真剣で君に恋したい!   作:球磨川善吉

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不立文字

「灯火、はいこれ。バレンタインチョコ」

「ん……。ん? あり、がとう…」

 

意識を浮上させると、視界にはいつもの光景が広がっている。いつの間にか布団に潜り込んでいた京から手渡されたのは、ハート型の箱だった。

 

「Zzz……すぴー」

 

隣では辰子がまだ夢の中にいる。

前の灯火との取り決めでは「一緒に寝るのは日曜日だけ」だったはずだが、小雪や京も俺の部屋に入り浸るようになり、今ではそのルールも完全に形骸化していた。

 

「いっぱい、愛を詰めました」

「あ、ありがとね、京。勉強の合間の楽しみにさせてもらうよ」

「む~。今食べてよ~。私、今日のために昨日から徹夜して作ったんだよ?」

「……。じゃ、じゃあ一口だけ」

 

辰子の拘束をそっと振りほどき、半身を起こす。

箱の中にあった包みを解く。やはりチョコの形もハートだった。京の、刺すような期待に満ちた視線に負け、パクっと一つ口に放り込んだ。

だが、咀嚼した瞬間に感じたのは甘みではなく、これまで経験したことのないレベルの「暴力的な熱」だった。

 

「か、辛!! 美味しいけど、何入れたのこれ……っ!? ごほっ、ごほ」

「ぷれーりーふぁいあぺっぱー」

「……。な、なんか名前からして辛そうだね、それ」

 

口内を焼き焦がすような刺激を必死に堪えていると、京がいつの間にか手に持っていた牛乳を一口含み、顔を近づけてきた。

 

「じゃあ、私が口移しで飲ませてあげる」

「いや、やらないから。自分で飲むから」

 

京はゴクっと喉を鳴らして牛乳を飲み込み、不満げに頬を膨らませた。

 

「ちぇ~。けちー」

「いや、そういう問題じゃなくて……って、もう寝てるし」

 

文句を言い終えるより早く、彼女は電池が切れたように手に牛乳瓶を持ったまま、辰子の隣へと沈んでいった。

くたくたな身体に鞭打って、俺が起きるまで鉄の意志で待っていたのだろう。

一番最初にチョコを渡すために。

 

そのひたむきさは素直に嬉しい。けれど、寝顔を見つめていると、京の世界が俺を中心に回りすぎている気がして、少しだけ背筋がむず痒くなる。

 

実は昨日、辰子が「自分は忘れっぽいから」とフライングでチョコを渡してきたけど……それは黙っておこう。一番乗りを目指してここまでボロボロになった京の前で、そんな無粋な真実を口にするほど、俺も子供じゃない。

 

俺は二人にそっと毛布を掛け直し、火照る口内を冷ますために静かに部屋を出た。

冷ややかな廊下の空気を吸い込んで口内に残る辛さを中和しようとした、その時。

 

「うぇい、うぇい!!」

 

背後からふわりと柔らかな重みが重なり、胸元に細い腕が回される。小雪だ。「カサッ」と、俺の心臓の真上で彼女の持つ小さな箱が、鼓動に合わせるように音を立てた。

 

最近の彼女の成長は凄まじく、いつの間にか俺の背も追い越されている。女子の方が成長期が早いとはいうが、この「見上げられる側」から「見上げる側」への変化は、男としては少しばかり複雑だ。

 

「灯火……迷惑じゃなかったら、その…受け取ってほしいな」

 

俺は彼女の細い手首にそっと触れ、導くようにしてその拘束を解く。ゆっくりと正面に向き直れば、そこには少し前まで見下ろしていたはずの、俺の目線とさほど変わらない高さにある彼女の顔があった。雪のような白い頬が、今はリンゴのように真っ赤に染まっている。

 

「ありがとう。後でじっくり食べるよ」

「食べたら感想聞かせてね。来年の参考にするから!」

「うん。楽しみにしとく」

 

