ウォールナットの暗号化ログ   作:アラン・リコリス

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大人達の反撃その3

山梨県、某山中。

 

DA(Direct Attack)本部、地下最深部の司令官室。

 

その日、DAのトップである楠木司令は、デスクの上に散乱した胃薬の空き瓶を片付けながら、大きく、深く、そして『悟りを開いたような』静かな深呼吸をした。

 

数日前に起きた、警察・自衛隊・海保による『真島一派への腹いせ大武力演習(オーバーキル)』。

 

そしてそれに伴う、国家機関ぐるみの壮大な「事勿れ主義」と「見て見ぬふり」。

 

本来であれば、影の治安維持組織のトップとして、警察や自衛隊の越権行為に激怒し、政治的な圧力をかけてでも権力闘争に勝たなければならない立場である。

 

だが。

 

「…………ふぅ」

 

楠木は、手元のタブレットに表示された『リコリスの現在の稼働状況と、負傷者のリスト』に目を落とし、誰に言い訳をするでもなく、ポツリと独り言のように呟いた。

 

「……幸い、真島のあの延空木での事件で、我がDAのリコリスもだいぶ消耗しているからな。未だにメンタルケアやリハビリが必要な人員も少なくない」

 

楠木の顔に、どこか『自分に言い聞かせるような』歪んだ笑みが浮かぶ。

 

「我々も組織として、過重労働(ブラック)な環境を見直すべき時期に来ているのだ。……そう考えれば、今回の件も悪くない。テロリストの掃討業務の一部を、血気盛んな警察や自衛隊に『投げてやる(アウトソーシングする)』ことも、組織の健全化のためには良しとしよう……」

 

「し、司令……」

 

傍らに立っていた専属の助手が、完全に『現実逃避(自己暗示)』に入ってしまった上司の姿に、引きつった笑いを浮かべた。

 

「そう……ですね。これは決して、他省庁に手柄や管轄を奪われたわけではなく! DAの『働き方改革』の一環であり、適切な業務の分散化です! 司令の寛大なご判断(妥協)、素晴らしいと思います……ッ!」

 

助手は、泣きそうな顔で楠木の必死の理屈(メンタル防衛プロトコル)に同調した。

 

これ以上、司令の胃に穴が開いて倒れられでもしたら、いよいよDAは崩壊してしまう。

 

警察が戦車やヘリを持ち出して「演習だ」と言い張るのなら、DA側も「あれは我々がわざと譲ってやったのだ」と思い込む(精神的勝利を得る)しかない。それが、狂った日本で大人たちが正気を保つための、唯一の生存戦略であった。

 

「……うむ。そういうことだ。我々はこれまで通り、我々にしかできない仕事だけをこなせばいい。……平和なことだ」

 

楠木は、ようやく少しだけ胃痛が和らいだのを感じながら、温かいお茶をすすった。

 

この日をもって、日本の治安維持の天秤は、全く新しい、そして極めていい加減な『妥協の産物』として、奇跡的なバランスを取り戻したのである。

 

 * * *

 

一方、その頃。

 

そんな大人たちの血と涙と胃薬の上に成り立った『平和』の最前線。

 

東京・墨田区の和風喫茶『リコリコ』は、今日も今日とて、国家の危機など一ミリも存在しないかのような、甘ったるく、そして致死量のピンク色の空気に包まれていた。

 

「たきなー! お疲れ様ー! はい、あーん!」

 

カウンター席に座る井ノ上たきなの前に、深紅の制服を着た錦木千束が、満面の笑顔で小皿を差し出していた。

 

小皿の上には、千束が先ほど厨房で作ったばかりの、新作のイチゴのショートケーキが乗っている。千束はフォークで生クリームとイチゴを絶妙なバランスですくい取り、たきなの口元へと運んだ。

 

「……千束。業務中(営業時間内)にスタッフ同士で過度な接触を行うことは、衛生管理および接客マニュアルの観点から推奨されません」

 

たきなは、紺色の制服をピシッと着こなしたまま、極めて真面目な声で(一応の)苦言を呈した。

 

「えー? 今はお客さん誰もいないから大丈夫だよ! それに、たきな、さっきまでパソコンの裏で難しい経理の計算(※仮想通貨のロンダリング)してて、頭使ったでしょ? 糖分補給しないと!」

 

千束は、全く悪びれる様子もなく、フォークをさらにたきなの唇に近づけた。

 

甘い生クリームの香りが、たきなの鼻先をくすぐる。

 

「……千束が、どうしても私の糖分枯渇リスクを懸念し、直接経口投与による即効性の回復を望むというのであれば」

 

たきなは、スッと目を閉じ。

 

