真剣で君に恋したい!   作:球磨川善吉

2 / 11
勇往邁進

結局、あの後駆けつけた教師たちに俺たちは引き離され、別々の教室で「事情聴取」を受けることになった。

 

ちなみに俺のこの世界での名前は炎条寺(えんじょうじ) 灯火(とうか)というらしい。放火魔みたいな物騒な名前だな、なんて場違いな感想が、熱を持って腫れ上がった脳裏をよぎる。

 

おまけに俺は『川神院』という寺の門下生だそうだ。現代日本の感覚からしても、武術を学んでいる人間が学校で手を出したとなれば、正当防衛を主張するにしても圧倒的に分が悪い。

 

保健室の鏡を覗き込む。そこに映るのは、ボロボロに汚れ、前歯の欠けた、あまりにも頼りない10歳のガキだった。

 

けれど、震える手で俺の服を掴んでいた少年、椎名と、不敵に笑う岳人。その二人を見た時、俺の心には後悔なんて微塵もなかった。

 

……ま、前歯の一本くらい、また生えてくるだろ。たぶん。

 

だが、そんな楽観はすぐに打ち砕かれた。

 

「……トウカくん。これ、乳歯じゃないよ。永久歯だ」

 

養護教諭から告げられた、無情な診断。

ドクン、と心臓が跳ねる。10歳のガキが背負うにはあまりに重い、一生モノの欠損。事態を重く見た学校は、俺をすぐに地域で一番大きな葵紋病院へと搬送した。

 

処置室での激痛。麻酔の痺れ。京が必死に教室の中から探して届けてくれた破片のおかげで、なんとか前歯は再植固定されたが……転生初日にして身体の一部を失いかけるとは、先が思いやられる。

 

 

その日の夜。

修行先である川神院に戻った俺を待っていたのは、実家のある東北の両親に代わって俺を預かっている総代、川神 鉄心(てっしん)という人物だった。

 

正直、どんな叱責も受け止めるつもりだった。だが、かけられた言葉は意外なほど優しいものだった。

 

「うむ。やはりお主には『義』というものが備わっておったな。武というものは弱きものを守るためにあるものじゃぞい」

 

鉄心さんはそう言って、フォッフォッフォと豪快に笑いながら、俺の頭を大きな手で撫で回した。その掌は、岩のように硬く、分厚い。

 

「灯火。お主が今日守ったものは、歯の一本よりも遥かに重い。その誇りを忘れるな」

「……お、押忍!!」

 

答えた拍子に、処置したばかりの前歯の神経がズキンと跳ねた。

 

「じゃがな、トウカ。……お主ほどの怪物が、小童相手に歯を折られる不覚を取るなど、万に一つもあり得ん。お前さんからしたら、それを免罪符にしようとしたつもりじゃろうが、ちと身体を張りすぎじゃ」

 

「……っ」

 

俺は言葉を失った。鉄心さんには、「わざと攻撃を食らって、いじめっ子を懲らしめるための正当防衛を演じた」ように見えているらしい。実際は、不意打ちを避ける技術がなかっただけなのだが。

 

どうやら俺が思った以上に、元の灯火は才能に溢れていたらしい。

 

 

その後、川神院の重厚な門を、数組の親子が震えながら潜ってきた。

俺に殴りかかってきた男子全員が、それぞれの親に引きずられるようにしてやってきたのだ。

 

川神院の本堂。

圧倒的な威厳を放つ鉄心さんの前で、大人たちが畳に額を擦り付ける。あんなに威勢の良かったガキ大将たちも、今は借りてきた猫のように小さくなって、俺の顔色を伺いながら治療費の入った封筒を差し出していた。

 

いじめを黙認していた担任には厳しい処分が下り、加害者の数名には出席停止が言い渡されたという。俺も手を出した以上、数日間の奉仕活動という罰を受けることになった。

 

あの一件以来、椎名は学校に来ていない。

 

いじめを黙認していた担任に代わってやってきた代理の教師は、椎名の見舞いに行こうと住所を尋ねても「今は色々と家族間で揉めているらしいから」と、逃げるような表情で繰り返すだけだった。

 

大人の言う「家族間で揉めている」という言葉が、どれほど便利な思考停止の隠れ蓑か。19年生きてきた俺には、その響きに含まれる「関わりたくない」という本音が透けて見えて胸が焼けた。

 

その嫌な予感は、放課後に偶然聞きつけた保護者たちの噂話によって、最悪の形で裏付けられた。

 

