ドクター・ストレンジ:マルチバース・イーター 作:ルルルだ。
描写は省略していますが、展開の直前に周囲への指示や不可視の圧力で周囲の人間を圏外へと弾き飛ばすなど、一般人を退避・保護している前提で進行します。あらかじめご了承ください。
渋谷のスクランブル交差点は、赤と黒の狂宴と化していた。
ネオンの光が、ワンダの放つカオス・マジックと、溢れ出した呪霊たちのどす黒い呪力によって歪められている。
「随分と派手にやってくれるね」
五条悟は、ポケットから片手を出し、指先を軽く弾いた。
「術式順転・『蒼』」
彼の指先から発生した超高密度の引力が、空間を削り取るように圧縮される。
瞬きする間もなく、襲いかかろうとしていた十数体の呪霊が、不可視のブラックホールに吸い込まれたかのように一点に凝縮され、ひしゃげ、肉塊となって飛び散った。
「ほう」
スティーヴン・ストレンジは、エルドリッチ・ライトの円盤を展開しながら感嘆した。
魔術とは違う。彼が使うのは、負の感情を動力源とし、空間座標を強制的に操作する物理法則への干渉だ。
「呪力操作……あれほど精密な空間干渉は、至高の魔術師でも容易ではないぞ」
「よそ見してる場合?」
上空から、冷徹な声が響く。
ワンダ・マキシモフ――この世界の一般女性の肉体を乗っ取ったスカーレット・ウィッチが、瓦礫を浮遊させながら降下してきた。
彼女の周囲には、赤黒いオーラがまとわりついているが、それはカオス・マジックだけではない。彼女は周囲に湧く低級呪霊たちを次々と「捕食」し、その穢れたエネルギーを自身の魔力に上乗せしていたのだ。
「この世界の『呪い』……美味だわ。怒り、嫉妬、恐怖。全てが純粋な燃料になる」
ワンダが右手をかざす。
空間がメリメリと音を立て、見えない巨大なプレス機のように二人を押し潰そうと迫る。
「下ってて、アメリ――!」
ストレンジが叫ぼうとした時、五条が一歩前に出た。
「大丈夫、僕に任せなよ」
五条は避ける素振りも見せない。
ワンダの放った圧倒的な破壊の衝撃波が、五条の鼻先数センチのところでピタリと静止した。
まるで、そこに見えない無限の壁があるかのように。
「当たらん……?」
ワンダが怪訝そうに眉をひそめる。
「『無下限呪術』だよ」
五条はニヤリと笑った。
「僕と君の間には、無限の距離がある。どれだけ近づこうとしても、決して辿り着けない。アキレスと亀って知ってる?」
「無限……」
ワンダの瞳が、興味深そうに赤く発光した。
「理屈は分からないけれど、要するに『法則』で守られているのね」
彼女は首を少し傾げた。その動作だけで、周囲の空気が凍りつくような悪寒が走る。
「なら、その法則ごと書き換えればいい」
『――現実は、私の思うがままに』
ワンダが唇を動かし、何かを呟いた瞬間。
パリーン!!
五条の目の前にあった「無限」のバリアに、ガラスのような亀裂が走った。
「……は?」
余裕の笑みを浮かべていた五条の表情が、一瞬で凍りついた。
六眼が、信じられない現象を捉える。
彼女の魔法は、呪術的な防壁突破ではない。「無限が存在する」という現実そのものを、「無限など存在しない」という現実に書き換えようとしているのだ。
「ッ!!」
五条は瞬時にバックステップで距離を取った。
直後、彼が立っていた空間そのものが、深紅の立方体に変換され、内側に圧縮されて消滅した。
アスファルトがえぐれ、信号機が飴細工のようにねじ切れる。
「危ないねぇ……!」
五条が冷や汗を拭う仕草を見せる。「術式を無効化するんじゃなくて、ルールそのものを無視してくるのか。反則だろ、それ」
「彼女は『スカーレット・ウィッチ』だ!」
ストレンジが五条の横に並び、千手観音のように無数の腕の幻影を展開した。
「現実改変能力を持つ。君の宇宙の常識で測るな、概念そのものを否定されるぞ!」
「なるほどね。ジャンケンで後出しどころか、『グーでパーに勝つ』って言い出すタイプか」
五条は目隠し越しに、鋭い視線をワンダに向けた。
「嫌いじゃないよ、そういう理不尽な手合いは」
「アメリカ、下がれ!」
ストレンジの指示と共に、戦局が動いた。
ワンダが両手を広げると、渋谷のビル群の窓ガラスが一斉に砕け散り、その破片が数万の刃となって二人へ襲いかかる。
ストレンジは空中に魔法陣を描き、ポータルを開いて破片の軌道を逸らす。
「ウォンがいれば……!」
防戦一方になりつつある状況に、ストレンジは歯噛みする。
その隙を縫って、五条が動いた。
「術式反転・『赫』」
彼の指先に圧縮された正のエネルギーが、反発力となって弾け飛ぶ。
衝撃波がワンダを直撃し、彼女の体をビルの看板へと叩きつけた。
ドォォォォン!!
