ドクター・ストレンジ:マルチバース・イーター   作:ルルルだ。

3 / 33
※ウェストビューの事件は、ドラマ「ワンダヴィジョン」で起きた出来事と全く同じです。


3話 ワンダの野望

風に揺れるリンゴの白い花弁が、雪のように舞っている。

どこまでも広がる美しい果樹園。陽光は柔らかく、草いきれと甘い果実の香りが鼻腔をくすぐる。

ウェストビューでの悲劇を引き起こし、指名手配同然となって姿を消した魔女が隠れ住む場所にしては、あまりにも牧歌的で平和すぎた。

 

スティーヴン・ストレンジは、並木道を歩きながら周囲を警戒していたが、感じるのは穏やかな魔力だけだ。

枝の剪定をしている女性の背中が見えた。

 

「ワンダ」

 

彼女が振り返る。素朴な服に身を包み、少し疲れたような、しかし穏やかな笑みを浮かべていた。

「スティーヴン。ここへ来るなんて」

「いい所だな」

「ええ。自分を見つめ直すには最適よ」

ワンダ・マキシモフは剪定ばさみを置き、歩み寄ってきた。「私がここでしたことは……」

「その話はいい」ストレンジは遮った。「ウェストビューの件は、君が正した。誰も君を責めに来たわけじゃない」

 

ワンダは安堵したように息を吐く。

「じゃあ、何の用?」

「助言が欲しいんだ。マルチバースについて詳しいか?」

 

彼女の表情が僅かに曇る。

「……ヴィジョンと私が夢見た世界のこと?」

「いや、もっと現実的な脅威だ。我々の宇宙の境界が揺らいでいる。ある敵が、異次元を渡る能力を持つ者を狙っているんだ」

 

ストレンジは彼女と並んで歩き始めた。足元の枯葉が乾いた音を立てる。

「その敵は、ルーン魔術を使い、未知の怪物を送り込んでくる。ウィッチクラフトに精通した者の仕業だ。君の知識が必要なんだ、ワンダ」

 

ワンダは立ち止まり、遠くを見つめた。その瞳には、かつての悲しみとは違う、どこか熱っぽい光が宿っているように見えた。

「マルチバース……そこには、私たちが想像もしなかった力が眠っているのね」

「ああ。危険な領域だ」

「危険? それとも……可能性?」

彼女はストレンジに向き直り、微笑んだ。

「もしその力を手に入れれば、失ったものを取り戻せるだけじゃない。もっと高次の存在になれるとしたら?」

 

ストレンジは眉をひそめた。話が噛み合わない。彼女はまるで、すでに何かを掴んでいるような口ぶりだ。

「ワンダ、俺たちは今、ある少女を守ろうとしている。彼女の能力が奪われれば、全宇宙が危険に晒される」

「そうね。大変なことだわ」

ワンダは小首を傾げた。「で、その子――アメリカ・チャベスは今、カマル・タージにいるの?」

 

その瞬間。

ストレンジの足が止まった。

背筋を冷たいものが駆け上がる。鳥のさえずりがピタリと止んだ気がした。

 

「……俺はまだ、彼女の名前を言っていないぞ」

 

沈黙。

風が止み、舞っていた花弁が空中で静止したかのように見えた。

ワンダの唇から笑みが消える。いや、消えたのではない。能面のようだった表情が、冷酷な嘲笑へと歪んだのだ。

 

「あら」

彼女の声色は、先ほどまでの牧歌的な響きを失い、底冷えするような威圧感を帯びていた。

「うっかりしてたわ」

 

世界が軋む音がした。

次の瞬間、美しい果樹園の風景が、焼け焦げた紙のように端から捲れ上がり、崩れ落ちていく。

青空は赤黒い雷雲へと変わり、白いリンゴの花は枯れ果てた黒い枝へと変貌した。

そこは楽園などではない。死臭と腐敗の漂う、荒涼とした荒野だった。

 

ストレンジが目にしたのは、かつてアベンジャーズとして共に戦った仲間ではない。

宙に浮き、禍々しい深紅のオーラ(カオス・マジック)を纏い、禁断の魔導書『ダークホールド』を開いたまま背後に従える、「スカーレット・ウィッチ」の姿だった。

 

「これは……」

ストレンジは息を呑む。ダークホールド。読む者の精神を侵食し、魂を堕落させると言われる呪われた書物。彼女の指先は黒く変色しており、その影響が既に深刻であることを物語っていた。

 

「アメリカを引き渡しなさい、ストレンジ」

ワンダの声が、重層的な響きを持って空間を震わせる。

「彼女の力があれば、私は行ける。この退屈な宇宙の外へ」

 

「ビリーとトミーのためか? 存在しない子供たちの幻想を追って、世界を壊す気か!」

ストレンジが叫ぶと、ワンダは冷ややかに鼻で笑った。

 

「子供たち? ええ、最初はそうだった」

彼女は空中で一歩踏み出し、ストレンジを見下ろした。その瞳は赤く発光し、狂気よりも深い、純粋な「渇望」に満ちていた。

「でも、この本を読んで分かったの。マルチバースには、もっと素晴らしい『力』が溢れている」

 

彼女は両手を広げ、虚空を撫でるような仕草をした。

「夢で見たわ。人間の負の感情から生まれる『呪い』が支配する世界。あるいは、根源的な『恐怖』そのものが悪魔として具現化する世界……」

彼女の背後に、歪な影が揺らめく。それはこれまでのマーベル・ユニバースには存在しなかった異質な気配――呪術の瘴気や、地獄のチェンソーの轟音を幻視させるような、おぞましい気配だった。

 

「それらの理を私のカオス・マジックに取り込めば、私はただの魔女ではなくなる。全次元の頂点、全ての概念を書き換える『神』になれるのよ」

ワンダは恍惚とした表情で、自らの指先を見つめた。

「子供たちとの安住なんて、些細な願いに過ぎなかった。私は全てが欲しい。全ての宇宙の、全ての力を」

 

ストレンジは魔法円を展開し、構えを取った。交渉の余地はない。彼女はもう、ヒーローとしてのワンダではない。

「ダークホールドに心を食われているぞ、ワンダ。その道は破滅だ」

「破滅? いいえ、これは『進化』よ」

 

ワンダは首を少し傾げ、ストレンジを見据えた。

「カマル・タージに伝えて。日没までにアメリカ・チャベスを渡せと」

彼女の背後で、枯れ木がバキバキと音を立てて砕け散る。

「渡さなければ……私自ら迎えに行く。その時は、魔術師の死体の山を築くことになるわよ」

 

「……本気か」

「スティーヴン」

彼女はふわりと微笑んだ。かつての優しい面影を残したその表情が、今は何よりも恐ろしかった。

「これでもまだ、手加減してるのよ。理性があるうちに決断なさい」

 

ストレンジは一瞬の躊躇の後、ポータルを開いた。

これ以上の対話は無意味だ。彼女は来る。全魔術師の総力を挙げても止められるか分からない、災厄そのものとなって。

 

ストレンジが光の中へ消えると、ワンダは一人、荒廃した世界に残された。

彼女は背後のダークホールドに視線を落とす。書物のページがひとりでにめくれ、異界の言語で記された不吉なルーン文字が、彼女に囁きかけていた。

『……スクナ……』『……ポチタ……』

未知なる力の名前。彼女の唇が、欲深に歪んだ。

「待っていなさい。すぐに、あなたたちも私のものにしてあげる」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。