【完結】転生って人の心とかないんか?―有象無象のヒーローごっこ、三歩下がってついといで。   作:まだら模様

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お待たせしました。第44話です。

これまで直哉を縛り続けてきた「230メートル」という不細工な檻。 

それを壊すために、彼は自身の術式そのものを『再設計』します。

しかし、広がりすぎた視界は、時として視てはならない「深淵」まで引き寄せてしまうようで。

どうぞ、最後までお楽しみください。

キャラの語彙などの崩壊、ストーリー崩壊などの可能性がございます。
ご注意ください。

感想、評価付与は直哉の投射呪法の加速度が増して、強さへの近道になります。


第44話:黒デク編 「空写の拡張/その瞳に映らない“異物

空写の射程は、今夜も230メートルだった。

 

直哉は目を閉じたまま、その無機質な輪郭を確認した。

 

校舎の内部。廊下。寮。外壁。街の外縁——そこで、世界は濁って止まる。230メートルの円。

 

それが、今の直哉という器の、逃れようのない「底」だった。

 

緑谷が去って、一ヶ月が経とうとしていた。

 

毎夜の追跡記録は、もはや義務を超えて呪詛に近い日課と化していた。今夜の緑谷は南、中速移動、生存確認。ノートに書き殴った。それが終わると、直哉は空写を畳まずに、ただその「境界」を睨み続けた。

 

——230メートル。

 

この醜い壁を、ずっと越えられずにいる。

 

維持時間を延ばし、精度を研ぎ澄ませ、射程を広げる。その三つを同時に手に入れようと足掻いてきた。だが、現実は残酷だった。精度や時間は誤魔化せても、この「距離」という数字だけは、直哉に嘘をつかなかった。

 

伸びていない。

 

射程だけが、ずっと230メートルで止まっている。

 

直哉はその事実を、今夜、改めて正面から突きつけられた。

 

(……ハッ、笑わせるなや)

 

暗闇の中、自分への嘲笑がこみ上げる。この壁の正体は何だ。血の不足か、それとも己自身の「格」がこの程度だという宣告か。

 

この230メートルの檻の向こう側に、本来なら跪かせるべき『獲物』がいるというのに。

 

 

翌朝。

 

 直哉は講義を受け流しながら、昨夜の問いの続きを反芻していた。

 

 空写の射程が、頑なに伸びようとしない理由。

 

 これまで直哉が執り続けてきた訓練の方針は「精度を維持したまま、距離を伸ばす」というものだった。解像度を極限まで保ち、その上で射程を広げようと腐心してきた。

 

 ——それが、根本的な間違いだったのかもしれない。

 

「禪院」

 

 不意に、相澤の声が鼓膜を叩いた。

 

「……はい、相澤先生」

 

「出席しているか?」

 

「……してますわ」

 

「目が遠いぞ」

 

「術式の設計を考えとりましたわ。ほんま、かんにんね」

 

 教室が微かにざわつき、皮肉めいた笑い声が混じった。緑谷が去ってからというもの、この教室から「笑い」の沸点は著しく上がっていた。だからこそ、誰かの不用意な失笑さえ、今のクラスメイトたちには微かな救いのように響く。

 

 相澤は短く「授業中にやるな」とだけ告げ、関心を失ったように板書へと戻った。

 

 直哉はノートの端に、自分にだけ見える小さな文字を刻んだ。

 

 

 精度と距離は、別の設計だ。

 

 ——精度を維持しながら距離を伸ばそうとするから、内部で矛盾が生まれている。解像度を上げる操作と、射程を延ばす操作。その呪力の指向性は、根本からして喰い違っている。

 

 ——精度は「密度を上げる」収束。距離は「外へ広げる」拡散。同時に成立させようとすれば、どちらも中途半端な泥沼に沈む。

 

 ——分けるしかない。どちらかを、一度捨て去るしかない。

 

 授業が終わるまでの残滓のような時間、直哉は黒板を虚空として見つめ、その冷徹な結論を研ぎ澄ませ続けた。

 

 

 

 

その夜。

 

 直哉は屋上の冷え切ったコンクリートに立った。

 

 遮るもののない、ただ広いだけの空の下で試したかった。

 

 ゆっくりと目を閉じる。脳内に『空写』を展開する。

 

 今夜は、これまで守り続けてきた作法を、意識的に、そして無残に「捨てる」

 

