今後も頑張りますのであたたかく見守ってください!
あなたと共に形だけの「夫婦」として過ごせたのをとても感謝しています。
そして、同時に申し訳ないとも考えています。
だって、あなたは若く聡明で美しく凛としていた。
貴族としての格を備えており、その格に見合った立ち居振る舞いをしていた。
たいして私は齢四十を過ぎた中年であり、容姿も醜く、家柄なども片田舎の貴族。
先妻から離縁を申し付けられるほど、男として劣っている人間です。
まさにあなたと格が違います。
「私と離縁してくださらない?」
初めて貴方とお会いした時の言葉が思い出されます。貴方が私の屋敷に足を踏み入れ、ずっと黙っていたと思ったらそのような事を言うので大変驚きました。私は何も言えずにただ黙るばかりです。
「ま、無理なのでしょうね」
しかし、貴方はしばらくすると悲しげに笑い、目を伏せた。
「今回の結婚は父上、いいえ、その後ろにいる王太子殿下が企図したものです。なんら権力のない貴方が離縁をしたら彼らの意思を反故にしたとして貴方自身の立場が危うくなる」
貴方は聡明な方です。今回の結婚がなぜ起こったのか全てお分かりになっていた。
「ここは何もないところなのね。少ない領民からなけなしの税をもらいながら生きる。王都とは全然違う。まるで島流しされてしまったみたい」
「貴方、新聞は読むの?」
私はうなづいた。その姿を見て彼女は笑った。
「なら、私の事はすべて分かっているのね。私がもともと王太子殿下の婚約者であり、共に王都の学園に通っていたことも」
私はうなづく。貴方は続ける。
「卒業パーティーの時に殿下が平民出身の女生徒に婚約の願いを言ったことも」
私はうなづく。貴方は続ける。その声は少し震えているようだった。
「そして、私は殿下に婚約破棄をされて、こんな田舎貴族に嫁がされたことも」
私はうなづく。貴方は泣いていた。
「私、あの子をいじめていたらしいわ。殿下に言われましたの。私、勉強を教えましたの。ううん、勉強だけじゃないわ。あの子は平民の出だから社交場でのふるまい方も教えたの。私、あの子と友達だと思っておりました。でも、いつの間にか私は彼女をいじめていたらしいです。それに憤った殿下はあんな…」
新聞には彼女は婚約破棄を言い渡された瞬間も顔色一つ変えずにいたらしい。そんな彼女が声を震わせぽつりぽつりと話すのではなく言葉をこぼしていた。
「私はいつの間にか悪役になっていたみたいですね」
「ここ数日ずっと現実味がありませんでしたわ。あの日の事は夢か幻でふっと目が覚めるのではないかと子供じみたことを考えていました。でも、今日貴方の顔を見てやっと理解いたしました。私はもう絶対に王都にも殿下にも近づくことができないのだと」
長い沈黙でした。先ほどまでは夕日が差し込んでいた応接室は既に薄暗くなっていました。
「貴方も可哀そうですわね。私のような悪役令嬢とでも言うのでしょうかね。こんな女と結婚をしなければならないのなんて」
事実、私には結婚を拒否する立場にはいなかった。
しかし、それは貴方も同じだったはずです。貴方のほうは王太子殿下との婚約がなくなったうえに私のような男と結婚しなければならない。
むしろ私よりも可哀そうな立場だったはずでした。
貴方は再び、黙り。ただ視線を下に注ぐばかり。
私はこの空気を拭い去るように夕餉にしようといいました。
彼女はその言葉を聞くとただただ微笑むだけでした。そして、その微笑みはすべてを諦めたことを語っていました。
嫌な予感ほど当たるとは不思議なものです。
夕餉が終わり、貴方はそそくさと自身の寝室に入ってしまった。私なんかと過ごすのは耐えられないと思えば自然なのでしょうが、その時の私には彼女の背中に言い知れぬ覚悟のようなものを感じてしまいました。
貴方の寝室の前で私はしばらく立ち止まりました。そして、貴方の名前を呼びました。
なんの反応も返っては来ません。次にノックをしました。沈黙でした。
そして、不躾なのを重々承知しながらも私は扉をゆっくりと開けました。
貴方はベットに腰掛け月光に照らされていました。その姿は一枚の絵画になってしまうほど美しい様でした。貴方の手元に月光を反射させたペーパーナイフさえなければですが。
じっとナイフを見つめる眼は鈍色に染まっており、催眠術にでもかかっているようでした。
私は大きな声で貴方を呼びましたが、貴方の耳には届いていない様子でした。緩慢な動きでナイフを自身の首筋に持っていく。
私は咄嗟に駆け出しました。そして、ナイフの刀身を掴みました。
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「ぁ…」
一体何が起こったのか分からなかった。
状況を理解する暇もなく。怒号が私の耳を激しく打った。
「何をやっているんですか!」
私は茫然とした意識が徐々に鮮明になると同時に目の前の人物を見上げた。目を大きく見開き、荒く呼吸をしている男性がいた。
手には私が先ほどまで持っていたナイフが握られていた。
男の手のひらからどろりと赤黒い液が垂れる。
目の前の男は一体誰であっただろか?
