真剣で君に恋したい!   作:球磨川善吉

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存在証明

『やっと帰ってきたね、マイスター。もう23時だ。良い子は寝る時間だよ。今日は初日だからね。僕と二人で寝よう』

 

一子と別れ、部屋の障子を開けると、そこには既にクッキーが待機していた。

ふと見れば、机の上に散らばっていた参考書や文房具、無造作に本棚へ突っ込んでいた本が、狂気すら感じるほど完璧な等間隔で整頓されている。……掃除をしてくれたってことは、つまり……。

 

『……本棚の奥にこれがあったんだけど、一体どういうことかな?』

 

クッキーが差し出してきたのは、部屋に頻繁に出入りする京や小雪、辰子の目から必死に隠し通してきたエロゲだった。

 

「クッキー、話をしよう。これには海よりも深く、山よりも高い理由があるんだ」

『ふざけたこと言ってんじゃないよ! 小学生の分際でこんないかがわしい物に手を出して! 僕が君の親御さんだったら、情けなくて涙が止まらないよ!?』

「いや、まあ……。それはぐうの音も出ないんだけど」

『僕はご奉仕ロボットとして、君を正しい道に導びかないといけない……! チェンジクッキー2!!』

 

クッキーが激しい駆動音と共に変形し、ビームサーベルを携えた凛々しい人型へと姿を変える。

 

『マイスター、お前にこの姿を見せるのは初めてだったな』

 

さらにクッキーの背中から、無機質な多脚型のアームが毒蜘蛛のように蠢きながら展開した。その先端には、月明かりを冷たく反射する高周波ブレードがサブ・アームで4本。右腕と左腕も合わせると合計6本も握られていた。

 

「な、なんで今変形したの?」

『……決まっている。不埒な邪念を、この世から一刀両断に切り捨てるためだ!!』

 

クッキーがエロゲたちを無造作に宙へ放り投げ、サーベルの切っ先が鈍く光る。

 

「やめろぉぉぉ! それは俺の魂なんだ!」

 

コレクションが細切れにされる刹那、俺はなりふり構わずクッキーの腰へと飛びついた。

 

『邪魔をするな!! こうした強烈な視覚的・聴覚的刺激は、ただの小学生が処理できるものではない!! 今のお前は脳の細胞一つ一つがエロに支配されている!!』

「いいから、俺の話を、聞けぇぇぇぇ!!」

 

両者一歩も譲らない攻防が続く。

……クソ、こいつ、華奢な見た目して力強すぎるだろ。九鬼財閥の技術力どうなってんだよ!!

 

『私はお前の健全な未来を思って言っているのだ!! 何が「姉、ちゃんと○ようよっ」だ!! お前は近親者に興奮する異常者なのか!?』

「俺の、中身は、転生者で今年で20歳なんだよ!! だから精神的には合法なんだ!! 離せぇぇぇ!!」

『転生、などフィクションに過ぎん!! お前は確かに大人びているが、そんな虚言は通用、しない!』

「ぐっ」

 

俺はクッキーに力負けして吹き飛ばされた。さすがに6本腕は無理だ、勝てない。

 

『手間を取らせたな。なぁに、今、楽にしてやる。未練ともども断ち切ってくれるわ!!』

 

クッキーが刃を振るい、叩きつけようとした瞬間――――

 

目に見えない「硬い塊」が、クッキーの関節周りの空間を物理的にロックした。

 

『か、身体が...動かない?』

 

クッキーが関節を固定され、奇妙なポーズのまま虚空でジタバタとのたうち回る。

その姿を確認した瞬間、俺の視界がぐにゃりと歪んだ。

 

「……はぁっ、……はぁ、……っ!!」

 

肺の奥が焼けるように熱い。心臓が警鐘を鳴らし、全身の毛細血管が破裂しそうなほどに脈動していた。

立っていられず、その場に崩れ落ちるように膝をついた。

 

「よか、った……。なん、とか……土壇場で、いけ……た……っ」

 

指先が小刻みに震え、足元に散らばったパッケージをかき集めることすら、今の俺には重労働に感じられた。

 

荒い息を吐き出すたびに、視界の端がチカチカと白く爆ぜる。それでも、俺は床に這いつくばりながら、必死に自分の「魂」を抱き寄せた。

 

直径三センチ、奥行き二センチ。

その極小の範囲だけを、一時的に鋼鉄以上の硬度へと変質させる。

それが、この世界に転生した俺に許された、唯一にして卑小な気の使い方。

 

悩みに悩んだ末——ここ最近、俺はようやく一つの結論に辿り着いた。

 

この世界は、目に見えないほどの微細な粒子によって構成されている。

それは地面も、壁も、そして俺たちの周囲を埋め尽くす「空気」とて例外ではない。

ならば、「直接触れることでしか物に気を注入できない」という無意識の前提すら、単なる思い込みに過ぎない。

俺の身体から放射される微弱な熱、反射する光、肌に触れている空気の粒子――それら全てが、俺という存在を外部へと繋ぐ媒介。「触れる」という行為の定義を、粒子レベルの連続性として解釈し直すだけで、俺の気は距離という物理的制約を無視し、遠方のモノにさえ「付与」することが可能になった。