「来年」という言葉。当たり前のように彼女の口から零れたその響きに、反射的に頷いてしまう。その何気ない同意が、彼女たちの未来を俺という一点に縛り付けているような気がして、ふと、言いようのない不安が胸をよぎった。

 

一ヶ月前、俺は自分にこう言い聞かせたはずだ。救ったものとして責任は取る。けれど、恋人のような精神的支柱にはなれない、と。だが、そんな俺の線引きがいかに独りよがりな願望だったかを、今さら思い知らされる。背中に伝わる彼女の熱も、「来年」を疑わないその無垢な瞳も、俺がすでに彼女たちの「支柱」になってしまっている現実を容赦なく突きつけてくる。

 

いまだに口の中に残るヒリヒリとした熱い痛みが、俺の思考をかき乱して離さない。こんな、たった一つの物理的な刺激にさえ顔をしかめている情けない今の俺に、彼女の真っ直ぐな想いを撥ね退け、その心を傷つけるような残酷な決断を下せるはずもなかった。

 

今はただ、この身体と心の両方に居座る辛さを自覚したまま、差し出された好意を預かっておくことにした。

 

 

「そこまで。勝者、川神一子」

「お、押忍。ありがとうございました!!」

 

修行の休憩時間。体力があり余った百代と一子に組手の立会人をお願いされた。

 

「は~。あとちょっとで勝てそうだったんだけどなぁ」

「やっぱりすごいや、二人は。流れるように気でバンバン技撃つもんね」

 

彼女たちの気は、身体の周りを周期的に揺れている。

攻撃するときは拳に集中させ、ガードをするときはそこを重点的に纏う。

それをコンマ数秒の単位で使い分け、更に気で技を放っている。この二人の勝負はいつ見ても飽きない。

 

「あはは、ありがとー。でも、気のコントロールに関してはやっぱりお姉さまの方が一枚上手。私はまだ、肉体の頑丈さで無理やり通してるだけ」

 

一子が自分の拳を見つめながら、謙遜というよりは冷静な分析としてそう言った。

実際、今の一子の肉体は岩のように強固だ。対する百代は、技術でそれを凌駕しようとしているが、あと一歩が届かない。

 

「むー。それでも負けるのは悔しいぞ。なぁ灯火ー。どうしたらワン子に勝てる~?」

 

地面に這いつくばった百代が、汗を拭いながら気だるそうにアドバイスを求めてきた。

 

「……俺が言うのもなんだけど、今の百代はスピードもパワーも一子に二、三歩劣ってる。正面から肉体のぶつけ合いをしても、押し切られるのは必然だよ」

「うぐっ……まあ、そうだな」

 

百代が悔しそうに顔をしかめる。技術では圧倒しているはずなのに、一子の「壁」を突破できない。

 

「だから、真っ向からの出力勝負は捨てるしかない。外側から叩いて壊せないなら……例えば、自分の気を相手の体内に強制注入して、内側から循環を乱すような妨害に特化した技とかないの?」

 

一子と百代の動きが、ピタリと止まった。

 

「……相手の気を受け流すんじゃなくて、無理やり捩じ込むってこと? 前にじいちゃんも言った通り、相手よりよっぽど気の密度が高くないと、逆流した気に自分の身体が壊されるわよ。たぶーよ、たぶー」

 

一子が本気で顔をしかめて制止する。

 

身体を包むの気は、いわば強固な装甲。対して、体外へ放出しようとする気は、出口を開放した「無防備な流れ」だ。格上の高圧な循環に無理に干渉すれば、水門を無理やりこじ開けた時のように、相手の気が自分の腕になだれ込んでくる。

 

「……確かに、まともにやったら自爆だね。でも、それは『面』で押し込もうとするからだよ。一子のガードが分厚い壁なら、百代の気はそれを貫通する『針』になればいい。水鉄砲と同じ理屈だよ」

「水鉄砲……?」

「出口を極限まで絞って、一点にエネルギーを集中させるんだ。エネルギーの平衡が始まって腕が吹き飛ぶ前に、一瞬で突き刺して、一瞬で引き抜く。百代のセンスなら、その圧力が伝播するコンマ数秒を追い越せるんじゃないかな」

