「…………ん、んぅ……」
深いような、浅いような眠りの底から――玲奈はゆっくりと意識を覚醒させた。
なぜ目が覚めたのか、彼女自身分からない。
「あ……あぁ……」
かすれた声が喉から漏れる。
うつ伏せのまま、どうにか上体を起こそうとするが、身体が痺れて思うように動かない。
力を込めても、指先すら自分のものではないようだった。
――冷たい。
足元に違和感を覚え、視線を落とす。
床には薄く湯気を立てる温水が溜まり、玲奈の足を濡らしていた。
どうやら、シャワールームで意識を失っていたらしい。
しばらくして痺れが引き始めると、玲奈は洗面台に手をつき、ふらつきながら立ち上がった。
裸のまま、曇った鏡を手で拭う。
そこに映ったのは――自分の身体。
まず目に入ったのは、鎖骨の下に残る手術痕だった。
それだけではない。腕、脇腹、太腿……至る所に同じような痕が残っている。
なぜこんなものがあるのか。
まるで何も思い出せない。
それよりも――ここはどこなのか。
玲奈はクローゼットを開け、見つけたバスローブを羽織った。
だが、寒さは防げない。床から這い上がる冷気が、足元から全身を侵していく。
窓の外は、すでに夜の闇に包まれていた。
シャワールームのすぐ外には大きなベッド。
その上には、黒いパーカー、使い込まれたジーンズ、ブーツが置かれている。
どれも、自分のサイズとほぼ同じだった。
――用意されていた?
小さな机の上には、1枚のメモ。
『君の望みが叶うことだろう、玲奈』
「……望み?」
自分の名前を見て、玲奈は息を呑む。
試しに同じ文章を書いてみる。
だが筆跡は明らかに違った。
望み。
そんなもの思い出せない。
それどころか――
ここがどこなのか、自分がどんな人間なのか。
何一つ思い出せなかった。
(もしかして……記憶喪失?)
そう考えると、シャワールームで倒れていた理由とも繋がる気がした。
「うーん……」
玲奈は小さく唸った。
その後、部屋の中を探し回った。
ベッドに置かれていた服に着替えても寒さは変わらない。
上着を探そうと棚を開けていくが、どれも同じ色、同じデザインの服ばかり。
ため息が漏れる。
そして、一番下の棚に手をかけた瞬間――
「……!」
ガタッ。
玲奈は尻もちをついた。
そこに収められていたのは、黒一色のメタリックな塊。
装飾は一切ない。だが圧倒的な威圧感を放っている。
それは拳銃だ。
それも一つではない。
様々な種類の銃器や武器が整然と並んでいた。
日本では持つこと自体が禁止にされているはず…。
しかし、電子ロックがかかっており、取り出すことはできない。
――それが、かえって救いだった。
玲奈は逃げるように部屋を飛び出した。
扉の先は、大きなロビーのような空間だった。
教会を思わせる広場。
奥には大理石のマリア像が静かに佇んでいる。
いくつもの窓から差し込む月光が、床を青白く照らしていた。
だが――ベンチも、十字架もない。
祈るための場所ではないのだろうか。
玲奈は戸惑いながら一歩踏み出す。
そのとき。
1つの写真立てに目が釘付けになった。
そこには、幸せそうに微笑む玲奈と、見知らぬ男性。
結婚式での記念写真だった。
玲奈は震える手で、自分の左手を見る。
薬指には、プラチナ色の指輪。
そっと外し、裏側を覗く。
刻まれていたのは名前ではなく――
『アンブレラからの御祝い』
「……なに、これ……」
指輪を戻し、もう一度写真を見る。
写真の中の自分は、今の自分とは別人のように笑っていた。
(いつか……こんな笑顔を取り戻せるのだろうか)
そう思った、その時。
写真立てのガラスに――玲奈の背後を走り抜ける人影が映った。
「誰!?」
振り返る。
だが、そこには誰もいない。
代わりに、冷たい風が吹き抜けた。
閉まっていたはずの扉が開き、北風がカーテンを揺らしている。
玲奈は足早に近づいた。
「誰か……いるの?」
外を覗く。
人の気配はない。
それでも、どこかに潜んでいる気がして――
「誰かいるの?」
再び問いを投げた。
返事はない。
気のせい…そう思った直後だった。
風が、不自然にうねり始めた。
落ち葉が舞い上がり、横倒しの竜巻のように渦を巻く。
まるで問いに応えるかのように、玲奈へ向かって吹きつけた。
恐怖が背筋を走る。
玲奈は慌てて建物の中へ戻った。
その瞬間――何者かに腹を掴まれた。
「きゃあ!! なっ、何⁈」
「いいから来い!」
若い男の声。
玲奈が抵抗する間もなく――教会の窓ガラスが一斉に砕け散った。
完全武装した兵士たちが雪崩れ込んでくる。
男は玲奈を突き飛ばし、腰の拳銃を抜こうとする。
だが撃つ前に弾き飛ばされ、兵士に押さえつけられた。
両腕を背中に回され、拘束される。
「いてて‼ 折れる折れる‼ もう抵抗しねえからやめろ‼」
男は腕を捻り上げられ、情けない悲鳴を上げていた。
同情したのか、兵士は力を緩め、手錠をかけるだけに留める。
周囲を取り囲む兵士は7名。
全員がヘルメットを被り、重武装している。
その中で、ひときわ体格の大きい兵士が、壁際で震えている玲奈へ歩み寄った。
「状況は?」
ヘルメット越しの低い声。
