真剣で君に恋したい!   作:球磨川善吉

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銘心鏤骨

「おーい。灯火ー。入るぞー」

「どうぞー」

 

深夜、俺の部屋の戸を叩いて入ってきたのは、釈迦堂師範代だった。

精神修行を重んじるルー師範代とは対照的に、彼は「強さこそ正義」という実戦派だ。

その方針の違いからか、二人はちょくちょく喧嘩をしている。

 

彼の両手には、何やら角ばった物が入った大きな黒いビニール袋と、コンビニの袋が重そうにぶら下がっていた。

 

「おいおい。お前こんな時間まで勉強してんのか?」

「今日は遊びと修行しかしてませんでしたから。流石にやらないと」

「かー、立派なこった。俺がお前くらいの歳の頃は勉強なんて死んでもやらなかったぜ。なに、お前は将来学者さんにでもなるのか?」

「それはまだ分からないけど、選択肢を広げるに越したことはありませんから。……まあ、その頃にはもう、灯火の意識が戻ってるかもしれないけど」

 

師範代は「そうそう、その灯火のことなんだが」と、手に持っていた袋を差し出してきた。

中を覗くと、パッケージに美少女が映った薄く四角い箱が複数詰められていた。

 

「これは……エロゲ?」

「お、よく分かったなぁ。そんなにエッチな表紙じゃねえのに。お前、もしかしてやったことあるのか?」

「……前世の趣味と言われたら、真っ先に挙げるくらいにはやってましたよ。プレイ速度は遅かったけど」

 

俺の告白に、釈迦堂はニヤリと笑った。

 

「お前もか……。実はな、灯火は川神院に来てすぐに、俺にエロゲーを買ってきてくれって頼み込んできたんだ。ちなみに、今渡したやつは、お前が灯火の体に来る前に頼まれてたやつだぜ」

「ふぁっ!?」

 

思わず椅子から転げ落ちそうになった。そもそも小学一年生でエロゲという存在を知ることすら難しいのに。更に購入をねだるなんてませてるってレベルじゃない。

 

「あいつは精神が妙に大人びてたからな。平日は修行するか、エロゲするか、どこかに出かけるかの三択だった」

 

……あの予備のパソコンは、古いエロゲをプレイするためだったのか? デスクトップには変なものはなかったけど、もしかしたらファイルにエロゲのデータが入ったままかもしれない。後で確認しないと。

 

彼の意外すぎる人間臭さに、驚きを通り越して妙な親近感が湧いてくる。

 

「ちなみに親には……?」

「勿論言ってねえよ。変な方向にこじれるくらいなら、俺にエロゲ買わせた方がマシだろ? まあ、必要悪って奴だ。ここの奴らはエロ方面にいい印象を持ってなくてな、つまんねえんだわ」

「総代とはそういう話をしないんですか?」

「あいつは論外だ。口を開くたびにスク水だのブルマだの。とてもじゃねえが孫を持つ100歳越えのジジイの趣味じゃねえわな。女は40過ぎないと味が出ねえってのによ」

「総代って100歳超えてるんですか!?」

「本人曰く、日露戦争を経験してるらしいぞー。ほんとにいつになったらくたばるのやら」

 

もしかしたら出兵とかしてるんじゃなかろうか。だから強いのかな。

 

「で、まあ俺が女の趣味を語ったところでお前も語れ。性格診断ならぬ『性癖診断』だ。お前と前の灯火が、どんだけ一致してるか気になるだろ?」

「確かに気になりますけど……それって本人が墓場まで持っていきたい秘密じゃないんですか?」

「死人に口なしだ。さあ観念しろー。学校のガキ共相手じゃ、こんな話はできねえだろ? 男は何歳になっても下ネタが好きなもんだぜ」

 

釈迦堂は袋の底からコンビニで買ってきたらしい麦茶とビールを一本ずつ取り出した。お茶を俺に放り投げ、自分は手慣れた動作でビールのプルタブを開ける。

 

「お前も飲むか?」

「結構です。美味しくないし」

「……なんで知ってんだよ」

「父に誘われて一口飲んだことがあって。苦いだけじゃないですか、あんなの」

「はっ、じゃあしょうがねえか。ガキにはまだ、この黄金の苦味は早すぎたな」

 

