ドクター・ストレンジ:マルチバース・イーター 作:ルルルだ。
冷ややかな夜風が、高尾山麓の杉林を揺らしている。
コンクリートとネオンのジャングルから一転、そこは古都の寺院を思わせる静謐な場所だった。
「……ッ!」
空間がねじれ、三人の人影が石畳の上に吐き出された。
アメリカ・チャベスは四つん這いになり、激しい嘔吐感に襲われていた。五条悟の空間移動は、ストレンジのポータル移動とは異なり、三半規管を無視して座標を強制的に書き換えるような乱暴さがある。
「ここ……は?」
スティーヴン・ストレンジはマントを翻して周囲を見渡した。
鳥居、結界石、そして古風な校舎。
空気中のマナ――いや、呪力の濃度が極めて高い。ここはただの学校ではない。要塞であり、霊的な聖域だ。
「東京都立呪術高等専門学校。僕の職場だよ」
五条悟は、自身の目隠しを外し、瞳を夜空に向けたまま、深く息を吐いた。
ツッ、と彼の鼻から一筋の鮮血が流れ落ちる。
「君……鼻血が」
ストレンジが指摘すると、五条は手の甲で雑に拭った。
「あー、久々だな、こんなの。あいつの精神干渉、僕の『無下限』の自動選別を無理やりこじ開けてきやがった。脳みそが焼き切れるかと思ったよ」
最強の呪術師が冷や汗をかいている。その事実は、事態の深刻さを物語っていた。
ストレンジは眉間に皺を寄せた。
「彼女は『スカーレット・ウィッチ』。現実を改変する魔女だ。君の術式は物理法則や呪術の理に基づいているようだが、彼女はその『理』自体を書き換える」
「なるほどね。ルールブックを勝手に書き換える相手と、真面目に将棋指してたわけか」
五条は軽口を叩きながらも、その瞳は鋭くストレンジを射抜いた。
「で、あいつは何を狙ってる? アメリカちゃんだけじゃないだろ。さっき、こっちを見て笑ってた」
ストレンジは頷く。
「彼女は言っていた。『指』を喰らう者や、心臓に『犬』を飼う者たちの力を欲していると」
その言葉を聞いた瞬間、五条の顔から表情が消えた。
普段の飄々とした態度はなりを潜め、絶対的な強者特有の冷徹な殺気が滲み出る。
「……『指』か」
五条は校舎の奥、厳重に封印された忌庫(きこ)の方角を見やった。
「ここには、呪いの王『両面宿儺』の指が保管されている。特級呪物だ。あいつ、それを喰って取り込む気か」
「呪いの王?」
「ああ。受肉すれば世界が終わるレベルの厄ネタさ。もしあんなデタラメな魔女が宿儺の力を取り込んだら……」
五条は首を鳴らした。
「日本沈没どころか、地球ごとミンチにされるかもね」
その時だった。
ウゥゥゥゥゥゥゥ――!!
不気味なサイレンの音が、山々に響き渡った。
ただの警報ではない。天元様の結界が強制的に破られたことを告げる、霊的な断末魔のような響きだ。
「来たか!」
ストレンジが空を見上げる。
夜空が裂けていた。
星々が見えるはずの暗闇が、赤黒い霧によって侵食され、巨大な「穴」が開いている。
その穴から、無数の異形の影が降ってきていた。
先ほどの渋谷とは違う。今度はカマル・タージから連れてきた魔獣たちに加え、異界から召喚されたガーゴイルのような悪魔たちが、雨のように高専の敷地に降り注ぐ。
「結界が……腐らされている!」
五条が叫ぶ。「天元様の結界術を、外側から『概念的』に分解してるのか!?」
正門の向こうから、一人の女性が歩いてきた。
深紅のドレスのように変貌した呪霊の集合体を纏い、宙に数センチ浮いているワンダ・マキシモフ。
彼女の背後には、意識を奪われた高専の補助監督や窓の人間たちが、糸で操られる人形のようにふらふらと従っていた。
「素晴らしい場所ね」
ワンダの声は、校内の放送スピーカーをジャックしたかのように、敷地全体に響き渡った。
「古い呪い、怨念、そして……美味しそうな指の匂い」
