数年ぶりにした本気の鬼ごっこは、思いの外、面白かった。
沈みかけた黄金色の夕日に照らされながら、キャップが底抜けに明るい笑顔で笑っている。
「それにしても、灯火足速すぎだろ!」
「百代と一子に比べたら、まだまだだよ」
元の灯火が持っていた技術こそ再現できないが、身体能力そのものは俺に引き継がれている。
まあ、同じ肉体を使っているから当然といえば当然だけど。
ただ、スペックは高くても、組手で百代と一子に勝てるビジョンが一切湧かない。
俺の動作はどうしても直線的で、すぐ次の一手を見抜かれてしまう。
「じゃあ、また明日な!!」
「おう。バイバイ!!」
キャップ、大和、卓也、そして岳人と別れる。
「二人ともどうだった? 楽しかっただろ?」
「「うん!」」
百代の問いかけに、京と二人で勢いよく頷く。
「灯火、京と姉さまに狙われまくってて少し可哀想だったな~」
「しょうがないだろ。他の奴らだとすぐに追いついちゃうし、一子は骨が折れる。ちょうどいい難易度が灯火なんだ」
一子の同情に、百代が呆れたように肩をすくめた。
「私、大和と灯火が二人で地面を掘ってからカモフラージュして隠れたの見た時はびっくりしちゃった」
「そんなことしても、気を探知されたら一発なのにな」
「そういえば最初、灯火たち巨木のとこでなんか変なことしてなかった?」
一子の指摘に、俺は少しバツが悪くなって視線を逸らした。
「……あー。木の中をくり抜いて二人で隠れようと思ったんだけど、あの時間だと小さい穴しか作れなくて怖くなったからやめたんだ」
「お前、いい年して閉所恐怖症なのか?」
「べ、別にいいだろ。狭いところは落ち着かないんだ」
万が一出られなくなった時のことを考えると、恐怖で息が詰まりそうになる。
転生したところで、こういう生理的なトラウマだけはどうしようもない。
「てか、辰子。お前どこに隠れてたんだ? 私の気配探知でも見つけられなかったし」
「木の上で隠れてたらー、お日様がポカポカしてきて……Zzzってなってたぁ~」
「お前ほんとに寝てるとき、気配消えるよなー」
百代をもってしても辰子は少し特異らしい。
ふと横を見ると、中々会話に入れず、京があたふたしていた。
俺は少し歩み寄って声をかける。
「京は最初、誰にタッチしたの?」
「……ワン子」
京の小さな声に、一子が「あ」と思い出したように声を上げた。
「そう!! 気を抜いた瞬間にいきなり京の『タッチ』って声が聞こえたから、本当にびっくりしたの。私草むらの中にいて音もなにもないから油断してたのよね。結局見つけられなかったし」
「ワン子は気の探知が苦手だが、それでもあの距離まで詰め寄るとはな。……京、お前も相当やるな」
百代に褒められ、京は「えっへん」と少し誇らしげな顔をした。
そして、そのまま期待に満ちた上目遣いで俺を見上げてくる。
「……?」
「京は頑張ったから、お前に頭を撫でてほしいんじゃないのか?」
「え。そうなの?」
「……う、うん」
百代に指摘され、京は顔を赤くして小さく頷いた。
「じゃ、じゃあ……」
少し照れ臭かったが、俺はちょん、と京の髪に手を置いて撫でてみる。
「いやいや、それ撫でるっていうより触るだろ。どれどれ、お姉さんがお手本を見せてあげよう!」
百代が背伸びをして俺の頭をがっしりと掴む。
そして、そのまま髪をわしゃわしゃと思い切りかき回してきた。
「ちょっ、タンマ! ハゲる! ハゲるって!!」
「あはは。 灯火、髪が爆発してる~」
百代の荒っぽい手つきでおそらく、無惨な「鳥の巣」と化した俺の頭を指差し、一子がここぞとばかりに腹を抱えて笑い転げている。
夕闇が迫る帰り道。
どこか冷めた視界が、子供たちの笑い声で鮮やかに塗り替えられていく。
修行の合間に、たまにはこういう賑やかな時間があるのも悪くない――そう思った。
☆
「ね~え~。何してるの~?」
「ん?」
公園で風間ファミリーを待っている間、暇つぶしに鍛錬をしていると、不意に声をかけられた。
そこにいたのは、卓也よりも肌が白く、雪のように透き通った少女だった。
「これは正拳突きっていうんだ」
「セイケン、ヅキ?」
「漢字で書くと……いや、いいや。これは拳の正しい部位を使って、全身の力を伝える技なんだ」
「ほえ~。すごいすごい!! 僕にも教えて~」
川神院の技は門外不出だけど、俺が今やってる奴は川神流でもなんでもないただの突き。
好奇心に目を輝かせる彼女に押し負け、俺は基本を教えることにした。
「いいよ。じゃあ、まずは真似してみて」
彼女は「とう!」と元気よく拳を繰り出した。
驚いた。初心者なら肩に力が入って「手打ち」になるはずなのに、彼女の突きはしなやかで、体の軸が一切ぶれていない。
「お! なかなかいいね。何かスポーツやってるの?」
「なんもやったことないよ~」
「え!? 初心者でこれ? かなり才能あるよ」
「ほんと~? やった~!! 僕ね、お母さんの動きを少し参考にしたんだ!」
母親が武術の心得があるのか、それとも天性の観察眼か。いずれにせよ、凄まじいポテンシャルだ。
「でも今履いてるサンダルだと踏み込みが甘い。底の平らなスニーカーの方がいいよ。地下足袋があればベストなんだけど」
「スニー、カー? う~ん。僕、これしか持ってないからわかんないよ~」
……サンダルしか持っていない?
