ウォールナットの暗号化ログ 作:アラン・リコリス
「……いや、待てよ」
一度は完全に消去したはずの『八咫烏』と『裏帝』のファイル。しかし、ボク――世界一のハッカーたるウォールナットの脳髄は、一度噛み付いた思考のパズルをそう簡単には手放してくれなかった。
ベッドに潜り込んだものの、完全に冴え切った頭が、ある一つの「矛盾」に気がついてしまったのだ。
DA(Direct Attack)のバックボーンが、明治から続く皇室の影の近衛兵『八咫烏』であるという仮説。それは確かに、組織の異常な権限と予算の出処を完璧に説明できる。
だが、表の皇族の方々――上皇や今の帝(みかど)が、血に塗れた暗殺組織を直接指揮しているなんてことはあり得ない。あの人たちは、心底からこの国の平和を祈っている。
「おそらく、表の帝は、DAの存在なんて『一ミリも知らない』んだ」
そうだ。彼らは国家の象徴としての「美しく清らかな存在」であり続けることを義務付けられている。自分たちを守るために、戸籍のない孤児たちが日々暗殺を繰り返し、使い捨てにされているなどと知れば、優しき帝は悲しみのあまり心を壊してしまうだろう。
「……まるで、戦前の『昭和の帝』と同じ状態だ」
戦前、軍部の暴走が続いていた時代。当時の帝は平和を望んでいたにも関わらず、軍部や一部の人間たちは「天皇陛下の御為(おんため)に」という大義名分を掲げて、勝手に暴れ回った。帝本人の意思とは無関係に、「天皇」というシステムだけが絶対的な神輿として利用されたのだ。
現代のDAも、それと同じだ。『裏帝の守護』という大義名分を掲げた一部の狂信的な官僚(楠木司令や、さらに上の人間)が、帝のあずかり知らぬところで勝手に「影の帝国」を運営している。
「……ふと思ったんだけどさ」
ボクはトリプルモニターの電源を再び入れ、ホログラフィック・キーボードを展開した。
もし、DAの前身である『八咫烏(そして彼岸花や君影草)』が、戦前からこの帝都の裏側で暗躍していたのだとすれば。
「この国を揺るがしたあの『歴史的テロ事件』の時、あいつらは一体、何をしていたんだ?」
第一章:五・一五事件 ―― 見殺しの流儀と便利な狂刃
ボクは、モニターに表示された昭和初期のタイムラインを指先でなぞった。
1936年の二・二六事件のわずか4年前。日本中を震撼させた、もう一つの前代未聞のテロリズム。
『五・一五事件(1932年)』。
海軍の急進派青年将校たちが白昼堂々、首相官邸に乱入し、当時の内閣総理大臣であった犬養毅を暗殺した事件だ。
『話せば分かる』と説得を試みた老首相に対し、『問答無用、撃て』と狂信的な若者たちが凶弾を撃ち込んだ、あまりにも有名な歴史の転換点。
「DAの前身である『八咫烏』が、国家の中枢を守護する絶対の盾だったなら。なぜ彼らは、白昼に起きたこの首相暗殺を防げなかった?」
ボクは、当時の警視庁の通信記録の裏側に隠された、別の暗号化された無線の傍受ログをスクレイピングし、独自のアルゴリズムで復元していった。
ほどなくして、真っ黒なアーカイブの中から、当時の女系暗殺部隊『彼岸花(初代リコリスたち)』の部隊長宛てに発出された、短い指令書のテキストが浮かび上がる。
『――官邸ニ不穏分子接近。雅(みやび)ノ彼岸花、所定ノ位置ニテ待機セヨ――』
指令は、事件発生の「直前」に、確実に出されていたのだ。
彼女たちは、青年将校たちの動きを事前に完全に察知し、首相官邸の周辺の暗がりに配置されていた。彼女たちの圧倒的な戦闘力と地の利があれば、十数人の海軍将校の襲撃など、門前で容易に制圧(皆殺しに)できたはずだ。
しかし、実行部隊の記録の次の一行を見て、ボクは思わずコーラの飴を強く噛み締めた。
『――大烏(おおからす)ヨリ特命。対象(首相)ノ保護ヲ破棄。干渉ヲ禁ズ。事後処理(クリーニング)ノミニ専念セヨ――』
「……わざと、見殺しにしたのか」
ボクはモニターの前で、信じられないものを見るように目を細めた。
八咫烏の上層部は、海軍将校たちによる首相暗殺を「知っていて、放置した」のだ。
なぜか?
