「……お願いします。どうか、小雪を……助けてください」
俺は小雪をおんぶしたまま、病院よりも近い川神院に直行した。深夜、静まり返った山門を激しく叩き、眠っていた修行僧と総代――川神鉄心を叩き起こした。
「……なんじゃなんじゃ。む、灯火か。……っ、その血は、どうした!」
出てきた総代の声が鋭く響く。
俺の背中でぐったりとしている小雪、そして俺のウェアにべっとりと付着した赤。
総代の目は一瞬で「武神」のそれへと変わり、俺たちの負傷箇所を確認するように、鋭い眼光で全身を射抜いた。
「俺じゃ、ありません。……小雪の、血です」
俺の掠れた声を聞くと同時に、総代は修行僧に小雪を預けるよう短く指示を出した。
彼女が奥へと運ばれていく際、剥き出しになった細い首筋に刻まれた、どす黒い指の痕が視界をよぎった。
彼女が奥へ消えるのを見届けてから、俺は冷たい板間に両手をついた。そのまま額を、凍てつくような木の床へと押し付けた。
「……話せ。何が起きた」
総代の低い声が頭上から降ってくる。俺は乾いた喉を鳴らし、事実だけを並べた。
自分が教えた型を彼女が今夜、どう振るったのか。
「……あの子、自分の母親を……俺の教えた正拳突きで、殺したかもしれません」
報告を終えたとき、髪を濡らした雨水が、脳を焼くような熱を持って板間に滴った。
「…………」
総代は、長い沈黙の後、ゆっくりと重い息を吐いた。
「確かに、あの日ここに連れてこられたあの娘の目は、どこか危うさを孕んでおった。灯火、お主が独断で授けた力が、惨劇の引き金となったのは事実じゃ。じゃが、その危うさを見抜きながらお主にすべてを任せ、看過しておったのは儂の責任じゃ。これは、川神院の、そして師である儂の不覚であるわい」
その言葉は、俺を突き放すものではなかった。むしろ、俺の隣で一緒に泥を被ってくれるような、重く苦しい響きであった。
「事情は分かった。警察へ繋ぎ、知己の弁護士にも連絡を入れる。……灯火、お主も着替えてこい。風邪を引くぞ。……警察が来るまで、ここで待っておれ。逃げずにそれを受け止めるのが、お前の……最低限の『ケジメ』じゃ」
「……はい」
俺は冷え切った板間を見つめたまま、ただじっと、その場に伏し続けることしかできなかった。
☆
小雪の母親は死んでいた。後で聞いた話では、初撃での即死だったらしい。
パトカーに連れて行かれる際のパトカーの窓越し、赤色灯に照らされた小雪は、震えることもなくただ静かに凪いでいた。
それは地獄のような日々を終わらせてくれた俺への、あまりに純粋すぎる感謝と安堵のようにも見えた。
俺の元にも警察からの事情聴取が来た。俺は、あの日あの公園で小雪と出会ってから今までの事を、ありのままに話した。
虐待されていた少女が実の母親を手にかけたという凄惨な事件は、当初、新聞の一面を飾った。
だが、九鬼財閥という巨大資本の尽力により、川神院の少年が関わっていたという事実は伏せられた。
情報統制は迅速だった。
なんでも、九鬼家の息子が一子に惚れ込んでいるらしい。その身勝手な好意に、俺たちは救われていた。
「……なあ、いつまで落ち込んでるんだ?」
部屋の扉が開く。心配した百代が顔を出した。相変わらず、無駄に面倒見がいい。
「……もし俺が転生なんてせずに、中身まで子供のままの『灯火』だったら、小雪を――もっと違う形で、救えていたのかな」
不意に、一番訊いてはいけない言葉が口を突いて出た。
今の俺という存在そのものを否定しかねない、あまりに弱気な仮定。
「今いないやつの話をしても仕方ないだろ。そんな『もしも』を語ったところで、過去は一ミリも変わりはしない」
百代の声は低く、そして強かった。「……そうだね」と、俺の力ない返事を、百代は鼻で笑うこともせず、ただ淡々と、事実だけを並べていく。
「そもそも、あの子は一週間もまともに食べていなかったんだろう? あの土砂降りだ。お前が見つけなければ、今頃死んでいたかもしれないんだぞ」
百代は一度言葉を切ると、腕を組み、視線を俺から窓の外の暗闇へと移した。