俺は受け取ったお茶を畳の上に置き、足を崩して、意を決して口を開いた。

 

「全然ノーマルだと思うんですけど……俺の性癖は、人妻です」

「ぶっふぉっ!!?」

 

飲み始めたばかりのビールを、釈迦堂が盛大に吹き出した。

 

「……げほっ、ごほっ! ……っつーか、お前……。いや、悪ぃ。想定の範囲外すぎた。……構わず続けろ」

 

釈迦堂は手近にあったタオルで口元を拭い、居住まいを正した。

 

俺は畳に散った飛沫を見つめ、溜息をつく。

 

「あとでちゃんと掃除してくださいよ」

「わかったわかった」

「……俺がその性癖に行き着いたのは、家庭環境が原因だったと思います」

「ほう……」

「まず、前世の母親は俺がちょうど今の灯火と同じくらいの年に亡くなりました。母親が死んでからすぐ別の女性が家に来て、まあ、当然上手くいきませんでした。結局その人は家を出ていき、数年でまた別の女性が来る。俺の父親は、相当なプレイボーイだったんでしょうね」

「…つれえわな」

「……結局その人とも上手くいかず、俺は『母性』を求めても誰からも供給されない青春を過ごしました」

 

釈迦堂は沈黙した。ただ静かに、二本目のビールのプルタブに指をかけて。

 

「そんな『母性への飢え』を抱えたまま、成長と共に変な熱が混じり始めた時……俺がその象徴として求めてしまったのが、皮肉にも『豊満な胸』という、生命を育む母の記号だったんです」

「……あー、なるほど。単なるエロの好みじゃなくて、お前にとっちゃそれが求めていた母性だったわけか」

「そうです。そして、そういった母性を感じさせる質の高い対象を求めていくと、必然的に『人妻』という属性にぶち当たる。当時はまだ、ただの消去法みたいなものでしたけどね」

「……待てよ。ガキが、どうやってその手の『ブツ』を集めてたんだ? DVDか? それとも、本屋でエロ本でも万引きしたのか?」

「そんなリスクのある真似、当時の俺にできるはずがありません。……死んだ母親が遺したスマホ。それが、当時の俺が外界の毒に触れられる唯一の窓口だったんです。パスワードもかかっていない、持ち主を失った機械が」

 

釈迦堂のビールの缶を持つ手が、止まる。

 

「勿論母子相関モノも好きですよ。でも、それは一番じゃない。現実で妹がいない人が『妹モノ』を楽しむのは、それが100%純粋な空想だからです。本物を知らない彼らにとって、虚構の妹は比較対象のない、完結したファンタジーなんですよ。だから、不自然であっても薬にしかしかならない」

 

俺は膝に置いた拳を静かに握りしめる。

 

「でも、俺にとって『母子相関モノ』は、かつて存在した現実の模造品でしかない。本物を知っているからこそ、その不自然さがノイズとして響くんです。母親がいない今の現実が『異常』で、目の前の虚構は『偽物』。その板挟みが、俺の欠落をこれでもかと突きつけてくる。……だから一番にはなれない。興奮はするけど、同時に胸が焼けるんですよ」

「……」

「逆に、『人妻』という概念は空想じゃない。この世界のどこかに確実に存在する誰かの母親です。母子相関という歪な虚構(ファンタジー)ではなく、『母性を持っている実在の女性』という事実を求めてしまう。……俺にとって人妻は、飢えを満たすための、最も現実的な妥協案なんですよ。まあ、子供のいない人妻もいますけどね。それはそれで普通にNTRだから背徳感出ますし、アリです」

 

師範代は、もはや石像のように固まっていた。

手に持っていた缶ビールを床に置こうとして、その位置を三回ほど見失うくらいには動揺している。

 

「……お前、ヘビーだな」

「自分でもそう思います。でも、嘘をついても仕方ないですから。……引きましたか?」

「いや、逆だ。……握手しろ。お前は俺の同志(ブラザー)だ」

 

ガッチリと、異様に力強い握手を交わす。

 

そして、釈迦堂は、どこか遠い目をして語り出した。

 

