ドクター・ストレンジ:マルチバース・イーター 作:ルルルだ。
カマル・タージの空は、鉛を溶かしたような重苦しい雲に覆われていた。
ヒマラヤの山頂に位置する魔術の聖地。その静寂は、無数の法螺貝の音と、地面を揺らす銅鑼の響きによって破られた。
「総員、配置につけ! 盾を張れ!」
ウォンの怒号が響く。
中庭には、香港、ロンドン、そして世界中のサンクタムから召集された数え切れないほどの魔術師たちが整列していた。彼らは一斉に印を結び、大地から琥珀色の魔力光を立ち昇らせる。
幾重にも重なる巨大なマンダラの防壁が、ドーム状にカマル・タージ全体を包み込んだ。
スティーヴン・ストレンジは、震えるアメリカ・チャベスを背に、空を見上げていた。
「来るぞ」
「本当に……彼女一人で、これだけの数を相手にする気なの?」
アメリカが不安げに尋ねる。
「彼女はもうアベンジャーズのワンダじゃない。無限の力に飢えた捕食者だ」
その言葉が終わらぬうちに、空の色が変わった。
雲の裂け目から漏れ出したのは、太陽の光ではない。血のように赤い、不吉な霧だった。
黒い雲が渦を巻き、その中心から、一人の人影がゆっくりと降下してくる。
スカーレット・ウィッチ。
深紅のティアラを額に宿し、ボロボロになった戦闘服をなびかせている。だが、何よりも異質なのは、彼女の指先がどす黒く変色していることだった。それはまるで、壊疽を起こした肉体のように見えたが、ストレンジには分かっていた。
それは『ダークホールド』の代償。禁断の知識に触れすぎた証だ。
「カマル・タージの魔術師たちよ」
ワンダの声は、拡声器を使ったわけではないのに、全員の脳内に直接響いた。粘着質で、逃げ場のない響き。
「無駄な抵抗はやめて、少女を渡しなさい」
「断る!」
ウォンが叫び、全魔術師が一斉に防壁の魔力を強めた。琥珀色のドームが輝きを増す。
「我々は守護者だ。一人の命を犠牲にして世界を救うなどという取引には応じない!」
ワンダは空中で首をかしげた。
「残念ね」
彼女が右手をかざす。
ドォォォォォン!!
カオス・マジックの奔流が、防壁に激突した。
カマル・タージ全体が地震のように揺れる。魔術師たちが歯を食いしばり、必死に陣形を維持する。
「耐えろ! 奴の魔力にも限界があるはずだ!」
ストレンジが叫び、自身も防壁の強化に加わろうとした。
だが、次の瞬間、彼は見てしまった。
ワンダの赤い瞳の奥に、見慣れない「呪い」の文様が浮かび上がったのを。
「限界? ……いいえ、私は学んだのよ」
ワンダは囁いた。
「遠い異界には、負の感情を『力』に変える術があるということを」
彼女は左手の指を奇妙な形にねじり、呪文を唱えた。それはサンスクリット語でもラテン語でもない。ストレンジが一度も聞いたことのない、おぞましい響きの言葉だった。
まるで、生き物の内臓をかき回すような音。
『――領域の理を、侵食せよ』
ズズズズ……。
琥珀色の防壁に、黒い染みが広がった。
それは物理的な衝撃による破壊ではない。「腐敗」だった。
数千人の魔術師が練り上げた神聖な防壁が、まるでカビが生えるように黒く変色し、ボロボロと崩れ落ちていく。
「なっ……! 魔術を『腐らせた』だと!?」
ウォンが驚愕に目を見開く。
防壁の一部に穴が開いた。そこから、赤黒い魔力の触手が蛇のように侵入し、最前列にいた魔術師の一人を捕らえた。
「ぎゃああああ!」
悲鳴。だが、それは痛みによるものではない。
触手に触れた瞬間、その魔術師は狂ったように笑い出し、自らの顔を掻きむしり始めたのだ。
「怖い! 怖い怖い怖い! チェンソーの音がする! 呪いが来る!」