一瞬、そんな間抜けな問いが頭に浮かんだ。しかし、それは掻き消えた。
男性の手のひら垂れている液が私の紺青のドレスに落ちたからだ。
これは、血だ。
血?
何故、目の前の男性が血を流しているのだろうか。
だって、彼は私の事を何も知らないではないか。
「こんな愚かなこと…」
愚かな? 私はナイフを持ってそれを首筋に当てようとしていた。これは愚かなことなのだろうか。
死のうとしていた。これは愚かなことなのだろうか。
「ええ、そうですわね。愚かなことですわ。でも、私は愚かなことすらさせてもらえない立場になってしまったのでしょうか」
あの時のことが頭から離れない。
「殿下と結婚することは生まれた時から決まっていたのに」
初めて殿下に会った時、私の人生は決まった。
「いづれこの国の王になる方のお側に入れるように多くの努力をした」
貴族としての所作、身だしなみ、教養、矜持を必死に磨いてきた。
つらかったが、あの方のために必死に生きてきた。
「卒業したら結婚式をあげるはずだったのに」
なんで、どうしてなの。私は殿下のために人生を捧げてきたのに。どうして殿下は私を見捨ててしまったの。どうしてあの子を選んでしまったの。あの子は平民なのですよ。あの子とは学園に入ってから初めて会った関係で、私とは比べられないぐらい浅い年月しか過ごしていない。それなのにあの子を選んでしまった。
私を酷い言葉で退けた。
「殿下のために…。殿下のためだけの人生だったのに…。殿下に選ばれなければ私なんて生きている価値がありません」
涙がこぼれてくる。視界が滲む。数刻前に泣いたばかりなのに。人の前で泣くのなんて貴族の女性としてやってはいけないはしたない行いである。
しかし、止まってくれない。男の呼吸音と私の嗚咽だけが部屋に響く。
「貴方は殿下のために生きられました。それはとても素晴らしいことだと私は思います」
男がつぶやく。
「しかし、現実は残酷です。貴方は殿下の婚約者という立場から退けられ、こんな辺鄙な田舎貴族に身を寄せなければならなくなった。ここでは殿下のための人生を送ってきた貴方は死んだも同然です」
「だから」
死のうと思った。私の人生は終わったのならば生きる意味はない。
「でも、だからこそ」
男が声を張る。自然と私は男に目を向ける。
「貴方はこれから貴方の人生を生きなければならないのです」
「人生? そんなのあの時から」
「あります。今ここにあります。貴方だけの人生があります」
男は私にナイフで傷ついた手のひらを見せてきた。だらだらと赤黒い血が流れている。
「この傷は貴方に付けられたも同然の傷です」
それは決して断罪の言葉ではなかった。そこには肯定の響きだけが宿っていた。
「殿下のための人生を生きてきた貴方は人に傷をつけるなんてやったことがないはずです」
だってそんなことをしたら殿下の名誉に泥を塗る。
「しかし、今の貴方は殿下と離れております。貴方がやったこと、やること、やりたいことはすべて殿下のためではなく貴方自身のための行いです。そして、この傷は初めて貴方が誰のためでもなく自身の思いで何かをしたことを表しています」
詭弁だ。屁理屈だ。その傷は私が死なないように貴方が庇ってくれたから出来た傷だ。
こんなめちゃくちゃな論理で納得なんて出来るわけがない。
出来ないはずなのに。
なぜだろう。
「そして、私は貴方がこれからする。貴方自身の人生を見てみたい」
あなたは私を知らないのに。
「この結婚が王太子殿下から命じられたからではありません」
私はあなたを知らないのに。
「貴方が私の妻だからでもありません」
私たちはただ自分たちの思いも関係なく結ばれた偽りの関係なのに。
「私はただ貴方の凛とした佇まいを見て、たおやかな所作を見て、理知的な眼差しを見て、見たからこそ、貴方の生き様を見たいのです」
こんな言葉あなたが私にあげる義理なんてないのに。
「どうして?」
私の問いかけに彼は優しく微笑んだ。初めて彼の顔をしっかりと見つめた気がした。私はこの屋敷に来てからこの人のことをまともに見ていなかった。