「いいか灯火。女はワインと同じだ。誰かの妻となり、母となり、生活の疲れと色気がブレンドされたその熟成感……それこそが『真実』なんだよ。お前の『母性の渇望』ってのも、男の根源的な本能だ」

「急にポエミーですね」

「うっせ」

 

俺に悪態をつきながら師範代は一枚のパッケージを突き出した。

 

「で、前の灯火の性癖についてだがな。……安心しろ。あいつも、人妻(これ)がナンバーワンだとよ」

「えぇ…」

 

俺は思わず頭を抱えた。外見は小学生、中身は怪物。そんな灯火が、俺と同じ嗜好を持っていた…なんか嬉しいようで嬉しくない。

 

「あいつの言い分はこうだ。『完成された美しさを、崩す過程にこそ(ことわり)がある』……。あいつもお前と同じで、理屈っぽくフェチを語る奴だったが……まさか、根っこの嗜好まで同じとはな」

 

もしかして性癖が同じだから俺は灯火の肉体に転生したのか?……な訳ないか。

 

「いやぁ愉快だ! ルーの奴が聞いたら卒倒するぜ。川神院の期待の星が、二人揃って『人妻狂い』だなんてよ!」

「く、狂ってませんよ。……嗜好のベクトルが、少しだけ現実的で、かつ成熟しているだけです」

「はっはっは! 屁理屈まで前の灯火にそっくりじゃねえか。……じゃあ、立派な変態でいいか?」

「……。そもそも男で、変態じゃない奴の方が変態ですよ。何かしらの清濁併せ持つのが人間でしょう」

「おお、中々いいこと言うじゃねえか。……まあそうだわな。 男なら当然だ。いいか、灯火。性癖が面白いやつは人間としても面白い。 逆は分からんがな」

 

釈迦堂はそう言って、プシュッと二本目のビールのプルタブを引き抜いた。

 

「……ルー師範代とか、どうなんですか? あの人、いかにも真面目そうですけど」

「あいつか? あいつは……清楚系委員長の男版みたいなもんだ。頭が固えし、浮いた話も一向に聞こえてこねえ。要するに童貞だからな。クソほどつまらん」

「なるほど……」

「で、だ。そんなエロゲーに詳しくて、性癖まで完成されてるお前も、中身はやっぱり童貞か?」

「勿論、当然です。前世では、この星に生命が誕生してから約40億年。一度も絶えることなく受け継がれてきた血統を、俺の代で途絶えさせました」

「……ははっ、そりゃあお疲れさん。地球規模の戦犯じゃねえか」

 

釈迦堂は一気にビールを煽り、空になった缶を少しだけ寂しげに眺めた後、俺の横顔を覗き込んできた。

 

「……。じゃあよ、お前の好きな女性のタイプは? 二次元や性癖は置いといてだ。現実に隣に並べるなら、流石に人妻じゃないだろ?」

 

釈迦堂の問いに、俺は数秒ほど悩んだ後、重い口を開いた。

 

「そうですね。流石に自制しないと。物が物だし……。現実的に考えれば、ありきたりですけど、優しい人、とかですかね。」

「おいおい本当かよ。とてもじゃねえが『熟成されたワイン』を語ってた奴とは思えねえな。もっとこう、ねえのかよ」

「あと、胸と尻がでかい人。……そもそも、俺は選べる立場じゃないですから」

「はっはっは! 悟りきってやがんなぁ! まあ、お前の顔マジで普通だからな。なんの特徴もねえ。せいぜい清潔感で勝負するしかねえツラだぜ」

 

俺は手に持った麦茶の容器を虚ろな目で見つめ、深いため息を吐いた。

 

「……ノーコメントで。これ、俺じゃなくて灯火の顔なんで、俺がどうこう言えるもんじゃないですよ。追い打ちかけないでください」

「あ、そういやそうだったな。ガハハ、悪ぃ悪ぃ! 元からそんなツラだったわ、あいつ。ま、中身が別人になっても『普通』のままってのは、ある意味、変に目立たなくて都合がいいんじゃねえか?」

「ポジティブですね……。自覚はしてるんで、せめて身だしなみくらいは気をつけるようにしますよ」

 