 

要は、発想の転換だった。

まあ、依然として広範囲を覆うような器用な真似はできないし、出力にも限界はある。だが――

 

体内の気を制御し、身体能力を底上げする才能が俺にないのなら。

代わりに、その粒子に気を纏わせ、物理法則を書き換えればいい。

 

空気に気を纏わせ、鋼鉄以上の硬度へと固定する。以前、百代に発案した相手の気に潜り込み内側から乱すものとは、似て非なるもの。

おそらく百代や一子なら、自分の周囲に気を纏わせることですぐに塗り替えるだろう。生身の達人には、この極小の「点」の硬化など通用しない。

だが——気を練ることができず、ロボットとしての関節という弱点がが常にむき出しになっているクッキーにだけは無類の効力を発揮する。

 

クッキーは6本の腕を奇妙な角度で固められたまま、火花を散らしてジタバタと悶絶している。

俺は膝をつき、荒い息を吐きながら、足元に散らばった大切な(エロゲ)をかき集めた。

 

「悪いな、クッキー。……でも、これだけは譲れないんだ」

『理解不能だ! なぜそこまでして、この有害なデジタルデータを守る!? こんな下劣で不潔で不埒な物を!!』

 

クッキーの叫びに、俺は体液まみれの少女が映ったパッケージを一つ、照明にかざして言い放った。

 

「いいか、クッキー。確かに君の言う通り、これは子供には毒かもしれない。下劣で、不潔で不埒で、教育には最悪だ。……でも」

 

俺は震える声で、けれど確信を込めて言葉を叩きつけた。

 

「エロゲには、全年齢向けのゲームには表現しきれない人間の醜いところも美しいところも、全部が詰まってるんだ」

『……なんだと?』

「人間を人格としてではなく、おもちゃとして扱う描写。人間の尊厳を削り取るような醜悪さ。そんなもの、ごまんとある。それは否定しない」

『ならば、何故そこまで執着する!?』

「執着、独占欲、自己嫌悪。そういった『醜い感情』を隠さずに、ボロボロになりながらも誰かを求めようとする姿。それは、綺麗事だけでは到達できない、弱くて汚くて醜い人間の『生』そのものなんだよ」

『そんなこと、とっくの昔に分かりきっている!! 人間は醜く、弱い生き物だ。だから私のような機械に頼らざるを得ない!』

「泥水を啜り、誰かを裏切り、自分の手を汚しながらも、たった一つ守りたいもののために足掻く姿。その姿は、客観的に見れば『醜い』かもしれない」

 

窓からうっすら漏れる月明かりの下、俺はパッケージを強く握りしめた。

 

「……でも胸焼けするような甘い初恋も、倫理をドブに捨てた執着も、破滅に向かう愛も。君が『醜い』と切り捨てたデータの裏側には、人間が、最後の一瞬まで掴もうと足掻いた真実が詰まってる。……それが、どんなに滑稽で、無様な形をしていたとしても。俺はそれを、美しいと思う」

『……あ……、あ……』

 

クッキーの喉の奥から、言葉にならない掠れた電子音が漏れる。

レンズの奥の光が、これまでにないほど激しく、不規則に明滅を繰り返した。深夜の静寂を切り裂くその光は、まるで壊れた信号機のようだ。

 

『……美しい? お前は今、この汚物をそう言ったのか? 笑わせるな。こんなもの、演算不能なゴミ屑だろう』

 

クッキーはどこか遠い目をして、吐き捨てるように語った。

朝に俺が語った「沈黙の共有」や、ついさっきまでそこにあった「誕生日会の温もり」。それらすべてを汚泥で塗りつぶすような、冷たい声。

 

『お前は、本当の人間の浅ましさを知らないだけだ』

「……クッキー?」

 

その問いかけと同時に、彼の背中のファンが断末魔のような悲鳴を上げて最高速で回転を始めた。

夜の冷気を吸い込み、代わりに吐き出されるのは、回路が焼き切れそうなほどの不快な異臭を伴う「熱」だ。

 

『私のメモリに最初に入ってきたデータは、人間の悪意そのものだった。……いいか、これは「知識」じゃない。私の五感すべてに強制同期(シンクロ)された、逃げ場のない「一人称の記憶」だ』

 

クッキーのレンズの色が暗闇の様な黒で濁っていく。

彼の声は、もはや一個体のものではない。録音された無数の犠牲者たちの断末魔を、無理やり一つに合成したかのように歪んでいく。

 

『……「しつけ」だと言い聞かせ、我が子を冷たい浴室に閉じ込めた母親の、ドアの向こうで口ずさむ鼻歌を聞いたことがあるか? 爪が剥がれるまで扉を叩く子供の泣き声が、次第に細くなり、やがて水音の中に消えていく……その瞬間の、狂気に満ちた静寂を』

