂いが、空気をねじりながら広がっていく。
「……そこにいて。動かないで」
声は低く、命令に近かった。
イギーは唸りを深くした。
鼻先に、“それ”の匂いが触れた。
乾いた匂い。
死んだ匂い。
動いているのに、生きていない匂い。
女は物陰へ身を滑り込ませた。
その瞬間、空気の匂いが一段深く沈んだ。
心音が跳ねる。
ドクン
その振動が、空気の粒を震わせてイギーの鼻腔に届く。
女の汗の匂いが変わった。
さっきまでの疲労の匂いではない。
恐怖の匂いだ。
皮膚の下から滲み出る、
鉄と塩の混ざった、
“生きている証”の匂い。
湿度が跳ねる。
女の呼吸が浅くなるたび、
空気がわずかに温度を変える。
そのすべてが、
イギーには“見える”。
女の体から、再び奇妙な匂いが香る。
曖昧で、危うい。形を持たないのに、空気を押し返す匂い。
──咲いた。
視界の端で、
黒紫の花弁がゆっくりと、肉の裂け目のように開く。
女から立ち上がった“それ”は、
女自身の目には映っていない。
その匂いの形が、
空気の中で歪んで揺れる。
見ようとすると逃げる。
だが、確かに“そこにある”。
巨大な何か。
イギーの鼻先が震えた。
女の恐怖の匂いと、
外から迫る“死んだ匂い”が重なる。
死んだ匂い。
動いているのに、生きていない匂い。
肉の匂いがしない。
血の温度がない。
それなのに、空気を押し返してくる。
(……来るな。臭ぇ気配だ)
背中の毛が逆立つ。
筋肉が収縮し、
足元の砂がざらりと震えた。
イギーはちらりと女を見た。
恐怖の匂いが薄れ、戦いの匂いが強まっていく。
戦うつもりだ。
あの女も、戦士だった。
イギーは口の端をわずかに上げた。
(……守ってやるよ、女。
借りは返す。
それだけだ)
敵が、ねぐらに入ってきた。
世界が、
裏返る前の匂いがした。
────────────
ねぐらの入口に、“それ”が立っていた。
最初に来たのは恐怖ではなく、
ただの“違和感”だった。
雨の匂いが消え、
腐った鉄の匂いが満ちる。
カリは瞬きをした。
視界が、わずかに遅れてついてくる。
──なに?
理解が追いつかない。
その一瞬の“空白”が、逆に怖かった。
「満室だよ。帰りな」
カリの声に、“それ”はゆっくりと首を傾けた。
骨が、ひとつずつ外れるような音がした。
喉がひりつく。
指先が震えた。
──落ち着け。
まだ距離がある。
大丈夫。
そう思った瞬間、胸の奥が跳ねた。
皮膚が裂け、
乾いた肉が覗く。
黒い液体がぽたりと落ち、床を汚す。
呼吸が浅くなる。
胸が痛い。
視界の端で、
片目だけが見える。
その片目が、鋭く光った。
低い唸り声。
背中の毛が逆立つ音。
砂がざらりと震えた。
その気配だけで、
膝の震えが一瞬だけ止まった。
「……な……何だよオメー……今はハロウィンじゃねぇし、キャンディーも……」
──大丈夫。
一人じゃない。
“それ”は壁に手をついた。
指が逆方向に曲がり、
骨が壁を掴むようにめり込む。
動きが、生き物のものではなかった。
「くっッ……」
カリは後ずさる。
足が床を擦る音がやけに大きい。
──大丈夫。
まだ見えてる。
まだ逃げられる。
そう思った瞬間、
“それ”が口を開いた。
声は、死んだ喉を無理やり震わせたような音だった。
「──カ……リィ……」
心臓が跳ねた。
胸が痛いほど跳ねた。
その声を、知っている。
“それ”はゆっくりと顔を上げた。
片方の眼窩は空洞。
もう片方の目だけが、
濁った光を放っていた。
その光を見た瞬間、
膝がまた震えた。
「……嘘……
なんで……あんたが……」
“それ”は笑った。
皮膚が裂け、歯茎がむき出しになる。
「……カ……ミン……スキ……
……おまえ……を……
……迎えに……きた……」
喉が詰まった。
声が出ない。
視界の端で、
初めての、警告の吠え。
その音が、
胸の奥にわずかな熱を戻した。
──大丈夫。
戦える。
まだ折れてない。
“それ”が吠え声に反応して跳ねた。
壁を這うように、逆さまに、音もなく。
カリは指先に意識を集めた。
頭の中で像を組む。
影の形を思い描く。
その像を、
“それ”の知覚にそっと滑り込ませた。
「──来るなッ!」
空気が裏返るように揺れ、
視界が白く跳ねた。
“それ”の腕が、
頬をかすめた。
皮膚が裂け、
血が一滴だけ落ちた。
痛みが、恐怖を押し返した。
カリは走った。
ねぐらを飛び出し、廊下へ。
背後で、“それ”が叫んだ。
「カァァァァァァァァァァァァァァリィィィィィィ──!」
その声は、
死んだ喉の奥から絞り出された、
人間のモノではない叫びだった。
♦♦
廊下を駆ける足が、
自分のものじゃないみたいに震えていた。
「……くそっ……くそっ……っ」
アイツがあたしの『獲物』のはずだった。
今、狩られているのはあたしだ。
振り返りもしない。
階段。
「下じゃ……ないの……?
