意識を失った玲奈を背負い、竜也は銃撃戦の現場から離脱していた。
あの無秩序な発砲の中に留まっていれば、流れ弾を受けても不思議ではない。
そう判断した結果だった。
だが、走りながら竜也の胸中には別の焦りが渦巻いていた。
1つは、この施設の構造をまったく把握していないこと。
無闇に進めば仲間のもとへ戻れなくなる可能性がある。
そして、もうひとつ――背中の玲奈の存在だった。
動きが鈍るのは当然だ。
だが、それ以上に彼を困らせているのは、彼女の端正な顔立ちだった。
寝息を立てている彼女の美貌に思わず、息を飲む。
こんな状況だというのに、心臓は落ち着くどころか早鐘を打ち続けている。
(俺、何やってんだよ……)
自分の情けなさに呆れながらも、背中のぬくもりと静かな寝息が妙に意識を乱す。
「……」
その寝顔を見てしまえば、なおさらだ。
このままでは冷静な判断などできない。
竜也は足を止め、玲奈を起こす決意をした。
角を曲がった先に、小さな部屋があった。
周囲には、かつて動物を収容していた檻が並んでいるが、すべて内側から引き裂かれている。破れた檻には血肉が付き、嫌な予感しかしなかった。
床に玲奈を横たえ、肩に手をかけた、そのとき。
――グルル……
低く湿った唸り声が、背後から響いた。
竜也はゆっくりと振り返る。
もし、さっきの連中なら――武器のない今の状況は最悪だ。
だが、現れた“それ”を見た瞬間、竜也の喉から乾いた声が漏れた。
「嘘だろ…勘弁してくれよ…」
そこにいたのは犬だった。
しかし、もはや生き物の形を辛うじて保っているだけの存在。
裂けた皮膚の下からは骨と内臓が露出し、血に濡れた体がぬらりと光る。
口は異様に裂け、黒ずんだ舌が垂れ下がっていた。
犬は、竜也と玲奈をじっと見据えている。
竜也は一瞬だけその姿を見返し、すぐに玲奈を抱き起こした。
その動きを合図にしたかのように、犬は地面を蹴った。
凄まじい速度で迫るそれを背に、竜也は玲奈を背負い直し、小部屋へ飛び込む。
直後、犬が扉に体当たりする。同時に爪が金属製の扉をガリガリと引き裂く。
「……っ」
扉一枚で遮られているだけだ。安心などできない。
だが次の瞬間、竜也の体は別の何かに掴まれた。
振り向くと、警備員の制服を着た男が立っている。
目は虚ろで、口元からは黒い液体が垂れていた。
竜也は躊躇なく腹部に蹴りを叩き込み、男の体を棚へ叩きつける。
薬品の瓶が床に散乱し、刺激臭が広がった。
男は、それきり動かなかった。
そのポケットから拳銃が覗いているのに気づき、竜也は素早く抜き取った。
「残り7発…か…」
予備弾はない。
これであの犬を仕留めるしかない。
その前に――
「玲奈、起きろ」
ぺちぺちと頬を叩き、玲奈を無理やり起こした。
「うっ…りゅ、竜也…?どうして…私…」
「事情は後で話す。いいか?今この部屋の外に狂った犬どもがいる。そいつを今から殺しに――」
言い終える前に、窓ガラスが爆ぜた。
血塗れの犬がガラスを突き破って室内へ飛び込んできたのだ。
「なに…あれ!?」
「いいから出るぞ!」
竜也は玲奈の手を引き、部屋の外へ飛び出す。
だが、その先に広がっていた光景に、玲奈の喉から小さな悲鳴が漏れた。
「ひっ!」
廊下の先に、同じような犬が何匹も立っていた。
血に濡れた牙を覗かせ、低く唸りながら2人を取り囲む。
玲奈は思わず扉に背中を打ち付け、怯える。
正反対に竜也は拳銃を構えた。
犬たちが一斉に飛びかかる。
こちらに来る前に引き金を引いた。
1発、また1発。
恐怖で震えそうになる身体を抑え込み、竜也は全ての弾を正確に頭部へ撃ち込んだ。