見れば、彼女のサンダルはかなり使い込まれていた。
家庭環境に何らかの事情があるのかもしれない。
「今度、お母さんにねだってみたら? 突きをやるやらないに関係なく、一足は持ってないと不便だし」
「……うん。わかった。今度お母さんにねだってみる!」
素直な返事に少し安心する。
「君は足腰がしっかりしてるから、『逆突き』を覚えたほうがいい。今君がやってるのは、俺と同じ、踏み出す足と同じ側の拳を出す『順突き』。勢いは出るけど、コントロールが難しいんだ。対して逆突きは、前足と反対側の拳……つまり、後ろ足で地面を蹴ったパワーを、腰の回転に乗せてぶつける突き方だ」
彼女は真剣に聞き入っている。
「いいかい? 後ろ足で地面を強く押す。その力が脚を伝わって、腰をグイッと回す。その回転をそのまま拳に伝えるんだ。腕の力だけで打つんじゃなくて、『地面からの力を拳まで繋ぐ』イメージ。そうすると一番効率よく、相手を沈めるための重い一撃を打てる」
少女は「地面からの力を、つなぐ……」と呟きながら、俺の動きを食い入るように見つめていた。
「君なら、この回転を拳に乗せるコツがすぐ掴めるはずだ。ほら、やってみて」
「うん! ……せいっ!!」
パァン! と、先ほどよりも一段と鋭い音が響いた。
サンダルという不利な条件でありながら、彼女の突きは、俺が必死に理屈をこねて身につけたフォームを、一瞬でなぞってみせた。
教え始めると、彼女は驚くべき速さで吸収していった。30分も経つ頃には、今日初めて武道に触れたとは思えない仕上がりになっていた。
「っとう!!!」
「……すごいな。もうモノにするなんて」
「えっへん。僕にかかればこんなものなのだ!!」
彼女の笑顔は眩しかったが、俺は内心、少しだけ凹んでいた。
俺が一週間かけて編み出したものを、この少女は「センス」だけで追い抜こうとしている。
「俺、川神院ってところで武道を学んでるんだけど、よかったら来てみる?」
「やった~!! あ、でもお母さんがダメっていうかも……」
「ダメ元で頼んでみたらどうだ?」
「……そうしようかな」
俺がさらに言葉を続けようとした時、遠くからこちらへ手を振る影が見えた。
「あれ、誰かこっちに手を振ってるけど、友達?」
「えっと、あれは大和だね。これからみんなで遊ぶ約束をしてたんだ。よければ君も――」
「じゃ、じゃあ僕、これから用事があったから、バイバイ!!」
俺の言葉を遮り、彼女は逃げるように走り去ってしまった。
確かに友達の友達って何気に気まずいポジションだよな。
小学生に気を使わせちゃったかな。
「想定よりコンマ数秒早い着地か、灯火。……そんなに急いでも、
背後から響く、芝居がかった声。
振り返ると、そこにはマントを羽織っている幻想が見えるほどポーズを決めた大和が立っていた。
岳人いわく、太宰治の『人間失格』を読んでから、彼は「あちら側」へ旅立ってしまったらしい。
「コンマ数秒どころか、30分前からいたけどね」
「先ほどの少女……。我が
「……あ。名前、聞き忘れた」
「正体不明の『観測者』が、無礼にもこの領域に干渉を試みるとはな。……まずは自らの
「ちょっと会話が盛り上がりすぎて忘れてただけだよ。今度会ったら聞いてみる」
大和の言葉を適当に翻訳しながら受け流すが、彼はさらに俺の肩に手を置いて囁く。
「貴様は我が因果の最深部に位置する唯一の特異点。その器が低俗なる領域へと墜ちることは、俺自身の
「あの、俺まで変な目で見られるから、そういうのあんまり人前で言わないでよ」
俺の、魂の底からの懇願。