 これまでの直哉は、広がる視界の端々に至るまで「解像度」を求めていた。個性の微細な揺らぎ、体格、その胸中に渦巻く感情の滓——そんな不細工な凡夫共の情報まで、すべて完璧に掌握したまま射程を伸ばそうと足掻いていた。

 

 今夜はそれを、ゴミのように放り出す。

 

 解像度など、どうでもいい。そこに気配があるかないか、ただそれだけの「有無」が判別できれば十分だ。情報の密度を根底から放棄し、呪力の指向性をただ一転、「遠くへ広げる」ことのみに純化させる。

 

 ——広げる。

 

 呪力の奔流を組み替える。「密度を上げる」収束のベクトルを殺し、限界まで「薄く、広く」流す拡散の形へ。

 

 ——広げる。

 

 230メートル。

 

 いつもの、忌々しい壁に指先が触れる感覚があった。

 

 ——ここだ。

 

 今まではここで、無意識に踏み止まっていた。精度というプライドを維持しようとするあまり、呪力がこの境界で折り返していたのだ。

 

 今夜は、折り返させない。

 

 その見えない壁を、呪力の薄膜で強引に押し広げる。

 

 ——広げろ。

 

 何かが、ずるりと薄く伸びた。

 

 250メートル。

 

 280メートル。

 

 ——来ている。

 

 300メートル。

 

 直哉は細く息を吐き、乱れる呼吸を整えた。視界はもはや砂嵐のように粗く、解像度は無に等しい。個人の特定すら危うい、気配の残滓が読み取れるだけだ。だが——届いている。

 

 350メートル。

 

 400メートル。

 

「……来たわ」

 

 渇いた独り言が、夜の静寂に落ちた。

 

 頬を打つ夜風さえも、今の直哉には心地よい。目を開けることすら惜しみ、400メートルの彼方にまで引き伸ばした己の輪郭を、必死に維持し続けた。

 

 消耗は凄まじい。精度を切り捨てた代償として、呪力の燃費は最悪だ。五分。それが、今の直哉に許された限界の時間だった。

 

 五分後、限界を悟った直哉は空写を静かに畳んだ。

 

 ゆっくりと瞼を持ち上げる。

 

 夜空には、冷たく光る星が散らばっていた。

 

 ——倍になった。

 

 

 

 

翌日の昼休み。

 

 直哉は屋上の喧騒から離れた場所で、昨夜手応えを得た「設計」の再確認に耽っていた。

 

 意識を尖らせ、距離優先モードで『空写』を空間に投射する。精度というプライドをあえて泥に沈め、ただ射程の延伸のみを渇望する。

 

 400メートル。

 

 昨夜の数値が、寸分違わず脳内に再現された。偶然などという不細工な奇跡ではない。術式の根本的な設計図が書き換わった証左だった。

 

 直哉は400メートルの無機質な輪郭を維持し、その広大な円の中に蠢く「何か」を冷徹に検分した。

 

 解像度は目も当てられないほど低い。人の気配こそ読み取れるが、それがどの凡夫であるかの判別は不可能だ。個性の詳細な構造も霧の向こう側。「そこに誰かが存在する」という最低限の情報だけが、砂嵐のような視界に浮かび上がっている。

 

 (使えるかどうかは、場面次第やな)

 

 蛇腔市でハイエンドの先を読み、その不細工な挙動を制した時は、絶対的な解像度が必要だった。敵の「次の一手」を完璧に掌握するには、詳細な情報の積み上げが不可欠だからだ。

 

 一方で——広域の索敵、脅威の早期察知、戦場全体の頭数把握——そうした大局的な用途においては、精緻な解像度よりも圧倒的な「距離」こそが暴力的な価値を持つ。

 

 (両方、手中に収める。状況に応じて、俺が自在に切り替えるんや)

 

 直哉はノートの端に、自分への宣告を刻み込んだ。

 

 『空写』・二つの設計(モード):

 

 ① 精度優先モード:射程 約230m。解像度・極。個性の構造まで掌握。

 

 ② 距離優先モード:射程 400m以上(現時点)。解像度・低。気配の有無のみ。

 

 切り替えは意識的に可能。ただし、距離優先モードの呪力消耗は凄まじい。

 

 ペンを置いた。

 

 ——次は、距離優先モードのまま射程を500、600と引き延ばす。

 

それと並行して、死に体となっている距離優先モードの解像度を、少しずつ「格」のあるレベルまで引き上げる。

 

 ——焦る必要はない。今夜から、じわじわと、確実に凡夫共の届かぬ高みへ至るだけだ。

 

 

昼休み。

 

 直哉は屋上の縁に寄りかかり、距離優先モードの『空写』を維持していた。

 

 400メートル。

 

 砂嵐のような視界の中で、無数の「点」が蠢いている。

 

 (……多いな。ほんまにゴミみたいにおる)

 

 その中で、一つだけ違和感があった。

 

 動きが、不自然に速い。

 

 (……?)