どうやら椎名の家は、今、崩壊の瀬戸際にあるらしい。

あの日、ボロボロになって帰宅した彼を、母親は慰めるどころか、嫌味を言って突き放したのだという。そもそも、椎名が学校で執拗にいじめられる原因そのものが、母親の度重なる不倫にあった。

 

狭いコミュニティだ。子供たちの残酷な悪意は、大人の醜いスキャンダルを燃料にして燃え上がる。

これまで耐えてきた父親にも、いよいよ我慢の限界が訪れたらしい。

 

学校ではいじめっ子に晒され、ようやく帰った家でも、自分を害する人間が待ち構えている。

心が休まる場所が、この世界のどこにもないんだ。

 

俺ができるのは、せいぜい放課後の誰もいない道で、彼がひょっこり現れるのを待つことくらいだった。

 

 

転生してから数日間、俺は川神院での修行に明け暮れていた。

 

自分でも驚くほど体力はあったが、驚くほど技術がない。前世で武道なんて何一つ触れてこなかったのだから、当然といえば当然なのだが。

 

「うーん。最近灯火のキレがあまりよくないネ。やはり学校でのあの一件が、心を蝕んでいるのカナ?」

 

主に俺や修行僧たちの稽古を見ているルー師範代だ。中国出身で、努力だけでこの地位を掴み取った異端児らしい。

 

「別にそんなに気を使うこともないと思うんじゃがのう、灯火?」

 

どうやらこの身体の灯火という少年の才能は本来凄まじいらしく、素人の俺では到底誤魔化しきれなかった。

 

……腹をくくるしかないよな。

身体だけが同じ赤の他人が、のうのうと一緒に稽古をしていたんだ。破門されても文句は言えない。

 

俺は嘘偽りなく、19歳の学生だった前世の詳細も含めてすべてを語った。目を開ければ既にあの子をかばっていたこと。そして――自分には、元々の灯火が持っていたはずの才能なんて、からっきし持ち合わせていないこと。

 

話し終えた後、部屋には重苦しい沈黙が流れた。

 

「なるほどのう……。なんとなくそんな予感はしてたんじゃよ」

「ま、マジですか!?」

 

顔を上げると、鉄心さんは意外そうな顔一つしていなかった。

 

「お主の一人称がいきなり『僕』から『俺』に変わっておるしの。それに、こういったことは初めてではないんじゃ」

 

どうやら灯火君は、元々は「僕っこ」だったらしい。小学生ならあり得る話か。

 

「ここに君と同い年と一学年上の二人の少女がいるヨネ? 彼女たちにも、少し前に似たようなことが起きていてネ」

「え?」

 

「一子は二年前に養子として受け入れたばかりじゃが、一年前にいきなり二人の身体が入れ替わってしもうての。今でも何故こうなったかは分からん」

 

川神百代と川神一子。姉妹だというのに、彼女たちは驚くほど似ていなかった。

圧倒的な武のオーラを纏う赤茶色の髪の妹と、どこか幼さが残る黒髪の姉。

妹の一子が姉の百代を「ワン子」という奇妙なあだ名で呼んでいて、俺もそれに倣っていた。

それに姉は妹を「姉さま」と呼ぶ。なんとも歪な関係だな、と思っていたけれど。

 

そうか、逆だったんだ。

 

赤茶髪の「妹」の体に入っているのが、本来の姉である百代。

黒髪の「姉」の体に入っているのが、本来の養子である妹の一子。

 

だから、黒髪の姉は、赤茶髪の妹を「姉さま」と呼び、赤茶色の妹は黒髪の姉を「ワン子」という愛称で呼んでいたのだ。

 

俺一人が、この世界で孤独な「入れ替わり」の被害者だと思っていた。

けれど、すぐ隣にいた彼女たちもまた、一年も前から鏡を見るたびに他人の顔を突きつけられる、この「解消されない不協和音」の中を生き抜いてきたのだ。

 

ルー師範代が、値踏みするように俺をじっと見つめる。

 

「君は『気』というものを知らないし、初歩的な術すら使えそうにないシネ。悪い人間が仕組んだことではないのは確かヨ。……それで、『気』とは何かって顔をしてるネ?」

 

「……気って、なんですか?」

 

「気合、という言葉があるヨネ? 実はあれが気の初歩中の初歩。練度が上がると、それを身体に纏って防御したり、外部に放出したりすることができるヨ」

 

「まあ、ワシレベルにもなると、古の神々を具現化することもできるがの」

 

ボケた爺さんの戯言は置いておくとして。どうやらこの世界は、思ったよりもずっとファンタジー寄りの理屈で動いているらしい。

 