だが、大和は立ち止まり、まるで世界の真理を悟った賢者のような慈愛に満ちた(と本人は思っているであろう)笑みを浮かべて俺に振り返った。
「フッ、案ずるな灯火。貴様が『あちら側』の論理を気にする段階にあることは理解している。……だが、凡夫どもの視線など、高次元の存在に対する羨望が形を変えたものに過ぎない」
「……いや、お前と話してるときに笑うやつら全員引きつってるか、馬鹿にしてるかどっちかだろ。羨望の要素一ミリもないから」
「……クク、やはり貴様の魂はまだ完全に覚醒してはいないようだな。いいだろう、今はその
大和は満足げにそう告げると、見えないマントを翻して歩き出した。
……こいつ、絶対に確信犯だ。俺が嫌がれば嫌がるほど、「相棒との絆の試練」だと思ってヒートアップしてやがる。
大和を見ていると前の世界での自分を思い出し、耳の裏が熱くなる。
俺もかつて、これに近い「正義」を信じていた時期があったかもしれない。
それをこうして外から、しかも最前列で観劇させられるというのは、どんな拷問よりも精神に来るものがある。
「……はぁ。突き抜けるなら、いっそ俺も『真名解放』とか叫んだ方が楽になれるのかな」
「フッ、聞こえたぞ。……それでこそ、俺が選んだ『特異点』だ」
「いや、独り言だから。拾わなくていいから!!」
「人間失格」を通り越して「人間卒業」してしまいそうな大和を見つめながら、諦めにも似た覚悟を固めてその背中を追った。
最初の鬼ごっこ以来、大和の中で俺は「唯一無二の相棒」に設定されているらしい。
大和は百代と同じく子供特有の手加減した語彙を使わなくていいから楽ではある。
ただ、その代償として支払う「社会的尊厳」のコストが、あまりにも高すぎる。
☆
「シャバドゥビタッチウェーイ!!」
「わっ!!」
背後から急に背中を叩かれ、俺は情けない声を上げた。
振り返ると、そこには昨日出会った雪のように白い少女が、満面の笑みで立っていた。
「やっぱり今日もいた~。良かったー!」
「……心臓に悪いな。こんにちは。そういえば君、名前なんて言うの?」
「僕は榊原小雪!! 君は?」
「俺は炎条寺灯火。灯火でいいよ」
「灯火!! あれから僕、家でずっと正拳突きの練習したんだ!! 見てて!!」
小雪はそう言うと、昨日教えたばかりの「後ろ足の蹴り」を意識した鋭い逆突きを繰り出した。
一日でここまで動きが洗練されるとは、やはり才能の塊だ。
「す、すごいね。たった一日でさらに速くなってる。…驚いたよ」
「ウェイウェイ!!」
小雪は上機嫌にその場でピョンピョンと跳ね回る。その無邪気な様子を見ていると、こちらまで頬が緩む。
「そういえば、川神院に入りたいってお母さんに頼んでみた?」
「言ってみたけど、断られた……」
「ありゃりゃ。まあ、家庭の事情とかもあるし、仕方ないね」
ふと彼女の足元を見ると、昨日と同じ、かなり使い込まれたサンダルのままだった。
靴を買ってもらえなかったことと、道場を断られたこと。彼女がそれ以上語らない以上、俺が深掘りするのも野暮だろう。
「川神流の型は教えられないけど、基本なら教えられる。それでいい?」
「うん!!」
「よし。じゃあ今日は
数十分ほど、彼女に掌底の角度や力の伝え方をレクチャーする。
小雪はやはり吸収が早い。
指導の合間、彼女が大きく動いた拍子に、ショートパンツの裾から太ももの内側にある大きなあざがチラリと見えた。
「小雪、太ももの内側にあざができてるけど、どうしたの?」
「えっ? ……あ、ちょ、ちょっと転んじゃって」
決まりが悪そうに笑う彼女。
転んであんな場所にあざができるのか…?