理由は明白だ。当時の政党政治家たちは力を持ちすぎ、軍部の予算を大幅に削るなどして激しい対立を生んでいた。もしかすると、当時の政治家の中に、影の組織『八咫烏』の莫大な裏予算や特権にメスを入れようとした者がいたのかもしれない。
だから八咫烏の上層部は、自らの手を汚すことなく、暴走する青年将校たちを「便利な刃」として利用し、目障りな政治家を排除させたのだ。狂信的な海軍将校たちにすべての泥を被せ、自分たちは被害者のフリをして裏の権力を温存する。
「国家の守護者なんて笑わせる。やってることは、ただの姑息な権力闘争とマッチポンプじゃないか」
守るべき命を、組織の都合で切り捨てる。
その冷酷な意思決定の裏側で、出動を中止させられ、暗がりの中で倒れる首相を見下ろすことしかできなかった当時の『彼岸花(リコリス)』の少女たちは、一体何を思ったのだろうか。
「……自分たちが身を挺して守るべき表の平和が、実は大人の都合でいつでも見捨てられる程度の安いメッキだったってことだ。当時の彼女たちも、ただの便利な『チェスの駒』でしかなかった」
そして、この「五・一五事件」での軍部の暴走を、八咫烏が組織の都合で『容認』してしまったという取り返しのつかない成功体験が、結果的に軍部の過激派をさらに増長させ……4年後の「二・二六事件」という、取り返しのつかない地獄の扉を開くことになってしまうのだ。
「……愚かだね、本当に」
ボクは溜息をつき、タイムラインのカーソルを1936年へと進めた。
第二章:二・二六事件 ―― 杜撰を超えた狂気と、怒れる帝
ボクは検索窓に、日本近代史における最大のトラウマを打ち込んだ。
『二・二六事件(1936年)』。
陸軍の急進派青年将校らが1400名以上の兵を率いて決起し、帝都の中枢を占拠。政府の重鎮たちを次々と暗殺した未曾有のクーデターだ。
彼らは「君側の奸(天皇の側近の悪い奴ら)を討ち、天皇親政の正しい国を作る」と息巻いていた。
だが、ボクが警察や陸軍の未公開アーカイブから当時の作戦計画書や行動記録をスクレイピングして読み解いていくと……思わず呆れ果てて、コーラ味のチュッパチャプスを落としそうになった。
「……なんだこれ。クーデター計画として、杜撰を超えた杜撰じゃないか」
彼らのやったことは、ただの「馬鹿な真似」の極みだった。
まず、標的の選び方が最悪だ。彼らは、当時の大蔵大臣である高橋是清を暗殺した。世界恐慌のどん底から日本経済を文字通り「一人で」立て直していた、代わりの利かない超有能な天才老政治家を、だ。彼を殺せば国がどう傾くか、そんな想像力すらこの青年将校たちには欠如していた。
さらに致命的だったのが、侍従長であった鈴木貫太郎を襲撃し、危うく殺しかけたことだ。
当時の帝が、これにどれほど激怒したか。
青年将校たちは「天皇の周りの悪い奴を排除した」つもりだったのだろう。だが、鈴木貫太郎の妻である鈴木たかは、幼少期の帝を育て上げた「教育係」であり、帝にとっては母親も同然の存在だった。
つまりこの馬鹿な連中は、「帝のために」と言いながら、帝が最も信頼し、最も慕っていた身内同然の恩人たちに銃弾を撃ち込み、惨殺して回ったのだ。
おまけに、重鎮たちを殺した後の「新政府樹立の具体的なプラン」が全くの白紙だった。
