ドクター・ストレンジ:マルチバース・イーター 作:ルルルだ。
光あふれるイルミナティ本部の広間。
その静寂は、非常警報のサイレンではなく、もっと生々しい「音」によって破られた。
「グチャリ」という、濡れた雑巾を絞るような不快な音。
そして、鉄の扉が飴細工のように内側へへこみ、蝶番が悲鳴を上げて弾け飛んだ。
そこには、深紅の霧と黒い呪力の残滓を纏った女が立っていた。
スカーレット・ウィッチ。
ワンダ・マキシモフだ。
彼女の足元からは、ドロリとした影が広がり、美しい大理石の床を侵食していく。その影の中には、狭間の地で従えた亡者たちや、東京で取り込んだ低級呪霊たちが蠢いていた。
「……お待ちしておりました」
イルミナティのリーダー格、リード・リチャーズ(ミスター・ファンタスティック)が、冷静さを装いながら一歩前へ出た。
「ワンダ、君の苦しみは理解できる。だが、これ以上の暴力は――」
「理解?」
ワンダは首を傾げた。その瞳は完全に赤く染まり、人間的な理性が欠落しているように見えた。
「あなたたちに何が分かるの? 息子を失う痛みも、指を喰らう味も、星を砕く高揚感も!」
「ブラックボルト!」
リードが叫ぶ。「彼女を無力化しろ! 口を開かせろ!」
ブラックボルト王が、ワンダに向かって口を開こうとした。
彼の一声は、山をも砕くソニックブームを生み出す。どれほど強力な魔女でも、声を発する前に吹き飛ばせば終わりだ。
だが。
「……『沈黙』」
ワンダが小さく呟き、指を鳴らした。
瞬間、現実が書き換えられた。
ブラックボルトが口を開こうとしたその時、彼の口があるべき場所には、皮膚しかなかった。
唇が、歯が、舌が、存在しない。
つるりとした皮膚が、鼻の下から顎までを覆っていた。
「ムグッ!? ウンウッ!!」
ブラックボルトがパニックに陥り、喉の奥で悲鳴を上げようとする。だが、出口のない衝撃波は彼の頭蓋骨内部で反響し――。
バシュッ。
鈍い音と共に、ブラックボルトの頭部が内側から陥没し、崩れ落ちた。
「ブラックボルト!!」
キャプテン・マーベルが叫び、全身を発光させて突っ込む。
「貴様ァァァ!!」
「騒がしいわね」
ワンダは動じることなく、左手をかざした。
東京で五条悟と戦った経験が、彼女に「空間操作」の応用を教えた。
そして、狭間の地で見たラダーン将軍の重力魔法。
「地に伏せなさい」
ズドォォォォォン!!!
マリアの身体に、惑星一個分に匹敵するような超重力がのしかかった。
彼女の強靭な肉体とエネルギーシールドが、メリメリと音を立てて圧縮される。
「ぐ……あぁ……!」
床が抜け、彼女は地下深くまで叩きつけられ、その上の瓦礫が巨大な墓標のように積み重なった。
「リード! 下がれ!」
キャプテン・カーターがヴィブラニウムの盾を投げつける。
高速で回転する盾は、戦車すら切断する威力を持つ。
しかし、ワンダはその盾を「止める」ことすらしなかった。
「『解』」
彼女が指先を振るう。
宿儺の斬撃。
空中で盾が真っ二つに裂け、その延長線上にいたリード・リチャーズの身体が、縦に数本の線を描いた。
「え……?」
リードが自分の身体を見下ろす。
次の瞬間、彼の身体は千切れたゴムのようにバラバラになり、床に崩れ落ちた。
血の雨が降る。
「化け物……!」
キャプテン・カーターがジェットパックで突進するが、ワンダは退屈そうにあくびをした。
「盾がないキャプテンなんて、ただの兵士よ」
ワンダの背後から、禍々しい「黒い茨」のようなエネルギーが噴出した。
それは狭間の地の「死のルーン」と、カオス・マジックが融合したもの。
茨がカーターの腹部を貫き、壁に縫い付けた。
「ガハッ……」
「終わりよ」
ワンダが手を握りしめると、茨が爆発し、カーターの身体は光の粒子となって消滅した。
残されたのは、車椅子の老人、チャールズ・エグゼビアだけだった。
彼は静かに目を閉じていた。
物理的な戦闘力はない。だが、彼には世界最強のテレパシーがある。
「ワンダ・マキシモフ」
プロフェッサーXの声が、彼女の脳内に直接響く。
「君の中には、まだ良心が残っているはずだ。私はそこへ行く」
彼は精神世界へダイブした。
ワンダの心の中にある、瓦礫に埋もれた「本来の彼女」を救い出すために。
精神世界。
そこは、燃え盛る荒野だった。
エグゼビアは、瓦礫の下で泣いている赤い服の女性を見つけた。
「ワンダ! 私だ! 手を取るんだ!」
彼が手を伸ばそうとしたその時。
背後の赤い霧の中から、四本の腕と二つの顔を持つ、異形の影が立ち上がった。
『……誰の許可を得て、俺の庭に入っている?』
両面宿儺の意識。
そして、その周囲を飛び回る、おぞましいチェンソーの悪魔の幻影。
さらに、ダークホールドの悪意そのものが、巨大なスカーレット・ウィッチの姿をとってエグゼビアを見下ろした。
「な……なんだ、これは……!」
エグゼビアが戦慄する。
彼女の精神は、もはや一人の人間のものではない。
数多の世界の「呪い」と「悪意」が煮詰められた、地獄の壺だ。