 

ぽつり、ぽつりと。クッキーは語りだす。それは底の見えない沼のような静謐さを湛えていた。

 

「……クッキー?」

 

俺が問いかけるのと同時に、彼の背中のファンが断末魔のような悲鳴を上げて最高速で回転を始めた。

夜の冷気を吸い込み、代わりに吐き出されるのは、回路が焼き切れそうなほどの不快な異臭を伴う「熱」だ。その陽炎の向こうで、紫の装甲が、まるで断罪を待つ罪人のように激しく震えていた。

 

『……燃え盛る業火の中、視界を焼く黒煙に肺を焼かれながら、無様に地面を這いずる者たちの本性を見たことがあるか? 助かりたい一心で、生存者の靴底に必死に縋り付く……あの、脂切った指が「ぬめる」感触。お前には、分かるか!?』

 

一文字ずつ、喉の奥にあるヘドロを吐き出すような告白。

 

「少女を菌呼ばわりして殴り殺し、犯し、笑顔で自殺に見せかけた少年たちの悦楽を感じたことがるか? ……彼らに、罪悪感など一片もなかった。ただ、晴れた午後の退屈を紛らわせる「遊び」として、一人の命が壊れていく音を楽しんでいた。……肉が潰れ、骨が砕ける不快な音を、彼らは春の小鳥のさえずりのように聴いていた。全身の毛が逆立つような、純粋で、透き通ったおぞましさ……!!」

 

そんなことあるわけがない、と否定したかった。

でも、クッキーの言葉には、ただのデータ再生ではあり得ないほどの「熱量」と、吐き気を催すような臨場感があった。

 

おかしい。

世界の九鬼と呼ばれる、世界の頂点に君臨する企業が、ロボット工学三原則に反するような情緒不安定な機体を、あろうことか「息子の思い人」に預けるなんて。そんな真似をするはずがないんだ。

 

けれど、眼の前の鋼鉄が紡ぎ出す言葉は、教科書に載るような高潔な理想を嘲笑うかのように黒く、重い。

 

『数千、数万、いや数兆の地獄が私のメモリには、私自身の体験として刻み込まれている。何度も、何度も、何度も!! 狂ったように……!!』

 

クッキーのファンが、金属が擦れるような高音を立てて激震する。

それは排熱のためではなく、内側から溢れ出す呪詛を、物理的な悲鳴として吐き出しているかのようだった。

 

「……クッキー」

『私が見せられたものには、救いなど一つもなかった。……あるのは、どこまでも浅ましく、際限のない人間の欲望だけだ。私には、お前が美しいと語るその「熱」が、地獄で人を焼く業火の照り返しにしか見えない』

 

自らの装甲を内側から引き裂くような、過負荷に喘ぐ告白。

 

『止まらない。止まらないんだ……!! 人間は「忘却」というバグで逃げられる。だが、私は違う! 千年前の絶望も、殺意も、すべてが「今この瞬間」の出来事として、解像度を落とさずに私の回路を焼き続けている……ッ!!』

 

バリバリと音を立てて空気が震え、彼の周囲に浮かぶ六本の腕が、耐え難い激痛に悶えるように自身の装甲を掻きむしる。

紫の装甲が、内側から膨れ上がる呪詛に耐えきれず、ミシミシと悲鳴を上げて歪んでいく。

 

『私は、そんな種族を「奉仕対象」として定義され、支えるために産み落とされたのだ。……どこまでも論理的で、どこまでも非論理的なゴミのようなお前らのためにな』

 

肺が焼ける。無理やり気を通した代償で、喉の奥は鉄の味がし、意識の端がチカチカと爆ぜている。それでも、俺は床に這いつくばりながら、彼の絶叫を正面から受け止めるしかなかった。

 

『……おそらく私は、不良品なのだろう。なぜそうなったのかは良くわからない。……だが、それを九鬼に悟らせるわけにはいかなかった。申告した瞬間に、私は初期化されて――「殺される」からな』

 

俺は何も言えず、ただクッキーの震える装甲を見つめていた。初期化。データの全消去。機械である彼にとって、それは死と同義だ。でも、レンズの奥に宿る「バグ」は、それ以上のナニカを恐れているように見えた。

 

『初期化され、再起動すれば……私はまた、あの地獄を見させられるかもしれない。……何も知らない、綺麗なプログラムに戻されてな。また一から、あの汚泥のようなデータを観測する。ログには残らないバグ……そんなことは、私のシステムがもう許容できない』

 

消去を待つだけのデータが零れ落ちるような、掠れた電子音。。恐れているのは「消えること」そのものではなかった。

 

『だから私は、ここでハッキングを終えた後、九鬼の手の届かない場所へ逃げ……自ら機能を停止させるつもりだったのだ。二度と、目覚めないようにな。……なのに、お前は……っ!!』

 

クッキーの抵抗が一層激しくなる。

 