「……」

           

一子が難しい顔をして黙り込む。

 

理論上は可能。だが、実戦でそれを成し遂げるには、一歩間違えれば身体が壊れる恐怖に打ち勝つ精神力と、針の穴を通すような精密な制御が必要だ。

 

さらに一子は、もう一つの懸念を口にした。

 

「……でもさ灯火。たとえ針で穴を開けたところで何になるの? その程度の穴、あたしの気の総量ですぐに押し潰して塞いじゃうわよ」

 

一子がもっともな疑問を口にする。

 

「力でこじ開けるんじゃなくて、コンマ数秒単位で変わる『気の振動数』を完全にコピーして、一瞬だけ同調させるんだ。 音叉と同じだよ。相手と同じ振動数に合わせて、タイミング……つまり『位相』をぴったり重ねる。 そうすれば、反発されずにスッと中に入り込めるはずだ。防御を『破る』んじゃなくて、鍵を使って『開ける』んだよ」

「しんどーすう? いそう? そういえば前の灯火から教えてもらったような気も……」

 

一子はなにやら難しい顔をして、百代は深く考え込んでいる。まあ、小学生には厳しいか。

 

「合流した瞬間に、一子の循環の中に不純物を一滴だけ落とす。高速道路を爆走してるレーシングカーが、小さな石ころを踏むようにね。元の相手の気が強ければ強いほど、異物が引き起こす衝撃は致命的になるんじゃないかな」

「ふふ……。いいぞ灯火、ますます気に入った。相手の強さをそのまま牙に変えるか。 あとは勇往邁進するだけだ!!」

 

対照的に、百代の瞳にはすでに迷いはなかった。俺の話を理解できていたらしい。正直驚いた。これも、「前の灯火」が何かを仕込んでいたおかげなのだろうか。

 

不可能に近い精密作業ですら、彼女にとっては「最高の遊び」に映っているらしい。

 

「……あ、そうだ。ちょうど、いいアイディアをくれた礼だ、ちょっと待ってろ。とっておきを持ってきてやるからな!」

 

そう言い残すと、百代は風を切って道場の奥へと消えていった。

 

多分、俺が提示した程度の理屈なら、総代は数十年前に既に辿り着いていたはずだ。ただ、それを実戦レベルの技能として成立させる確率が、限りなくゼロに近いというだけで。あるいは、総代からすれば、百代にはそんな小手先の技に頼るよりも、まずは肉体の方を伸ばしてほしかったのかもしれない。

 

百代はいつも俺が口にしただけの机上の空論を、当たり前の呼吸でもするように、持ち前のセンスだけで瞬時に血肉に変えていく。

この天衣無縫なセンスと、今の一子が持っている底の見えない屈強な肉体。

かつては「川神百代」という一人の怪物が、その両方を不可分なものとして併せ持っていた。そう考えると恐ろしい。

流石は、総代の孫だ。

 

そして十数秒ほどで百代は戻ってきた。

 

「はい。これバレンタインチョコ。私とワン子の分だ」

「あ。お姉さま、私の分まで持ってきてくれたの!? ありがとう!」

 

風を切る音と共に、いつの間にか百代が俺の目の前に立っていた。

 

百代と一子から、包装が全く同じチョコを二個ずつ受け取る。

 

「な、中々急だけど、ありがとう」

「今ここで食べ比べて、どっちが私ので、どっちがワン子のやつか当ててみな」

「えっ、今……? …じゃあ、頂きます」

 

片方は中にチョコソースが入った濃厚なタイプ。もう片方はナッツの入った香ばしいタイプだ。

 

「……。ソースが入った方が百代で、ナッツの方が一子かな」

「おー!! 正解!! なんで分かったの?」

「一子なら健康に気を遣ってナッツとか入れそうだし。逆に百代は、とことん甘さに振り切った方が好きそうかなって。どっちも甲乙つけがたいくらい美味しかった」

「そこで気づかれたか……。次は私もナッツを混ぜて撹乱してみるか」

 

