ウォールナットの暗号化ログ 作:アラン・リコリス
閉店後の喫茶リコリコ、地下ブリーフィングデッド。
数台の巨大なモニターが放つ青白い光が、円卓を囲むメンバーたちの顔を照らしている。
「……というわけで、これが数ヶ月前の『延空木・旧電波塔事件』における、DAの極秘内部ログと、日本政府の暗号通信記録のサルベージ結果だ」
大きすぎるパーカーを着た金髪の少女——ウォールナットことクルミが、チュッパチャプスを口の端で転がしながら、重々しい声で告げた。
メインモニターには、黒塗りの報告書や、自衛隊の部隊配置図、そして当時の警視庁の無線の波形が、いくつものウィンドウに分割されて表示されている。
「ちょっとクルミ、なによこれ。……自衛隊の、治安出動要請……?」
ミズキが、いつも手にしている酒のグラスをテーブルに置き、信じられないものを見る目で画面を凝視した。
「ああ。千束、たきな。お前たちがあの夜、旧電波塔で真島や姫蒲とドンパチやってた裏側で、日本という国がどれだけの窮地に立たされていたか。……そして、なぜDAがあの後、死んだはずのボクのラジアータ復旧と隠蔽工作(エキストラの手配)を黙認し、乗っからざるを得なかったのか。その『本当の理由』を教えてやる」
クルミはキーボードを一度だけ、ターンッ、と強く叩いた。
モニターの中央に、真っ赤な警告マークが点滅する『防衛省・統合幕僚監部』の極秘資料が映し出された。
「まず大前提として、あの日、千束は旧電波塔で真島と交戦し、たきなは心臓を奪った吉松シンジを殺してでも千束を助けようとした。……たきな、お前、あの時マジで吉松の頭ぶち抜く寸前だったらしいな」
クルミの指摘に、たきなは静かに目を伏せた。
紺色の瞳の奥に、あの時の狂おしいほどの絶望と殺意がよぎる。
「……ええ。千束の命が最優先でしたから。彼女の心臓を取り戻すためなら、私は……」
「たきな……」
千束が、隣に座るたきなの少し震える手を、テーブルの下でギュッと握りしめた。
「お前たちの個人的な、そして命を懸けた死闘。それはそれで事実だ。だがな、マクロな視点で見れば、それは巨大なパニックの『着火点』に過ぎなかった」
クルミは画面を切り替えた。そこに映し出されたのは、無数の拳銃の画像と、パトカーのドライブレコーダーの映像。
「真島が都内にばら撒いた千丁の銃。あれが最悪の事態を引き起こした。……警察は大混乱に陥り、ついに恐れていた事態が発生したんだ。巡回中の巡査が、真島のばら撒いた銃を『ただ面白半分で拾って手に持っていただけの民間人』を、恐怖のあまり射殺した」
「えっ……!?」
千束が息を呑む。
「民間人を……警察が? 嘘でしょ……?」
「事実だ。完全にパニック状態に陥った警官の過剰防衛。だが、これで『日本の絶対的な治安』という幻想は完全に崩壊した。事態を重く見た東京都知事は、ついにパンドラの箱を開けたんだよ」
クルミの背後に立つミカが、腕を組みながら重い口を開いた。
「……自衛隊法第81条に基づく、『治安出動要請』だな」
「その通りだ、ミカ」
クルミはモニターに日本地図を映し出し、次々と部隊のアイコンを点灯させていく。
「内閣は、DAが事態を収束できないと判断した場合、即座に自衛隊を都内に投入するという緊急決定を下した。……いいか? 冗談じゃないぞ。
練馬の第1師団、宇都宮の中央即応連隊、習志野の第1空挺団は完全武装で出動待機。さらに百里基地の第7航空団までもが、対領空侵犯措置から治安出動待機へと任務を移行した」
たきなが、血の気の引いた顔でモニターを見つめた。
「第1空挺団や戦闘機まで……? たかがテロリスト数名の鎮圧に、そこまでの戦力を?」
「テロリスト数名じゃない。国家の威信が崩壊するかどうかの瀬戸際だったんだよ。さらに海自は、横須賀の第1護衛隊を東京湾へ緊急出港させた。あの護衛艦『いずも』の甲板では、艦載されているF-35Bがミサイルを積んで発進待機まで繰り上がっていたんだ」
沈黙が、地下室を支配した。
千束とたきなが、旧電波塔で「互いの命」のために必死に手を伸ばし合っていたあの数時間。
その頭上や海の向こうでは、空挺部隊が降下準備を整え、最新鋭のステルス戦闘機がエンジンを温め、首都・東京が「戦場」と化すカウントダウンが進んでいたのだ。
「で、だ。ここで問題になるのが、お前たち『リコリス』の存在だ」
クルミはチュッパチャプスを噛み砕き、真剣な目で千束たちを見た。
「延空木で戦っていたリコリスの姿は、電波ジャックによって全世界に晒された。もしこのまま自衛隊が都内に突入し、事態を収拾すればどうなる?