 

 通常の生徒の移動速度ではない。一直線。迷いがない。明確な「目的地」がある動きだ。

 

 しかも——

 

 (気配が、薄い)

 

 個性の揺らぎが極端に小さい。意図的に抑えているのか、それとも——。

 

 直哉はわずかに思考を巡らせた。

 

 (距離優先やと“誰か”までは分からん……けど)

 

 進行方向。

 

 雄英の外壁、その裏手。

 

 (……外に出る気やな)

 

 その瞬間、直哉の中で「設計」が組み上がった。

 

 距離優先で捉えた“異常”を、精度優先で“確定”する。

 

 ——切り替え。

 

 世界が、一瞬で“濃く”なった。

 

 射程は230メートルまで縮む。だが、その代わりに、対象の輪郭が鮮明に浮かび上がる。

 

 (……おるな)

 

 外壁付近。

 

 フードを被った男。

 

 工具のようなものを手にしている。外壁の監視カメラを、物理的に破壊しようとしていた。

 

 (侵入者か、内部犯か……どっちでもええわ)

 

 直哉は屋上の縁から一歩踏み出した。

 

 鏃。

 

 一瞬で距離を詰める。

 

 着地と同時に、男が気づいた。

 

 「なっ——」

 

 言葉が終わる前に。

 

 空虚呪法。

 

 ——1/24秒、固定。

 

 男の動きが、不自然に止まる。

 

 直哉はそのまま、軽く蹴りを入れた。

 

 過剰な力はいらない。ただ、意識を刈り取るだけでいい。

 

 男はその場に崩れ落ちた。

 

 静寂。

 

 直哉はしゃがみ込み、男の手元に落ちた工具を拾い上げた。

 

 (……内部の人間やな。プロでもなんでもない)

 

 外壁のカメラを壊し、侵入の穴を開けるつもりだったのだろう。

 

 (距離優先で“異常”だけ拾って、精度で潰す……か)

 

 扇子を開いた。

 

 軽く仰ぐ。

 

 (使えるやん)

 

 直哉は男を見下ろしたまま、興味を失ったように視線を外した。

 

 あとは教師か警備が処理するだろう。

 

 自分がやるべきことは、もう終わっている。

 

 踵を返す。

 

 屋上へ戻る途中、直哉は一度だけ空を見上げた。

 

 (400メートルで“拾える”。230メートルで“仕留める”)

 

 口元が、わずかに歪んだ。

 

 (……悪ない設計や)

 

 

 

放課後。

 

 直哉は相澤のいる空き教室に、音もなく足を踏み入れた。

 

 相澤は机上の書類に目を落としたまま、入ってきたのが誰であるかを察してか、顔を上げることなく問いかけた。

 

「……何だ、禪院」

 

「報告がありますわ」

 

「聞く」

 

「空写の射程が、伸びましたわ」

 

 その言葉に、相澤の手が止まり、ゆっくりと視線が直哉を捉えた。

 

「……どこまでだ?」

 

「今日の昼、現状で確認できた数値は約400メートル。不細工な限界を、ようやく一つ叩き割りましたわ」

 

 相澤は無言で、数秒の間、直哉の瞳の奥を値踏みするように見つめた。

 

「……それは、もはや単なる『個性』の範疇に収まる数値じゃないな」

 

「当然ですわ。あんな凡夫共の持ち物と一緒にせんといてください。これは術式の拡張、俺自身の『格』を定義し直した結果ですわ」

 

 相澤は椅子に背を預け、わずかに眉を寄せた。

 

「精度は?」

 

「二つの設計(モード)を使い分けます。精度優先なら230メートルを完璧に掌握し、距離優先なら400メートルを泥のように見通す。現状、距離優先の解像度はゴミ同然ですけどな」

 

「……切り替えは自在か」

 

「俺の意識一つ。瞬時に書き換えてみせますわ」

 

 相澤は手元の書類を無造作に置き、組んだ両手の上に顎を乗せて直哉を直視した。

 

「……禪院。一つ聞いていいか」

 