「……それに、私があの『あざ』について聞いても、小雪ははぐらかしたぞ。助けを求めていない奴を助けるなんて、不可能に近い。あの時、あの子の孤独に触れられたのは、世界中でお前一人だけだったんだ」
百代の声は、冷徹な事実として響いた。
彼女は彼女なりに、小雪の異変に気づき、その聖域に踏み込もうとしていたのだ。
それでも、小雪は自らを守るための「壁」を、百代の前でさえも崩さなかった。
「そう、だね」
俺の肯定は、短く、絞り出すようなものであった。
それは自分を納得させるためというよりは、もはや思考を止めるための逃げ場に近かった。
中身が大人だとか、理屈を知っているだとか、そんな自負は土砂降りの雨の前では何の役にも立たない。
「お前が教えた技術だけが、あの子にとっての唯一の『言葉』だった。……それだけの話だ」
百代が、俺の額にポンと手を置く。その無骨な手のひらから伝わる熱が、冷え切った俺の肺に、少しずつ酸素を戻してくれたのも確かであった。
俺が教えた「力」が彼女の手を汚したのは事実である。
だが、あの夜、あの場所を走り、誰にも気づかれなかった彼女のSOSを拾い上げたのも、間違いなく俺なのだ。
それを否定することは、彼女が必死に繋いだ命そのものを否定することになる。
「ありがとね、百代。……少し、眠るよ」
「……ああ。起きたら飯にしろよ」
百代が部屋を出ていく。
入れ替わるように、冷えた秋の風が窓を叩いた。
俺はそのまま深く布団を被り、あの泥の匂いと雨音を、真っ白な眠りの中に閉じ込めた。
☆
それから、季節は足早に過ぎ去った。
秋の終わりを告げる冷雨が、いつの間にか、より静かで冷徹な「冬」へとその姿を変えていく。
俺は事件以来、小雪には一度も会えていなかった。
だが、総代と九鬼家の奔走により、事態は着実に動き続けていた。
家庭裁判所の審判、親権の喪失、そして川神院による「身元引き受け」。
複雑な大人のシステムを、俺は道場という巨大な殻の中で、ただじっと見守り続けていた。
そして、十二月のある朝。
鉛色の空から、音もなく最初の欠片が落ちてきた。
数ヶ月の空白。あの日、土砂降りの中で感じたあの刺すような冷たさとは違う、静かで、すべてを覆い隠すような冬の白だ。
川神院の正門前。俺は、積もり始めた雪を眺めながら立ち尽くしていた。
道着の上に羽織った綿入れが、冷えた空気をわずかに遮ってくれる。
隣には、腕を組んで黙然と立つ総代の姿があった。
「灯火。川神院が彼女の身元を引き入れたのは何故だか分かるか?」
「正しき拳を教えるため、ですよね」
「まあ、そうじゃ。ほとんど正解じゃな。もちろん彼女の要望もあった。じゃがな、儂はこう考えている」
総代は俺の隣で、どこまでも高く広がる冬の空を仰いだ。
「一度でも道場で武を触れ、あの見事な突きを見せた娘を、ただの『人殺し』として終わらせるのは……武を志す者として、あまりに忍びない」
そう言ってゆっくりと視線を落とし、俺の目を真っ直ぐに見据えると、総代はニカっと顔をほころばせた。
「儂もその突きを、もう一度見たくなったのよ。……お主が責任を感じすぎることはない。技を教えた者に責任があるというのなら、その教えた者に技を教えた儂もまた、すべての責任を持つということ。……儂とお前で、責任を二等分しようというわけじゃ」
その笑顔は、俺の魂にこびりついていた重苦しさを、鮮やかに削ぎ落としていった。
「……ありがとうございます、総代」
俺が絞り出した言葉は、白く小さな吐息となって冬の空へ溶けていった。
しばらくして、一台の黒い車がゆっくりと遠くから近づいてきた。
タイヤが新雪を踏みしめる乾いた音が、静寂に包まれた道場に響く。
俺の心臓は、あの夜と同じように嫌な音を立てていた。
車が止まり、ドアが開く。
そこから降りてきたのは、厚手のコートに身を包んだ、一人の小さな少女だった。
「…………」
小雪だ。
数ヶ月ぶりに見る彼女は、少しだけ背が伸びたようにも、あるいは、以前よりもずっと細くなったようにも見えた。
雪のように白かった肌は相変わらずだが、あの天真爛漫だった瞳の奥には、今は深い淵のような静けさが宿っている。
