ドクター・ストレンジ:マルチバース・イーター 作:ルルルだ。
風に揺れるリンゴの白い花弁が、雪のように舞っている。
どこまでも広がる美しい果樹園。陽光は柔らかく、草いきれと甘い果実の香りが鼻腔をくすぐる。
ウェストビューでの悲劇を引き起こし、指名手配同然となって姿を消した魔女が隠れ住む場所にしては、あまりにも牧歌的で平和すぎた。
スティーヴン・ストレンジは、並木道を歩きながら周囲を警戒していたが、感じるのは穏やかな魔力だけだ。
枝の剪定をしている女性の背中が見えた。
「ワンダ」
彼女が振り返る。素朴な服に身を包み、少し疲れたような、しかし穏やかな笑みを浮かべていた。
「スティーヴン。ここへ来るなんて」
「いい所だな」
「ええ。自分を見つめ直すには最適よ」
ワンダ・マキシモフは剪定ばさみを置き、歩み寄ってきた。「私がここでしたことは……」
「その話はいい」ストレンジは遮った。「ウェストビューの件は、君が正した。誰も君を責めに来たわけじゃない」
ワンダは安堵したように息を吐く。
「じゃあ、何の用?」
「助言が欲しいんだ。マルチバースについて詳しいか?」
彼女の表情が僅かに曇る。
「……ヴィジョンと私が夢見た世界のこと?」
「いや、もっと現実的な脅威だ。我々の宇宙の境界が揺らいでいる。ある敵が、異次元を渡る能力を持つ者を狙っているんだ」
ストレンジは彼女と並んで歩き始めた。足元の枯葉が乾いた音を立てる。
「その敵は、ルーン魔術を使い、未知の怪物を送り込んでくる。ウィッチクラフトに精通した者の仕業だ。君の知識が必要なんだ、ワンダ」
ワンダは立ち止まり、遠くを見つめた。その瞳には、かつての悲しみとは違う、どこか熱っぽい光が宿っているように見えた。
「マルチバース……そこには、私たちが想像もしなかった力が眠っているのね」
「ああ。危険な領域だ」
「危険? それとも……可能性?」
彼女はストレンジに向き直り、微笑んだ。
「もしその力を手に入れれば、失ったものを取り戻せるだけじゃない。もっと高次の存在になれるとしたら?」
ストレンジは眉をひそめた。話が噛み合わない。彼女はまるで、すでに何かを掴んでいるような口ぶりだ。
「ワンダ、俺たちは今、ある少女を守ろうとしている。彼女の能力が奪われれば、全宇宙が危険に晒される」
「そうね。大変なことだわ」
ワンダは小首を傾げた。「で、その子――アメリカ・チャベスは今、カマル・タージにいるの?」
その瞬間。
ストレンジの足が止まった。
背筋を冷たいものが駆け上がる。鳥のさえずりがピタリと止んだ気がした。
「……俺はまだ、彼女の名前を言っていないぞ」
沈黙。
風が止み、舞っていた花弁が空中で静止したかのように見えた。
ワンダの唇から笑みが消える。いや、消えたのではない。能面のようだった表情が、冷酷な嘲笑へと歪んだのだ。
「あら」
彼女の声色は、先ほどまでの牧歌的な響きを失い、底冷えするような威圧感を帯びていた。
「うっかりしてたわ」
世界が軋む音がした。
次の瞬間、美しい果樹園の風景が、焼け焦げた紙のように端から捲れ上がり、崩れ落ちていく。
青空は赤黒い雷雲へと変わり、白いリンゴの花は枯れ果てた黒い枝へと変貌した。
そこは楽園などではない。死臭と腐敗の漂う、荒涼とした荒野だった。
ストレンジが目にしたのは、かつてアベンジャーズとして共に戦った仲間ではない。
宙に浮き、禍々しい深紅のオーラ(カオス・マジック)を纏い、禁断の魔導書『ダークホールド』を開いたまま背後に従える、「スカーレット・ウィッチ」の姿だった。
「これは……」
ストレンジは息を呑む。ダークホールド。読む者の精神を侵食し、魂を堕落させると言われる呪われた書物。彼女の指先は黒く変色しており、その影響が既に深刻であることを物語っていた。
「アメリカを引き渡しなさい、ストレンジ」
ワンダの声が、重層的な響きを持って空間を震わせる。
「彼女の力があれば、私は行ける。この退屈な宇宙の外へ」
「ビリーとトミーのためか? 存在しない子供たちの幻想を追って、世界を壊す気か!」
ストレンジが叫ぶと、ワンダは冷ややかに鼻で笑った。
「子供たち? ええ、最初はそうだった」
彼女は空中で一歩踏み出し、ストレンジを見下ろした。その瞳は赤く発光し、狂気よりも深い、純粋な「渇望」に満ちていた。
「でも、この本を読んで分かったの。マルチバースには、もっと素晴らしい『力』が溢れている」
彼女は両手を広げ、虚空を撫でるような仕草をした。
「夢で見たわ。人間の負の感情から生まれる『呪い』が支配する世界。あるいは、根源的な『恐怖』そのものが悪魔として具現化する世界……」
彼女の背後に、歪な影が揺らめく。それはこれまでのマーベル・ユニバースには存在しなかった異質な気配――呪術の瘴気や、地獄のチェンソーの轟音を幻視させるような、おぞましい気配だった。
「それらの理を私のカオス・マジックに取り込めば、私はただの魔女ではなくなる。全次元の頂点、全ての概念を書き換える『神』になれるのよ」
ワンダは恍惚とした表情で、自らの指先を見つめた。
「子供たちとの安住なんて、些細な願いに過ぎなかった。私は全てが欲しい。全ての宇宙の、全ての力を」
ストレンジは魔法円を展開し、構えを取った。交渉の余地はない。彼女はもう、ヒーローとしてのワンダではない。
「ダークホールドに心を食われているぞ、ワンダ。その道は破滅だ」
「破滅? いいえ、これは『進化』よ」
ワンダは首を少し傾げ、ストレンジを見据えた。
「カマル・タージに伝えて。日没までにアメリカ・チャベスを渡せと」
彼女の背後で、枯れ木がバキバキと音を立てて砕け散る。
「渡さなければ……私自ら迎えに行く。その時は、魔術師の死体の山を築くことになるわよ」
「……本気か」
「スティーヴン」
彼女はふわりと微笑んだ。かつての優しい面影を残したその表情が、今は何よりも恐ろしかった。
「これでもまだ、手加減してるのよ。理性があるうちに決断なさい」
ストレンジは一瞬の躊躇の後、ポータルを開いた。
これ以上の対話は無意味だ。彼女は来る。全魔術師の総力を挙げても止められるか分からない、災厄そのものとなって。
ストレンジが光の中へ消えると、ワンダは一人、荒廃した世界に残された。
彼女は背後のダークホールドに視線を落とす。書物のページがひとりでにめくれ、異界の言語で記された不吉なルーン文字が、彼女に囁きかけていた。
『……スクナ……』『……ポチタ……』
未知なる力の名前。彼女の唇が、欲深に歪んだ。
「待っていなさい。すぐに、あなたたちも私のものにしてあげる」