ただ要人を殺して、建物を占拠して、「我々の憂国の至情を、帝は分かってくださるはずだ」と思い込み、雪の中で賞賛の言葉を待っていたのだ。
「……呆れて言葉も出ないね。正義感に酔いしれただけの、ただの無計画なテロリストだ」
案の定、彼らの期待は最も残酷な形で打ち砕かれる。
自らが最も信頼する臣下たちを惨殺された帝は、かつてないほど激怒し、こう言い放ったのだ。
『朕が股肱の老臣を殺戮す、此の如き兇暴の将校等、その精神に於て何の恕すべきものありや。朕自ら近衛師団を率い、これが鎮圧に当たらん』
彼らが神と崇めた帝は、彼らを「暴徒」と断じ、自ら討伐に赴くとまで言い切ったのだ。
第三章:雪闇の『大掃除』
表の歴史では、戒厳令が敷かれ、討伐命令が下されたことで、叛乱軍は絶望し戦わずに投降したことになっている。
「……でも、本当にそれだけか? 1400人もの武装した狂信者たちが、あんなに大人しく引き下がるものなのか?」
ボクは、陸軍の作戦記録の裏側に隠された、文字通り「漆黒」の報告書群を発見した。
それは、戒厳令の裏で実行された、八咫烏による『大掃除』の記録だった。
帝の激怒は、表の軍隊を動かしただけではない。
皇室の影の近衛兵である『八咫烏』の上層部に、絶対的な勅命(あるいはそれを忖度した最高命令)が下ったのだ。
『――帝都ノ雪ヲ穢ス叛徒ヲ、一兵タリトモ逃スナ。君影草、彼岸花、全羽出撃セヨ。草の根を分けてでも、首魁(しゅかい)ヲ根絶ヤシニセヨ――』
記録から浮かび上がる映像の生々しさに、ボクは顔をしかめた。
記録的な大雪に見舞われた、1936年2月の東京。
表向きは、軍の部隊が睨み合っている緊迫した市街地。しかし、その夜の暗闇と吹雪に紛れて、無数の「影」が帝都を駆け抜けていた。
和装の着物に黒い袴、あるいは目立たない書生姿に身を包んだ、まだあどけない少年少女たち。
男系暗殺部隊『君影草(リリベルの先祖)』と、女系暗殺部隊『彼岸花(リコリスの先祖)』だ。
彼らは、反乱軍が占拠する山王ホテルや首相官邸の厳重な警戒網を、まるで雪の精霊のように音もなくすり抜け、内部へと侵入していった。
『2月27日 丑三ツ時。赤坂見附周辺ノ叛乱軍拠点ニテ、少尉級将校3名、就寝中ニ君影草ニヨリ喉ヲ切断。偽装自殺トシテ処理』
『2月28日 未明。占拠部隊ノ通信網ヲ花葵ガ切断。混乱ニ乗ジテ侵入シタ彼岸花2名ガ、機関銃座ノ兵士5名ヲ毒殺。死体ハ雪中ニ隠蔽』
次々と表示される、狂気の殺戮記録。
反乱軍の青年将校たちは、なぜ自分たちの部下が次々と原因不明の死を遂げていくのか、理解できなかっただろう。密室で首を吊っている者。食事の後に血を吐いて倒れる者。巡回中に突如として姿を消し、翌朝、雪の中で冷たくなっている者。
表向きは「降伏」した反乱軍。だがその実態は、毎夜のように雪闇から現れ、音もなく仲間を刈り取っていく「見えない死神(子供の暗殺者たち)」に対する、圧倒的な恐怖と疑心暗鬼によって、内部から完全に崩壊させられていたのだ。
第四章:悲劇の無限ループ
「……なんという皮肉だろうね」
ボクは、モニターの光に照らされた両手を見つめた。