……まぁ、こんだけお転婆に跳ね回ってたら、どっかにぶつけたりもするのかな。
子供の怪我なんてそんなもんだし。
俺は深く考えず、彼女の「元気の良さ」の証拠くらいに受け止めて、そのまま練習を続けた。
「おーい、灯火ー!!」
遠くから百代の声が響く。後ろを振り向けば、いつものメンバーが勢揃いでこちらに向かってきていた。
「じゃ、じゃあ僕……」
小雪が気まずそうに去ろうとする。その言葉を俺は遮った。
「良かったらさ、俺たちと一緒に遊ばない? 多分、小雪は別の小学校だろ。学校で話せない分、今遊ばないと損じゃない?」
「え、いいの……?」
「みんながOKしたら、だけどね。まあ、俺ともう一人――あそこの紫色の髪の子も、最近このグループに入ったばかりだから、歓迎されるはずだよ」
合流した百代たちは、突然現れた白い少女に少し驚いたようだったが、一子の「いいじゃん! 新入り歓迎!」という明るい声で、すぐに場の空気が溶けた。
こうして、小雪は風間ファミリーの輪に加わった。
来る頻度はそれほど高くないかもしれない。けれど、この瞬間から彼女は、俺たちの大切な仲間の一人になったんだ。
☆
小雪がファミリーに参加してから、早いもので一か月が過ぎた。
今日も今日とて、俺と小雪は他の連中が合流する前に、公園で基礎練習に励んでいる。
「そういえば、この前川神院の修行を見に来てたけど、どうだった?」
俺の問いに、小雪は正拳突きの構えを解いた。
「みんな軍隊みたいに同じ動作でやってて、すごかった!! でもでも!! 一人一人身体が違うのに、無理に動きを合わせる意味ってあるの?」
鋭い指摘である。俺は一考し、武術における「型の合理性」を言葉にした。
「……武道を習うということは、自分の不安定な自己流を、長い歴史の中で磨き抜かれた『最適解の型』で塗り替える作業なんだ。個々の特性に頼るのではなく、誰が使っても高い威力を再現できる動作を体に叩き込む。自己流をするにしろ先ずは基本を知らないとままならないしね」
「ふ~ん。……さすが灯火、言うことが難しいね」
あまり良い返しではなかったか。俺は苦笑し、彼女の異常な習得速度を改めて見つめ、ふと抱いた疑問を口にする。
「……なあ、小雪。俺が誘ったとはいえ、飲み込みが早すぎないか? 小雪ってなんでそんなに武道に打ち込むんだ?」
「え? 理由?」
小雪は不思議そうに目を丸くして、当たり前だというように俺を指差した。
「だって、灯火がこの公園で練習してたからだよ。それを見て、すっごく格好いいなーって思ったから!! ……それに、強くなれば、もう誰も怖くない気がするし!」
「なるほどね」
後半の言葉を、彼女は弾けるような笑顔で上書きした。
あまりに単純で、それでいて切実な答え。きっかけは俺という偶然。
だが、その「格好いい」という動機と、何かに怯えるような無意識の防衛本能が、彼女を天才へと押し上げているのかもしれない。
「じゃあさ、灯火はどうして川神院で武道を学んでるの?」
「自分を守るためだ。……あとは、託されたものもあるし。それに何より、格好いいだろ? 誰かを傷つけるための力じゃなくて、誰かを守るための盾。俺は、そういう武道が一番格好いいと思うんだ」
総代の言葉を借りて答えると、小雪は少しだけ真面目な顔をして呟いた。
「へぇ……。武道って、誰かを傷つけるためにあるのかと思ってたぁ」
「……守るために、結果として外敵を傷つけることはある。でも、『傷つけるのが目的』の暴力とは、意味が全然違うんだ。俺が学んでるのは、理不尽から自分や仲間を切り離すための――『盾』の技術だよ」
「なるほどぉ。……ありがとね、灯火!!」
小雪はいつもの天真爛漫な笑顔に戻り、元気に跳ねた。
ぎゅるる~と彼女のお腹の中から音が鳴る。
「わ、わわ…」
と顔を赤くして彼女が慌てふためく。
「お腹空いてるのか?」
「う、うん。ちょっとね」
家庭の事情で満足に食べられてないのかもな。
「じゃあしょうがない。これ、あげるよ」
リュックの中から袋に入ったお菓子を取り出し彼女の手に握らせる。
