ドクター・ストレンジ:マルチバース・イーター   作:ルルルだ。

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1話 悪夢

冷たい汗がシーツを濡らしている。だが、意識はまだ肉体の枷(かせ)を離れ、極彩色の狂気の中を疾走していた。

 

そこは、物理法則が悲鳴を上げている場所だった。

重力は一定の方向を持たず、砕け散った古代の遺跡のような岩塊が、紫と青が入り混じる星雲の海を浮遊している。現実と非現実の狭間、「ギャップ・ジャンクション」。

 

「急げ! 振り返るな!」

 

叫び声が、希薄な空気を震わせた。

声の主はスティーヴン・ストレンジ。だが、彼(アース616のストレンジ)ではない。髪を後ろで束ね、黒と赤の少し古風なローブを纏った、別の宇宙の「ディフェンダー・ストレンジ」だ。

彼は必死の形相で、宙に浮く石段を駆け上がっていた。その背後には、一人の少女が続く。デニムのジャケットに、星条旗を模したペイント。恐怖に顔を歪めながらも、彼女――アメリカ・チャベスは懸命にストレンジの背中を追っていた。

 

「来る……あれが来るわ!」

 

少女の絶叫と共に、背後の空間がねじ切れるような音を立てた。

そこから現れたのは、灼熱の炎を纏った巨大なリボンのような怪物だった。ただの魔獣ではない。それはまるで、空間そのものを焼き尽くす「捕食者」の意志を持った災害だ。ルーン文字のような輝きを帯びた触手が、逃げる二人を執拗に追い詰める。

 

二人の目指す先には、浮遊する祭壇があった。そこには神々しい純白の輝きを放つ書物が鎮座している。

『ヴィシャンティの書』。

あらゆる魔術的脅威を退けるとされる、至高の白魔術の教典。あれさえ手に入れば、この理不尽な追跡者を消し去ることができる。

 

ストレンジは空中で印を結び、冷気の障壁を展開した。だが、怪物の圧倒的な熱量は、その程度の防御を一瞬で蒸発させる。

「くそッ、強すぎる……!」

ディフェンダー・ストレンジは舌打ちし、足場が崩れ落ちる中、跳躍した。少女も続く。二人は祭壇の目前まで迫るが、怪物の触手がストレンジの足を捕らえた。

 

「ああああッ!」

激痛が走り、彼は石畳に叩きつけられる。本まではあと数メートル。だが、怪物の拘束は万力のように彼を締め上げ、引きずり戻そうとする。

少女が駆け寄り、助けようと手を伸ばした。

「待って、今助ける!」

 

しかし、ストレンジの瞳に宿っていたのは、恐怖ではなく、冷徹な「計算」だった。

彼は悟っていた。このままでは二人とも死ぬ。そして、この少女が持つ「力」――マルチバースを行き来する能力を、あの怪物に、いや、あの怪物を操る「何者か」に奪われれば、全多元宇宙が終わる。

 

「……すまない」

ストレンジは苦悶の表情で、しかし断固たる口調で告げた。

「君の力は、奴らに渡すわけにはいかない」

 

「え?」

少女が凍りつく。ストレンジの手から放たれた魔法陣は、怪物を攻撃するものではなく、少女を取り囲む檻となって展開された。

「多元宇宙の均衡のためだ。君の命と引き換えにしてでも、私がその力を吸収するしかない」

 

信頼していた守護者からの裏切り。少女の瞳に絶望が浮かぶ。

魔術の刃が、少女の胸郭を切り裂き、その力を吸い上げようとした瞬間――

 

ズドォォン!!

 

怪物の鋭利な触手が、ストレンジの胴体を真横から貫いた。

「がッ……は……」

鮮血が虚空に舞う。計算は狂った。ストレンジの命の灯火が消えかける中、拘束が解けた少女はパニックに陥り、絶叫した。

 

その恐怖が引き金となり、彼女の背後の空間が星型に砕け散る。

眩い光のポータルが開いた。

息絶えたストレンジの死体と、逃げ惑う少女が、その光の中へと吸い込まれていく――。

 

 

「ハッ……!!」

 

スティーヴン・ストレンジは、溺れかけた者が水面に顔を出すように、鋭く息を吸い込んで跳ね起きた。

心臓が早鐘を打っている。

目の前にあるのは、見慣れたニューヨーク、ブリーカー街にあるサンクタム・サンクトラムの寝室だ。豪奢だがどこか埃っぽい天蓋付きのベッド。窓の外からは、マンハッタンの微かな喧騒が聞こえてくる。

 

「……夢、か」

 

額に滲んだ脂汗を手の甲で拭う。

ただの夢ではない。あまりにも鮮明すぎた。魔法の熱、肉が裂ける音、そしてあの少女の絶望的な眼差し。

ストレンジは、かつてエンシェント・ワンが語っていた言葉を反芻する。

『夢とは、マルチバースに存在する別の自分(ヴァリアント)の人生を垣間見ている現象なのだ』と。

 

彼はベッドの端に腰を下ろし、震える手でマント・オブ・レビテーション(浮遊マント)を撫でた。

「ひどい目覚めだ」

今日は、クリスティーン・パーマーの結婚式だというのに。

彼はネクタイを締め直しながらも、胸の奥に刺さった棘のような違和感を拭えずにいた。あの夢に出てきた「怪物」。あれは単なる異次元の魔獣ではない。もっと根源的で、禍々しい「何か」の先兵のような気配がした。

 

「……気のせいだと言ってくれ」

 

鏡に映る自分に向かって呟き、ストレンジはサンクタムの重い扉を開け、眩しい光の差すニューヨークの街へと足を踏み出した。

 

まだ彼は知らない。

夢で見た少女が、すでにこの宇宙(アース666)のすぐそばまで落ちてきていることを。

そして、彼が見た怪物の背後に潜む者が、子供への愛などという生易しい動機ではなく、呪術と悪魔の異界をも喰らい尽くそうとする、底なしの「渇望」を抱いた魔女であることを。

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