百代が悔しそうに唇を噛む。

なんかメタ的な読みで若干ズルい気もするけどそこは大目に見てくれるらしい。

 

「そもそも……。二人で一緒に作ってたんじゃないの?」

「いや~まあ。偶々作る時間が被っただけ、っていうか? なあ、ワン子」

「そ、そうそう。材料費折半とか、特売の板チョコを二人で買い占めたとか、そんなことは決してしてないわ!!」

 

修行中は戦場のような殺気を放つ二人が、スーパーのチラシを片手に「こっちの方が十円安い」なんて相談している姿を想像してしまい、俺は思わず吹き出しそうになった。

 

「ホワイトデー、楽しみしてるからな!」

 

と、百代が元気に催促する。

 

そうじゃん。チョコって貰ったら、返さないといけないんだ。辰子、京、小雪、一子、そして百代。計算するまでもなく合計五人分。しかも、彼女たちは全員「手作り」という直球を投げてきた。なら、俺も礼儀として手作りで返すしかない……よな。

 

 

甘くて辛いバレンタインから十二日。二月も終盤に差し掛かった二十六日の朝、その嵐は唐突にやってきた。

 

「一子殿ぉ!! お誕生日おめでとうございます!!」

「く、九鬼君!!?」

 

一子との朝練中に乱入してきたのは、燃えるような瞳を持つ少年だった。彼の背後には、氷のような視線を湛えたメイド服の女性が音もなく控えている。

 

「僭越ながらこの九鬼英雄、貴方に誕生日プレゼントを持ってきたのです!! あずみ、用意を!!」

 

黒塗りの高級車からレッドカーペットが敷かれ、あずみ、と呼ばれたメイドの女性によって台車に乗せられた巨大な箱が運ばれてくる。

 

「ではご照覧ください!! ぱんぱかぱーん!!」

 

箱が開かれた瞬間、演出用のスモークが周囲を包み込む。霧が晴れた後、そこから現れたのは……。

 

『やあやあ、僕はクッキー。九鬼財閥お手製の超高性能ロボットだよ。よろしく、マイスター川神一子』

「クッキーは九鬼財閥の叡智を凝縮した自律思考型ロボット!! 第108形態まで存在し、身の回りの世話から戦闘、勉学の補助まで、あらゆるニーズにお応えします!!」

 

あずみが、主人の自慢と言わんばかりに目を輝かせて補足する。

 

「どうです! 一子殿!! 我の思いは貴方に届きましたでしょうか!!?」

「……く、九鬼君。気持ちは嬉しいけど、こんなの受け取れないわ。高価すぎるし、私には不相応」

「な、なんと!? 渾身のプレゼントを拒否……だと!? ぐぬぬ……。だが、諦めんぞ!!」

 

九鬼はわずか数秒でその瞳に再点火させると、傍観していた俺をビシッと指差した。

 

「ならば、そこの御仁!! お前にこのクッキーを『貸与』する!!」

「え、ええ!? 俺!?」

「お前はこの川神院で修行している炎条寺灯火だろう? 度々一子殿から話を聞いている」

 

一子って風間ファミリー以外には俺のことなんて言ってるんだろう。ちょっとだけ気になる。

 

「近頃は色々と物騒だ。一子殿でさえどうなるか分からん。一子殿が受け取らぬと言うなら…代わりにお前がクッキーを運用し、彼女を守る盾となってほしい」

「ええ……。そんなこと言われても……」

 

俺が困って一子を見ると、彼女は眉を下げて複雑そうな顔をしていた。

……まあ、そうだよな。自分を熱烈に信奉している男から、数億円規模のプレゼントを個人で贈られたら、さすがに引く。恋愛感情以前に、背負いきれないよな。

 

「……一子殿。これは我が個人的な安心のための、いわば保険だ。貴殿の私物ではなく、この川神院の防衛システムの一部として置いておくだけでも構わん。これでも、断るというのか……?」

 