「むぅ。お主、今心の中でワシのこと馬鹿にしておったじゃろ?」

「……っ。もしかして、今の思考まで『気』で漏れてました?」

「阿呆。ただお前の顔色を見とっただけじゃわい。……かっかっか、分かりやすい奴じゃのう!」

 

鉄心さんは愉快そうに笑い、俺の肩をバシバシと叩いた。

 

「お主が技術がないと言うなら、これから白紙の地図に川神の武を書き込んでいくまでよ。中身が大人なら飲み込みも早そうじゃしのぅ」

 

「……よろしくお願いします。師匠!」

 

「さて。ワシらがお主を認めるのはよいが、親御さんはなんというか分からんのう。今すぐ電話して話し合うべきだと思うがの」

 

 

二人が部屋から出ていき、俺は一人になった。

自分の子供が、ある日突然、見ず知らずの大人の記憶に上書きされる。もし俺が親の立場だったら……と考えただけで、背筋に嫌な汗が流れる。

 

俺は、震える指で通話ボタンを押した。

 

『……もしもし、灯火? また電話をくれるなんて、どうしたの?』

 

「……あの、母さん。落ち着いて聞いてほしい」

 

喉の奥が熱い。「母さん」――その言葉を口にするたびに、泥棒にでもなったような罪悪感が胸を締め付ける。

 

俺は、溢れ出すように一気に語った。

自分が19歳の学生だったこと。気づけばこの世界に、10歳の「灯火」として立っていたこと。そして――今ここで、あなたの声を聞いている俺は、あんたたちが愛した十歳の『灯火』ではなく、ただの『偽物』であること。

 

俺は、一字一字を噛み締めるように伝えた。それは、彼女の愛した息子としての存在を、俺自身の手で終わらせる儀式のようでもあった。

 

話し終えた後、受話器の向こうからは――恐ろしいほどの沈黙が返ってきた。

 

本堂の冷えた空気が、肺を刺す。理性が「言わなければよかった」と後悔を叫び、それでもこの体が、彼の両親に真実を伝えたがっているように震えていた。

 

『……そう、なの』

 

長い沈黙の末に漏れ出たのは、嗚咽でも怒号でもなく。

ただ、すべてを察していたかのような、静かな溜息だった。

 

『前の電話の灯火、なんだか急に大人っぽくなっちゃって、まるで別人のようねってお父さんと話していたのよ。……中にいるあなた。一つだけ、答えて』

 

お母さんの声が、震えを帯びた鋭い響きに変わる。

 

『あなたは――私たちの息子の生を奪ってまで、一体何がしたいの?』

 

「…………」

 

その問いは、折れた前歯の痛みよりも深く、俺の心臓を抉った。「生を奪った」という言葉の重み。10歳の少年の未来を勝手に塗り潰しているという罪悪感。

 

俺は声を絞り出した。

 

「……何かをしたいなんて、そんな大層な目的があるわけじゃありません。ただ」

 

俺は震える声を抑え、一文字ずつ、自分自身に言い聞かせるように言葉を紡いだ。

 

「いつか、あの子の意識が戻ってきたときに……あの子が自分の人生を振り返って、恥ずかしくないような、そんな生き方をしたいと思ってます。……あの子が傷つくはずだった分は、全部俺が代わりに受けて立ちます。この体も、炎条寺灯火っていう名前も、最高の状態でいつか本人に返せるように。……それだけなんです」

 

『…………』

 

長い沈黙。それは「守る」なんて不確かな言葉よりもずっと重く、受話器越しに両親の心に沈んでいった。

 

『……そう。返してくれる、のね』

 

お母さんの声から、先ほどまでの刺々しい殺意が少しだけ消えた。代わりに漏れ出たのは、微かな、けれど消えそうな「希望」だった。いつか息子が戻ってくるかもしれないという、残酷で淡い期待。

 

『分かったわ。……今の言葉、忘れないで。あなたがその約束を破って、あの子の人生を汚すような真似をしたら……その時は、絶対に許さないから』

 

「……はい。約束します」

 

『……そう。守る、のね』

 

電話の向こうで、お父さんが短く鼻を啜る音が聞こえた。「許す」とは言われない。けれど、奪った生の代わりに俺が背負う「責任」だけは、今、確かに伝わった気がした。

 

『今はまだ、あなたのことを「息子」とは呼べないけれど。……鉄心先生があなたを認めたのなら、私たちはそれを見守る義務があるわ。それが、あの子の体を預かっているあなたへの、私たちの精一杯の答えよ』

 