彼女を連れてきた施設職員と総代が短く挨拶を交わす。
小雪はその間、ただ足元の雪をじっと見つめていた。
職員の手を離れ、彼女が一歩、こちらへ踏み出す。
俺は、絞り出すように声をかけた。
「……小雪」
彼女の足が止まった。
ゆっくりと顔が上がり、俺の視線と重なる。
俺は一瞬、息を呑んだ。
彼女の瞳には、憎しみも、恨みも、ましてや俺が恐れていた「絶望」さえもなかった。
そこにあったのは、ただ、再会を噛みしめるような、ひどく純粋な光だった。
「……灯火。……久しぶり、だね」
声は小さかったが、あの日、雨の中で聞いた掠れた囁きよりもずっと、命の響きがあった。
「ああ。……待ってたよ」
「……うん」
小雪は俺の目の前まで歩いてくると、不意に、自分の小さな手を差し出した。
あの夜、泥と血にまみれていたはずの手は、今は真っ白に洗われ、寒さでわずかに赤らんでいる。
「……灯火、僕の手……もう、汚くないかな?」
その問いに、俺の視界が不意に滲んだ。
19歳の理屈なんて、やっぱり何の役にも立たない。
俺はただ、彼女の冷え切った手を、今度は泥の上ではなく、確かな温もりを込めて両手で包み込んだ。
「汚くない。……最初から、一度だって汚れてなんてない」
「……そっか。……よかったぁ」
小雪の唇が、わずかに弧を描いた。
それは三ヶ月前まで俺たちが公園で見ていた、あの底抜けに明るい笑顔とは違う。
けれど、地獄の底を這いずり、自らの手で運命を抉り取った者だけが持つ、静かな強さを秘めた微笑みであった。
ふと、重ね合わせた俺たちの両手に、ひとひらの結晶が吸い込まれるように落ちた。
地上の汚れを知らぬその無垢な白さは、泥を被り、形を失いながらもあの子が命がけで死守し続けた――あの『純真』の成れの果てのよう。
それを天が、より気高く、侵しがたい姿に変えて、俺たちが重ねた手の中へと還してくれた。そんな、神聖な冬の欠片。
体温を吸って瞬く間に消えていくそれは、もう二度と彼女を汚させないと誓う俺の熱を、優しく包み込んで肯定する赦しそのものに見えた。
泥の中から拾い上げた彼女が、今、その白さに染まって静かに笑っている。
その光景は、何物にも代えがたい救いのように見えた。
「灯火に教えてもらったこと……僕、後悔してないよ」
彼女の言葉が、俺の胸に突き刺さる。
それは許しであり、同時に、これからの人生を共犯者として歩むという宣誓のようにも聞こえた。
「行こう。……みんな、待ってる」
俺の差し出した左手に、彼女がそっと自分の手を重ねる。
二度と彼女が独りで土砂降りの中を歩かなくていいように、その冷え切った指先を包み込むように握りしめた。
「……うん。……。手、離しちゃやだよ、灯火」
その掠れた声に応えるように、俺は繋いだ手に力を込める。
「ああ。……離さない」
俺は彼女の指の隙間に、自分の指を深く滑り込ませた。
その瞬間、ふわりと添えられていた彼女の指先が、吸い付くように俺の指の間に深く、深く絡みついてきた。
指の隙間を一つひとつ、まるで最初から一つの生き物だったかのように埋め尽くしていく、その隙のない密着。
それは温もりを求める甘えというよりは、一度噛み合わせたら二度と外れない、精巧な『鍵』をかけられたような重み。
繋いだ場所から伝わってくる、速くて鋭い拍動。
それはあの日死にかけた小雪が、今、俺の隣で確かに生きているという証であると同時に、二度とあの孤独な暗闇には戻りたくないという、切実なまでの『願い』のようにも感じられた。
道場の奥からは、仲間の賑やかな声がより鮮明に聞こえ始めている。
これから先、彼女を待ち受けるのは、決して平坦な道ではないだろう。
それでも、この『盾』を教えた責任として、俺は彼女の隣に立ち続ける。
隣で歩く彼女の横顔を、冬の朝の光が白く透かしていく。
俺は彼女に悟られぬよう、肺の奥に溜まっていた重苦しい空気を、白い吐息としてそっと逃がした。
それは過去への訣別であり、同時に、これから始まる逃げ場のない「明日」への覚悟。
これが唯一、俺にできる、最低限の「ケジメ」であった。