ドクター・ストレンジ:マルチバース・イーター   作:ルルルだ。

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12話 改心

リビングルームのテレビでは、『白雪姫』のアニメが流れていた。

平和な、あまりにも平和な日常の風景。

香ばしい夕食の匂いと、子供たちの無邪気な笑い声。

 

そこへ、血と暴力と呪いの臭いを纏った三人の異邦人が、突然空間を割って転がり込んできた。

 

「うわっ!?」

ソファでくつろいでいたビリーとトミーが飛び上がる。

スティーヴン・ストレンジとアメリカ・チャベスは、絨毯の上で激しく咳き込んだ。次元移動の負荷と、直前の爆風のダメージで満身創痍だ。

 

「ここは……家?」

アメリカが顔を上げる。

そこは、彼女が知る限り最も「普通」で、だからこそ今の状況では最も異質な場所だった。

アース-656のワンダ・マキシモフの家。

 

「ママ!」

子供たちが叫ぶ。

キッチンから、エプロン姿のワンダ(929)が驚いた顔で駆けつけてきた。

「あなたたち……! 一体どうやってここへ?」

 

ストレンジが口を開こうとしたその時、家全体が震えた。

窓ガラスがビリビリと共鳴し、外の夕暮れが、一瞬にして不吉な赤黒い色へと塗り替えられた。

 

「見つけた」

 

玄関のドアが開くのではない。

ドアそのものが腐敗し、灰となって崩れ落ちた。

そこには、地獄の底から這い上がってきたような姿の「魔女」が立っていた。

 

スカーレット・ウィッチ(666)。

イルミナティを惨殺し、数多の呪霊を取り込み、その身に返り血とオイルと煤を浴びた姿。

左手には、アメリカが投げつけた「宿儺の指」が、皮膚に癒着するように食い込んでいた。その指が脈打ち、彼女の腕に黒い呪いの紋様を広げている。

 

「ママ……?」

ビリーがおそるおそる声をかける。

 

魔女の顔が、歪んだ笑みで崩れた。

「そうよ。ママよ」

 

彼女は一歩踏み出した。その足元から、黒い影の触手が広がり、美しいフローリングを汚していく。

背後には、彼女が従えてきた異界の亡霊たちが、無言で揺らめいている。

 

「ビリー、トミー。……やっと会えた」

彼女は両手を広げた。

その手は、かつて子供たちの頭を撫でた優しい手ではない。呪いの王の指と融合し、鉤爪のように変貌した、異形の腕だ。

 

「ひっ……!」

トミーが悲鳴を上げ、ビリーの後ろに隠れる。

「違う! ママじゃない! 化け物だ!」

「こっちに来ないで!」

 

子供たちが手に持っていたおもちゃやお菓子を、必死に投げつける。

プラスチックのボールが、ワンダの胸に当たって落ちた。

物理的な痛みはない。だが、その光景は、どんな強力な魔法よりも深く彼女の心を抉った。

 

「……え?」

ワンダの動きが止まる。

「何を言っているの? 私よ。あなたたちの母親よ」

彼女は必死に取り繕おうとするが、焦れば焦るほど、背後の呪霊たちが騒ぎ出し、彼女の影を大きく、醜悪に見せた。

 

「違うわ」

凛とした声が響いた。

キッチンから出てきた、この世界のワンダ(969)だ。彼女は子供たちの前に立ちふさがり、両手を広げて彼らを守った。

「あなたは母親じゃない。ただの悪夢よ」

 

「黙りなさい!」

666のワンダが激昂し、右手を振るう。

カオス・マジックの衝撃波が放たれるが、なぜかそれは空中で霧散した。

 

『……ククク』

 

彼女の左腕――「宿儺の指」が埋め込まれた腕が、勝手に動き出し、自らの攻撃を握り潰したのだ。

「なっ……!?」

 

『哀れだな、女』

ワンダの左手の甲に、裂けた「口」が現れ、嘲笑うような言葉を紡ぐ。

『ガキ共の目を見てみろ。貴様に見えているのは愛か? 恐怖だ』

 

「黙れ、呪い!」

ワンダは自分の腕を抑え込むが、宿儺の意識は止まらない。

『貴様は強さを求めて俺の指を、異界の力を取り込んだ。だが、その結果がこれだ。……貴様はもう人間ですらない。ただの呪いの器だ』

 

「違う……私は……!」

ワンダはよろめき、リビングの大きな姿見の前に倒れ込んだ。

 

鏡に映った自分。

そこには、優しい母親の姿はなかった。

血と泥にまみれ、背中に無数の呪霊を背負い、目からは赤い光を漏らし、左腕が異形の怪物と化した……「魔王」の姿があった。

 

「あ……あぁ……」

ワンダは震える手で、自分の顔に触れた。

指先の冷たさ。肌の腐敗した感触。

 

「これが……私?」

 

彼女は振り返り、子供たちを見た。

彼らは恐怖に震え、969のワンダにしがみついている。彼らが向けている視線は、ガルガントスやウルトロンに向けられるものと同じ、「敵」を見る目だった。

 

「私は……ただ、あの子たちと……」

 

「愛しているなら」

969のワンダが、ゆっくりと歩み寄ってきた。

彼女は恐怖を感じていないわけではない。だが、それ以上に深い悲しみを湛えていた。

彼女は、異形の怪物と化した616のワンダの目の前に立ち、その荒れた頬に、そっと手を添えた。

 