師範代は空になった缶を畳の上に置くと、少しだけ真面目な顔になって、俺を覗き込んできた。

 

「そういや、お前。百代たちとはどうなんだよ。なんか気になってる奴はいねえのか?」

「いません。……てか普通に考えて俺、精神年齢なら今年で20ですよ? 最初から小5の女子を異性として意識したことなんて万に一つもありません。 俺がそんな人間だったら転生した瞬間に総代から破門されてますって」

「……それもそうだな。じゃあ、あいつらが高校生になっても付き合ったりはしねえのか?」

 

俺は少し考え、首を振った。

 

「多分、ないと思います。最初から対象外でしたけど、ここ数ヶ月、勉強を教えたり面倒を見たりしてるうちに、より一層、彼女たちのことは父親的な目線でしか見られなくなりました。……庇護対象なんですよ、俺にとって」

「もったいねえなぁ。京と小雪なんて、もうお前に依存しまくってるだろ」

「頼れる大人が周りにいなかったから、そうなっても仕方ない。一時的なものです」

「あいつら、お前が恋人にならなかったら一生独り身だぞ、多分」

 

釈迦堂の冗談めかした言葉に、俺の胸が微かに疼いた。頭に浮かぶのは、ここ数ヶ月の彼女たちの姿だ。最近の彼女たちの、一層露骨になってきたボディタッチ。あれを無知ゆえの幼さと片付けるには、彼女たちの視線はあまりに重い。

 

京は割と立ち直っているが、小雪は多分会う前から壊れていたから、一人で立つにはまだまだ時間がかかるだろう。

 

俺には彼女たちへの責任があると思う。傲慢かもしれないけど、救ったものとして。だから俺にできることはなんでもする。けど、それはあくまで友達としてだ。恋人のような精神的支柱には、俺にはなれない。

 

俺という「異物」が彼女たちの人生に深く入り込みすぎた代償を、俺自身が一番理解している。

だからこそ、俺は笑ってその言葉を流した。

 

「なんとか、いい人を見つけてほしいですよね」

「随分と他人事だなぁ、おい」

 

俺は手に持った麦茶の容器をじっと見つめ、淡々と、自分に言い聞かせるように続けた。

 

「そもそも、一人の人間が平等に複数人を愛せるわけがない。この国は一夫一妻が原則です。どちらかが不幸になるくらいなら……」

「だから、選ばずに両方不幸になった方がいい、ってことか?」

「本当は良くないけど、選んで傷つけるよりは、まだマシだと思ってしまいます。それに、いつか灯火が目覚めた時に直面する障害は、少しでも減らしておきたい」

 

釈迦堂は短く鼻を鳴らした。その表情には、俺の「過保護な代行者」としての振る舞いへの呆れが滲んでいる。

 

「たしかにな。……だが、そうも言ってられねえかもしれねえぜ? ちなみに、百代は前の灯火に告白して、完膚なきまでに振られてるぞ」

 

不意に投げられた事実に、俺は「……なるほど」とだけ返した。

 

「なんだよ、随分と反応が薄いな」

「……いえ。百代がお母さんみたいにいつも俺を気にかけてくれるのが、ずっと疑問だったんです。でも、それなら納得っていうか」

「自分を振った好きな男の精神が、別の男に塗り替えられる。……あいつの感情もグチャグチャだわな」

 

俺が転生した直後で精神が不安定だった時も、小雪のことで落ち込んでいた時も、彼女はいつも優しく慰めてくれた。てっきり、純粋な親切心かと思っていたけれど、それには別の思いが混じっていたわけだ。そう考えると、彼女が向けてくる慈愛に満ちた眼差しが、急に重く、逃げ場のないものに感じられてくる。

 

「多分、彼女は俺のことを『自分から好きになりにいっている』んだと思います」

「どういうことだ?」

 

俺は畳の目をなぞるように視線を落とし、自身の仮説を口にした。

 

「小雪や京、辰子の俺へのアタックに、度々彼女も混ざってくる。……『好きな人にする行動』を自らトレースすることで、自身の感情に嘘をつき続けたいだけなんじゃないでしょうか。中身の入れ替わった思い人を、以前と変わらず愛せるように自分を騙しているんです」

