ドクター・ストレンジ:マルチバース・イーター 作:ルルルだ。
黄金の粒子が舞う、静謐な夜。
見上げれば、空を覆い尽くすほどの巨大な樹が、黄金色の光を放ちながら世界を照らしていた。
「……信じられない。美しいけれど、どこか悲しい光だ」
アメリカ・チャベスが息を呑んで呟いた。
彼女とストレンジが放り出されたのは、湿った草地の上だった。遠くには霧に煙る湖と、断崖の上にそびえる古城が見える。そして何より、あの圧倒的な存在感を放つ「黄金樹」が、この世界の理そのものであることを無言で主張していた。
スティーヴン・ストレンジは、痛む体を引きずりながら立ち上がり、周囲の魔力を探った。
「ここも地球じゃない。物理法則は似ているが……魔力の質が重厚だ。『ルーン』と呼ばれる概念が、大気そのものに刻まれている」
彼は、先ほどの東京での戦いで消耗した魔力を回復させようとしたが、この世界のマナは彼が知るものとは異なり、容易には従わなかった。
「祝福」と呼ばれる微かな光の導きだけが、彼らにとって唯一の安らぎのように感じられた。
「逃げ切れたのかな?」
アメリカが不安げに空を見上げる。
「一時的にはな。だが、彼女は執念深い。いずれこの世界の『匂い』も嗅ぎつけるだろう」
その時。
彼らの背後の空間が揺らぎ、青白い光の粒子が集束し始めた。
冷たく、しかし透き通った声が響く。
「……異邦人か。珍しい客人が迷い込んだものだ」
現れたのは、四本の腕を持つ青い肌の人形――その身に霊体を宿した「魔女」。
雪魔女の帽子を目深にかぶり、その奥にある瞳の片方には、深淵のような知性が宿っていた。
月の王女、ラニ。
「ここは『狭間の地』。黄金の律に縛られ、砕け散った世界。……お主ら、何者だ? ただの褪せ人ではあるまい」
ストレンジは警戒しつつも、敵意がないことを示すために両手を広げた。
「我々は旅人だ。ある強大な脅威から逃れている。……君はこの地の魔術師か?」
「魔術師、か。フフ……」
ラニは小さく笑った。
「私はラニ。かつて神人(かみびと)であった者。……お主らの身に纏わりつくその赤き残り香、ひどく不快だ。外なる神の干渉とも違う、もっと生々しい『執着』を感じる」
「それが俺たちを追っている怪物だ」ストレンジは言った。「名はスカーレット・ウィッチ。彼女は現実を書き換え、あらゆる力を奪おうとしている。この世界の『律』も狙われるかもしれない」
ラニの表情がすっと冷えた。
「律を……? 私の『星の世紀』を阻むというなら、捨て置けぬな」
ズズズズズ……。
ラニの言葉が終わらぬうちに、黄金樹の輝きが明滅した。
空の色が変わる。
美しい夜空に浮かぶ星々が、赤黒い霧に覆い隠され、黄金樹の幹に血管のような赤い亀裂が走り始めたのだ。
「来たか!」
ストレンジが叫ぶ。
空が裂け、そこから深紅のドレスを纏ったワンダ・マキシモフが、ゆっくりと降下してきた。
彼女の背後には、東京で取り込んだ呪霊たちの残滓と、この世界の「死に生きる者たち」――スケルトンや亡者たちが、彼女の魔力によって強制的に従えられ、軍勢となって浮かんでいた。
「あら、素敵な場所ね」
ワンダは黄金樹を見上げ、うっとりとした表情を浮かべた。
「生命と、魂と、律。全てが一つに循環している。……この樹、私の庭に植え替えたいわ」
「戯言を」
ラニが冷徹に言い放ち、四本の腕を優雅に掲げた。
『――冷たい夜を』
空間が凍てついた。
ラニの背後に、巨大な「暗月」の幻影が浮かび上がる。
絶対零度の魔力が奔流となってワンダを襲う。それは物理的な氷結ではなく、魂さえも凍らせる「死」の冷気だ。
「冷気魔術? ……懐かしいわね」
ワンダは微笑み、片手をかざした。
カオス・マジックの熱量が、ラニの冷気を正面から受け止める。
ジュウウウウウウッ!!