なんで……上……?」
答えはない。
ただ、直感だけが、
喉が焼ける。
呼吸が乱れる。
視界が揺れる。
背後で、
“それ”の骨が軋む音がした。
屋上の扉を押し開けた瞬間、
冷たい風が顔を打った。
夜が薄れ、
東の空がわずかに白んでいた。
短く、鋭く。
その声に、
“ここでやる”
という気概を感じた。
♦♦
廊下を駆ける女の足音が、 乱れていた。
汗の匂いが変わる。 恐怖の匂いが濃い。 鉄と塩が混ざった、生きている証の匂い。
(走れ。止まるな、女)
イギーは先を走った。 振り返らない。 女の息が背中に触れる距離を保つ。
背後で、 “それ”の骨が軋む音がした。
ギチ……ギチギチ……ッ
乾いた音。 死んだ肉が無理やり動くときの音。
生き物の音じゃぁない。
階段の分岐で、 イギーは迷わず上を選んだ。
女が息を切らしながら言う。
「下じゃ……ないの……? なんで……上……?」
答える必要はない。
砂をざらりと鳴らし、 女を導いた。
屋上の扉を押し開けた瞬間、 冷たい風が顔を打った。
夜が薄れ、 東の空がわずかに白んでいた。
イギーは吠えた。 短く、鋭く。
(ここでやるぞ、女)
女の指先は震えている。
荒い息。だが、恐怖のニオイは薄くなっている。
「……そうだ…… 床……作れば…… 落とせる……」
女の声は揺れていたが、 匂いは“戦う匂い”に変わっていた。
階段の奥から、 “それ”が現れた。
皮膚が裂け、 骨が覗き、 片目だけが濁った光を放つ。
イギーはその匂いを嗅いだ。
死んだ肉の匂い。 腐った鉄の匂い。
体温はない。外気と同じ温度だ。
そして── 女が探していた“誰か”の匂いが、 その奥にまだ残っていた。
(……ああ。こいつか)
女が差し出した『獲物』の匂い。
焦げた紙のような、薬品のような、 “研究室の匂い”。
それが、 死んだ肉の奥に沈んでいる。
ただし、 その匂いには別のものが混ざっていた。
ねっとりとした、 生き物でも死骸でもない、“血”と…… “芽”の匂い。
イギーは鼻を鳴らした。
(……気味の悪い匂いだぜ。生きてるのか死んでるのかも、分からねぇ)
女の匂いが跳ねた。
痛いほどの恐怖のニオイ。
女とそれが何やら叫びあう。
“それ”が笑った。 裂けた皮膚が音を立てる。
ベキ……ベキベキ……ッ
胸の裂け目から“血”が噴き出し、 細い“芽”がぬるりと外へ伸びた。
“芽”はのたうち回り、床を叩く。
(……やっぱりだ。こいつの中に“別の何か”がいる)
イギーは前に出た。
砂がざらりと揺れる。
イギーにしか見えない相棒。
生まれたときから傍にいる“もう一つの牙”。
砂を操る力。
自分の身を砂に変えることもできる。
不可視の砂の獣:ザ・フールが、
地面から音もなく立ち上がる。
女は気づかない。
視線は“それ”に釘付けのまま、
ザ・フールの影をすり抜けている。
(黙れ。女をビビらすな)
ザ・フールが砂を巻き上げる。
見えない砂が“それ”の足を絡め、
見える砂が外側へ押し流す。
その瞬間、
女の指先が震えた。
黒紫の影の花が、