巨大な広告塔がへし折れ、ワンダの上に崩れ落ちる。
「やったか?」
アメリカが顔を出すが、ストレンジは首を振った。
「いや、彼女はあの程度では止まらない。それに……」
崩れた瓦礫の中から、ゆらりと影が立ち上がった。
ワンダだ。だが、その姿はさらに異様さを増していた。
瓦礫の下から這い出してきた無数の呪霊たちが、彼女の体に融合し始めているのだ。
醜悪な顔、奇妙な腕、無数の目が、彼女の深紅のローブと一体化し、まるで魔界の女王のようなドレスを形成している。
「痛いわね」
ワンダは無傷だった。傷つくそばから、現実を「傷ついていない状態」に修正しているのだ。
彼女の背後で、呪霊の集合体が巨大な翼のように広がる。
「この世界の『負の感情』は素晴らしい。どれだけ使っても尽きることがない」
ワンダは恍惚とした表情で、自らの黒く染まった指先を見つめた。
「ありがとう、呪術師さん。あなたの攻撃で、この肉体と呪いの馴染みが良くなったわ」
「……どういたしまして」
五条の声から軽薄さが消えた。
彼はストレンジに視線を送らず、低い声で尋ねる。
「ねえ、魔術師さん。あいつ、殺してもいいの?」
ストレンジは苦渋の表情で答えた。
「……肉体は、この世界の罪のない女性のものだ。中の意識だけを追い出せればベストだが」
「無理だね」
五条は断言した。六眼が、魂と肉体の完全な癒着を見抜いていた。
「あれはもう、魂ごと混ざり合ってる。祓うなら、器ごと消し飛ばすしかない」
ストレンジは葛藤する。だが、アメリカを守るためには、甘いことは言っていられない。
「……無力化を最優先だ。だが、最悪の場合は――」
「分かった」
五条が指を組む。
周囲の空気が変わった。これまでとは比較にならない、濃密で純粋な呪力が練り上げられていく。
「領域展開」
ワンダがピクリと反応する。
ストレンジも肌で感じた。これは、カマル・タージのミラー・ディメンションに近いが、もっと強制力の強い、術者の心象風景による現実の上書き。
「――無量空処」
世界が反転した。
渋谷の喧騒が消え、無限に続く宇宙のような空間が広がる。
ワンダの動きが止まった。
彼女の思考、知覚、あらゆる情報が無限回の処理を強制され、脳が焼き切れるほどの負荷を受けるはずだった。
だが。
ワンダの瞳の中で、赤い光がカチリと音を立てて回った。
彼女の精神は既に『ダークホールド』という、全宇宙の禁忌が記された無限の知識に接続されている。
「無限の情報」など、彼女にとっては日常の一部に過ぎなかった。
「……綺麗な場所ね」
ワンダは、動けないはずの領域内で、ゆっくりと首を動かした。
「でも、少し狭いわ」
バキィィィッ!!
宇宙空間に、赤い亀裂が入る。
「なっ……!?」
五条が初めて焦りの声を上げた。
内側からの破壊ではない。外側――マルチバースの彼方にあるワンダの本体が、領域の外殻をこじ開けようとしているのだ。
「外から結界を!? 本体の出力が違いすぎる!」
ストレンジが叫ぶ。
「五条、領域を解け! 逆流して君の脳が焼かれるぞ!」
ワンダの背後にある闇が膨れ上がり、五条の「無量空処」を、彼女の「カオス・ディメンション」が侵食し始めた。
白と黒の宇宙が、赤黒い狂気に塗り替えられていく。
「逃げるぞ、ストレンジ! アメリカちゃんを連れて!」
五条は瞬時に判断し、領域を自ら解除した。
現実の渋谷に戻った瞬間、彼はストレンジとアメリカの襟首を掴んだ。
「ちょっと乱暴に行くよ!」
五条の瞬間移動。
空間が歪み、三人の姿がスクランブル交差点から消失した。
直後。
彼らがいた場所に、ワンダの放った破滅的な魔力が着弾した。
渋谷駅周辺が、音もなく円状に抉り取られ、巨大なクレーターと化す。
砂煙が舞う中、取り残されたワンダは、逃げた獲物の気配を探るように鼻を鳴らした。
「……速いわね」
彼女は背後に蠢く呪霊の翼を羽ばたかせ、ゆっくりと浮上した。
「でも、匂いは消せない。呪いの匂いも、魔法の匂いも」
彼女の視線が、東京の北東――呪術高専の方角へと向けられた。
「学校……? そこにはもっと面白い『オモチャ』がありそうね」
魔女の微笑みが深まる。
彼女の目的は、単にアメリカを捕らえることだけではなくなりつつあった。
この世界の「呪い」の王、両面宿儺。
その指の気配を感じ取っていたのだ。
「行きましょう。新しい力を迎えに」