ドクター・ストレンジ:マルチバース・イーター   作:ルルルだ。

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2話 悪夢は現実に

教会の鐘の音が、ニューヨークの青空に吸い込まれていく。

マンハッタンの喧騒から切り離された静寂の中、クリスティーン・パーマーの結婚式は厳かに行われていた。

 

スティーヴン・ストレンジは、参列者の列に紛れ、ぎこちない笑みを浮かべていた。かつて恋人だった女性が、別の男と愛を誓う姿を見届ける。

 

式後のレセプション。グラスを傾けるストレンジに、クリスティーンが歩み寄る。

「来てくれてありがとう、スティーヴン」

「ああ……君が幸せなら、僕も嬉しいよ」

「本当に?」

彼女の真っ直ぐな視線が、魔術師の心の防壁を容易く貫く。ストレンジは一瞬言葉を詰まらせ、それから静かに頷いた。「……幸せだとも」

 

その嘘が宙に溶けるよりも早く、異変は起きた。

 

ズゥゥゥゥン……!

 

遠くで何かが爆ぜるような重低音が響き、地面が微かに振動した。グラスの中のシャンパンが波紋を描く。

街の通りから悲鳴が上がった。ただの事故ではない。何千人もの人間が同時に喉を引き絞るような、原初的な恐怖の絶叫。

 

ストレンジの表情が一変する。哀愁漂う元恋人の顔から、世界を守護する魔術師の顔へ。

「スティーヴン?」

「すまない、行かなくちゃならない」

 

彼はテラスの手すりを乗り越え、躊躇なく虚空へと身を投げた。

落下する彼の背後から、意志を持つかのように深紅の布が飛来する。マント・オブ・レビテーション。それが彼の肩に装着されると同時に、ネクタイとスーツは瞬時に魔術師のローブへと変貌した。

 

眼下の通りは阿鼻叫喚の巷と化していた。

車が宙を舞い、アスファルトがめくれ上がっている。その破壊の中心にいたのは、不可視の力場に守られた何か――いや、違う。

「姿が見えないのか?」

ストレンジが印を結び、真実を見通す術を行使すると、その怪物の醜悪な全貌が露わになった。

 

巨大な一つ目。ぬらぬらと光る触手を持つ、タコのような軟体生物。

だが、その体表には自然界には存在し得ない、禍々しいルーン文字が焼き付けられている。

ガルガントス。

異界の生物が、長い触手でバスを持ち上げ、逃げ惑う群衆の一点めがけて振り下ろそうとしていた。

 

その標的となっているのは――

「まさか」

ストレンジの目が驚愕に見開かれる。

デニムジャケットに、背中の星のマーク。今朝、悪夢の中で死にゆく自分が見捨てた、あの少女だ。

 

「夢じゃなかったのか!」

 

バスが少女を押し潰そうとしたその瞬間、ストレンジは両手からエルドリッチ・ライトの鞭を放ち、空中でバスを切断した。

真っ二つになった鉄の塊が、少女の両脇に激音を立てて落下する。

 

「ほう、随分と派手な登場だな」

ポータルが開き、ウォンが現れた。至高の魔術師(ソーサラー・スプリーム)としての貫禄を漂わせ、魔力の盾を展開する。

「結婚式はどうした?」

「花嫁より怪獣の方が俺にはお似合いらしい!」

 

ストレンジとウォン、二人の魔術師による迎撃が始まった。

だが、ガルガントスはただの獣ではなかった。その触手の一撃一撃に、物理的な質量だけでなく、呪いのような粘着質な魔力が込められている。

ウォンの展開した防壁が、触手の一撃で亀裂を生じさせた。

「硬い! それにこの魔力……ただの迷い込んだ魔獣じゃないぞ!」

ウォンが叫ぶ。

 

ストレンジは空を飛び回りながら、少女――アメリカ・チャベスを庇うように立ち回った。

「君か! 夢で会ったな!」

ストレンジが声をかけると、アメリカは彼を見て、安堵するどころか顔を引きつらせて後ずさった。

「やめて! こないで!」

「何だって? 助けようとしてるんだぞ!」

「別のあんたは、私を殺そうとした!」

 