一切の躊躇なく、パクリ、と千束の差し出したフォークを咥え込んだ。

 

「あーん……もぐ、もぐ」

 

「あはは! 美味しい? たきな!」

 

「……はい。イチゴの酸味と生クリームの糖度が、千束の『愛情』という究極の触媒を介することで、私の脳内報酬系ネットワークを完全に掌握しました。……千束、もう一口お願いします。あーん」

 

たきなは、一切の表情を崩すことなく、口の端に少しだけ生クリームをつけながら、雛鳥のように小さく口を開けて「おかわり(催促)」を要求した。

 

その黒曜石の瞳は、千束への特大クソデカ感情で完全にトロトロに蕩けきっている。

 

「もー! たきなったら、本当に甘えん坊さんなんだからっ! はい、あーん!」

 

「あーん……もぐ。……千束、口元にクリームがついています。私が物理的に清掃(舐め取り)してもよろしいですか?」

 

「だーめ! くすぐったいから自分で拭くの! あはははっ!」

 

キャッキャと笑い合う、歴代最強の暗殺者と、狂気の過剰防衛エージェント。

 

「…………」

 

そのフロアの片隅で、丸テーブルに突っ伏して、この世のすべての絶望を煮詰めたような顔をしている女が一人。

 

中原ミズキである。

 

「……ねぇ、クルミ。私、もう限界かもしれない」

 

ミズキは、空になった日本酒のワンカップ(営業時間中である)を握りしめ、血の涙を流しながら呟いた。

 

「なんで……なんであの二人は、あんなに息をするようにイチャつけるのよ。私なんて、昨日マッチングアプリで知り合った男に『君、なんか重いね』って言われて即ブロックされたっていうのに……ッ!」

 

ミズキの怨嗟の声が、店内に重く響く。

 

「……知るかよ。お前もあいつらみたいに、相手の山を買ったり、相手に近づく奴をミサイルで消し飛ばしたりするくらいの『重さ(覚悟)』を持ってみろ。……いや、持たなくていい。これ以上日本にヤンデレのサイバーテロリストが増えたら、ボクが過労死する」

 

クルミは、完全に死んだ魚の目でポテトチップスを齧りながら、的確なツッコミ(と自己防衛)を入れた。

 

大人たち(DAや警察)が、メンツと体面を守るために泥沼の駆け引きをしている一方で。

 

この喫茶リコリコの二人の少女は、ただ「互いが隣にいて、笑い合っている」という、そのたった一つの真実(愛)だけを絶対の指標にして、毎日を全力で生きているのだ。

 

「あ、そうだ! たきな、今度のお休み、二人で新しくできた水族館に行かない? ペンギンの赤ちゃんが生まれたんだって!」

 

千束が、フォークを置きながら提案する。

 

「水族館、ですか。……了解しました。では、即座に当該施設のセキュリティシステムにバックドアを仕掛け、当日の来館者の身辺調査を行い、もし千束にぶつかる可能性のある人物がいれば、事前にチケットをキャンセルさせるアルゴリズムを……」

 

たきなが、真顔でスマートフォンを取り出す。

 

「だから! そういう大げさな防衛プロトコルは禁止だってば! 普通にデートするの! 普通に!」

 

千束が、たきなのスマホをヒョイッと奪い取る。

 

「千束の安全は、いかなる法規よりも優先されます。……ですが、千束が『普通のデート』を望むのであれば、私の肉体による絶対防衛圏の展開のみで対処しましょう。……その代わり、道中は常に私と手を繋ぎ、私から10センチ以上離れないことを誓約してください」

 

たきなは、極めて真剣な目で千束を見つめた。

 

「もうっ……仕方ないなぁ。たきなは本当に心配性なんだから! いいよ、ずーっと手、繋いであげる!」

 

千束は、満面の笑顔で、たきなの手に自分の手を重ねてギュッと握りしめた。

 

「……はい。約束です、千束」

 

たきなもまた、千束のその温もりを感じて、世界で一番幸せそうな、柔らかい微笑みを浮かべた。

 

「……はぁ。もう、どっちの愛が重いのか分かんねぇな」

 

クルミは、眩しすぎる二人から目を逸らし、温かい緑茶をすすった。

 

この国は、歪んでいるかもしれない。

 

大人たちの思惑も、テロリストの信念も、時には理不尽な暴力(戦車)の前に粉々に砕け散る。

 

だが、どれだけ世界が狂っていようとも。

 

千束の「あーん」と、それを受けるたきなの「あーん」が、この和風喫茶の中で交わされている限り。

 

彼女たちの世界だけは、誰にも侵すことのできない、完璧で、最強の『平和(ディストピア)』に守られ続けていくのだった。

 

 

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