「……おいおい。それを見抜いた上で放置してんのかよ。中々お前も鬼だな」

「放置というか、俺には何もすることができない。……彼女が抱えた心の空洞を本当に埋められるのは、俺じゃなくて『前の灯火』だけなんですから。俺が優しくすればするほど、彼女の自己暗示を強めてしまう」

「まあ、百代からしたら前よりかは希望が見えてきたから良かったのかもな」

「え。灯火ってそんなに百代のこと嫌いだったんですか?」

「嫌いっていうか……最近のあいつにとって百代は障害物扱いだったな。告白に失敗してからもしつこく付きまとってたからよ。灯火が百代に力づくでキスされそうになったときは俺でも引くくらい激昂しててよ。普通に百代が泣きじゃくるまで……っていうか、戦意を喪失するまで叩きのめしてたな。ルーと俺でなんとか収めたけどよ。そこからは二、三か月、口も利かなかったな」

「うわぁ……」

 

思わず声が漏れた。

あの武神を物理的にも精神的にも粉砕し、泣かせる小学生。もはや怪物という言葉すら生温い。

 

「……今の話を聞いて余計に分からなくなったんですけど。なんで前の灯火は、百代や辰子にあんなに好かれてたんですか? 普通、そこまでされたら嫌いになりません?」

「はっはっは! 普通のガキならそうだろうな。だがな灯火、ここは川神院だ」

 

釈迦堂は空になった缶を指先で弄び、そのあまりの軽さを確かめるように指を一本立てた。

 

「いいか。百代は同年代で自分より強い男、自分を真っ向から否定して従わせる男なんて、人生で一人も会ったことがなかったんだ。周りの男はみんなあいつにビビるか、腫れ物に触るように接するか、あるいは実力でひれ伏すかだ。あいつにとって、この世は退屈なほど自分に従順だったのさ」

 

釈迦堂の目が、鋭く光る。

 

「そこに現れたのが、自分を『女』として見ず、ただの『邪魔な化け物』として排除しようとする圧倒的な『個』だ。……拒絶されればされるほど、蹂躙されればされるほど、あいつにとってはそれが唯一無二の『愛』に聞こえちまったんだろうよ。……『この男だけは、私を屈服させてくれる』ってな。それが、あいつの飢えを癒やしたんだ」

「……マゾってことですか?」

「武道の極致なんて、究極の自己愛か、究極の被虐愛のどっちかだ。あいつは灯火に、自分の『底』を見せつけられた。それがたまらなく心地よかったのさ。……お前が今、あいつを『父親目線』で見てるのも、あいつにとっちゃ新しい『拒絶』の形でしかない。ますます燃え上がるぜ、あいつ」

 

俺は、頭が痛くなってこめかみを押さえた。否定してもダメ、肯定してもダメ。どうなってるんだ。

 

「じゃあ辰子の方は?」

「辰子は……なんなんだろうな。正直、俺もよく分からん。あいつは精神性とか小難しいことは考えちゃいねえよ。強いて言うなら、灯火の『肉体』そのものに執着してたんだろうな。あいつにとって灯火は、本能的に一番落ち着く『居場所』……極上の抱き枕みたいなもんだったんじゃねえか?」

「そういえば、彼女は俺が転生したと伝えても『どっちでもいい』と一蹴してましたね。ただ隣にいる時の『質感』を求めていると。……凄まじく野生的というか、単純ですね」

「だろ? だから中身が別人だろうが、その体が『灯火』である限り、あいつは離れねえよ。……ま、ある意味、精神を見てる百代より厄介かもな」

 

俺がどれだけ言葉を尽くそうが、彼女には届かない。

体温、筋肉の感触、匂い――この「器」が灯火であれば、彼女の安らぎは完結してしまうのだ。

 

俺は、さらに頭が痛くなってこめかみを押さえた。逃げ場のない好意の包囲網に、もはや眩暈すら覚える。

 

「……ますます頭が痛くなってきました。俺思うんですけど、そもそも性に目覚める前の恋って、ただのバグじゃないですか?」

「バグだぁ?」

 