彼女の言葉にストレンジは眉をひそめるが、今は問答している暇はない。

ガルガントスの巨大な瞳孔が収縮し、破壊光線のような魔力を溜め始めた。狙いはストレンジではなく、アメリカだ。

「させん!」

ストレンジはマンホールの蓋を魔術で浮かせ、盾にするが、熱量はそれを容易く溶解させる。

 

「キリがない……!」

ストレンジは覚悟を決めると、触手によって引き抜かれた街灯を見据えた。魔力を練り上げ、街灯を巨大な槍へと変化させる。

ガルガントスが巨大な口を開け、アメリカを喰らおうと迫った瞬間。

「終わりだ!」

ストレンジの操作により、魔化された街灯が怪物の巨大な眼球を深々と貫いた。

 

グギィィィィィ……!!

 

断末魔の叫びと共に、巨大な一つ目から体液が噴き出し、怪物はどうと倒れ伏した。

その巨体が痙攣し、やがて動かなくなる。

 

土煙が舞う中、ストレンジは肩で息をしながら、荒れた路面に降り立った。

周囲の騒乱は収まりつつあるが、空気は依然として重い。

ウォンが怪物の死骸に近づき、その体表に刻まれた文字を見て表情を曇らせた。

「見たか、ストレンジ。これは魔女のルーンだ。誰かがこの怪物を『召喚』した」

 

ストレンジは頷き、怯えるように距離を取っているアメリカの方へ向いた。

「落ち着け。俺は君を殺さない」

両手を挙げて敵意がないことを示す。

「君は一体何者なんだ? なぜあんな夢を……いや、あれは夢じゃないな」

 

アメリカは警戒を解かずに、近くの建物の屋上を指差した。

「証拠なら、あそこにあるわ」

 

ストレンジとウォンが視線を上げると、そこにはビルの屋上に引っかかるようにして、見覚えのある死体がぶら下がっていた。

後ろで束ねた髪、古風なローブ。

今朝の夢の中で死んだはずの、もう一人のスティーヴン・ストレンジの亡骸だ。

 

「なんてことだ……」

ストレンジは絶句した。マルチバースは理論としては知っていたが、こうして物理的な死体として目の前に突きつけられる現実はあまりに重い。

 

場所をピザ屋に移し、ストレンジとウォンはアメリカから事情を聞いた。

彼女はマルチバースを行き来できる能力を持っているが、それを制御できないこと。

そして、何者かがその力を奪うために、異界の怪物を送り込み続けていること。

 

「狙われているのは私の力。あの怪物はただの使い魔に過ぎない」

アメリカはピザを頬張りながらも、震える声で言った。

「そいつは、私の力を奪って何をしようとしてるの?」とストレンジが問う。

「分からない。でも、あの怪物を操っていた奴は……とんでもなく深い『飢え』を持ってた。ただの世界征服なんてレベルじゃない。もっと恐ろしい何かを探してる」

 

ウォンが腕を組み、深刻な顔でストレンジを見る。

「これはカマル・タージだけで対処できる問題ではないかもしれん。ウィッチクラフト(魔女術)に精通した者の助けが必要だ」

「ああ」

ストレンジの脳裏に、一人の人物が浮かんだ。

かつてアベンジャーズとして共に戦い、強大な魔力を持ちながらも、悲劇的な運命を背負って姿を消した魔女。

 

「ワンダだ。彼女なら、このルーンの意味も、敵の正体も分かるかもしれない」

 

ストレンジは立ち上がった。

彼が向かおうとしている先には、果樹園で静かに暮らしているはずのワンダ・マキシモフがいる。

だが彼はまだ知らない。

彼女が手にした『ダークホールド』が、既に彼女の精神を蝕み、この宇宙どころか、呪いと悪魔が跋扈する遥か彼方の次元にまで、その貪欲な指先を伸ばし始めていることを。

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