ドクター・ストレンジ:マルチバース・イーター 作:ルルルだ。
ニューヨーク、ブリーカー街。
サンクタム・サンクトラムの扉を、スティーヴン・ストレンジが肩で押し開けた。
呼吸は荒く、コートは泥とフィスクの返り血で汚れている。
「ウォン! いるか!?」
返事の代わりに飛んできたのは、琥珀色の魔術の鞭だった。
ストレンジは反射的に身を屈める。頭上を鞭が走り、背後に迫っていた「何か」を弾き飛ばした。
「……遅いぞ、ストレンジ」
階段の上から、ウォンが降りてきた。その表情は険しい。
彼が撃退したのは、サンクタムの防御結界をすり抜けて侵入した「怪物」だった。
一見すると、暗黒次元の住人「マインドレス・ワン(知性なきもの)」に見える。だが、その岩のような皮膚からは、どす黒い呪いの瘴気が立ち昇り、単眼の代わりに無数の人間の目が埋め込まれていた。
「マインドレス・ワンが……呪霊化している?」
ストレンジが息を呑む。
「ああ。ここ数時間で急激に増えた。奴らは魔力ではなく、恐怖を嗅ぎつけて現れる」
ウォンはストレンジの姿を一瞥し、ため息をついた。
「そのザマはなんだ。魔力が空っぽじゃないか」
「『縛り』だ。あと60時間ほど、私はただの元外科医だ」
「バカ者め。……だが、その判断が渋谷を救ったのなら、責めはせじ」
ウォンは印を結び、侵入してきた別の怪物を粉砕した。
「だが状況は最悪だ。サンクタムの魔法陣が汚染されている。発生源は……」
「ダーク・ディメンションだ」
ストレンジが断言する。
「モルドが行った。奴は『チェンソーの悪魔』の破片と、日本の特級呪物を持ち込み、ドルマムゥの領域を『地獄』に変えようとしている」
「正気か!? ドルマムゥが呪いに侵されれば、この宇宙全体が『特級過呪怨霊』の腹の中になるぞ!」
「止めるには、向こう側へ行くしかない」
ストレンジは書庫へと歩き出した。
「ウォン、君はここを守れ。呪いが地上に溢れ出さないように結界を張るんだ」
「お前はどうする? 魔力なしで暗黒次元に行けば、数秒で精神が崩壊するぞ」
ストレンジは立ち止まり、書庫の奥にある厳重に封印されたガラスケースを見つめた。
そこにあるのは、魔術師が使うべきではない、忌まわしき遺物。
「魔力が使えないなら、魔力を必要としない力を使えばいい」
彼が取り出したのは、鈍い銀色の輝きを放つ、古びた「斧」だった。
かつて、ある次元で悪魔狩りが使用していたとされる魔法遺物『アンガラスの嘆き』。
だが、ストレンジはそれだけでは足りないと判断し、日本の戦いで回収していた「宿儺の指の封印箱」をポケットから取り出した。
「おい、まさか……」
ウォンが目を見開く。
「食いはしないさ。だが、動力源にはなる」
ストレンジは、斧の柄にあるスロットに、封印されたままの宿儺の指を無理やり押し込んだ。
ジュウウウウウッ……!
斧が悲鳴を上げ、銀色の刀身に赤黒い紋様が浮かび上がる。
魔術の武器が、特級呪物と強制的に接続され、一種の「呪具」へと変質したのだ。
「魔術と呪術のハイブリッド武器だ。……品性下劣な改造だが、背に腹は代えられない」
ストレンジは、禍々しいオーラを放つ斧を担いだ。
浮遊マントが心配そうに彼の肩を叩く。
「ああ、頼むぞ。お前だけが頼りだ」
「死ぬなよ、ストレンジ」
ウォンがポータルを開く。その先に見えるのは、極彩色と漆黒が混ざり合った、変貌しつつある暗黒次元。
「行ってくる。……ランチの時間までには戻るさ」
ストレンジは呪具と化した斧を握りしめ、歪んだ次元の裂け目へと飛び込んだ。
暗黒次元。
そこは本来、時間のない永遠の世界であり、ドルマムゥの絶対的な支配下にある場所だ。
しかし今、その景色は一変していた。
幾何学的な模様の空には、おぞましい「肉の壁」が浸食し、浮遊する岩塊からは無数の「手」や「口」が生えている。
空間全体が、巨大な生物の体内のように脈動していた。
「……ひどい有様だな」
ストレンジが着地する。
物理法則が狂った空間だが、浮遊マントが彼を支え、どうにか立っていられる。
前方には、無数の「呪いマインドレス・ワン」の軍勢。
そして、その中心で、緑のローブを纏ったモルドが、祭壇のように積み上げた瓦礫の上で儀式を行っていた。
「来たか、ストレンジ」
モルドが振り返る。彼の目は完全に黒く染まり、チェンソーの破片から溢れるエネルギーを全身に浴びていた。
「遅かったな。もう『感染』は始まっている」
『グオオオオオオオ……!!』
空間全体が震えた。
上空に浮かぶドルマムゥの巨大な顔。
だが、その顔は苦悶に歪んでいた。額には巨大な「釘」のような呪いの杭が打ち込まれ、口からは紫色のヘドロを吐き出している。
『我ガ……力ガ……腐ッテイク……!!』
「ドルマムゥが弱体化している?」
ストレンジが驚愕する。
「違う。進化しているのだ」
モルドが狂信的な笑みを浮かべる。
「恐怖、痛み、後悔。それらを取り込むことで、彼はただのエネルギー生命体から、より高次元の『概念的存在』へと昇華する。……さあ、受け入れろ! 新たな理を!」
モルドが呪符を掲げると、ドルマムゥの瞳が赤く発光した。
暗黒次元の魔力が、「呪力」へと変換され、ストレンジに襲いかかる。
「させるか!」
ストレンジは呪具・斧を振りかざした。
「宿儺の指よ、その凶悪な切れ味を貸せ!」
ザシュッ!!