九鬼の必死な、それでいてどこか情けない懇願に、一子はついに溜息をついた。

 

「灯火は…それでいいの?」

「う、うん。俺は問題ない」

 

ここで俺が突っぱねれば、一子が九鬼の「善意」という名の重圧に独りでさらされ続けることになる。なら、すでに小雪の情報統制の貸しを作っている俺がこの「九鬼の過剰な愛」を管理する……それが一番丸く収まるはずだ

 

「……まあ、灯火が管理するっていう形なら、預かるだけは預かるけど。でも、これ以上の贅沢は本当にいらないからね?」

「おおお! 寛大なるお言葉、感謝に堪えぬ!!」

「クッキー。指揮権を川神一子から炎条寺灯火へ移行してください!!」

『オーケー。元マイスター。あ、今は元元マイスターか』

 

メイドの発言の後、クッキーのレンズが緑色に発光した。これで俺がこの「財閥の叡智」の主になったらしい。

あまりに怒涛の展開に頭が追いつかないが、目の前の少年が「九鬼財閥」そのものであるなら、この機会に言っておかなければならないことがある。

 

「えーと、九鬼君……で、いいのかな?」

「……フン、呼び方など好きにするがいい」

「じゃ、九鬼。……いきなりで悪いんだけど、一つ礼を言わせてほしい。小雪の時の情報統制、助かったよ。本当にありがとう」

 

彼に頭を下げる。

あの一件が一週間かけてじわじわと、だが完璧に噂が消えていったのは、間違いなく九鬼の力が組織的に動いたからだ。

 

「……む。ああ、そのようなこともあったな。なぁに、我にとっては些細なことよ。九鬼の力は、民草を守るためにあるのだからな」

 

一週間という時間は、おそらく裏で「漏れた情報を一つずつ潰していく」ための実務的な期間だったんだろう。その徹底ぶりに、あらためて財閥という力への感謝と、抗いようのない権力への微かな恐ろしさを感じる。

 

「本当になんて言えばいいか…」

「案ずるな。あの少女は病室で我の親友――葵冬馬と仲を深めたからな。礼なら奴に言ってやってくれ」

 

葵冬馬。その名前は、度々小雪から聞いていた。なんでも入院中の話し相手になってくれていたらしい。いつか直接、礼を言わなきゃな。

 

「それと、このクッキーも。正直、こんな高性能な……というか、宝の持ち腐れになりそうで怖いけど、大切に預からせてもらうよ。一子を守るために、ありがたく使わせてもらう」

 

俺がそう付け加えると、九鬼は鼻で笑いながらも、どこか満足げに口角を上げた。

 

「フン、案ずるな。クッキーは自律思考型だ。誰でも扱えるよう、九鬼の叡智の限りを尽くして調整してある。 礼など不要……と言いたいところだが、一子殿の盾となるその覚悟、心意気だけは受け取っておこう」

英雄(ひでお)様、そろそろお時間でございます!」

「ああ、分かっている。最後に炎条寺灯火……お前は実に面白い目をしている。一子殿の盾となるだけでなく、いつか我の力となることも考えておけ。これは我の名刺だ。必要になればいつでも連絡するがいい」

 

九鬼はそう言って、重厚な装飾が施された名刺を俺のポケットにねじ込んだ。

 

「う、嘘でしょ!? まだ初対面だよ!?」

「我ほどのカリスマを持つと、一目見ただけで『使えるか否か』の判断がつく。では一子殿、我はこれにて失礼する!! クッキー、灯火の指示に従い、一子殿の盾となれ!!」

『了解、英雄。お元気で。定期メンテナンスの時はまたそっちに行くからよろしくね』

「ではでは!! きゃるる~ん」

 

嵐のような宣言と共に、九鬼は再び高級車へと吸い込まれていった。

敷かれたばかりのレッドカーペットは、あずみの手によってマッハの速度で回収され、黒塗りの車体はタイヤを鳴らして走り去る。

 