聞き覚えはない。だが男性だと分かる。
「状況? な……何のこと?」
玲奈には、その言葉の意味すら理解できなかった。
「……覚えていないのか?」
玲奈は、ゆっくりと頷く。
それを見た兵士はヘルメットを外した。
現れたのは、豪傑という言葉が似合う顔つきの男だった。
幾多の戦場を潜り抜けてきたような、圧倒的な存在感がある。
「葉子! そいつは何者だ?」
拘束した男の後ろにいた兵士――葉子もヘルメットを外した。
軽くウェーブのかかった黒髪が揺れる。
葉子は男のズボンから財布と警察手帳を抜き取る。
「……名前は佐々木竜也。見ての通り、警察官のようね」
「本当か? 警視庁のデータベースで調べろ」
葉子は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、素早く検索する。
数秒後、その表情が曇った。
「データベースに該当なし。どういうことかしら?」
竜也は焦ったように言い返す。
「明日から警視庁勤務なんだよ!」
葉子は疑いの視線を向けたが、それ以上追及はしなかった。
調べている時間すら惜しかったのだろう。
大柄な男へアイコンタクトで「問題なし」と伝える。
「玲奈とその男も連れていく! 憲之!」
30代前後の兵士・憲之が黒いリュックを下ろし、タブレット端末を操作する。
すると、大理石のマリア像が音を立てて動き、秘密の通路が現れた。
「ついてこい」
拒否する余地はなかった。
玲奈は銃を携えた兵士たちの圧に飲まれ、黙って従う。
竜也も葉子に拘束されたままだ。
長い階段を下りた先に広がっていたのは、地下鉄のホームのような空間だった。
列車が停車している。
周囲には山積みの物資が置かれていた。
兵士たちは無言で黒い鞄を積み込んでいく。
憲之が運転席に乗り込み、列車を動かそうとした――その時。
「隊長! タイヤが線路から外れています!」
「直せ。時間がない」
「私がやるわ。こいつをお願い」
名乗り出たのは葉子だった。
竜也を別の隊員:純輝へ引き渡し、ライフルを床に置く。
ペンライトを口に咥え、車両の下へ潜り込んだ。
ライトで照らすと、確かに車輪が外れている。
だが、修復不可能な損傷ではない。
「憲之、器具ある?」
「ああ、待ってろ」
そのとき、葉子は奥に視線を向けた。
ライトの先に見えたのは、破られた通気口の金網。
自然に朽ちたのではない。何かに内側から突き破られたような形状だった。
「ほら」
憲之が器具を差し出す。
葉子は一瞬迷ったが、些細なことだと判断し、修理を優先した。
「OK。行けるよ」
「了解。発車させる」
列車が動き出す。
外観の古さとは裏腹に、凄まじい加速だった。
玲奈と竜也は思わずよろめいた。
数分間、誰も口を開かなかった。
だが――
ガタン……!
近くの扉から鈍い音が響く。
兵士たちの緊張が一気に高まる。
玲奈と竜也も扉に視線を向けた。
大柄な男が銃を構え、扉を一気に開け放つ。
そこから1人の男が倒れ込んできた。
意識は朦朧としている。
「こいつは……!」
「毅!」
兵士の何人かが叫ぶ。
玲奈も気付いた。
――写真の中で、自分と並んでいた新郎。
この男だ。
「様子が変だな。春奈、検査を」
春奈が駆け寄り、ペンを取り出す。
「これを目で追って」
毅は言われるまま、ペンを目で追う。
数秒後、春奈は診断を下した。
「記憶障害を起こしていますが、命に別状はありません」
「そうか。ご苦労」
その後、何も起こらないまま20分ほどが過ぎた。
列車は別のホームに到着する。
目の前には、巨大で分厚い鋼鉄の扉が鎮座していた。
憲之と純輝が機械を取り出し、切断作業を開始する。
その間、大柄な男が玲奈たちへ向き直った。
「時間がかかる。説明しておこう」
彼はタブレットに地図を表示する。
「我々が通ってきたのは、この施設へ入るための緊急通路だ。通常は使用されない」
(緊急事態……?)
玲奈は首を傾げる。
「ここはアンブレラ社の極秘研究所。通称:ハイブ。非合法な新薬の開発と研究が行われている」
玲奈たちは言葉を失う。
「玲奈と毅。君たちはこの通路の警備担当だ。それを悟られないため、偽装として結婚している」
「そんな……」
玲奈と毅は顔を見合わせた。
信じられない。
だが、指輪と写真がそれを裏付けている。
竜也が口を開く。
「じゃあ、なぜ君たちはここにいる? 緊急通路なんだろ?」
玲奈も同じ疑問を抱いていた。
大柄な男は、わずかに目を伏せる。
「……3時間前。このハイブにいた約500名の従業員及び研究者が死亡した」
「……!」
空気が凍りつく。
特に竜也の目は大きく見開き、小さく「嘘だ…」と呟いた。
「原因は不明。だが施設を管理する人工知能――“レッドクイーン”の暴走が有力だ。
事故か、故意かは分からない」
玲奈は息を呑んだ。
地上の平穏の裏で、そんな惨劇が起きていたなど想像もしなかった。
「そして我々の任務は――」
彼は鋼鉄の扉を見据える。
「レッドクイーンの破壊だ」
その瞬間。
切断が完了し、扉が重々しい音を立てて開いた。
その先に待つ恐怖を、玲奈たちはまだ知らない。