7体の犬の頭部が弾け、肉片が壁に叩きつけられる。
「…ふぅ…」
安堵の息が漏れる。
だが、安心は一瞬だった。
先ほど室内に侵入した1匹が、再び元に戻ってきたのだ。
竜也は銃を向ける。
だがスライドは後退したまま――弾切れだ。
犬が跳躍する。
とっさに腕を差し出し、噛みつきを防ごうとした、その瞬間。
玲奈が前に出た。
その瞳は、迷いのない戦士のものだった。
「せええぇぇい‼」
回転を伴った蹴りが犬の顔面を捉え、骨が折れる鈍い音が響く。
犬の体は壁に叩きつけられ、動かなくなった。
竜也は言葉を失う。
(なんて強さだ…)
玲奈自身も、呆然と自分の足を見つめていた。
記憶はなくとも、体が覚えている――。
「……とにかく、早くここから離れよう。犬がまた来たら大変だ」
玲奈は力強く頷いた。
2人はやがて、施設の表側と思しき出入口に辿り着いた。
床には散乱した書類、乾いた血痕、そして身体の一部。
静寂の中に、異様な気配が残っている。
竜也は書類を拾い上げるが、専門用語ばかりで意味を成さない。
「何か…ないのか…」
そのとき、左側のガラス越しに大きな衝撃音が響いた。
振り向くと、血に濡れた口を剥き出しにした“奴”がガラスを叩いている。
だが、この厚さなら割れることはない。
竜也は息を吐いた。
「竜也…!あれ…!」
玲奈の震える指が示す先。
そこに、黒髪のショートヘアの女性が立っていた。
ふらふらと揺れる足取り。
しかし、竜也は彼女の顔を見た瞬間、目を見開いた。
「千鶴!無事だったか!」
「待って!彼女…どこか変――」
玲奈の制止も聞かず、竜也は駆け寄り、彼女を抱きしめる。
返事はない。
「千鶴?どうし…」
「グアアアアァ‼」
獣のような咆哮とともに、千鶴は竜也に馬乗りになった。
噛みつこうと迫る顔。
竜也は必死に抵抗するが、彼女を押し倒すことができない。
「千鶴……お前…っ」
その瞬間。
千鶴の体が硬直した。
ポタポタと血が竜也の顔に落ちて、すぐに力なく崩れ落ちた。
竜也の視界に、鈍器を握った玲奈の姿が入る。
「………」
血に染まる床の上で、竜也は目が開いたままの千鶴の目をそっと閉じた。
「彼女は…俺の妹だ」
「え?」
「千鶴はアンブレラで働いていた。でも、この施設のことは何も言ってくれなかった…」
竜也の声は震えていた。
玲奈は静かに耳を傾ける。
「数時間前…千鶴から電話があったんだ。助けを求める声だった…」
「おい、千鶴!電話するなって…」
『はぁ…はぁ…。た、助けて……』
「ち、千鶴?どうした?おい!?」
『助け……て………た、す……け……………』
「千鶴!返事しろ!おいっ‼」
「そんなことが…」
「……本当は俺、公安なんだ。アンブレラの不正には気づいてた。でも証拠がなかった。千鶴の電話の数分後、アンブレラが動いた。だから俺は――」
声が途切れ、嗚咽が漏れる。
玲奈は、まっすぐ竜也を見据えた。
「全て終わったような言い方しないで…。竜也にはまだやることがあるでしょ?この事実を世界に暴露するのよ!私たちで!それが……彼女のために唯一出来ることよ」
「玲奈…。…そう、だよな…。警察は真実を明らかにするのが仕事だもんな…」
「そのためにもまずは脱出しないとね!」
「ああ、行こう!」
2人は駆け出す。
立ち去る直前、玲奈はもう一度、千鶴の亡骸を見た。
その瞬間、記憶の断片が開く。
『私が……アンブレラのハイブに穴を開けるから、あなたはその隙に……』
『…分かった。でも条件……』
――千鶴と話していた。
何かを盗むよう、頼まれていた。
だが、それが何だったのかは、まだ思い出せない。