釈迦堂は、俺が吐き出した突拍子もない言葉を吟味するように、少しだけ首を傾げた。その様子を無視して、俺は一気にまくしたてる。

 

「本来、性に目覚めてからの恋って、ほとんど性的興奮を覚える相手としかしないはずです。生存本能や種を残すという普遍的な愛の行きつく先を考えると、ホルモンという裏付けがない今の彼女たちの状態は、あまりにも生物的に欠陥すぎる」

「……お前、マジで可愛げねえな。懐いてくるガキの純情を、『生物的欠陥』の一言で片付けるのかよ」

「幼いころは自分より大人びている人への憧れだったり、単なる依存や友愛の区別がつかない。それらを混同して、無意識に『特別な感情』だと脳が処理ミスしているだけだと思います。結局、あいつらの必死な態度は全部、脳による『名前の付け間違い』なんですよ。どこまでいっても不自然だ」

 

俺は手元の麦茶を一口飲み、熱くなった頭を冷やすように息を吐く。釈迦堂は、どこまでも冷徹に自分を律しようとする俺を、呆れたように、けれどどこか興味深そうに眺めていた。

 

「……なるほどな。どこまでも冷めてやがると思ったら、全部理屈でバッサリ切り捨てやがった。お前の中じゃあいつらの必死な態度は全部、脳のエラーってわけか」

 

師範代の呆れたような笑い声に、俺は手に持ったペットボトルを微かに握り、中身の麦茶がたぷん、と揺れる音を聞きながら言葉を重ねる。

 

「……まあ、そういう俺も、初恋は小1の頃でしたけどね。相手は、ごく普通の同級生の女の子でした。人妻なんて概念も知らないし、相手に何かを求めてたわけでもない。ただのガキ同士です」

「なんだよ。意外と普通じゃねえか。お前もしっかり年相応にバグってたって話だろ?」

「……ええ。そのまま普通に終わっていれば、俺の人生も、もう少しマシな色をしていたかもしれませんね」

 

俺は苦い記憶を噛みしめるように、手元のボトルを少し強く握った。ペリッと、ラベルが指先で微かな音を立てる。

 

「公園で、クラスメートに本人の前で『好き』だってのをバラされた後に……本人に『キモ』って言われたんですよ」

「……。……あー、それは……。ご愁傷様だな。小1にはオーバーキルだろ」

 

師範代の顔から余裕が消え、少しだけ憐れみの色が混じる。

 

「だから余計に、人妻っていう包容力に救いを求めたのかもしれません。完成された大人なら、そんな言葉で切り捨てないだろうって」

「……なんか、お前の好みって、すべてが悲しみで出来てんのな。……笑えねえよ」

「そう考えるとそのバグが起きた瞬間の情景とか、その特別な感情を持った相手に、性癖が『付随』しちゃうんですかね。俺の場合、その拒絶から逃げるための出口が、たまたま人妻だっただけで」

「確かにそっちかもなぁ。幼少期の刷り込みってのは、一度深く魂に刻まれたら、一生拭い去れねえからな。お前の場合は、その『キモ』の一言が、すべての始まりになっちまってんのか」

 

釈迦堂が、手持ち無沙汰そうに三本目のビールを開ける。

プシュッ、という軽快な音が深夜の静寂に響き、弾けた泡が闇に消えていった。

 

「てかよ。お前って精通してんのか?」

「……中々急ですね」

「あれだけ性癖を熱く語れたってことは、性欲がある。でも精通してないからムラムラを感じることはない。矛盾してるだろ」

 

師範代の指摘は、生物学的には正論だ。

二次性徴を迎える前の子供には、本来「性欲」という衝動は存在しない。

 

「脳には20年分の『これがエロい』という経験則が詰まっています。でも、この体には、それを爆発させるための燃料がまだない。……つまり、『頭では最高に興奮しているのに、体の方は他人事のように冷めきっている』という、世にも奇妙なズレが起きてるんです」

 

釈迦堂は、今日一番の「うわぁ……」という顔をした。

 

