ドクター・ストレンジ:マルチバース・イーター 作:ルルルだ。
結晶の聖域。
無数のガラス片のように輝くマルチバースの断面図が、彼――ウォッチャー(ウアトゥ)の周囲を回っていた。
「私はウォッチャー。ここにある全ての物語、全ての『もしも』を観測する者……」
彼の低い独白が、虚空に響く。だが、その声にはいつもの威厳ある響きはなく、隠しきれない焦燥と、根源的な恐怖が滲んでいた。
「私は全てを見てきた。インフィニティ・ストーンによる宇宙の半減、ウルトロンによる多元宇宙の破壊、ゾンビ・ウイルスの蔓延……。それらは全て、この巨大な物語の理の中で起きた悲劇だった」
ウアトゥの視線が、ある一つの「傷跡」に釘付けになる。
アース-666。スカーレット・ウィッチが開け、ストレンジが閉じようとした場所。
そこには、物理的な亀裂はもうない。だが、の目には見えていた。
その宇宙の因果律の隙間に、赤黒く、粘着質な「カビ」のようなものが根を張り始めているのを。
「だが……これは違う」
彼は手を伸ばし、ダーク・ディメンションの映像を拡大した。
そこに映っていたのは、宇宙魔神ギャラクタスが、本来あり得ないはずの「呪い」という毒素に侵され、嘔吐し、苦悶する姿だった。
「『呪力』……『悪魔』……。私の知識の蔵に、該当するデータが存在しない」
ウアトゥは戦慄した。
彼はこの多元宇宙の全歴史を知っている。セレスティアルズの誕生から、時間の終焉まで。
しかし、ワンダ・マキシモフが『ダークホールド』――黒魔術の神クトーンが記した禁断の書を用いて開いた扉は、並行世界(パラレルワールド)への扉ではなかった。
それは、ウアトゥの管轄外。
物語の外側(オムニバース)にある、全く異質な法則で動く世界への扉だったのだ。
「ワンダよ、何ということをしてくれたのだ。お前が招き入れたのは、ただの異邦人ではない。この宇宙の『免疫』が通用しない、未知の病原菌だ」
ウアトゥは見た。
ニューヨークの地下で蠢く影。
日本の結界内で嗤う脳みその怪物。
そして、地獄という名の異界から、冷ややかな視線を向ける支配者。
「介入すべきか……? いや、私が直接手を下せば、宇宙の均衡はさらに崩れる。だが、このまま放置すれば、リビング・トリビューナル(全能の審判者)さえもが『呪い』に堕ちるかもしれん」
全知の観測者は、初めて「未知」への恐怖に震えた。
彼は、傷ついたアース-666の魔術師(ストレンジ)を見つめ、祈るように呟いた。
「抗え、スティーヴン・ストレンジ。……君たちが『抗体』とならなければ、全ての物語は腐り落ちる」
時間と空間の狭間。
物理法則が意味を成さない「虚無(ヴォイド)」の片隅に、二人の影があった。
袈裟を着た男、羂索。
スーツ姿の女、マキマ。
彼らは、暗黒次元での「実験」を終え、一時的にこの安全地帯へと撤退していた。
「素晴らしい成果だったね」
羂索は、掌の上で小さな紫色の炎(ギャラクタスから採取したエネルギーの残滓)を弄びながら、心底楽しそうに笑った。
「この世界の『神』や『宇宙的存在』と呼ばれる連中は、物理的なエネルギー総量は桁違いだ。呪術師なんてアリのようなものさ。……だが、彼らには致命的な欠陥がある」
羂索は炎を握り潰した。
「『負の感情(呪い)』に対する耐性がゼロだ。精神構造があまりに純粋すぎる。……これなら、私の『死滅回游』のルールを少し書き換えるだけで、彼らを容易にプレイヤーとして取り込めるよ」
マキマは、羂索の歓喜には同調せず、虚空を見つめたまま静かに佇んでいた。
彼女の黄金の瞳は、ここにはいない「誰か」を見据えているようだった。
「……ねえ、羂索さん」
マキマが口を開く。
「なんだい? 支配の悪魔君」
「ずっと感じる。……空のずっと上、次元の膜の向こう側から。とても不快な『視線』を」
羂索は興味深そうに眉を上げた。
「視線?この宇宙の管理者クラスかな?」
「いいえ、違う」
マキマは首を振った。
「干渉はしてこない。ただ、じっと見ているだけ。……まるで、映画の観客席からスクリーンを見下ろしているような、一方的な視線」
彼女は、自分の服の袖を整えながら、冷ややかに微笑んだ。
「気持ちが悪い。私を見下ろしていいのは、私より強い存在だけ」
「ハハッ、それは頼もしい」
羂索は手を叩いた。
「それが誰であれ、我々の邪魔をしないなら構わないさ。もし手を出してくるなら……その『観測者』ごと、新しい世界と同化させてしまえばいい」
羂索は懐から、数枚の「呪符」と、異界の技術で改造された「ウルトロン・セントリーの頭部」を取り出した。
「さて、次のフェーズだ。ギャラクタスの件で、この宇宙の免疫機能(ヒーローたち)が活性化するだろう。アベンジャーズ、X-MEN、ファンタスティック・フォー……」
(※羂索がヒーロー名を知っている理由は、前モルドを操ったとき、彼の記憶を除いたため)
「問題ない」
マキマは淡々と言った。
「地獄には、まだ使っていない『悪魔』がたくさんいる。それに……こっちの世界のヒーローたちの『正義感』や『トラウマ』は、支配するには絶好の弱点」
二人は視線を交わした。
信頼などない。あるのは、「この巨大な宇宙をどう料理するか」という、捕食者同士の利害の一致のみ。
「契約しようか、マキマ君」
羂索が手を差し出した。
「私が『舞台(システム)』を作る。君が『役者(ヒーロー)』を管理する。……そして最後に、我々の望む世界を作る」
「わかった」
マキマはその手を取った。
「悪くない契約。……ただし、チェンソーマンは私のもの。」
虚無の空間で、最悪の同盟(縛り)が結ばれた。
観測者が戦慄し、侵略者が嗤う中、マーベル・ユニバースの運命を賭けた「死滅回游・完全版」のカウントダウンが、静かに始まった。