ふわりと咲く。
匂いの形。イギーにしか見えない像。
花弁は肉ではなく、 影の薄膜のように揺れ、 空気の中でゆっくりと開く。
この世の裏側に生えていそうな、あいまいな輪郭。
良く見ようとすると視界から逃げる。
いびつに膨らんだ食虫植物。花弁が揺れ、
屋上の床が“二重”に揺らぐ。
(……よし……女、ちゃんとニセモンを貼ったな。
なら、こっちは押し込むだけだゼ)
後は、自分の仕事だ。
“それ”をだまくらかし、あるいは強引に、ニセモンの床に転がしてやる。
女はザ・フールを見えていない。
だが、イギーの砂の動きに合わせて、
影の床の位置を微妙にずらしていく。
まるで、
互いの動きを読んでいるかのように。
“それ”が跳ねた。
壁を這うように、逆さまに、音もなく。
ザ・フールが砂を叩きつける。
見えない砂が“それ”の重心を奪い、
見える砂が影の床へ誘導する。
女が息を呑む音がした。
影の花が一斉に揺れ、
床の幻影が濃くなる。
(いいぞ。そこだ、女)
“それ”は迷わず追った。
次の瞬間、
“それ”の足が、
影の床を踏み抜いた。
胸の“芽”が外へ伸び、
空気を掴むように揺れた。
影の花が散り、
ザ・フールの砂が風に散る。
「カァァァァァァァァァァァァァァリィィィィィィ──!」
黒い影が、
ビルの下へ吸い込まれていった。
“それ”の叫びが、不意に止まった。
女が膝から崩れ落ちる。
汗と涙の匂いが混ざる。
イギーはその横に立った。
風の匂いを嗅ぎ、
ビルの下を睨んだ。
影の花の残り香が、
まだ空気に漂っていた。
(……悪くねぇな、
おまえの“花”と、俺の砂は噛み合うゼ)
死んだ肉の匂いは、
風の底にまだ残っていた。
────────────
カリは震える指を握りしめた。
「……そうだ……
床……作れば……
落とせる……」
自分に言い聞かせるように呟いた。
階段の奥から、
“それ”が現れた。
皮膚が裂け、
骨が覗き、
片目だけが濁った光を放つ。
「カ……リィ……
……に……げる……な……」
死んだ喉を無理やり震わせる声。
カリは叫んだ。
「来ないでッ!
あんたは……死んだんだよ……!」
“それ”は笑った。
皮膚が裂け、歯茎がむき出しになる。
「……し……んだ……?
……おまえ……が……
……ころ……し……た……」
「違うッ!
あたしは……まだ……!」
涙が滲む。
喉が詰まる。
“それ”は首を傾けた。
骨が外れる音がした。
「……うそ……つき……
……カリ……」
背中の毛が逆立っている。
その足元で、
砂がざらりと揺れた。
ただの砂じゃない。
風でも重力でも説明できない動き。
(……
何を……してるの……?)
“それ”が跳ねた。
カリは幻影が爆ぜる光景を、周囲にすりこませた。
そして、
屋上の床の”幻影”を、中空にそっと浮かべた。
床が“二重”に揺れた。
「……こっち……!」
カリは走った。”それ”と幻影の床をはさんだ対極へ、移動する。
その瞬間、
“それ”の進路を、
ほんのわずかに押し流すように。
(ん? ……なんだ今の……?