「ええですよ」

 

「その射程が実戦に耐えうる水準に達した時、お前は何を成すつもりだ」

 

 直哉は一瞬、思考の深淵へ潜り、淀みなく言葉を紡いだ。

 

「索敵、そして先読みですわ。戦場のすべてを俺の眼で支配し、必要な情報を、必要な人間に叩き込む。それが最も『雅』で効率的な、勝利への設計図やと思ってます」

 

「情報を渡す——誰にだ」

 

「緑谷くんに、ですわ。緑谷くんはOFAという過剰な力を振り回す。その暴力を制御するための『眼』の役割は、今存在しない。このまま緑谷くんが勝手にすり潰れるとこちらも困るんですわ。…だからその役割を俺が担ってやると言うとるんですよ」

 

 相澤は、奥底の見えない沈黙を保った。

 

「……緑谷が戻ってくることが、前提か?」

 

「そうですわ。緑谷くんは、必ず俺の視界の中へ戻ってきますさかい」

 

(あのドブネズミは、定められたシナリオの道を這いずり回るしかない。……だからこそ戻ってくる。この雄英にな)

 

 相澤はその不遜で、それでいて揺るぎない宣告を、静かに咀嚼するように受け止めていた。

 

「……分かった。続けろ」

 

「はい、ですわ」

 

 踵を返し、直哉は教室を後にした。

 

 ——あの男は「戻ってきますさかい」という俺の言葉を、不細工に否定しようとはしなかった。

 

 ——それは、あの教師も同じ呪いを……いや、同じ確信を抱いているということなのだろう。

 

 

その夜。

 

 直哉は屋上の冷え切った静寂の中に立ち、澱みのない動作で訓練を再開した。

 

 距離優先モード。精度という贅肉を削ぎ落とし、呪力の薄膜を遠方へと狂おしく伸張させる。

 

 400メートル。維持。

 

 ——まだ、広げられる。

 

 呪力の奔流を「薄く、広く」保つ設計図を脳内に固定し、さらにその外側へと、不可視の触手を押し出す。

 

 410メートル。

 

 430メートル。

 

 ——止まった。

 

 440メートルの境界で、呪力の波が不細工に折り返してくる。今夜の底は、ここだ。

 

 消耗の度合いを冷徹に確認する。予想を上回る摩耗。反転術式による自己補完を回し、一分で焦燥を鎮める。

 

 ——400メートルの安定が成るまでは、この程度の出力で止めておくのが雅というものだ。

 

 直哉は空写を畳み、使い慣れたノートを無造作に取り出した。

 

 今夜の不細工な限界を、記録という名の「事実」として刻み込む。

 

 訓練記録:

 

 距離優先モード・最大到達:440m(本日)

 

 安定値:400m

 

 次期目標:500mの完全安定

 

 並行課題:距離優先モードにおける解像度の再構築(現状:気配の有無のみ ⇒ 目標:敵軍の人数・規模の掌握)

 

 ペンを置き、直哉は屋上の縁から夜の街を傲慢に見下ろした。

 

 雄英の外壁が、闇の中で灰色の、それでいて脆そうな輪郭を描いている。あの向こうに街があり、そのさらに向こうには、崩壊しきった無価値な社会が広がっている。

 

 その泥沼の中を、緑谷出久というドブネズミが、今夜も無様に走り続けている。

 

 (400メートル程度の視界では、あの男の足跡にさえ届きはせえへん)

 

 (せやけど、地獄のような戦場に引き摺り出した時、この眼は絶対的な「法」となる)

 

 (次の実戦。そこでこの設計図の完成度を、凡夫共に知らしめてやるわ)

 

 扇子を、音を立てて開いた。優雅に、だが鋭く夜気を仰ぐ。

 

 頬を撫でる冷たい風が、直哉の掲げる「極ノ番」への渇望を、より一層研ぎ澄ませていった。

 

 

週間後の夜。

 

 直哉は屋上で空写を広げた。

 

 距離優先モード。

 

 410メートル。420メートル。440メートル。450メートル。

 

 ——安定してきた。

 

 440メートルで折り返していたのが、今日は450メートルまで伸びた。一週間で10メートル。遅いように思えるが、設計の変更は一度に大きく動かすより少しずつ積み上げた方が定着が良い。呪術師の頃からの経験則だ。

 

 直哉は維持時間を計った。

 

 距離優先400メートルで、八分間維持できた。先週は五分だった。

 