ああ、この人はこんなに柔和で温かい視線を私に投げかけてくれていたのか。
「貴方は素晴らしい女性です。この矮小な私に貴方の人生を見せてもらえませんか?」
「…ふ、ふふ」
笑みがこぼれる。しかし、それと同時に涙もこぼれる。
「とってもおかしな人ですわ」
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貴方との日々は私のような陰鬱な男にとって輝かしいものだった。
「おはようございます」
「旦那様。ごきげんよう」
「その、旦那様っていうのはやめてもらいたいですね。なんだか恐れ多いです」
「まぁ! 屋敷の主である旦那様を旦那様と呼ぶのは普通の事ですわ」
貴方はとても快活な方だ。
「ささ、旦那様。どうぞ」
「この料理は?」
「私が作りましたわ。庭においしそうな木苺がありましたから」
貴方の料理はとてもおいしく、「おいしい」と言うと頬を赤らめて微笑んだ。
「きゃあ!」
「だ、大丈夫ですか?」
「も、申し訳ありません。ちょっと掃除をしていて」
貴方は掃除は少し苦手らしく。それを少しからかうと頬を膨らましてそっぽを向いてしまう。
他愛もない日々が過ぎていく。貴方にとってはつまらない日々かもしれないが私にとってはかけがえのない日々。ずっと続いてほしいと思いながら、心の底では貴方にはもっと適した場があるのではないかと思ってしまう。
そんな思いをふと、口に出したことがあった。
「あなたはあの日、私の人生を生きるように言ってくださいました」
「私、それを言われてから私だけの生き方をしてきました。」
「初めて恋愛小説を読みました。初めて夜更かしをしました。初めてお寝坊をしました。初めて手料理を殿方に振舞いました。いろんな初めてをして、それをあなたに見てもらいました」
「あなたが言ってくれたから私は初めてに触れられました。だから、あなたが居ないと意味がないのです」
彼女はそう言って私の手を取った。そして、手のひらにあるあの時出来た傷をすっと撫でた。彼女にこんなことを言ってもらえることが嬉しかった。そして、こんなことを言ってくれる彼女はもっと幸せであらねばならないと感じた。
この一年後、王国は隣国に戦争を仕掛けた。
田舎貴族である私も小隊長として戦地に赴くように招集がきた。
「行ってはいけません」
「そうはいきませんよ。王の命に背くなんて貴族としてやってはいけない」
「こんな勝ち目のない戦争に関わるのなんて無駄です。王は気がふれておられる」
彼女は毅然とした態度で言い放つ。
「そのようなことを言ってはいけませんよ。王は貴方の婚約者ではありませんか」
「過去の話です。民を危険な場に晒すものを私は良き王だとは思えません」
沈黙が流れる。彼女は頑固だから素直にうなづいてはくれない。
「旦那様。逃げましょう。遠いところに行きましょう。この土地のように穏やかな自然だけがある静かな場所に行きましょう」
彼女は私に一歩近づき、手を取る。彼女の手は震えていた。私は手を強く握りしめる。
「貴方と過ごしたこの屋敷を離れるのはしのびない。それに国のために戦うのは貴族として当たり前なのです。これは貴族としての矜持です」
「そんな、そんなもの!」
彼女が声を張り上げる。
「そんなものどうでもいい! 矜持で誰かが救われますか? 矜持で力が手に入りますか? そんなものはただの醜い執着です。私がどんなに貴族として努力しても無駄になったように、旦那様がどんなに貴族として戦地に赴いたとしても無事である保証なんかありません。ねぇ、お願いします。どうか、私から離れないで下さい。あなた様は私に私の人生を生きろと言ってくださいました。でしたら、言います。私の人生にはあなたが居ないと私の人生とは言えません。だから、私と生きてください」
早口に捲し立てた後、彼女は息が上がった状態で涙を流した。その姿が痛ましくて、愛おしくて、私は彼女を優しく抱き留めた。彼女の涙が胸に沁み広がる。