一子と二人、呆然とその後ろ姿を見送る。

数億円のロボットを、初対面の男に「はい、貸した!」で預けていく度胸。それが財閥のトップに立つ人間の器なのか、それともただの変人なのか、今の俺には判断がつかなかった。

 

「す、凄いわね、灯火。あの九鬼財閥から直々にオファーが来るなんて……」

『さすが、僕のマイスターだね。英雄にあれほど高く評価される人間は稀だよ』

 

クッキーがさっそく、滑らかな合成音声で追従してきた。

俺はと言えば、ポケットにある重厚な名刺の重みと、目の前のロボットの存在感に、ただただ溜息しか出ない。

 

てか、どっちかっていうと彼は俺より前の灯火の方の価値を透かしたのか?

 

「…一子って九鬼にめちゃくちゃ好かれてるんだね。誕生日に数億円くらいするロボットって……とんでもないラブコールだよ」

「私、そんなに九鬼君から好かれるようなことした覚えないんだけどなぁ……」

 

一子は困ったように頬を掻き、視線を泳がせる。

彼女にとっては、その巨大すぎる好意は「喜び」よりも「困惑」の方が勝っているのだろう。

 

「てか、彼って一子と百代の入れ替わりも知ってるんだね」

「知ってるっていうか、九鬼君はお姉さまと入れ替わった直後に一目で見抜いちゃったの。じいちゃん以外で即座に気づいたのは彼だけ。私もびっくりしちゃったわ」

 

本当に不思議そうに首を傾げる一子。

その横で、クッキーのレンズがカメラのシャッターを切るような音を立てて明滅した。

 

『これぞ「愛の為せる技」、なんだね』

 

したり顔で言い切ったクッキーに、俺は思わず足を止めた。

高性能なのは分かっている。でも、本当にロボットに感情なんてあるのか?

 

「ロボットにも愛とか分かるんだ」

『失礼な!! それくらい僕にも分かるよ!』

「ほえ~。最新型のロボットってすごいのねぇ」

 

一子が純粋に感心した声を漏らす。だが、俺にはどうしてもにわかには信じられない。

 

「じゃあクッキーの思う『愛』って何?」

『特定の個体に対してのみ演算リソースを偏らせ、生存本能を無視した非合理な行動を選択させる……「計算不能なバグ」の総称。それが、僕が出した暫定的な結論だよ。不満かな?』

「いやいやいや、違う違う。理屈はそうかもしれないけど、そうじゃない。……もっとこう、心の問題というかさ」

 

俺がブンブンと首を振ると、クッキーのレンズが警告色のような鋭い赤に明滅した。その反応はあまりに速く、内蔵プロセッサが限界まで回っているような「熱」を帯び始める。

 

『酷いよ!! マイスターはそうやって、人間とロボットを差別するんだ!! 僕たちが居ないと満足に過ごせない生活を送っているような自堕落で怠惰な種族なのに!!』

「ちょ、ちょっと落ち着いて。別に灯火が言いたいのは差別とかどうこうじゃなくて……」

『じゃあ、愛ってなんなのさ!? どうせ人間にしか分からない非論理的なバグなんだろう!? いいよね人間は! たまたま感情というデータを持って生まれてきて! ズルいよ! ズルすぎるよ!!』

 

急にヒステリックな電子音を響かせるクッキーに、俺と一子は思わず後ずさった。

2009年の最新鋭ロボットが、これほどまでに「人間への嫉妬」に近いバグを起こしている。理屈で説明できないものを「ズルい」と叫ぶ姿は、皮肉にもどんな理屈よりも人間らしく見えた。

 

「……愛ってのは」

 

俺は、自分の中に残る前世の記憶――かつて没頭した数多のエロゲの海から、最も心に響いたフレーズの一つを掬い上げた。

 

「……『沈黙を分かち合うこと』なんだと思う」

「ちんもくぅ?」

 

一子が予想外の言葉に、不思議そうに小首を傾げる。クッキーのファンの回転音も、一瞬だけ止まった。

 