反乱を起こした青年将校たちは、計画こそ杜撰で狂気じみていたが、彼ら自身は本気で「天皇陛下(帝)が直接統治する、正しい国を作る」と信じて疑わなかった。彼らは、愚かではあったが、天皇のために命を懸けていた。
一方、彼らを闇から暗殺した『君影草』や『彼岸花』の子供たち。
彼らもまた、親を持たず、「天皇陛下(裏帝)と国家を守る」という絶対的な教義を脳に刷り込まれ、ただ命令に従って刃を振るっていた。
天皇のために立ち上がった青年たちを。
天皇の影として生きる孤児たちが、雪の夜に喉を掻き切って殺していく。
そして、その頂点に立つ表の帝本人は、そんな影の殺し合いが行われていることなど露知らず、ただ「臣下たちが殺し合っている」という事実に胸を痛め、涙を流していたのだ。
「誰も救われない。誰も本当のことなんて知らされていない。ただ、権力という名のバケモノのシステムが、純粋な若者や子供たちをすり潰して、血を啜りながら生き延びてきただけだ」
守るべき相手の意向すら無視して、勝手に血を流し合う。
DAという組織の根幹に流れているのは、そういう血なのだ。
正義でも、平和でもない。ただ「体制(システム)」を維持するためなら、愛国者だろうが、無実の人間だろうが、自分たちの組織の子供であろうが、平然と使い捨てにする。
第五章:現在(いま)を守るための決別
ボクは、大きく息を吸い込み、そして深く、深く吐き出した。
キーボードに手を置き、今度こそ一切のバックアップを残さずに、復元した戦前のすべての記録データを不可逆の完全消去アルゴリズムで電子の塵へと変えた。
もう十分だ。これ以上、この国の過去の亡霊たちに付き合ってあげる義理はない。
100年前、雪降る帝都で『彼岸花』と呼ばれた名もなき少女たちは、血塗られた短刀を握りしめながら、暗闇の中で誰にも看取られずに命を落としていったのだろう。彼女たちには、選ぶ道なんてなかった。
だが。
ボクは、階下の店舗に視線を向けた。
今のこの時代には、錦木千束という、とびきりの「突然変異(イレギュラー)」がいる。
歴代最強の才能を持ちながら、決して誰も殺さないと言い放ち、敵の命すらも非殺傷弾で救おうとする、底抜けにお人好しな歴代最強のリコリス。
彼女のその「不殺」の誓いが、どれほど途方もなく、どれほど奇跡的なことなのか。
100年間、血の運命に縛り付けられてきた『彼岸花』の歴史に対する、千束なりの、最大で最強の「反逆(クーデター)」なのだ。
「あいつらに、こんな血の匂いなんか、絶対に嗅がせてたまるか」
当時の帝が何も知らなかったように、千束やたきなも、この国の巨大すぎる闇や過去の業なんて、一ミリも知らなくていい。
もし、DAの上層部や『裏帝』を名乗る亡霊たちが、あいつらのささやかな日常を、その狂ったシステムの維持のために利用しようとするなら。
その時はボクが、この国のシステムごとハッキングして、めちゃくちゃに引っ掻き回してやる。
ボクは自室のドアを開け、その眩しい光の中へ、階段を降りていく。
「さあて。歴史の勉強はおしまいだ。今日は特別に、あの頑固な元宮内庁の料理長直伝のかりんとうより、百万倍美味しいパフェを注文してやろうじゃないか」
過去の亡霊がどれほど呪いをかけようとも、あいつらが笑顔でいる限り、この現在(いま)は誰にも奪えやしないのだ。