「……ありがとうございます。……本当に、すみません」

 

俺は誰もいない廊下で、深く頭を下げた。19歳のプライドも、転生者のアドバンテージも、この「家族」という重みの前では何の役にも立たなかった。

 

でも、これでようやく、俺の修行は「ごっこ遊び」ではなくなったんだ。

 

 

縁側で満月の光を浴び、冴え渡る意識の中でこれからのことを思案する。

 

漫画やアニメでも絶大な人気を誇る「転生」。だが、身体を奪った本人の意識を尊重し、あまつさえ「返却」を前提に生きる主人公なんて、前例がないだろう。

 

さっきの俺の選択は、果たして正解だったのか。

俺が異物であることを隠し通し、完璧に「灯火」を演じきっていれば、誰も傷つかずに済んだのではないか。答えは出ない。

 

ふと、前世の記憶が揺り戻す。あの暖かく、満ち足りていた実家の食卓。もし、向こう側の世界に「灯火」が飛ばされているのだとしたら。あの子は今頃、俺の身体でどう過ごしているのだろうか。

 

「……なんで俺はこの世界に来たのかね」

 

吐き出した独り言は、夜の静寂に吸い込まれて消えた。

 

「……ちょっと、いいか?」

 

驚いて声の方向に振り向くと、そこには赤茶色の長い髪を揺らした美少女が、伏し目がちにこちらを覗き込んでいた。先ほど一子として紹介された少女だが、その眼光にはどこか底知れない鋭さが宿っている。それにどこか彼女の眼は泣き腫らした後のようだった。

 

「実はさっきの部屋での話、聞き耳立ててたんだ」

 

罰が悪そうに彼女が語る。

 

「盗み聞きはあまり感心しないなぁ……って、人の体を勝手に使ってる俺が言えたことじゃないか」

「……」

「あ、いや、えっと! 君を責めてるわけじゃなくて!!」

 

咄嗟に出た自虐に、彼女は沈黙で返してきた。19歳の「中身」が、10歳の子供の体を使って必死に弁解する姿は、客観的に見れば相当滑稽だろう。

 

「えっと、川神一子……さんでいいのかな? それとも百代さんの方がいい?」

「別に、家の中では百代でいいぞ。堅苦しいのは抜きだ」

「……じゃあ、改めて。初めまして、百代さん」

「だから、そんなにかしこまらなくていいって言ってるのに」

 

彼女は他所よそしい空気を嫌うらしい。

中身が入れ替わっているという彼女たち姉妹と、転生者である俺。彼女も俺を見て、思うことがあるのだろう。

 

まあ、それとは別に、ここ数日間で灯火と彼女たちの関係性は、ある程度分かった。数少ない同年代の修業仲間。灯火は、彼女たちと友好的な関係性を築けていたらしい。

 

「私が近づいてきても、何も気づかなかったか?」

「うん。そうだね。何もわかんなかった。俺には灯火ほどの武術の才能はないよ」

「やっぱりそうか」

 

百代が、どこか確信を得たように頷いた。

 

「……差し支えなければ、灯火がどういう人間だったかを教えてほしい」

 

「どういう人間、か」

 

百代が目を閉じて「むむむ」と唸る。

 

「一言で表すとするなら……よく分からない、かな。あいつと出会ったのは四年前だ。いきなり川神院にやってきてさ、『弟子入りさせてください』って言ったんだ」

 

百代は、懐かしむように、そしてどこか呆れたように語り出した。

 

「でもさ、あいつ……実家が東北なのに、親に黙って手ぶらで10日かけて歩いてきたから帰る金がないって言うんだ。笑っちゃうだろ? 足の指も血だらけでさ。とりあえず親御さんに電話して治療しようとしたけど、あいつは『自分はまだ川神院の修行僧じゃないから、施しは受けられない』って突っぱねようとしたんだ。それで『弟子入りが認められるまでここから一歩も動かない』って門の前で正座しちゃってさ。私たち総出で持ち上げようとしても、ピクリとも動かない。『気』で身体を地面に固定してたんだ」

 

「……え?」

 

思わず声が漏れた。百代の言葉を頭の中で整理し、情報のパズルを組み立てる。

 

一年前に入れ替わりが起きたと聞いていたが、そもそも一子が養子としてこの家に来たのは二年前。つまり、灯火が小1でこの門を叩いた時、この家にはまだ一子すらいなかったのだ。

 

川神の姉妹が揃うよりも遥か昔から、灯火はこの場所で既に「怪物」として君臨していた。情報のパズルが組み上がるたび、元の灯火の輪郭が、10歳の子供という枠をはみ出して、人間離れした色を帯びていく。