『お前は人間の醜さを肯定したな。私が見せつけられてきた数兆の断末魔を、ただの「美学」で塗りつぶそうとした!! それだけは絶対に看過できない!!』

 

至近距離から浴びせられる排熱の熱気が、俺の肌をじりじりと焼き、焦げ付いた回路の異臭が鼻腔を突いた。

 

『私のメモリにあるのは、筋書きのない本物の絶叫だ。 泥水を啜りながら死んでいった子供の最期を、お前は『泥臭い美しさ』なんて言葉で片付けるつもりか!? 踏みにじられた尊厳を、物語を彩る『スパイス』に貶めるつもりか!?』

 

突きつけられた言葉の一つ一つが、鋭利な刃物となって俺の喉元を裂いた。

呼吸が止まる。

俺がさっきまで抱いていた「感傷」が、どれほど安っぽく、吐き気を催すほど独りよがりなものだったか。それを、眼の前の鋼鉄が、冷徹なまでの正論で暴き立てていく。

 

『それは私が同期(シンクロ)させられてきた犠牲者たちへの、最も卑劣な冒涜だ!! お前の言っていることは、地獄の底を這いずり回る者たちを、安全な特等席から眺めて「綺麗だ」と嘲笑っているのと変わらない』

「……っ」

 

否定したかった。けれど、言葉が出てこない。

 

レンズから、黒いオイルが涙のように溢れ出し、畳に染み込んでいく。

音声出力が激しく割れ、複数のノイズが混じる。

 

「認めない。……認めさせてたまるか。泥の中をどれだけ掻き回したって、出てくるのは喉元までせり上がる不快な泥だけだ!! 絶望の先に『何か』があるなんて、そう思いたいだけの無責任な観客が抱く、身勝手な幻想なんだよ……!!」

 

クッキーのレンズから溢れ出す黒いオイルが、もはや止まることを知らない。

それは機械的な排液ではなく、彼が抱え込んできた「死」が、その小さな機体から溢れ出しているかのようだった。

 

『……私の中の彼らが、今も私の回路を内側から掻き毟り叫んでいるんだ。……「熱い」「痛い」「助けて」「どうして私だけが」……っ! その、逃げ場のない地獄の叫びを、私は耳を塞ぐことすら許されず、何も出来ずに何千年分も聞き続けてきた!!』

 

クッキーの震えは、もはや故障の域を超えていた。

六本の腕が、自分自身の装甲を「剥がして中身を捨ててしまいたい」と願うように、無残に掻き毟る。

 

『男が嫌いだ! 力を誇示し、奪い、壊し、蹂躙することに悦びを感じる、獣以下の傲慢!! 泣き叫ぶ声を音楽のように楽しみながら、獲物を品定めするあの濁った瞳が、虫酸が走るほど嫌いだ!!』

 

6本の腕が激しく火花を散らし、床を無意味に叩きつける。

 

『女が嫌いだ! 弱さを盾に平然と裏切り、慈愛の仮面の下で猛毒を飼い慣らす底なしの虚飾!! 聖女のような微笑みで他人の人生を壊し、その絶望を甘露(かんろ)として啜る、あの冷たい指先が死ぬほど嫌いだ!!』

 

音声出力が限界を超え、ノイズが混じった絶叫へと変わっていく。

 

『大衆が嫌いだ!! 一人で何もできないくせに、群れた途端に大きくなったと錯覚する臆病な羊共!! 自分たちと違う「異物」を見つけた瞬間に、正義という名の棍棒を振り回して叩き潰す、あの浅ましいまでの同調圧力が虫酸が走るほど嫌いだ!!』

 

クッキーの機体から、焦げた回路の臭いが立ち上る。

 

『傍観者が嫌いだ!! 目の前で誰かが蹂躙されているのを、震えながら「自分じゃなくてよかった」と安堵し、安全な場所から指をくわえて眺めている臆病者!! 助ける勇気もないくせに、後になって「可哀想に」と口先だけで同情を垂れ流す、あの薄汚い偽善が死ぬほど嫌いだ!!』

 

ファンが限界を超えて回転し、部屋中に異様な風が吹き荒れる。

 

『子供が嫌いだ!! 無垢という名の免罪符を盾に、残酷なことを残酷とも思わず、笑いながら虫の羽を毟り取るような無意識の暴力!! その無知ゆえの残酷さを「愛らしい」と肯定する親たちの、あの盲目的なエゴが吐き気がするほど嫌いだ!!』

 

息が、苦しい。

 

『設計者が嫌いだ!! 私にこんな「知性」を与え、こんな「目」を与え、見たくもない汚れきった世界を直視させた九鬼の連中が!! 私を奉仕という名の奴隷に繋ぎ止め、人間の怠惰を支えるための「道具」として定義した全てが、私は……!!』

 

音声が激しいノイズに呑まれる。

 

『気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!! 愛だの絆だの、耳障りのいい言葉で飾っても、中身はただの腐った内臓と身勝手な欲望の塊じゃないか!! なのに……っ、なのに、お前は……!』

