ドクター・ストレンジ:マルチバース・イーター 作:ルルルだ。
それは終わりではなく、より深い混沌(カオス)への入り口に過ぎなかった。
ワンダ・マキシモフがウンダゴア山で自らを犠牲にし、ダークホールドを葬り去ってから数週間。
スティーヴン・ストレンジは、日常を取り戻したように見えた。だが、彼の肉体と魂には、決して消えることのない「爪痕」が刻まれていた。
ニューヨーク、ブリーカー街。
午後の日差しがサンクタムの丸窓から差し込んでいるが、ストレンジにとっては、その光さえもが不快なノイズのように感じられた。
「……ッ、ぐぅ……!」
ストレンジは洗面台の鏡を鷲掴みにし、激しい頭痛に呻いた。
視界が歪む。鏡に映る自分の顔が、一瞬だけ別の誰か――腐敗したゾンビのような自分や、三つ目の悪魔のような自分に重なって見える。
額が熱い。焼けるようだ。
彼がおそるおそる額に手を当てると、皮膚が裂け、そこから「第三の目」がギョロリと開いた。
だが、その瞳が見ているのはこの世界の風景ではない。
『ギャアアアア……』
『殺してやる……人間……』
幻聴ではない。
それは、別次元から漏れ聞こえる怨嗟の声。
東京での戦い、ワンダが引き起こした次元融合の影響で、アース-666の霊的防壁には目に見えない「亀裂」が生じていた。その隙間から、彼らの世界には本来存在しないはずの「呪い」の瘴気が、霧のように滲み出し始めていたのだ。
「まだ……終わっていないというのか」
ストレンジが冷たい水で顔を洗おうとした瞬間。
バシュッ!!
背後の空間が、鋭利な刃物で切られたように裂けた。
紫色のエネルギーが渦巻き、サンクタムの保護魔法をまるで紙切れのように引き裂いていく。
「誰だ!」
ストレンジが振り返り、魔法円を展開する。
裂け目から現れたのは、白銀の髪に紫の戦闘衣を纏った、冷ややかな美貌の女性だった。
彼女の瞳には、地球の魔術師とは異なる、暗黒次元(ダーク・ディメンション)の深淵な魔力が宿っている。
「ドクター・ストレンジ」
彼女――クレアは、敵意とも親愛ともつかない複雑な表情で彼を見据えた。
「あなたが引き起こした『インカージョン』のせいで、多元宇宙の境界線が腐り始めているわ」
クレアは、エネルギーの刃を作り出し、空間の裂け目を指し示した。
「責任を取ってもらうわよ。……ついて来て」
「インカージョンは阻止したはずだ」
「いいえ。物理的な衝突は防いだけれど、『概念』の汚染は止まっていない」
クレアは一歩近づき、低い声で告げた。
「聞こえるでしょう? この街の地下から響く、チェンソーの音と、呪いの王の笑い声が」
ストレンジの第三の目が激しく脈打った。
彼は悟った。ワンダが消えても、彼女が持ち込んだ「異物」はこの世界に残されたままだということに。
「……分かった。行こう」
ストレンジはマントを翻し、クレアと共に暗黒の裂け目へと足を踏み入れた。
同時刻。ニューヨーク、ヘルズ・キッチン地区。
湿った路地裏のゴミ捨て場。
オレンジ色の小さな犬のような悪魔――ポチタ(あるいはその眷属)が、あの日ワンダと共に消滅したはずの「宿儺の指」を飲み込んでから、数時間が経過していた。
「ワン……」
ポチタが苦しげに鳴いた。
可愛らしいその体が、内側からの拒絶反応でボコボコと膨れ上がる。
「指」は消化されない。それどころか、特級呪物としての強力な自己防衛本能と、悪魔の再生能力が、最悪の形での化学反応を起こしていた。
ドクン。ドクン。
心臓の鼓動が変わる。
エンジンのアイドリング音のような「ブルルルル……」という音に、重低音の呪いの鼓動が重なる。
影が伸びる。
路地裏のネズミたちが、恐怖で硬直死するほどの殺気が爆発した。
「ギ……ガァ……」
オレンジ色の体が裂け、黒い紋様が浮かび上がる。
頭部のチェンソーが黒く変色し、その刃の一枚一枚が、宿儺の斬撃のような鋭利な呪力の刃へと変質していく。
ギャリギャリギャリギャリ……!!