「……なんだそれ、地獄じゃねえか。食欲は一人前なのに、胃袋を縫い合わされてるようなもんだろ」

「……だから、修行なり勉強なりにのめり込んでないと、頭がおかしくなりそうなんです。布団に入った時にふと、言いようのない喪失感に襲われる、っていうか。……自分が何者でどこへ帰ればいいのか分からなくなります」

 

俺の独白に、釈迦堂は手に持っていた缶を、まるで毒物でも見るかのようにゆっくりと床へ置いた。さっきまで「変態だ」と笑っていた空気は、もうどこにもない。彼はただ、飲み干すのを忘れたビールの泡が消えていくのをじっと眺め、それから俺の顔を見た。

 

「……なるほどな。お前、そりゃあ修行もうまくいかねえわけだ」

 

釈迦堂は床の缶を少しだけ強く握り、俺の腹のあたりを顎でしゃくった。

 

「『気』ってのは、心と体が一つになって初めてまともに流れるもんだ。だがお前ときたら、頭の中はお盛んな20歳で体の方はただのガキ。しかも、転生する前の奴の気はバカでかい。……そんなん、中で大喧嘩して『気』がノイズだらけになっちまうのは当たり前だわな」

「そうなんです。前の灯火が遺したこの『気』は、俺の手に余りすぎる。広げようとすると、制御が追いつかずに全部毛穴から漏れ出でてしまう」

 

京や小雪は着実に全身のコントロールへ近づき、百代や一子に至ってはブラックホールや槍を形成するほどの練度がある。対して俺は、自分自身の体を気に包むイメージすら掴めない。「血液のように循環させる」イメージで練っても、内圧が高すぎて、循環する前に外へ霧散してしまう。

 

「結局、これしかないんですよ。かろうじて形にできるのが」

 

俺は手に持ったキャップの指先が触れているわずか数センチの範囲に、体内の猛烈な気を一気に流し込んだ。

本来は「高密度の揺らぎ」として維持すべき気を、俺は無理やり一点に超圧縮する。

この1,2か月の鍛錬で、硬化できる範囲は前より少し成長した。直径3センチ、奥行き2センチ。その極小の範囲だけが、鋼鉄以上の硬度へと変質した。

 

「アイツのおどろおどろしい気はお前には余る代物だ。お前には100年経っても使いこなせねえ。だがな、その『デカすぎるバグ』を一点に凝縮して結晶化させるその異常な硬度は、百代や一子のそれとは全く別種の代物だ。逆にあいつらはお前みたいに雪の結晶一つ一つに気を纏わせるなんて細いことはできねえ。やろうとしてもあいつらの気に耐えきれずに爆発するだけだ」

 

釈迦堂は不敵に笑い、空になった缶を袋に詰め込んでから、よっこらせと立ち上がった。

 

「その点、お前は気が出る穴が小さいからいい塩梅で硬化できる。……いいか。その欠陥をそのまま尖らせろ。不器用な一点突破の『牙』。それがいつか、お前の財産になる」

「分かりました」

 

俺は容器への気を解き、一口麦茶を飲んだ。

 

……灯火が遺した巨大な遺産

それをまともに扱えない俺は一芸特化で行くしかない。

 

「それとな、エロには無限のパワーがある。……人間の、動物としての本能に直結してるからな。今のお前には少し毒かもしれねえが、たまにはご褒美がねえといつか燃え尽きちまうぞ」

 

釈迦堂の言葉に、俺は背筋を伸ばして短く答えた。

 

「……押忍!」

「今日渡したゲームの代金は、既に前の灯火から貰ってる。気兼ねなく好きに使え。もしまたエロゲーが欲しくなったら、その時は俺に言え。いくらでも調達してきてやる。――金は勿論お前持ちだがな」

 

釈迦堂はニヤリと笑い、扉に手をかけた。

 

「……それとな。もしその中に40オーバーの、いい味出してるキャラが攻略できるゲームがあったら、俺にも貸せよ? 忘れるなよ」

 

そう言って師範代は、ひらひらと手を振りながら部屋を出て行った。

 

嵐が去った後のような静寂が戻り、久しぶりにあんな話を全力でしたせいか、どっと疲れが押し寄せてきた。

時計を見ると、時刻は午前1時。

あと30分くらい勉強したら、俺も寝るとしよう。

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