ドクター・ストレンジ:マルチバース・イーター 作:ルルルだ。
リビングルームのテレビでは、『白雪姫』のアニメが流れていた。
平和な、あまりにも平和な日常の風景。
香ばしい夕食の匂いと、子供たちの無邪気な笑い声。
そこへ、血と暴力と呪いの臭いを纏った三人の異邦人が、突然空間を割って転がり込んできた。
「うわっ!?」
ソファでくつろいでいたビリーとトミーが飛び上がる。
スティーヴン・ストレンジとアメリカ・チャベスは、絨毯の上で激しく咳き込んだ。次元移動の負荷と、直前の爆風のダメージで満身創痍だ。
「ここは……家?」
アメリカが顔を上げる。
そこは、彼女が知る限り最も「普通」で、だからこそ今の状況では最も異質な場所だった。
アース-656のワンダ・マキシモフの家。
「ママ!」
子供たちが叫ぶ。
キッチンから、エプロン姿のワンダ(929)が驚いた顔で駆けつけてきた。
「あなたたち……! 一体どうやってここへ?」
ストレンジが口を開こうとしたその時、家全体が震えた。
窓ガラスがビリビリと共鳴し、外の夕暮れが、一瞬にして不吉な赤黒い色へと塗り替えられた。
「見つけた」
玄関のドアが開くのではない。
ドアそのものが腐敗し、灰となって崩れ落ちた。
そこには、地獄の底から這い上がってきたような姿の「魔女」が立っていた。
スカーレット・ウィッチ(666)。
イルミナティを惨殺し、数多の呪霊を取り込み、その身に返り血とオイルと煤を浴びた姿。
左手には、アメリカが投げつけた「宿儺の指」が、皮膚に癒着するように食い込んでいた。その指が脈打ち、彼女の腕に黒い呪いの紋様を広げている。
「ママ……?」
ビリーがおそるおそる声をかける。
魔女の顔が、歪んだ笑みで崩れた。
「そうよ。ママよ」
彼女は一歩踏み出した。その足元から、黒い影の触手が広がり、美しいフローリングを汚していく。
背後には、彼女が従えてきた異界の亡霊たちが、無言で揺らめいている。
「ビリー、トミー。……やっと会えた」
彼女は両手を広げた。
その手は、かつて子供たちの頭を撫でた優しい手ではない。呪いの王の指と融合し、鉤爪のように変貌した、異形の腕だ。
「ひっ……!」
トミーが悲鳴を上げ、ビリーの後ろに隠れる。
「違う! ママじゃない! 化け物だ!」
「こっちに来ないで!」
子供たちが手に持っていたおもちゃやお菓子を、必死に投げつける。
プラスチックのボールが、ワンダの胸に当たって落ちた。
物理的な痛みはない。だが、その光景は、どんな強力な魔法よりも深く彼女の心を抉った。
「……え?」
ワンダの動きが止まる。
「何を言っているの? 私よ。あなたたちの母親よ」
彼女は必死に取り繕おうとするが、焦れば焦るほど、背後の呪霊たちが騒ぎ出し、彼女の影を大きく、醜悪に見せた。
「違うわ」
凛とした声が響いた。
キッチンから出てきた、この世界のワンダ(969)だ。彼女は子供たちの前に立ちふさがり、両手を広げて彼らを守った。
「あなたは母親じゃない。ただの悪夢よ」
「黙りなさい!」
666のワンダが激昂し、右手を振るう。
カオス・マジックの衝撃波が放たれるが、なぜかそれは空中で霧散した。
『……ククク』
彼女の左腕――「宿儺の指」が埋め込まれた腕が、勝手に動き出し、自らの攻撃を握り潰したのだ。
「なっ……!?」
『哀れだな、女』
ワンダの左手の甲に、裂けた「口」が現れ、嘲笑うような言葉を紡ぐ。
『ガキ共の目を見てみろ。貴様に見えているのは愛か? 恐怖だ』
「黙れ、呪い!」
ワンダは自分の腕を抑え込むが、宿儺の意識は止まらない。
『貴様は強さを求めて俺の指を、異界の力を取り込んだ。だが、その結果がこれだ。……貴様はもう人間ですらない。ただの呪いの器だ』
「違う……私は……!」
ワンダはよろめき、リビングの大きな姿見の前に倒れ込んだ。
鏡に映った自分。
そこには、優しい母親の姿はなかった。
血と泥にまみれ、背中に無数の呪霊を背負い、目からは赤い光を漏らし、左腕が異形の怪物と化した……「魔王」の姿があった。
「あ……あぁ……」
ワンダは震える手で、自分の顔に触れた。
指先の冷たさ。肌の腐敗した感触。
「これが……私?」
彼女は振り返り、子供たちを見た。
彼らは恐怖に震え、969のワンダにしがみついている。彼らが向けている視線は、ガルガントスやウルトロンに向けられるものと同じ、「敵」を見る目だった。
「私は……ただ、あの子たちと……」
「愛しているなら」
969のワンダが、ゆっくりと歩み寄ってきた。
彼女は恐怖を感じていないわけではない。だが、それ以上に深い悲しみを湛えていた。