「愛しているなら……解放してあげて」

 

その温かさ。

呪いでも、魔法でも、支配でもない。ただの、人間の体温。

それが、狂気と呪術で塗り固められた666のワンダの心の殻を、パキンと割った。

 

『……チッ、白ける』

左手の宿儺の口が、つまらなそうに閉じた。

呪いの王ですら、この場の「情」の重さには興味を失ったようだ。

 

666のワンダの目から、赤い光が消え、涙が溢れ出した。

「私……酷いことを……」

 

彼女は崩れ落ち、嗚咽した。

イルミナティを殺し、カマル・タージを焼き、異世界を混乱に陥れた罪の重さが、正気を取り戻すと同時にのしかかる。

 

スティーヴン・ストレンジが、静かに歩み寄った。

「ワンダ。まだ間に合う」

彼は優しく、しかし厳しく告げた。

「君が開けた『穴』は大きすぎる。だが、君なら閉じられるはずだ」

 

ワンダは涙を拭い、顔を上げた。

その瞳には、もう狂気はない。あるのは、贖罪の決意だけだった。

 

「……ええ」

彼女は立ち上がり、969のワンダと子供たちに、最後の一瞥をくれた。

「ごめんなさい。……幸せにね」

 

そして、彼女はストレンジとアメリカに向き直った。

「帰りましょう。私の宇宙(せかい)へ」

 

ワンダが両手を掲げると、彼女の体内から、これまで取り込んだ全ての力が逆流し始めた。

カオス・マジック、宿儺の呪力、ダークホールドの闇。

それらが渦を巻き、空間に巨大なポータルを開く。

 

「アメリカ、スティーヴン。あなたたちはここを通って」

「君はどうするんだ?」

「私は……壊さなきゃいけないものがある」

 

彼女の視線は、遥か彼方の次元――アース-666のウンダゴア山に向けられていた。

「ダークホールドの原本。そして、全宇宙に散らばった呪いのコピー。……全てを道連れにする」

 

ストレンジは何かを言いかけたが、彼女の表情を見て言葉を飲み込んだ。

それは、魔術師の顔ではなく、アベンジャーズ(ヒーロー)の顔だったからだ。

 

「……分かった。さらばだ、スカーレット・ウィッチ」

「さよなら、ドクター」

 

ストレンジとアメリカが光の中に消えると、ワンダは一人、次元の狭間へと身を投じた。

 

 

 

アース-666。ウンダゴア山。

悪魔の遺跡とされるその山頂で、紅の魔女が叫びを上げた。

 

「消えなさいッ!!」

 

彼女は自らの全魔力を暴走させ、山そのものを内側から崩壊させていく。

同時に、彼女と繋がっていた「ダークホールド」の呪縛を、そのネットワークごと焼き払う。

 

別の宇宙では――

東京の呪術高専で、空の亀裂が修復され、落ちてきた呪霊たちが塵となって消えていくのを、五条悟が見上げていた。

「……やれやれ。最後は自分で尻拭いか。偉いじゃん」

 

別の宇宙では――

狭間の地の黄金樹が、再び純粋な黄金の輝きを取り戻し、ラニが静かに夜空を見つめていた。

「……星の旅路に、幸あれ」

 

ウンダゴア山が崩れ落ちる。

巨大な瓦礫と共に、ワンダ・マキシモフの姿もまた、深紅の閃光の中に埋もれていった。

彼女が最期に思ったのは、愛する子供たちの笑顔か、それともビジョンとの思い出か。

 

ただ一つ確かなことは、彼女が最期に選んだのは「怪物」ではなく、「人間」としての死だったということだ。

 

 

数日後。カマル・タージ。

修復作業が進む寺院で、スティーヴン・ストレンジは空を見上げていた。

彼の「第三の目」が微かに疼く。ダークホールドの影響は、彼の中にも僅かに残っている。

 

「終わったな」

ウォンが隣に来て、リンゴを差し出した。

「ああ。……だが、代償は大きかった」

 

アメリカ・チャベスが、魔術師の修行着を着て駆け寄ってきた。

「先生! 魔法陣の描き方、ちょっと分かってきたかも!」

彼女の笑顔が、重苦しい空気を吹き飛ばす。

 

「そうか。だが、君の故郷(ユニバース)のルールとは違うかもしれんぞ」

ストレンジは苦笑し、彼女の頭をポンと叩いた。

 

「マルチバースは広い」

ストレンジは呟く。

「呪いも、悪魔も、神もいる。……我々はまだ、そのほんの一部を覗いたに過ぎない」

 

彼はマントを翻し、サンクタムへと歩き出した。

どんな脅威が来ようとも、彼らは守り続ける。

この、脆くて美しい世界を。

 

 

 

 

 

ニューヨークの路地裏。

誰もいないはずの暗闇で、地面に落ちていた「何か」が動いた。

それは、ワンダと共に消滅したはずの、焼け焦げた「宿儺の指」。

 

その指を、一匹の犬――いや、額にチェンソーの刃のような突起を持つ、オレンジ色の小さな悪魔が咥え上げた。

『ワン!』

ポチタに似たその生き物は、指を飲み込むと、どこかへ向かってトコトコと走り去っていった。




vsワンダ終了です。
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