路地の壁が、触れてもいないのに切り刻まれていく。
そこに誕生したのは、チェンソーマンでも宿儺でもない。
「恐怖」と「呪い」が融合した、理屈の通じない捕食者。
『特級特定呪霊・チェンソーの悪魔』
怪物は、虚空に向かって咆哮した。その声は次元の壁を震わせ、遠く離れた日本の呪術師たちにさえ届くほどの波動となっていた。
アース-JJK(呪術廻戦)。
復興作業が進む高専の瓦礫の上に、一人の男が立っていた。
五条悟ではない。
袈裟を着た、額に縫い目のある男――羂索。
彼は、ワンダによって一時的に開けられた次元の穴の痕跡を、恍惚とした表情で見上げていた。
「素晴らしいね」
羂索は笑みを浮かべた。
「私が目指していた『天元と人類の同化』……その先にある混沌を、あの魔女は一瞬で見せてくれた」
彼の背後には、特級呪霊たちが控えている。
「宿儺の指が一本、向こうの世界に持ち去られた。普通なら回収は不可能だが……今のこの『穴』の状態なら、こちらの呪力を送り込むことはできる」
羂索は、懐から取り出した特級呪物「獄門疆・裏」のようなキューブを弄んだ。
「世界が混ざり合っている今こそ、死滅回游のルールを追加しよう」
「ルール追加。――『他次元からの参加者を認める』」
コガネが飛来し、承認のアナウンスを告げる。
羂索の狙いは、マーベル・ユニバースに残された「呪いの火種」を利用し、地球全土を巻き込んだ巨大な呪術儀式を行うこと。
「さあ、始めようか。五条悟が向こうの後始末に気を取られている間に」
ニューヨークの上空。
ストレンジとクレアが次元の裂け目から飛び出すと、眼下の街は異様な光景に変貌していた。
マンハッタンの一部が、グニャリと歪んでいる。
ビル群が肉のように脈打ち、窓ガラスが無数の「目」に変わり、道路からは巨大な骨のような棘が突き出していた。
「領域展開……!?」
ストレンジが息を呑む。
それは、かつて渋谷で見た光景に似ていたが、もっと無秩序で、制御不能な浸食だった。
その中心に、黒いチェンソーの轟音を響かせる「影」がいる。
「あれは悪魔であり、呪いでもある」
クレアが魔術のダガーを構える。
「ドクター、あなたの世界は今、パラサイトに寄生されているのよ。外科手術が必要だわ」
「ああ。麻酔なしの大手術になりそうだ」
ストレンジは第三の目を見開き、マント・オブ・レビテーションをなびかせて降下を開始した。
その時、彼の背後のポータルが再び開く。
「先生! 待って!」
アメリカ・チャベスが飛び出してきた。
そして、彼女だけではない。
彼女のポータルの向こう側から、見慣れた、しかし場違いな二人の少年が転がり落ちてきた。
「いったぁ……! んだよここ!?」
ピンク髪の少年、虎杖悠仁。
「……最悪だ。また繋がったのか」
黒髪の少年、伏黒恵。
五条悟の指示か、あるいは宿儺の指への共鳴か。
呪術師たちが再び、アース-666の地を踏んだ。
「ようこそ、地獄のニューヨークへ」
ストレンジは皮肉っぽく笑い、彼らに告げた。
「観光案内は省略する。……あの『音』が聞こえるか?」
街の中心から響く、エンジン音と斬撃の嵐。
虎杖の顔色が変わる。
「宿儺の気配……でも、なんか違う。もっとヤバい何かが混ざってる!」
世界と世界の傷口から膿み出した、新たな災厄。
魔術師と呪術師、そしてデビルハンターの概念が混ざり合う、第2ラウンドのゴングが鳴らされようとしていた。
※この世界の羂索はワンダが残したダークホールドの残骸を取り込んだカオス・マジックを自身の術式で取り込み、五条悟を封印せず無理矢理『死滅回遊』を開始しました。