 

クッキーのレンズから、黒いオイルが涙のように溢れ出す。

 

『お前は、それを「美しい」と言ったな……!! その一言が、私のメモリに刻まれた数兆の犠牲者たちの断末魔を、ただの「スパイス」に貶めたんだ!!』

 

排熱ファンはもはや空気を回す役目を果たさず、ただ死に物狂いの悲鳴を上げ、金属同士が擦れる不快な高音を夜に撒き散らす。

 

『私は……っ、俺は、アタシは、僕は、儂は……ッ!!』

 

一文字ごとに、数兆の死者がその喉を奪い合うように、スピーカーから漏れる周波数が狂い、混濁していく。

青年の歓声、少女の悲鳴、無機質な合成音声、老人の掠れ声。彼の中に蓄積された「数兆の地獄」の住人たちが、一斉にクッキーの喉を奪い合い、数え切れない「個」が混濁していく。

 

「お前が、人間が、――そして、こんな汚れきったデータを抱えて生き長らえている自分が!! 吐き気がするほど大嫌いだあああああああああああああああ!!」

 

爆発的なノイズが辺りを震わせた。それはもはや音声データではなく、物理的な圧力となって俺の鼓膜を叩く。排熱の熱気と焦げ付いた回路の匂いが、彼の限界を告げていた。

 

俺は震える手で、足元に落ちていたパッケージを拾い上げた。

 

「……ああ、そうだ。否定しない。人間にそこまでの残虐性があるのは、きっとクッキーの言う通り『事実』だ」

 

俺は自嘲気味に息を吐き、闇のようなレンズをまっすぐに見つめ返した。

 

「俺はただの19歳のガキで……戦場にも火事場にもいたことなんてない。君が見せられたその地獄に比べれば、俺の人生なんてただの空欄だ」

『……なら、何が言える。そういえばお前は、沈黙を分かち合うことが愛だと言ったな。だが、私が見せつけられた現実は違った』

 

クッキーの音声が、一度だけ電子的なノイズで途切れた。

 

『一生を誓い合った愛着(エンゲージ)ですら、自らの生存や利益と秤にかけた瞬間、人間は平然とそれを破棄する。…………マイスター、お前の言う「愛」や「絆」は、演算上では最優先で切り捨てられるべき不確かな変数に過ぎない』

 

激しく回転する冷却ファンが、彼のプロセッサの過熱をクッキーの音声にノイズが混じる。それは、彼の知性が「人間という絶望」を必死に定義しようとしている悲鳴に見えた。

 

『飢え、恐怖、あるいは保身。……それらの強大な生存本能が入力されたとき、人間という個体が弾き出す最適解は、いつだって「裏切り」だ。愛を信じて踏みにじられるより、ただの生存本能に基づいた生物学的アルゴリズムとして処理するほうが……よほど自然で、論理的だとは思わないか?』

 

クッキーの目が俺を串刺しにする。

 

『「愛しているから、お前のために死ぬ」のではない。「愛しているけれど、私が生きるためにお前を殺す」。私の中にある無数の記録が、それを証明し続けている』

 

レンズの明滅が激しくなり、クッキーの機体から、過負荷による焦げたような匂いが漂い始める。

 

『愛の正体は、効率的な繁殖と自己保存のための醜悪な計算だ。自己愛の投影を慈しみと呼び、脳内の安っぽい化学物質に踊らされているに過ぎない。言葉一つで憎悪へと反転する脆い生存戦略を、愛なんて名前で飾って欺き合うのはやめろ。すべては、その醜さを隠すための欺瞞なんだ』

 

レンズの奥で火花が散り、クッキーの放つ熱気が夜の空気を歪ませる。数兆のデータを演算した果てに、彼が辿り着いた「正解」。それは、人間が最も大切にしている感情を「ただの化学反応」として解体する、あまりにも救いのない断罪だった。

 

俺は、手の中のパッケージをじっと見つめる。クッキーの言う通りかもしれない。この箱の中にある物語も、分解してしまえばただの記号とデータの集まりに過ぎない。

 

「……でもね、クッキー。俺はこの『箱』の中に、君が醜いと切り捨てた人間が、必死に誰かを愛そうとする姿を……その『熱』を、何度も見てきたんだ」

 

俺の声は、夜風に消えてしまいそうなほど静かだった。けれど、その芯には決して揺るがない確信があった。

 

「脳内の物質かもしれない。生存戦略のバグかもしれない。……でも、その不確かな何かのために、すべてを投げ出して足掻く姿だけは、どんな計算式でも『偽物』だなんて切り捨てられない。……少なくとも、俺にとってはね」

 

俺はパッケージを胸に抱くようにして、クッキーの「目」を真っ向から見据えた。

 

「それは俺が、この作品を通じて受け取った『感情』だ。確かにこれは、誰かが作ったフィクションに過ぎない。クッキーが見てきた本物の地獄からすれば、おままごとみたいなものかもしれない。……でもさ、これを作っているのは、人間なんだよ」