「なに、これ?……こんなに白くて、甘い匂いがするお菓子、初めて見たよ」
「マシュマロって言うんだ。前にスーパーでいっぱい買ったんだけど、食いきれなくてさ。困ってたんだ」
バニラの香りが漂うそれを、小雪は宝物でも扱うかのように、おずおずと口に運んだ。
「……灯火、これ、すっごく温かい味がするね」
涙を溜めながら笑い、マシュマロを精一杯口の中に放り込む小雪を見て、俺は笑う。
「大げさすぎだよ。こんなもの、いつでも食べさせてあげるよ」
「ふぇふぇいうぇーい!!」
マシュマロでリスのように頬をパンパンに膨らませ、もごもごと口を動かしながら小雪が返事をする。
その、言葉にすらなっていないおかしな鳴き声に、俺の頬も自然と緩んだ。
「今全部食っちゃいな。百代に見られると、全ての川神流奥義を使って奪ってくるから」
☆
それからの数日間、小雪はいつも通り公園に現れた。
大和の芝居がかった台詞に呆れ、キャップの思い付きに振り回され皆とともに汗を流す。
そんな「風間ファミリー」としての日常が、永遠に続くかのように思えた。
ただ、一度だけ。
夕暮れの解散際、小雪が遠ざかる俺たちの背中を、まるで二度と会えないものを見るような、ひどく静かな瞳で見つめていたことがあった。
「小雪? どうした?」
俺が呼びかけると、彼女はいつもの「底抜けの明るさ」という仮面を一瞬で被り直し、「なんでもないよ!」と手を振って駆けていった。
俺はあの時、気づくべきだった。
人より一回り以上も長い精神の年輪を刻みながら、俺は最も近くにあった「崩落の予兆」を、ただ無防備に素通りしていた。
☆
寝付けない深夜、気分転換にと走り出した途端、天が割れたかのような土砂降りに見舞われた。
叩きつけるような雨が視界を白く塗り潰し、鋭く冷えた空気が肺の奥を削り取っていく。
街灯の届かない電信柱の根元。激しい雨音に打たれ、泥水の中に打ち捨てられたボロ雑巾のように倒れていたのは、あまりに小さく、白く、脆い、俺の知る少女であった。
「……小雪!?」
俺は泥の中に膝をつき、彼女を抱き起こした。
「と、灯火……。やっぱり、来てくれた。……雨、冷たいね。あはは……」
虚ろな瞳で空を仰ぎ、彼女は力なく笑った。
ぐったりと後ろに折れる彼女の頭を支えようと、俺の手がその細い首筋に触れる。
――指先に、泥と雨水の冷たさとは異なる、異様な「凹凸」が触れた。
ハッとして、至近距離で目を凝らす。
雨水に濡れそぼり、肌に張り付いた髪の隙間から、大人の指の形にどす黒く沈む圧迫痕が、冷たい雨に打たれて白く際立っていた。
「だ、大丈夫か!!?」
「これっぽっち、なんてことないよ。お母さんが、さっき帰ってきて……。いきなり酒瓶を投げて、僕の首を絞めて……」
小雪の声は、激しい雨音に打ち消されそうなほど頼りなく、途切れ途切れに紡がれる。
「僕ね、灯火がくれたあのマシュマロ、お母さんにもあげようと思ったんだ。そうしたら、お母さん、笑ってくれると思ったから。あの『温かい味』を一緒に食べたら、お母さんも……僕のこと、好きになってくれる気がしたんだ……」
一度言葉を切り、彼女は震える手で、泥にまみれた「白い塊」を差し出した。
「でもね……お母さん、笑いながら僕の首を絞めたんだ。 マシュマロ、ゴミだらけの床に落ちて……お母さんの足で、何度も、何度も踏んづけられて……」
彼女の小さな手に握られたそれは、もはや原型を留めていない。
雨に打たれて溶けかかり、床の埃と外の泥が混じり合っている。
それは彼女が殺されかけながらも必死に守り抜こうとした、愛されたいという切実な願いの残骸であった。
だが、母親が浮かべた「笑顔」は、彼女が夢見た温かなものではなかった。
「お母さん、やめてって言っても、やめてくれなかったんだよ!? 僕が『大好きだよ』って言っても、楽しそうに笑いながら、もっと強く……!! だから、僕、灯火に教わった通りにやったの!! 正拳突きでお母さんをボコボコにしたの!! 」
「そんな、ことが……」
「もう、お母さん、動かないんだ。ゴミ箱みたいに、動かないんだよ……」