空間が悲鳴を上げ、水蒸気爆発が起きる。
「ほう。神人の魔術を防ぐか」
ラニは感心したように目を細めたが、攻撃の手は緩めない。
「ブライヴ!」
影の中から、巨狼の戦士ブライヴが飛び出した。
「ラニ様に仇なす賊め!」
大剣を振りかぶり、獣のような咆哮と共にワンダへ跳躍する。
「野蛮な犬ね」
ワンダが一瞥すると、ブライヴの体が空中で静止した。
「お座り」
ドォォォォン!!
見えない重力がブライヴを地面に叩きつけ、巨大なクレーターを作る。
「ブライヴ!」ラニの声に焦りが混じる。
「この世界の『律』は面白いわ」
ワンダは空中で指を指揮者のように振った。
「『エルデンリング』……砕け散ったルーンの破片。それらを集めれば、世界を好きな形に作り変えられるのね?」
彼女の手元に、遠くの城や地下深くに眠る「大ルーン」たちが共鳴し、引き寄せられ始めた。
ゴドリックのルーン、レナラのルーン、ラダーンのルーン……。
デミゴッドたちが持つ力の結晶が、ワンダの強大な引力に抗えず、光の筋となって空へ昇っていく。
「馬鹿な……大ルーンを強制的に徴収しているのか!?」
ストレンジが驚愕する。
「彼女はもう魔女の域を超えている! この世界そのものを『編集』しようとしているんだ!」
「させぬ!」
ラニが杖を掲げ、全力の魔術を放つ。
『滅びの流星』
無数の青い魔弾がワンダを襲うが、ワンダはそれらを赤い花びらに変え、散らせてしまった。
「概念防御……。ならば」
ラニは空中に浮き上がり、自らの運命である「星」の力を呼び覚ます。
だが、ワンダの方が速かった。
「あなたの運命も、私が書き換えてあげる」
ワンダが『ダークホールド』を開く。
禍々しい呪文が、狭間の地の空気を汚染していく。
黄金樹が赤く染まり、その枝から滴る雫が、生命の水ではなく、腐敗した血へと変わっていく。
「まずい、この世界が崩壊する!」
アメリカが叫ぶ。
「スティーヴン、どうすればいいの!?」
ストレンジは決断した。
このまま戦っても、この美しい世界がワンダの実験場になるだけだ。
彼に必要なのは『ヴィシャンティの書』。それがある場所への手掛かりは、この神秘に満ちた世界で微かに感じ取れた。
次元の「裂け目」――あらゆる宇宙の中心点に近い場所への座標。
「ラニ! すまないが、我々は行く!」
ストレンジは叫んだ。
「彼女の狙いは我々だ。我々が消えれば、彼女も追ってくる! この世界の崩壊は免れるはずだ!」
ラニはブライヴを助け起こしながら、ストレンジを睨んだ。
「……逃げるか、異邦人。だが、賢明な判断だ。この厄災、私が引き受けるには少々荷が重い」
彼女はフッと笑い、杖を一振りして、空間に青い道を作った。
「行け。星の彼方へ。……二度と戻ってくるな」
「恩に着る!」
ストレンジはアメリカを連れ、ラニが開いてくれた「星の道」を利用して、再びポータルを開いた。
今度の行き先は、魔力の羅針盤が指し示す場所。
マルチバースの監視者たちが集う、文明と魔法が高度に融合した世界――アース-969。
「逃がさないと言ったでしょう!」
ワンダが激昂し、大ルーンの力を放棄して二人を追おうとする。
その背後から、ラニが最大火力の冷気ブレスを放ち、足止めをした。
「私の夜を乱した報いだ。少し頭を冷やすがいい、赤き魔女よ」
ワンダの絶叫が遠ざかる中、ストレンジとアメリカは光の渦へと飲み込まれた。
光が収束する。
次に二人が足をついたのは、清潔で、幾何学的な美しさを持つガラス張りのバルコニーだった。
眼下に広がるのは、緑豊かな未来都市。
空飛ぶ車が行き交い、建物には植物が絡みつき、自然とテクノロジーが調和している。