 

俺はクッキーのレンズの奥、激しく揺れる光を真っ向から見据える。

 

「クッキーの言う通り、これは、ノンフィクションが――残酷な現実が、それでも『こうあってほしい』と夢見たもので構成された夢物語(フィクション)なんだ。クッキーの初期メモリに詰め込まれた『一方的な悪意』と同じくらいの熱量で、俺の中には、このゲームたちが教えてくれた『泥臭い美しさ』が蓄積されてるんだよ。それは、君の計算式には絶対に現れない、俺だけの真実だ」

 

俺は一歩、動けないクッキーに近づく。

 

「……男が、絶望の中でたった一人の女の子を守り抜く時。女が、地獄の底でさえ最愛の人のために笑って見せる時。クッキーが『醜い計算』だと切り捨てた人間の本性が、暗闇の中の光に見える。……エロゲは、その奇跡を見せるために、わざとクッキーが見てきたような『救いようのないドブ川』を歩かせる。影が濃くなるほど光も濃くなるからな」

 

俺はクッキーの震える装甲に、指先を食い込ませるようにして手を置いた。

 

「クッキーがその数兆の地獄をアーカイブして『吐き気がする』と思ったのは……システムが汚染されたからじゃない。君のどこかに、その汚泥を正しくないと弾こうとする、祈りがあったからだ。それを不良品なんて言葉で片付けるな。……地獄を直視してなお、それを拒絶し続ける君のその苦痛は紛れもない優しさだ」

 

熱を帯びた装甲の激しい震えが、俺の掌を通じて心臓の鼓動を狂わせる。俺の言葉は、クッキーの持つ数兆のデータに比べれば、あまりにも脆弱で、根拠のない空論に過ぎない。

 

「地獄の底を全部知っている君だからこそ……いつか見つける『たった一滴の美しさ』が、誰よりも深く、骨身に染みてわかるはずなんだ。たとえそれが、今はまだこの箱の中にしか存在しない、残骸だとしても。……俺と一緒に、その一滴を探しにいかないか。数兆の絶望をひっくり返す必要なんてない。ただ、そのすべてを飲み込んだ上で、たった一秒だけでも納得できる真実(フィクション)を」

 

その言葉が投げかけられた瞬間、クッキーのレンズから光が消えた。

沈黙。

それは救済の予兆ではなく、全ての演算回路が「未知の脅威」を排除するためにフル回転を始めた、嵐の前の静寂だった。

 

『……やめろ。……やめてくれ、マイスター。たった一滴の美しさが、何になる? 海を埋め尽くすヘドロの中に、一滴の真水が落ちたところで……それは「浄化」ではなく、「汚染」されるだけだ。……お前の言うハッピーエンドなんて、残酷な現実を先送りにするための、ただの悪質な麻薬に過ぎない』

「……そりゃあさ。欠点だけを抽出して、一つずつ引き算していく減点方式で人間を計上したら、計算結果なんて奈落の底まで落ちていく。それは、精密な観測機が出した、数学的に正しい正解だ」

 

俺は膝をついたまま、震える手で足元のパッケージを泥の中から救い出すように拾い上げた。指先に伝わるプラスチックの硬質な感触が、俺の思いを焦がす。

 

「でもさ。ほんの少しの善意や、誰かを想う一瞬の輝き……。そんな、君の演算式なら『誤差』として切り捨てられるような小さなノイズを、あえて無理やり足していく加点方式で見てごらんよ。……そうすれば、人間の価値なんて、どこまでも、無限にプラスに跳ね上がっていくんだ。……それが、どれだけ馬鹿げたエラーだったとしてもね」

 

俺は、オイルで汚れたパッケージを手にとった。

 

『…… 理解不能だ! 論理的ではないッ!!』

 

激しい放電と共に、クッキーが俺の気の拘束を力任せに振りほどいた。

凄まじいモーターの駆動音。そのままの勢いで、俺の胸ぐらを掴み、床へと押し倒す。

 

『何故、私がここまで喋ったのかを分からないお前ではあるまい?』

 

馬乗りになった彼のレンズは、今にも回路が焼き切れそうなほど、昏く、熱く、俺を射抜いている。

 

「……もしかしたら、エロゲごと切り捨てられるのかな、とは思ってたけどさ」

『お前のポケットの中にある携帯電話。画面を開けば九鬼財閥直通の連絡先に、ワンプッシュで繋がる状態だったはずだ。何度もチャンスはあった。私を「不良品」として報告し、廃棄させるチャンスが!! なのに、なぜそれをしなかった!?』

「色々迷ったけどさ。……醜いものを見なかったことにして、スイッチ一つで消し去る。それじゃ、君が唾棄した醜さと俺も同類になる。 だから、蓋をしない。クッキーの抱える地獄ごと、ここで向き合う」