彼女が指を弾くと、校舎を守るように展開されていた簡易領域が、ガラスのように砕け散った。
校庭に待機していたパンダと禪院真希が飛び出す。
「なんだあの女! 呪霊か!?」
パンダが激昂し、ゴリラモードへ変形して突っ込む。真希も呪具の長刀を構え、神速の踏み込みでワンダの首を狙う。
「待て! 近づくな!」
五条が叫ぶが、遅かった。
真希の刃がワンダの首に届く寸前、その刃身が「砂」になって崩れ落ちた。
「え?」
真希が目を見開く。次の瞬間、彼女の身体が重力を失い、木の葉のように吹き飛ばされ、校舎の壁に激突した。
「物理攻撃は無意味よ」
ワンダは彼らに目もくれず、真っ直ぐに忌庫の方角を見つめていた。
「私が欲しいのは、そこにある『王』の力だけ」
パンダがドラミングのような拳を振り下ろそうとするが、ワンダが一瞥しただけで、パンダの体内の綿がすべて弾け飛び、ぬいぐるみのように縫い目が解けて崩れ落ちた。
「パンダ!」
真希が叫ぶ。
「手加減はしたわ。でも、邪魔をするなら……次は『内側』から壊す」
ワンダの瞳が赤く輝き、倒れたパンダと真希の影から、どす黒い手が伸びて二人を拘束した。
「生徒に手を出すなよ、おばさん!」
五条悟が瞬時に二人の前に移動し、術式で影の手を弾き飛ばした。
「……へえ、優しい先生なのね」
ワンダは首を傾げ、愉しげに笑う。
「でも、あなた一人で守れるかしら? 生徒と、指と、この世界すべてを」
ストレンジが五条の隣に並び、魔法円を展開した。
「彼女は精神を揺さぶってくる。挑発に乗るな、五条」
「分かってるよ。でもさ……」
五条は目隠しを完全に投げ捨て、六眼を極限まで見開いた。その周囲にバチバチと蒼い雷のような呪力が走る。
「僕の生徒を傷つけられて、黙って見てるほど大人じゃないんだよね」
「スティーヴン、君はアメリカちゃんと指を守れ。こいつの相手は僕がする」
「無茶だ! 彼女は現実改変能力者だぞ!」
「だからこそだよ。理屈の通じない相手には、理屈の外側にいる僕が一番相性がいい」
五条は両手を広げ、圧倒的な呪力の奔流を解き放った。
「それに、勘違いしてない? ……僕がいつ『一人』だと言った?」
五条の言葉に呼応するように、校舎の屋根から二つの影が飛び降りた。
一人は、全身に刺青のような紋様を浮かび上がらせた、ピンク髪の少年――虎杖悠仁。
もう一人は、式神の玉犬を従えた、黒髪の少年――伏黒恵。
「先生! こいつが原因かよ!」
虎杖が叫ぶ。
「悠仁、恵。準備運動は済んだ?」
五条が不敵に笑う。
「相手は特級クラスじゃない。世界を終わらせる『魔王』だ。死ぬ気で足止めしろ」
ワンダは彼らを見回し、退屈そうに嘆息した。
「子供の遊びに付き合う暇はないの」
彼女が右手を掲げると、背後の空間から、巨大な赤黒い触手が数本、槍のように射出された。
それは、カマル・タージでストレンジたちを襲ったガルガントスの触手でありながら、呪力で強化された最悪の武器だった。
「来るぞ!!」
ストレンジがヴィシャンティの防壁を展開し、五条が蒼の引力で迎撃する。
マーベルの魔術と、呪術廻戦の呪術。
異なる理を持つ二つの力が、東京の夜空の下で激突しようとしていた。
その混乱の最中、ワンダの左手が密かに印を結んでいたことに、誰も気づいていなかった。
彼女の真の狙いは、正面突破ではない。
『ドリームウォーク』の応用――忌庫の中に眠る宿儺の指そのものに、直接「干渉」し、引き寄せること。
保管庫の奥底で、干からびた指がカタカタと震え出した。
それに共鳴するように、虎杖悠仁の頬に、予期せぬ「口」が裂けて現れた。
『……ほう?』
虎杖の身体を借りて、両面宿儺の声が漏れ出る。
『面白い客が来たものだ。俺の魂を、別の宇宙の魔術で喰らおうというのか』
呪いの王が、魔女の気配に興味を示してしまった。
事態は、最悪の方向へと加速していく。