そして、街の中心には、サンクタム・サンクトラムに似ているが、遥かに整備された巨大なドーム状の施設が鎮座していた。
「ここは……?」
アメリカがきょろきょろと見回す。
「さっきの場所とは全然違う。すごく……近代的で、きれい」
ストレンジは安堵の息をついたが、すぐに表情を引き締めた。
目の前に、浮遊する銀色のドローン――ウルトロン・セントリーが現れたからだ。
機械的な音声が響く。
『侵入者ヲ検知。識別……スティーヴン・ストレンジ。ドクター・ストレンジ』
「ウルトロンか。トニーのやつ、この世界では成功させたのか?」
ストレンジが呟く間もなく、セントリーたちが彼らを取り囲む。
『イルミナティノ本部ヘ同行ヲ命ズル』
「イルミナティ?」
ストレンジは眉をひそめた。その名前には聞き覚えがある。秘密裏に世界を動かす、ヒーローたちの極秘結社。
「抵抗はしない」
ストレンジは両手を挙げた。
「話を聞いてくれ。我々はマルチバースの脅威を伝えに来た。スカーレット・ウィッチが来る」
セントリーたちは無機質に彼らを拘束し、連行していく。
連れて行かれた先は、光あふれる円形の広間だった。
そこには、数個の玉座が並んでいた。
その一つに座る男――屈強な肉体に、黒いコスチューム、そして額に音叉のような意匠を持つ男が、重々しく口を開いた。
「我々の宇宙へようこそ、アース-666のドクター・ストレンジ」
ブラックボルト王。
その隣には、キャプテン・カーター、キャプテン・マーベル、そして……車椅子に乗ったスキンヘッドの老人。
チャールズ・エグゼビア教授が、穏やかな、しかし全てを見通すような瞳でストレンジを見つめた。
「君の心には、深い恐怖と混乱が見えるね。……そして、君が連れてきた『嵐』の気配も」
「教授、時間がない」
ストレンジは必死に訴えた。
「ワンダ・マキシモフが来る。彼女は今までのどのヴィランとも違う。呪術、悪魔、異界の神々の力を取り込んだ、破壊の化身だ。あんたたちの準備じゃ止められない!」
「我々を侮るな、魔術師」
モルド(この世界の至高の魔術師)が冷ややかに言った。
「我々はサノスさえも退けた。スカーレット・ウィッチ一人、我々の総力を持ってすれば制御可能だ」
「制御? 無理だ!」
ストレンジが叫ぶ。「彼女は『概念』を食っているんだぞ!」
その時。
施設の警報が鳴り響いた。
モニターに映し出されたのは、エントランスホールに現れた赤い霧。
そして、無惨にスクラップにされていくウルトロン・セントリーたちの姿だった。
ワンダ・マキシモフが到着した。
服はボロボロで、煤と血にまみれているが、その瞳の輝きは以前よりも増している。
狭間の地で吸収し損ねた大ルーンの代わりに、彼女は次元移動の摩擦熱さえも力に変え、怒りを増幅させていた。
「邪魔な鉄くずね」
モニターの中のワンダが、指先一つでセントリーの首をもぎ取る。
そして、カメラ越しにイルミナティのメンバーを見据えた。
『スティーヴン・ストレンジを渡しなさい』
彼女の声は、施設のスピーカーだけでなく、エグゼビア教授のテレパシー回路にも直接響いてきた。
『さもなくば……この世界を、私の新しい遊び場にする』
イルミナティのメンバーたちが立ち上がる。
「交渉の余地はないようだな」とブラックボルトが立ち上がる。
「彼女を止める」とキャプテン・カーターが盾を構える。
ストレンジは絶望的な顔で彼らを見た。
「やめろ……行くな! 君たちじゃ勝てない! 彼女は今、全マルチバースで最も危険な存在なんだ!」
だが、自信に満ちた異界のヒーローたちは、その警告を聞き入れず、出撃していく。
それが、彼らにとっての「終わりの始まり」であることを知らずに。