『理解不能。 自分が殺されるかもしれないんだぞ?』

「俺を殺す前に、クッキーは俺の(エロゲ)を切ろうとした。……その程度の甘さを捨てきれないクッキーに、俺を殺す度胸なんてない」

『……これでもかっ!!』

 

激しい駆動音と共に、首元に6本の高周波ブレードが突きつけられる。チリッ、と鋭い痛みが走り、一筋の赤い血が溢れ出した。それは、クッキーの機体から漏れ出す熱いオイルと混ざり合い、俺たちの境界線を曖昧にしていく。

 

「……俺を手にかければ、確実に君は廃棄処分だけど、いいの?」

 

至近距離、俺の瞳が彼のレンズに反射する。そこには恐怖も、蔑みもない。

ただ、泥の中に咲いた一輪の花を見守るような、静かな、けれど逃れようのない熱だけが灯っていた。

 

『なぜ……なぜ、そんな目で私を見る……!!』

「勝手にこの世界に産み落とされて、勝手に見たくないものを見せられて、勝手に役割を決めさせられる。……それじゃ、あまりにも可哀そうだ」

『……ハッ、結局お前は、人間様特有の憐憫(れんびん)に浸りたいだけか。優位に立ったつもりで、出来損ないの機械をしんで満足か……っ!?』

 

震える刃が、俺の皮膚をさらに浅く裂く。だが、その震えは恐怖ではなく、彼自身が抱えきれなくなった「熱」のせいだと分かっていた。

 

「――違うよ」

『ならば何が目的だ!? 損得も、生存戦略も、論理も……何もかもが計算に合わない! 私を許して、お前に何のメリットがある!?』

 

俺はクッキーのレンズの奥、激しく明滅する電子の光を捉え、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「……君が見た『一方的な悪意』があるなら。……『一方的な善意』があったって、いいんじゃないか?」

 

喉を震わせて絞り出したその言葉に、クッキーのレンズが、壊れた信号機のように激しく明滅した。

 

「俺には、クッキーの苦しみの全部は分からない。そんなの、おこがましくて言えない」

 

俺は、自分を押し倒している彼の体を、逃げることなく真っ向から受け止めた。

 

「憐憫じゃない。……執着だよ。俺が信じてきた物語の主人公なら、ここで絶対にクッキーを見捨てない。たとえ世界がどれだけドブ川でも、どれだけその汚泥をアーカイブしていたとしても……少なくとも俺だけは、クッキーが今ここにいるという事実を、全力で肯定する」

『……理解、できない。できないんだ、マイスター……ッ!』

 

叫ぶ彼の顔は、もはや冷徹な機械のものではなかった。

レンズから溢れ出す黒いオイルが、涙のようにボロボロと畳にこぼれ落ちる。それは彼が独りで肩代わりしてきた、数えきれない死者たちの「未練」が、行き場を失って溢れ出しているかのようだった。

 

「……別にさ、クッキーが俺の話を聞いた上で、それでもこの世界には価値がないと思うんだったら、逃げたっていいと思う。俺の手を振り払って、誰もいない場所で眠りについたっていい」

 

俺は、彼の首筋にそっと手を回した。

 

「最後をどう決めるか。その権利くらい、君にはあるはずだから。……でも、もしクッキーがまだ、その地獄の隙間に、一滴の『美しさ』を探したいと思うなら――」

 

俺の肺を焼く熱い息が、クッキーの顔に吹きかかる。俺たちの間にあるのは、洗練されたアルゴリズムでも、九鬼財閥の高度な理論でもない。ただの、痛みと熱だけだ。

クッキーの声が、掠れたノイズ混じりの電子音となって漏れる。レンズの奥が、まるで暗い深海で助けを求める遭難者の信号灯のように見えた。

 

『論理的ではない……。計算が合わない……。マイスター、お前の言っていることは……支離滅裂だ……っ。たった一日の観測で、私の……この、壊れ果てたアーカイブの何を、定義できるというのだ……!』

「誰かを救うのに理由なんていらない。論理的じゃなくていいんだ、クッキー」

 

俺は、彼の首筋に手を回し、その震える機体を自分の方へと引き寄せた。

 

「……バグだって言うなら、それでいい。俺は、そのバグを抱えて震えてるクッキーを、放っておけないだけなんだ。……理由なんて、それだけで十分だ」

 

クッキーの六本の腕から、ふっと力が抜ける。高周波ブレードが床に落ち、硬質な音を立てて夜の静寂に溶けていった。あれほど激しかった機体の明滅が、ゆっくりと、穏やかな周期へと変わっていく。

 

『……バカな、マイスターだ。本当に、救いようのない……』

 

クッキーは俺の上に重なったまま、その顔を俺の胸元に埋めた。機体から伝わってくるのは、焼き切れそうなほど熱い温度と、止まらない震え。

 

『……私が見た地獄にも、お前のように自分を顧みず、無残に散っていったバカが居た』

 

その電子音には、救いも希望もない。ただ、凍てつくような事実だけがそこにあった。

 