『消えろ』
精神世界のスカーレット・ウィッチが、エグゼビアの首を掴み、へし折った。
現実世界。
車椅子の上のエグゼビアの首が、カクリと力なく垂れ下がった。
彼の目は虚空を見つめたまま、二度と動くことはなかった。
全滅。
あのアベンジャーズすら凌ぐと言われたイルミナティが、わずか数分で壊滅した。
「……弱すぎる」
ワンダは血に濡れた素足で、死体の間を歩いた。
彼女の視線は、部屋の奥にある重厚な扉に向けられていた。
そこに、スティーヴン・ストレンジとアメリカ・チャベスの気配がある。
「ストレンジ! 逃げるぞ!」
モルドは、あまりの惨状に戦意を喪失し、裏口へと走り去っていた。
ストレンジとアメリカは、混乱に乗じて、イルミナティが隠していた「ウェイポイント」の扉を開けた。
そこは、宇宙と宇宙の狭間(ギャップ・ジャンクション)へと続く通路。
『ヴィシャンティの書』への道だ。
「急げ、アメリカ! 彼女が来る!」
二人が通路へ飛び込むと同時に、背後の壁が爆発した。
粉塵の中から、鬼神の如き形相のワンダが現れる。
その姿は、映画で見た母親の面影など微塵もない。
全身に呪いの紋様が浮かび上がり、背中からは呪霊の翼と、カオス・マジックのオーラが混ざり合った、禍々しい光輪が出現していた。
「逃がさないと言ったはずよ、スティーヴン」
彼女は床を蹴った。
その速度は、音速を超えていた。
通路の床がめくれ上がり、彼女の通過した空間がガラスのようにひび割れていく。
「走れ! 振り返るな!」
ストレンジが叫び、通路の足場を魔法で崩して妨害しようとする。
だが、ワンダは崩れる足場など意に介さず、空中に「足場」という概念を創造して駆け抜けてくる。
「しつこすぎる!」
アメリカが悲鳴を上げる。
前方には、神々しい光を放つ祭壇が見えた。
夢で見た場所。
そして、そこにある『ヴィシャンティの書』。
「あれだ! あれがあれば!」
ストレンジが手を伸ばす。
しかし、ワンダとの距離は縮まっていく。
「させるかッ!!」
ワンダの手から、宿儺の炎『開』が放たれた。
一直線に迫る灼熱の矢。
ストレンジは走りながら振り向き、全力で防壁を展開する。
「ヴィシャンティの加護よ!」
ドォォォォォォォン!!!
炎が防壁に激突し、爆風がストレンジとアメリカを祭壇の方へ吹き飛ばした。
二人は転がりながら、ついに祭壇の前にたどり着く。
「本を! 取れ、アメリカ!」
アメリカが光り輝く書物に手を伸ばす。
しかし、その指が表紙に触れる寸前。
ヒュン。
赤いカオス・マジックの鞭が、本を絡め取った。
「え?」
「残念」
背後から、冷酷な声。
ワンダが空中に浮き、本を引き寄せていた。
「ヴィシャンティの書……どんな魔術も無効化する、至高の白魔術」
彼女は本を目の前で浮かせ、小馬鹿にするように笑った。
「でも、私が使っているのは魔術だけじゃない」
彼女の左手が黒く変色し、呪力が練り上げられる。
「『呪い』の前では、聖なる書物などただの紙切れよ」
ボッ。
ワンダの手の中で、全マルチバースの希望であった『ヴィシャンティの書』が、黒い炎に包まれて燃え上がった。
「嘘だろ……」
ストレンジが絶望に膝をつく。
「終わりよ、スティーヴン」
ワンダは燃えカスを捨て、ゆっくりと二人に近づいた。
「アメリカ・チャベス。あなたの力を頂くわ」
絶体絶命。
イルミナティは全滅し、ヴィシャンティの書は燃えた。
最強の魔術師ストレンジにも、もう打つ手がないように思えた。
その時。
アメリカのポケットの中で、何かが小さく振動した。
それは、東京で別れ際に五条悟が「お土産」と言ってこっそり入れた、奇妙な包みだった。
『困った時は、それを開けな。……まあ、劇薬だけどね』
アメリカは震える手で、その包みを握りしめた。
「……まだ、終わりじゃない」
彼女の瞳に、星型の光が宿る。
そして、彼女は包みをワンダに向かって投げつけた。
「これを食らえッ!!」
包みが空中で解ける。
中から飛び出したのは、赤黒い干からびた物体。
高専でワンダが取り込み損ねた、「宿儺の指」の一本だった。
「指!?」
ワンダが反応して手を伸ばす。
その一瞬の隙が、運命を変える。
「ストレンジ! 今!」
アメリカが叫び、自らの能力を暴走覚悟で解放した。
星型のポータルが、ワンダの至近距離で炸裂する。
「どこへ飛ばす気だ!?」
「あいつが一番嫌がる場所! ……あいつの『原点』へ!」
ポータルの向こうに見えたのは、廃墟と化したウェストビューの街並み。
そして、そこに佇む「もう一人のワンダ(アース-969)」の家だった。
「ダメ……そこはダメよ!」
ワンダが初めて狼狽した。
子供たちとの思い出、そして自らが壊した幸せの残骸。
ストレンジは残りの魔力を全て叩き込み、ワンダをポータルへと押し込んだ。
「自分自身と向き合え、ワンダ!」
光が弾け、三人は再び次元の彼方へと消えていった。
最終決戦の舞台は、全ての始まりの場所。
そして、そこには意外な「助っ人」が待ち受けていた……。