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「おい、出ろ」
声と同時に牢の扉が開かれる音が聞こえた。
それは最初幻聴だと思った。拷問によって左耳をそぎ落とされて以来、よく幻聴が聞こえるようになった。
「何をしている。早くしろ」
また聞こえた。私はけだるげに首を上げる。片目に蝋を流されてしまい右目しか見えなくなった視界で世界を見る。
看守が立っている。
「え、なぜ?」
「知るか」
看守も何故、私を出すことになったのか理解していないらしい。しかし、出ることが許された。一生、牢の中で過ごすはずだった私が出てもよい。
現実が受け止められず、ぼうっとしてしまう。
私の呆けた様子が癪にさわったのか看守が私に近づき、顔を蹴飛ばした。
体がのけぞり、倒れこむ。
いつも通りのことだ。
このまま気を失うまで暴力を振るわれる。
はずなのに、次なる衝撃がいつまで経っても来ない。
目を開ける。
看守がいる。しかし、看守はこちらではなく別のところを見ている。
彼は震えている。
「貴様、今何をしていた?」
「な、なぜ貴方のような方がこ、こんなところに」
「私の問いが聞こえなかったのか? 何をしていたと問うているのだ」
「え、こ、この罪人に罰を…」
「罰? ふむ、そうかよく分かった。おい、この者を殺せ」
次の瞬間、看守はどこから現れたのか二人の騎士に掴まれ、どこかへ連れていかれてしまった。かすむ視界に人影が現れた。
「ああ、ああ、おいたわしや」
人影は私に近づき、倒れている私の体を支えた。
女性だった。紺青のドレスを着た美しい女性だった。
どこかで見たことがある。
「見えますか? 聞こえますか?」
女性のしなやかな指が私のそがれた耳に触れる。その手つきが繊細で震えていた。
この手つき、この声。
まさか
「ええ、そうです。そうです。旦那様。わたしでございます」
「あの戦争が終わった時、私は必死にあなたを探しました。貴方の部下だったものにも会いました」
「あなたが隣国の捕虜として捕まったと聞きました。旦那様を助け出すように私、王に嘆願したのです」
「でも、あの男は私の願いを聞き入れてくれなかった。捕虜一匹のために何故そんなことをしなければならないのかと」
「すべてあいつがもたらした戦争なのに、あいつのせいで旦那様が戦争に駆り出されたのに」
「私、考えました。たった一人の人間が国の捕虜を手に入れるためにはどうすればよいのか。金を稼ごうと思いました。でも、ただの商いではだめです」
「私が扱った商品は情報です。貴族社会で得た様々な人間の醜聞や奸計を他の貴族、ひいては他国に売りました。人間とは醜い生き物ですね。誰かを蹴落とし、自分が上に立つためならばどんな対価でも差し出す。あの国も私が与えた情報によってクーデターが起こったんですよ。あの王も失脚しました。いいざまでした」
「たった数年で私は世界有数の情報屋となって大金を手に入れました」
「そして、今やっとあなたを手に入れた」
「…」
「私、あの時言いました。一緒に逃げましょうって」
「でも、あなたは逃げてくれなかった。貴族の矜持だって」
「今のあなたは貴族なんかではない。醜い罪人です」
「私は昔のような貴族の女性じゃなくなりました。悪い事もしました。貴族の矜持なんてものもとっくにありません。私はただ貴方と共に過ごすために今日まで生きてきました」
「あなたが望んだ私の生き様がこれです」
「旦那様」
「ねぇ。旦那様」
「あの時の傷を見せてください。私が初めて傷をつけたあれを」
私は言われるがまま手を見せる。
「ふふ、変わっていない。あの時のままです」
彼女が私の傷をすっと撫でる。
「旦那様、また過ごしましょう。昔みたいに穏やかな日々を過ごしましょう。大丈夫です。すべての世話はもちろん私がします」
「あなたはただ私の横に居て私だけを見てくれるだけでいいんです」
彼女が私を見つめる。瞳にはよどんだ欲が渦巻いていた。
「私のためだけに生きてください。旦那様」