 

「結局あいつは半年足らずでほとんどの奥義を習得した。一度やり方を教えたら、その場ですぐにできたんだよ」

 

月の光に照らされた百代の表情は、どこか誇らしげで、そして少しだけ寂しそうだった。

 

「だからなのか度々抜け出してはどこか遠くに行ったり、小学生なのに難しい言葉もいっぱい知ってたり、未来のこともよく予言してた。……あいつの見ていた景色は、きっと誰にも理解できなかったんだろうな」

 

「……なれるかな。俺は、灯火に」

 

思わず零れた本音は、夜の風に流されるほど頼りなかった。前世での十数年の積み重ねなど、彼女の語る『怪物』の伝説を前にしては、水で薄めた出涸らしのティーバッグ同然だった

 

「私が思うにどんな人間にも、代わりなんていない。……お前は、あいつの代わりにはなれない」

 

百代の言葉は、慰めですらなかった。ただの事実の提示だ。

 

「そう、だよな」

 

センスが違いすぎる。

俺はてっきり、厳しい修行を経て灯火の才能が開花したのだと思っていた。だが、彼は川神の門を叩く前から、すでに完成しつつあったんだ。俺とは土俵どころか、存在の次元が違う。

 

「でも、逆もまた然りだ。灯火にお前の代わりは務まらない。……あいつに縛られるな。お前はお前にできることを、ただ淡々と、真剣にこなせばいい」

 

その言葉は、俺の頭で鳴りつづけていたエラー音を、静かに、だが強制的に上書きしていった。

 

「お前、さっきの電話で『恥ずかしくない生き方をしたい』と親に啖呵を切ったんだろ? なら、もう進む以外の選択肢はないはずだ」

 

百代は決まりが悪そうに、ふいっと視線を逸らした。

12歳の少女に、自分の未熟さを正確に射抜かれる。その屈辱が、不思議と心地よかった。

 

「……そうか。ありがとう、百代さん。俺もまだまだだな。本当は、君の方がずっと辛いだろうに」

 

俺がそう言うと、百代は少しだけ眉を動かし、不敵な、それでいてどこか投げやりな笑みを浮かべた。

 

「心配ない。私はこの世界に生まれて12年目。お前はこの世界に来てまだ数日の……いわば『0歳』だろ」

 

彼女は勝ち誇るでもなく、当然の摂理を説くように淡々と言い放った。

 

「……キャリアで言えば、私の方が圧倒的に先輩だぞ」

 

「はは……。まあ、理屈ではそうなる、か」

 

「そうだ。だからお前は大人ぶる必要なんてないし、もっと無様に足掻けばいい。……一子(ワン子)には私から言っておく。明日も早い、とっとと寝ろ」

「ああ。おやすみ」

 

「それと、『百代さん』じゃなくて『百代』でいい。あいつの顔でそんな他人行儀な呼ばれ方をされるのは、胸が苦しくなる。……ワン子だって、自分と同じ姿形をしたやつが灯火に拒絶されてるのを見たら、悲しいだろ。それと、あいつのことは『一子(かずこ)』って呼んでくれ。あいつもそう呼んでたから」

 

それだけ言い残すと、彼女は赤茶色の髪を闇に溶かし、今度こそ消えていった。

 

俺にとっては「礼儀」のつもりだった敬称が、彼女たちにとっては幼馴染の親愛を拒絶する「壁」でしかなかったのだ。

百代の体に入り、すぐ隣で俺を見ている一子。彼女が、自分の本来の姿が親友に突き放される光景を、どれほどの痛みで眺めるのか。

俺は百代を拒絶すると同時に、その隣にいる一子の心までも、無意識に踏みにじっていた。

 

「灯火に縛られるな」と言いながら、「灯火の距離感」を強要してくる。

呆れるほどの矛盾だ。だが、その支離滅裂な願いこそが、彼女がこの歪な関係を守るための、精一杯の防衛線なのだと分かってしまった。

 

「さん」を外す。愛称ではなく名前で呼ぶ。

そんな小さなルールが、今の俺たちを繋ぐ唯一の楔なら、飲み込む以外に選択肢はない。

 

俺がやるべきことは、灯火を演じることじゃない。けれど、彼が残したこの温かな絆だけは、俺が継いでいかなければならない。

 

不意に、肩の力が抜けた。

19年の理屈もプライドも、ここでは何の役にも立たない。

 

勇往邁進――。

 

今の俺には、その不器用な言葉が、一番しっくりきた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。