斧から放たれたのは、魔力波ではない。
空間を切り裂く、不可視の斬撃。
『解』の模倣。
迫り来る呪いの波が真っ二つに割れ、ストレンジはその隙間を縫って疾走した。
「モルド! その破片を手放せ!」
「断る。これは新世界の礎だ!」
モルドが三節棍『游雲』を構え、迎撃する。
魔力なき至高の魔術師と、呪いに堕ちた魔術師狩り。
因縁の対決が、崩壊する次元の中で始まった。
激しいつばぜり合い。
ストレンジの技術と呪具の威力は拮抗していたが、モルドには無尽蔵のエネルギー供給(ドルマムゥからのバックアップ)があった。
「ぐぅッ……!」
ストレンジが吹き飛ばされ、岩塊に叩きつけられる。
マントが庇ったおかげで致命傷は避けたが、斧を持つ手が痺れている。
「終わりだ、ストレンジ。お前の骸は、新生ドルマムゥへの最初の供物にしてやる」
モルドがとどめを刺そうと近づいた、その時。
コツ、コツ、コツ。
真空の空間に、あり得ない「足音」が響いた。
この場にいる全員――ストレンジ、モルド、そしてドルマムゥさえもが動きを止めた。
空間の一角に、場違いな「ドア」が出現していた。
どこにでもあるような、木製のドア。
それがゆっくりと開き、そこから一人の女性が歩み出てきた。
スーツ姿。ピンクがかった髪。渦巻く瞳。
地獄から次元を渡ってきた、支配の悪魔。
「マキマ……!」
ストレンジが呻く。「なぜ彼女がここに!?」
マキマは、崩壊する暗黒次元を見渡し、少し残念そうにため息をついた。
「あーあ。汚い部屋」
彼女はモルドを一瞥もしない。彼女の視線は、上空で苦しむドルマムゥに向けられていた。
「次元の支配者、ドルマムゥ」
マキマは静かに語りかけた。
「あなたは今、未知の『呪い』に侵されて、自我を保つのに必死みたいだね」
『貴様……何者ダ……!』
「私はマキマ。……ねえ、助けてあげましょうか?」
彼女は優しく微笑んだ。だが、その笑顔は、飼い主が手負いの獣に向けるものだった。
「その代わり……私に飼われてくれる?」
「ふざけるな!」
モルドが激昂し、マキマに向かって呪符を放つ。
「人間風情が、次元の王を愚弄するか!」
マキマはモルドの方を見向きもしなかった。
彼女の背後から、闇の鎖が飛び出し、モルドの呪符を弾き飛ばす。
「『お手』」
ドガァァァン!!
見えない巨人の手が、モルドを上から押し潰した。
「がはっ……!?」
モルドが地面にめり込む。呪力で強化された肉体でさえ、骨が軋む音が聞こえる。
「あなたが使っているその力……チェンソーマンの欠片かな?」
マキマがモルドに歩み寄る。
「それは私のもの。返してもらうよ」
「マズい……!」
ストレンジが斧を杖代わりにして立ち上がる。
もしマキマが、ドルマムゥとチェンソーの破片の両方を手に入れたら?
「暗黒次元」×「支配の悪魔」×「チェンソーマンの力」。
それはサノスどころの騒ぎではない。全マルチバースの終焉だ。
「ストレンジ!」
上空から声がした。
紫色のポータルが開き、そこから銀髪の魔女が飛び出してきた。
「クレア!」
クレアはストレンジの前に着地し、両手から魔弾を放ってマキマを牽制した。
「遅れてごめんなさい! こっちの世界の防衛システムが狂ってて、入るのに苦労したわ!」
「状況は見ての通りだ」
ストレンジは苦笑する。
「魔術師と呪術師の戦いに、悪魔が乱入してきた。……B級映画でも見ない展開だ」
「文句は後で!」
クレアが構える。
「あの女……マキマと言ったかしら。彼女、ドルマムゥのコードを書き換えようとしているわ。『自分の方が格上だ』と認識させることで、次元ごと支配する気よ!」
マキマとドルマムゥ。
規格外同士の「格付け」争いが始まった。
「クレア、私に考えがある」
ストレンジは、手の中の「呪具化した斧」を握り直した。
「あの女の『支配』の条件は、相手が自分より格下だと思い込むことだ。なら、その認識をバグらせてやればいい」
「どうやって?」
「カオス・マジックだ」
ストレンジの目が鋭く光る。
「ワンダが残した混沌の痕跡……それを呼び起こし、この場に『第三の勢力』をぶつける」
ストレンジは、斧に埋め込まれた宿儺の指に、最後の命令を送った。
(起きろ、呪いの王。……お前も、誰かに飼われるのは御免だろう?)
指が脈動した。
次元の彼方、どこかで眠る「本体の宿儺」が、共鳴して目を覚ます。
そして同時に、アース-JJKにいる羂索もまた、この混乱を感知していた。
「始めようか、クレア。……ここからは、泥仕合だ」