そんな……)
“それ”は迷わず追った。
足が、
幻の床を踏み抜いた。
落ちる瞬間、
“それ”は笑った。
「カァァァァァァァァァァァァァァリィィィィィィ──!」
黒い影が、
ビルの下へ吸い込まれていった。
カリは膝から崩れ落ちた。
「……終わった……
終わった……よね……?」
風の匂いを嗅いでいる。
そのとき──
ビルの壁が、“叩かれた”。
ゴンッ
心臓が跳ねた。
ゴン、ゴン、ゴン
屋上の床が震える。
壁を、何かがよじ登ってくる。
「……嘘……でしょ……」
カリは後ずさりながら、
視界の端に妙なものが映った。
──屋上の隅に転がった、
誰かの落としたペットボトルのキャップ。
青い。
やけに鮮やかで、
こんな時に限って目に入る。
キャップの横に、
折れたアンテナの金属片が転がっていた。
風に揺れて、
かすかにカチカチと鳴る。
その音が、“それ”の骨の音と混ざって、頭の奥でぐしゃぐしゃと鳴り響いた。
「……くそっ…………っ……来るな……」
声が震えた。
涙がにじむ。
膝が笑う。
砂がざらりと揺れ、
低い唸りが風を裂いた。
“それ”は、
屋上の縁に指をかけた。
逆方向に曲がった指が、
コンクリートにめり込む。
皮膚が裂け、
骨が覗き、
黒い液体が滴り落ちる。
それでも、
笑っていた。
「……カ……リ……
……ま……て……」
カリは震える手で口を押さえた。
呼吸が乱れ、胸が痛い。
視界の端で、
ペットボトルのキャップが風に転がった。
カラカラと、
妙に軽い音を立てて。
(……なんで、こんなもの……)
“それ”の顔が、
屋上の縁からゆっくりと持ち上がる。
濁った片目が、
カリをまっすぐに見た。
鋭く、短く。
風が跳ねた。
“それ”は嘲笑った。
「……に……げ……られ……
……な……い……」
その瞬間──
カリの足元に落ちていた金属片が、
ふっと光を帯びた。
光ではない。
光が“触れた”のだ。
屋上の縁に、
細い白色の線が伸びた。
風が変わる。
温度が変わる。
空気の匂いが、
夜から朝へとひっくり返る。
カリは気づいた。
──朝が来た。
金属片が淡く光り、
キャップの青が少しだけ明るくなり、
そして、
“それ”の濁った目にも、
光が触れた。
黒い液体が、
煙のように揺れた。
“それ”は絶叫を上げながら、
太陽の光に焼かれ、
灰になった。
音が消えた。
カリは息を呑んだ。
────────────
屋上の風は、
夜の匂いをまだ少しだけ残していた。
東の空が薄く明るみ、
ビルの影がゆっくりと形を変えていく。
カリは膝を抱えたまま、
しばらく呼吸を整えられなかった。
胸の奥が、まだ震えていた。
「……はぁ……っ……」
自分の息が、
やけに大きく聞こえる。
風に鼻先を向け、
夜の残り香を嗅ぎ分けている。
その背中が、
妙に頼もしく見えた。
「
笑おうとしたが、
唇が震えてうまく形にならなかった。
「さっき……死ぬかと思ったよ。
マジで……」
声が途切れた。
胸がまた締めつけられる。
ただ、一度だけ短く吠えた。
鋭い一声。
風が跳ねた。
その音に、
カリは少しだけ呼吸を取り戻した。
「……ありがと。助けてくれたんだよな。
あれ……あの砂を動かしたの、きっとアンタだろ?
……わかるよ」
風が吹いた。
夜の冷たさが消え、
朝の匂いが混ざる。
屋上の縁へ向かって、
迷いのない足取りで。
カリは慌てて立ち上がる。
「ちょ、ちょっと……
勝手に帰るとか……なにそれ……」
代わりに、
ガムでも噛むように口を一度だけ動かした。
その仕草だけで、十分だった。
(もう行けるだろ、女)
そんな意思が伝わる。
カリは深く息を吸った。
震えはまだ残っている。
でも、強がりたい気持ちが勝った。
「……とにかくさ」
声が少しだけ低くなる。
「ターゲットは……倒した。
……たぶん。
あとは仲間に顔見せて、
“生きてるよ”って言っとかないとね」
肩をすくめ、
わざと軽く言った。
「……そろそろ帰るか。
仕事、残ってるし」
朝の光が、
ビルの影を長く伸ばす。
その光の中へ静かに溶けていった。
カリはゆっくりと歩き出した。
震えはまだ少し残っていたが、
背筋はまっすぐだった。
階段へ向かう途中で、
カリはふと足を止めた。
振り返る。
朝の光を背に受けていた。
影が長く伸び、
風に揺れている。
横目で、こちらを見ていた。
ねぐらに、戻るつもりがないのは明らかだった。
呼びかけるつもりもなかった。
でも、
口が勝手に動いた。
「……じゃあな、
軽く言ったつもりだった。
けれど、
ほんの少しだけ語尾が震えた。
鼻先をわずかに動かし、
短く息を鳴らした。
「……フン……」
それだけ。
それだけで十分だった。
カリは肩をすくめた。
笑ったつもりだったが、
うまく形にならなかった。
「……可愛げないね……さすがだよ」
朝の光の中へゆっくりと溶けていった。
カリは踵を返した。
階段へ向かう足取りは、
さっきより少しだけ強かった。
屋上の扉を閉めると、
夜の匂いは完全に消えていた。