彼女は、異形の怪物と化した616のワンダの目の前に立ち、その荒れた頬に、そっと手を添えた。
「愛しているなら……解放してあげて」
その温かさ。
呪いでも、魔法でも、支配でもない。ただの、人間の体温。
それが、狂気と呪術で塗り固められた666のワンダの心の殻を、パキンと割った。
『……チッ、白ける』
左手の宿儺の口が、つまらなそうに閉じた。
呪いの王ですら、この場の「情」の重さには興味を失ったようだ。
666のワンダの目から、赤い光が消え、涙が溢れ出した。
「私……酷いことを……」
彼女は崩れ落ち、嗚咽した。
イルミナティを殺し、カマル・タージを焼き、異世界を混乱に陥れた罪の重さが、正気を取り戻すと同時にのしかかる。
スティーヴン・ストレンジが、静かに歩み寄った。
「ワンダ。まだ間に合う」
彼は優しく、しかし厳しく告げた。
「君が開けた『穴』は大きすぎる。だが、君なら閉じられるはずだ」
ワンダは涙を拭い、顔を上げた。
その瞳には、もう狂気はない。あるのは、贖罪の決意だけだった。
「……ええ」
彼女は立ち上がり、969のワンダと子供たちに、最後の一瞥をくれた。
「ごめんなさい。……幸せにね」
そして、彼女はストレンジとアメリカに向き直った。
「帰りましょう。私の宇宙(せかい)へ」
ワンダが両手を掲げると、彼女の体内から、これまで取り込んだ全ての力が逆流し始めた。
カオス・マジック、宿儺の呪力、ダークホールドの闇。
それらが渦を巻き、空間に巨大なポータルを開く。
「アメリカ、スティーヴン。あなたたちはここを通って」
「君はどうするんだ?」
「私は……壊さなきゃいけないものがある」
彼女の視線は、遥か彼方の次元――アース-666のウンダゴア山に向けられていた。
「ダークホールドの原本。そして、全宇宙に散らばった呪いのコピー。……全てを道連れにする」
ストレンジは何かを言いかけたが、彼女の表情を見て言葉を飲み込んだ。
それは、魔術師の顔ではなく、アベンジャーズ(ヒーロー)の顔だったからだ。
「……分かった。さらばだ、スカーレット・ウィッチ」
「さよなら、ドクター」
ストレンジとアメリカが光の中に消えると、ワンダは一人、次元の狭間へと身を投じた。
アース-666。ウンダゴア山。
悪魔の遺跡とされるその山頂で、紅の魔女が叫びを上げた。
「消えなさいッ!!」
彼女は自らの全魔力を暴走させ、山そのものを内側から崩壊させていく。
同時に、彼女と繋がっていた「ダークホールド」の呪縛を、そのネットワークごと焼き払う。
別の宇宙では――
東京の呪術高専で、空の亀裂が修復され、落ちてきた呪霊たちが塵となって消えていくのを、五条悟が見上げていた。
「……やれやれ。最後は自分で尻拭いか。偉いじゃん」
別の宇宙では――
狭間の地の黄金樹が、再び純粋な黄金の輝きを取り戻し、ラニが静かに夜空を見つめていた。
「……星の旅路に、幸あれ」
ウンダゴア山が崩れ落ちる。
巨大な瓦礫と共に、ワンダ・マキシモフの姿もまた、深紅の閃光の中に埋もれていった。
彼女が最期に思ったのは、愛する子供たちの笑顔か、それともビジョンとの思い出か。
ただ一つ確かなことは、彼女が最期に選んだのは「怪物」ではなく、「人間」としての死だったということだ。
◆
数日後。カマル・タージ。
修復作業が進む寺院で、スティーヴン・ストレンジは空を見上げていた。
彼の「第三の目」が微かに疼く。ダークホールドの影響は、彼の中にも僅かに残っている。
「終わったな」
ウォンが隣に来て、リンゴを差し出した。
「ああ。……だが、代償は大きかった」
アメリカ・チャベスが、魔術師の修行着を着て駆け寄ってきた。
「先生! 魔法陣の描き方、ちょっと分かってきたかも!」
彼女の笑顔が、重苦しい空気を吹き飛ばす。
「そうか。だが、君の故郷(ユニバース)のルールとは違うかもしれんぞ」
ストレンジは苦笑し、彼女の頭をポンと叩いた。
「マルチバースは広い」
ストレンジは呟く。
「呪いも、悪魔も、神もいる。……我々はまだ、そのほんの一部を覗いたに過ぎない」
彼はマントを翻し、サンクタムへと歩き出した。
どんな脅威が来ようとも、彼らは守り続ける。
この、脆くて美しい世界を。
ニューヨークの路地裏。
誰もいないはずの暗闇で、地面に落ちていた「何か」が動いた。
それは、ワンダと共に消滅したはずの、焼け焦げた「宿儺の指」。
その指を、一匹の犬――いや、額にチェンソーの刃のような突起を持つ、オレンジ色の小さな悪魔が咥え上げた。
『ワン!』
ポチタに似たその生き物は、指を飲み込むと、どこかへ向かってトコトコと走り去っていった。
vsワンダ終了です。