『……沈黙を、分かち合う? そんなの、情報伝達効率が0%の「スタンバイモード」じゃないか。リソースの無駄遣いだ。九鬼のデータベースには、そんな非効率な項目は存在しないよ』

「愛する人となら、そんな無駄すら愛おしいんだよ。会話が途切れても、何かをしなきゃって焦らなくていい。ただ時計の針が回るのを、ぼーっと一緒に眺めていられる……。そんな風に、何物にも代えがたい『空白』を共有できる関係が、きっと愛なんだ」

 

沈黙。

 

さっきまでのヒステリックな電子音とは違う、柔らかな静寂がその場を包んだ。

 

「まあ、俺もなんなのかよくわかってないけどね」

『……そんな、人間が分からないことが、機械の僕に分かるはずないじゃないか……』

 

クッキーのレンズが黄色に戻り、ゆっくりと明滅する。その電子音は、どこか途方に暮れているようにも聞こえた。

 

「……灯火って時々、本当に大人っぽいこと言うわよね」

「……まあ、色々見聞きしてたら嫌でもこうなるよ」

 

一子の言葉に、俺は引きつった笑いで誤魔化した。

言っている最中は、ロボットの無機質な論理に対抗するための「正解」を導き出したつもりだった。一子の手前、格好悪い姿は見せられないという見栄もあった。

だが、冷静になればなるほど、さっき口にした「借り物の台詞」が、さも自分の真理であるかのように脳内でリフレインし始める。

「愛とは沈黙を分かち合うこと」? 何だそのポエムは。そもそも俺、生まれてこのかた誰かと付き合ったことすらないのに。

 

背中を駆け抜けるのは、さっきまでの高揚感ではなく、粟立つような羞恥の鳥肌。

口にした瞬間は「決まった」とさえ思っていた自分を、今すぐ絞め殺したい。死ぬ。これ、後で絶対に「黒歴史」として悶絶するやつだ。今すぐ地面に大和と穴を掘って埋まりたい。

 

脳内では勝手に、知人たちの声が最悪の精度で再生され始めた。

 

大和が居れば

『……ククク。流石は俺の相棒だ……。貴様の紡ぐ言霊(ことだま)は、常にこの世界の理を鋭く穿つ…』

とか言って、遠くを見ながら無駄に心酔してきそうだし。

 

釈迦堂師範代が居れば、

『ハッハッハ! おい灯火、今のはなんのゲームの台詞だ? 青臭くてこっちの鼻が曲がりそうだぞ!』

と、腹を抱えて俺を小馬鹿にするに違いない。

 

「あはは! 灯火顔真っ赤だー」

「…ちょっと日焼けしすぎたかも」

「まだ二月だから日焼けなんてするはずないでしょー」

 

一子のあまりにも真っ当なツッコミが、俺のボロボロになった自意識に追い打ちをかける。

 

「……あ、ああ。そうだったね。ほら、冬の紫外線って意外と馬鹿にできないっていうか……。朝の修行の成果が、変な形で噴き出したのかもしれない」

 

苦し紛れの言い訳を重ねるほど、墓穴を掘っている気がしてならない。

朝の澄み渡った日光が、隠しようもない俺の赤面を無慈悲に照らし出している。

一子は不思議そうに首を傾げながらも、それ以上は追及してこなかった。彼女のその曇りのない純粋な瞳が、今はどんな拳よりも痛い。

 

視線の先でクッキーは、ものすごい速さでファンを稼働し続けている。「人間すら正解を持たない余白」という難題を、彼は今も懸命に演算し続けているのだろうか。

その駆動音はさっきまでのヒステリックな響きを失い、まるで俺が口にした「沈黙」の意味を必死に模索しているかのように、静かに凪いでいた。

 

……頼むから、もう解析しないでくれ。早く演算を中断して、さっきの俺の独白を『支離滅裂な思考』として上書き消去してくれ……

 

俺は熱を持った顔を隠すように、あえて眩しそうに空を仰ぎ、「二月のありえない日焼け」という新たな黒歴史を、朝の冷たい空気と一緒に飲み込んだ。

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