「精神汚染だ! 見るな! 耳を塞げ!」
ストレンジが叫ぶが、遅かった。
ワンダはただのエネルギー波を撃っているのではない。彼女はダークホールドを通じて覗き見た「特級呪霊」のような呪いの概念と、「悪魔」がもたらす根源的恐怖を、カオス・マジックに混ぜ込んで放射していたのだ。
防壁は粉々に砕け散った。
「逃げろ!!」
それは虐殺の始まりだった。
ワンダが地上に降り立つと、衝撃波だけで数十人の魔術師が吹き飛んだ。
彼女は歩く。ただ歩くだけで、立ち向かってくる魔術師たちの骨が折れ、精神が崩壊し、泡を吹いて倒れていく。
「邪魔よ」
赤い閃光が走り、寺院の石柱が砂のように崩れ去る。
「こっちだ、アメリカ!」
ストレンジは少女の手を引き、寺院の奥へと走った。
「あいつ、化け物よ! 魔法じゃない、もっと別の何かを使ってる!」
「ああ、奴は多次元の『概念』を取り込んでいる。俺たちの知る魔術の理屈が通じない!」
中庭では、ウォンが必死に時間を稼ごうとしていたが、ワンダの一瞥だけで空中に拘束され、壁に叩きつけられた。
ストレンジたちが回廊を駆け抜け、奥の祭壇の部屋に逃げ込もうとしたその時。
背後の壁が爆発した。
瓦礫の煙の中から、赤いオーラを纏ったワンダが姿を現す。
彼女の足元には、力尽きた魔術師たちの死体が転がっていた。だが、彼女の服には一滴の血もついていない。
「スティーヴン」
彼女はまるで、散歩の途中で知人に会ったような気軽さで名を呼んだ。
「逃げ場はないわ。……ねえ、聞こえる? 別の宇宙のざわめきが。そこには『指』を喰らう者や、心臓に『犬』を飼う者たちがいる。彼らの力も、全て私がいただくの」
「狂ってる……!」
ストレンジはアメリカを背後に隠し、盾を展開するが、ワンダはそれを素手で掴み、ガラス細工のように握り潰した。
「遅い」
衝撃波が二人を吹き飛ばす。
ストレンジは祭壇に叩きつけられ、意識が飛びかけた。
アメリカは床に転がり、後ずさる。「来ないで……!」
ワンダがアメリカの顔を鷲掴みにしようと手を伸ばしたその瞬間。
極限の恐怖が、少女の中で爆発した。
キィィィィィン!!
空間が星型に割れる音。
アメリカの背後に、青白い光を放つ星型のポータルが出現した。
「あ……あああ!」
制御できない力が暴走し、凄まじい吸引力が発生する。
「しまった!」
ストレンジは痛む体を押して飛び起き、アメリカに向かってダイブした。ワンダの魔の手が届くよりも早く、二人は転がり込むように星型の裂け目へと吸い込まれていく。
「逃がさない」
ワンダが手を伸ばすが、ポータルは瞬時に閉じた。
カマル・タージに残されたのは、破壊の爪痕と、静寂だけだった。
ワンダは閉じた空間を見つめ、不愉快そうに舌打ちをする。
だが、すぐにその表情は冷酷な笑みへと変わった。
「逃げられると思っているの?」
彼女は浮遊し、祭壇の中央に降り立つと、再び『ダークホールド』を開いた。
禁断のページがめくれる。
彼女が探しているのは、肉体を捨てて意識だけで別宇宙の自分に憑依する術――「ドリームウォーク」。
「どこへ逃げようと無駄よ。マルチバースのどこにいようと、私は『私』を見つけられる」
彼女の瞳が完全に黒く染まり、その奥で赤い光が点滅した。
意識が肉体を離れ、次元の壁を越えていく。
ストレンジとアメリカが逃げ込んだ先――そこがマーベルの世界であろうと、呪術が支配する世界であろうと、悪魔が蠢く世界であろうと、関係ない。
魔女の追跡が始まった。
※この世界ではダークホールドを使えば、別世界のワンダでなくても無理やり憑依し、使用者の全能力を使用できると考えてください。