『平和の維持』を掲げていたDAの無能が露呈するだけでなく、超法規的な暗殺組織であるリコリスの存在が、完全に公の場で問題視されることになる」
「……だから、リリベルが動いたのね」
ミズキが、乾いた声で呟いた。
「ああ。DAのさらに上層部……いわゆる裏のトップ連中は、自衛隊が突入する『前』に、全ての証拠を消し去る決定を下した。つまり、顔が割れたリコリスたちを、同じく秘密組織である男の子版リコリスことリリベルに『始末』させることだ」
クルミの言葉に、千束の肩がビクッと跳ねた。
「じゃあ、あの時最初からフキたちを皆殺しにするつもりで……っ!」
「そうだ。そして、その現場の指揮を執っていたのが、リリベルの虎杖司令だ。だがな、虎杖に直接命令を下したのは、DAの楠木司令じゃない」
クルミは画面に、厳しい顔つきをした楠木司令と、不敵な笑みを浮かべる虎杖の顔写真を並べて表示した。
「この緊急事態において、楠木司令は虎杖率いるリリベルの部隊によって、身柄を拘束され、完全に指揮権を奪われていたんだよ。上層部からすれば、楠木は『事態を招いた責任者』であり、リコリスを守ろうとする邪魔な存在でしかなかったからな」
「楠木司令が……拘束されていた」
「あいつなりに、お前たちを切り捨てたくなかったんだろうな。だが、銃を突きつけられて軟禁状態にされた楠木は、表立って部隊を動かすことができなくなった。……だから、彼女は『最後の賭け』に出たんだ」
クルミはニヤリと笑い、モニターの最後に、一枚のログを表示させた。
それは、喫茶リコリコ宛てに送信された、送信元不明の短い暗号メールだった。
「これだよ。ボクが受信した、匿名での『リコリス救出依頼』。……発信元は、DA本部内の楠木司令の個人用秘匿回線だ。
彼女は拘束される寸前か、あるいは監視の目を盗んで、この喫茶リコリコ……正確には、世界最高のハッカーであるウォールナットと、最強のリコリスである千束たちに、延空木の少女たちを救うための『蜘蛛の糸』を垂らしたんだ」
「……」
千束はモニターを見つめたまま、言葉を失っていた。
「そして、ボクたちはその依頼に見事に応えた。ボクとお前たちが延空木でリコリスたちを誘導して色々して、ボクがラジアータを復旧させ、千束とたきなが真島を食い止めた。結果として、世間には『全部アトラクションでした』という最高の嘘を突き通すことができたわけだ」
クルミは大きく伸びをし、得意げに鼻を鳴らした。
「さあ、これで最初の疑問に戻るぞ。なぜDAは、死んだはずのウォールナットの生存を知ることになったが、ボクを追及しなかったのか?
答えは簡単だ。『ボクたちが作り上げた嘘(ハッキング)に乗っかるしか、DAが組織として生き残る道がなかったから』だ」
もしあの時、DAが「あれはウォールナットのハッキングだ!」と真実を公表していればどうなっていたか。
嘘がバレた瞬間に自衛隊の治安出動が決定し、F-35Bが飛び交い、都内は戒厳令下に置かれる。リコリスは全員リリベルに射殺され、DAという組織そのものが解体・粛清されていただろう。
「楠木司令は、自分の身柄を拘束した虎杖や上層部に対して、ボクが作り上げた『平和な茶番劇』を突きつけてたんだろう。
結果、上層部も虎杖も、その茶番に乗っかって振り上げた拳を下ろすしかなくなった。……つまり、DAはボクたち喫茶リコリコに、組織の存亡どころか、日本のあり方そのものの『巨大な借り』を作っちまったってわけだ」
クルミの解説が終わり、地下室に再び静寂が降りる。
あまりにもスケールの大きすぎる真実。
自分たちが戦っていた裏側で、日本という国家のシステムがどれほどギリギリの綱渡りをしていたのか。
「……信じられないわね。私たち、下手したらF-35の攻撃に巻き込まれてたかもしれないってことじゃない」
ミズキが青ざめた顔で、ウイスキーのボトルをラッパ飲みし始める。
「ですが、理にかなっています」
たきなが、冷静さを取り戻した声で言った。
「あれほどの大規模な電波ジャックとテロ行為に対し、政府が動かない方が不自然です。自衛隊の治安出動の一歩手前まで行っていたと考えれば、リリベルの強硬姿勢も、楠木司令の不可解な沈黙も、すべて辻褄が合います」
たきなはそこで言葉を区切り、隣に座る千束の方を見た。
「……千束。私たちはあの時、本当に世界の終わりみたいな状況の中で、互いの手を探していたんですね」
「たきな……」
千束は、たきなのその言葉に、ふわりと優しく、けれどどこか泣きそうな笑顔を浮かべた。
「そうだね。東京の空に戦闘機が飛ぼうが、警察がパニックになろうが……私は、たきながワイヤーで引き上げてくれなかったら、あそこで終わってた。あの時の私にとっては、国家の危機なんかより、たきなが手を伸ばしてくれたことの方が、ずっと世界の全てだったよ」
「千束……」
二人が見つめ合い、互いの体温を確かめ合うように、握り合った手に力を込める。
その、あまりにも尊く、しかし重すぎる絆の確認作業を前にして。
「はいはい、お前ら。世界規模の危機の解説の後に、自分たちの世界に入ってイチャつくのはやめろ。ボクの解説の余韻が台無しだ」
クルミが呆れたようにツッコミを入れ、モニターの電源をバツンッと落とした。
「まあ、そういうわけだ。ボクたちは日本を救った陰の英雄であり、DAの首根っこを掴んでる最強のカフェってことさ。だから……明日からも堂々とサボって、美味しいパフェを作ってくれよな!」
「あはは! もちろんだよクルミ! 先生、明日のまかないは超豪華にしてよね!」
「やれやれ……。お前たちには敵わないな」
ミカが低く笑いながら、コーヒーの準備を始める。
国家の存亡、暗殺部隊の暗躍、そして自衛隊の治安出動。
そんな血生臭い真実を全て飲み込んで、喫茶リコリコは今日も、甘いコーヒーの香りと共に、騒がしくも温かい日常を刻んでいくのだった。