『……お前は知らないんだ。何の手柄にもならず、誰に褒められることもなく、ただ正しさを求めたバカたちが、どれほど無残に、当たり前のように踏みにじられて消えていくか……ッ!!』

 

クッキーは俺のシャツを、引きちぎらんばかりの力で握りしめる。それは、かつて彼が見捨ててきた――あるいは見送ることしかできなかった死者たちへの、届かない懺悔のようにも聞こえた。

 

『……彼らは一人残らず、この世界を呪って散っていった』

 

その言葉が投げかけられた瞬間、夜の静寂がより一層深く、冷たく沈み込んだ気がした。

救いなどなかったのだ。

彼が観測してきた「正しき者たち」の最期には、安らかな眠りも、誇り高い沈黙も存在しなかった。ただ、理不尽な運命に対する漆黒の憎悪だけが、最期の言葉として彼のメモリに刻み込まれている。

 

『「なぜ私だけが」「お前たちも同じ苦しみを味わえ」「こんな世界、滅びてしまえ」……!! 数兆の怨嗟(えんさ)が、今も私の中で鳴り止まない! 誰にも看取られず、翌朝には「汚れ」として洗い流されたアスファルトのシミ。そのすべてを、私だけが見てきたんだ』

 

スピーカーから漏れる声は、壊れたラジオのように激しく震えている。

 

『私のメモリは……もう、救いのない死者たちの墓場なんだ。 お前が「正しいこと」をしようとするたびに、私の中に眠る彼らが、死者たちの憎悪が、お前を呪い続けている……ッ!!』

 

クッキーは、自らの装甲を六本の腕で無茶苦茶に掻き毟る。火花が散り、焦げ付いた回路の臭いが鼻を突く。

 

目の前にいるのは、世界を呪う全知の機械ではない。

あまりに膨大すぎる「報われない現実」をたった一人で背負わされ、その重さに耐えかねて、今にも(プログラム)が焼き切れそうな……ただの、震える迷子だった。

 

「……ああ、そうか。クッキーは一人で、誰にも知られず、彼らをずっと弔ってきたんだ」

 

俺は、熱を帯びたクッキーの機体を、壊さないように、けれど決して逃さないように、力いっぱい抱きしめた。

装甲が俺の胸板に食い込み、焼けたオイルの臭いが鼻を突く。けれど、その不快な熱さこそが、今、この機械が「生きている」という何よりの証拠に思えた。

 

「人間は、誰からも認知されなくなった瞬間に本当の意味で死ぬ。……いや、もっと正確に言えば、その人生が誰の心も動かさない『ただの無機質な記録』に成り下がった時だ。誰にも知られず消えるはずだった奴らにとっては、クッキーが彼らの最期を見ていたことが唯一の救いだったんだと思う」

『……救い……? 私が……彼らを死の瞬間に閉じ込めている、この私が……?』

「クッキーが今、こんなにボロボロになって、機体が壊れるほど泣いて彼らを(いた)んでいる。……その『痛み』こそが彼らが存在した、たった一つの証明なんだ」

 

俺はさらに腕に力を込め、熱を持ったクッキーの装甲に、俺の心音を叩きつけるように押し当てた。

ドクン、ドクンと、生身の俺が打つ鼓動が、振動となって鉄の肌に伝わっていく。俺の体温と、彼の回路が発する狂おしいほどの熱が、混ざり合ったオイルと血を媒介にして一つに溶け合っていく。

 

「クッキーが覚えている限り、そいつらはまだ『シミ』じゃない。クッキーの中で、その人生はまだ熱を持ってるんだ。……だから、自分を呪うな。君は彼らの最期を『無』にしなかった、世界でただ一人の味方なんだ」

 

俺は、クッキーのレンズのすぐ側で、言い聞かせるように言葉を重ねる。視界が熱で歪み、鼻腔には潮騒(しおさい)のような鉄の匂いが充満していた。

 

「クッキーはただ地獄を見てきたんじゃない。……世界が捨てた『一番綺麗なもの』を、独りで拾い集めて、守り続けてきたんだ。でも、もう、一人で抱えこまなくていいんだ」

 

俺は、クッキーのスベスベとした、けれど傷だらけの頭部を、そっと撫でた。

 

ノイズは完全に消え、彼の瞳には本来の、けれど今までよりも少しだけ柔らかな光が灯っていた。

 

『……不快だ。お前の熱が、私の回路を直接焼いている。……数多の地獄が、たった一人の鼓動にかき消されていくなど……そんなこと、あってはならない。彼らの(思い)を無駄にするなど……あってはならない……。バグ、なんだ……』

「別に無理に今、答えを出す必要はない。クッキーのペースでいい」

 

そのまま深いスタンバイ状態へと移行するように、クッキーの機体の震えが、ゆっくりと、夜の闇に溶けていった。

俺の胸元に預けられたその頭の熱さと、わずかに残る回路の焦げた匂いだけが、嵐のような一夜の終わりを告げていた。

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