 ——消耗の効率が上がっとる。

 

 空写を畳んで、ノートに書く。

 

 一週間の記録:

 

 最大到達:450m

 

 安定値:400〜420m

 

 維持時間:8分(先週比+3分)

 

 精度の変化:人数の把握が可能になってきた。「複数いる」「一人だけ」の区別ができるようになってきた。

 

 これだ、と直哉は思った。

 

 距離優先モードの精度が、少しずつ上がっている。距離と精度を完全に分離して訓練することで、それぞれが独立して伸びている。

 

 ーー分けたことで、両方が動き始めた。

 

 ーー矛盾を解消したら、矛盾していたと思っていたものが実は補い合っていた。

 

 直哉はペンを置いた。

 

 窓の外に星が見えた。今夜の緑谷は東。中速移動。生存確認。

 

 (今日も生きとる)

 

 (500メートルまで伸びたら、また報告するわ)

 

 扇子を開いた。仰ぐ。

 

 夜の空気が、少し冷たかった。

 

 (次や)

 

 

その夜。

 

 訓練を終えた直哉は、深い眠りに落ちていた。

 

 だが、その精神は休まることを知らず、無意識の海原を漂っていた。

 

 眠りの中でさえ、直哉の魂は「広げる」ことを求めていた。

 

 ——空写(くうしゃ)。

 

 現実(うつつ)では440メートルで止まった壁が、夢の境界では、際限なく溶け出していく。

 

 1キロ。10キロ。いや、距離という概念すらない。

 

 前世の記憶。禪院家の、呪術の、血の匂い。

 

 それらが直哉の無意識と混ざり合い、一つの「形」を成そうとしていた。

 

そこへどこまでも読み取る空写は…決してあり得ないものを読み取り、ここへと手繰り寄せた。

 

 ——わずかにその域へと触れたことより、夢の中で形成された未完成の領域。

 

 名を未完成の領域…心象世界…生得領域とも言う。

 

 未完成。呪力も、術式も、まだそこにはない。

 

 ただ、直哉の魂が描く、歪で、独善的な空間。

 

 果てしなく広がる灰色の平原に、無数の「眼」が、ただ静かに浮かんでいる。

_

 直哉はその心象風景の中で、己の全能感に酔い痴れていた。

 ここでは、俺が法だ。俺の視界が、この世界のすべてだ。

 

 ——だが。

 

 その灰色の平原に、異物が混入した。

 

 

 空写(眼)のすべてが、一斉に「そこ」を捉える。

 

 だが、何も映らない。呪力も、気配も、情報の断片すらも。

 

 ただ、そこに「空白」がある。

 

 

 直哉の無意識な精神が、不細工に動揺した。

 

 ありえへん。俺の領域(空写)に、俺が認識できひん存在なんて。

 

 その「空白」が、ゆっくりと形を成していく。

 

 黒い半袖シャツ。盛り上がった筋肉。腰に巻き付いた呪霊。

 

 そして、獲物を定めるハイエナのような、冷徹な双眸。

 

 「……ハッ、誰だテメェ?随分と不細工な領域(ツラ)だな」

 

 男が、低く掠れた声で笑った。

 

 その男の全身から放たれるのは、呪力ではない。純粋な肉体の暴力。

 

 直哉の魂の形(領域)を、その圧倒的な存在感だけで、ミシミシと軋ませる。

 

 ありえへん。

 

 なんで…

 なんで、俺の夢(ここ)に。

 

 直哉の精神が、恐怖に凍りついた。

 

 そこに立っていたのは、このヒロアカの世界にも、俺の設計図にも、そしてこの心象風景にさえ存在してはならない、最強のフィジカルギフテッド。

 

 「……甚爾、くん?」

 

 なんでや……!?

 なんで、甚爾くんここに……ッ!

_

 直哉の、悲鳴のような独白が、灰色の世界に響き渡った。

 




……ハッ、笑わせるなよ。

400メートル。

物理的な距離を克服し、全能感に酔い痴れたその瞬間に現れる、情報の「空白」。

俺の聖域(夢)を泥足で踏み荒らす、あの「最悪のバグ」が、なぜここにいる……?

というわけで、第44話でした。

ついに夢の中「領域」の片鱗、そして伏黒甚爾の登場です。

この戦慄のヒキに「続きが気になりすぎる!」「直哉、逃げて!」と思った方は、ぜひ**【評価(8〜10点)】や【しおり】**で応援をいただけると嬉しいです。
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