壊れた機械のように泣き笑いする彼女の言葉が、俺の胸に鋭い杭を打ち込んでいく。
俺が教えたのは、後ろ足の蹴りを腰の回転に繋ぐ、ただの効率的な力の伝え方だ。
だが、元より足の使い方が天才的だった小雪にとって、それは単なる「子供の護身」の枠を完全に踏み越えていた。
子供の細い腕でも大人を容易に破壊できてしまう、取り返しのつかない「暴力」そのものだったのだ。
二度目の生を得て、人より深く世を見通しているつもりでいた俺は、一体何を見ていたのか。
会うたびに彼女の体にあった「消えないあざ」。
治りが遅いのではない。何度も、何度も同じ箇所を痛めつけられていただけだったのだ。
鳴り止まなかった空腹の音。そしてあの時、涙を溜めながら「温かい」と言ってマシュマロを頬張った彼女の、悲鳴のようなSOSを――。
「平和な日常」という自分勝手な前提が、目の前で音を立てて瓦解していく。
俺が「才能」だと手放しに称賛した彼女のしなやかな動きは、理不尽な暴力から逃れるための、生存本能が一因でもあった。
こんなに天真爛漫な子が、虐待なんて受けているはずがない。
そうやって、俺は「平和な日常」という自分勝手な前提に甘えていた。
だが現実は違った。あの底抜けの明るさは、地獄に耐えるために彼女が自らを作り変え、とっくに壊れてしまっていた証だったのだ。
幸か不幸か、俺が教えた『盾』の技術は、彼女の命を救った。
そして、雨に洗われる彼女の純白の魂に、一生消えない「親を手にかけた」という重すぎる禊を打ち込んでしまったかもしれない。
俺が教えた一撃が、もし母親の命を完全に刈り取っていたのなら、俺は文字通り、一人の少女を更なる深淵へと突き落とした「共犯者」となるだろう。
「ねえ、灯火。僕は、悪い子になっちゃったの……?」
その声にはもはや、自分という形を保とうとする意志さえ残っていなかった。
境界を失い、冷たい地面に吸い込まれてしまいそうな――あまりにも無垢で、取り返しのつかない崩落だった。
「……違う。小雪は、何も悪くない。よく、今まで独りで……この土砂降りの中を、今日まで生きていてくれた」
「……教わった通りにやったのに」
俺の否定が届いていないのか、小雪は虚空を見つめたまま、独り言のように言葉をこぼし続ける。
「ちっとも、格好よくなかった。僕の『盾』、壊れちゃったのかな。……ねえ、僕、もうあの温かい味、思い出せないよ。このまま、あのマシュマロみたいに溶けてなくなっちゃいたいよ……」
俺は喉の奥が焼けるような痛みを堪え、絞り出すように答えた。……いや、言葉など、もはや何の意味も持たなかった。
俺は泥の中に膝をつき、雨で冷え切った彼女の細い肩を、壊れ物を扱うように、祈るように引き寄せた。
「灯火……灯火ぁ……!! ……っ、……ひ、う、ああああああ……!!」
言葉にならない、肺を削るような嗚咽が俺の胸元で爆発した。
呼吸を忘れ、喉をひきつらせ、ただ命を振り絞るようにして吐き出される絶望。
激しい雨音さえも一瞬遠のくほどの、魂の号哭であった。
雨水に溶け出した不条理の赤い汚れが、俺のウェアへと、そして俺の心へと、無慈悲に染み込んでいく。
「……っ、ぁ……灯火、きたな、いよ……」
不意に、絶叫が途切れた。
代わりに漏れ出したのは、今にも消え入りそうな、掠れた囁きだ。
「あめ、といっしょに……灯火まで、血、で……汚れちゃう……」
震える指先が、俺の濡れた袖に触れる。
そこには、彼女が必死に生きようとした証――抗いの果てに飛び散った、拭い去れない「赤」が滲んでいた。
自分自身の崩壊よりも先に、俺が汚れることを案じるその無垢さが、俺の喉をさらに強く締め付ける。
「汚くなんてない。君は、何一つ汚れてなんていないんだ。……汚れているのは、この世界の方だ。そして、何も気づけなかった、俺だ」
俺は彼女を、さらに強く抱きしめた。
今の俺にできるのは、降りしきる土砂降りの中で、この折れそうなほど細い少女の震えが止まるまで待つこと。
雨水に混じった血のような涙を流しながら、壊れないように、けれど壊れそうなほどに、彼女を抱きしめ続けることだけだった。