真剣で君に恋したい!   作:球磨川善吉

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一蓮托生

「それじゃー、いっくぞー!! せーのっ!」

「「「ワン子(一子)、誕生日おめでとう!!!」」」

「皆……ありがと!! 」

 

キャップの威勢のいい音頭で、パーティの幕が開ける。

ここ川神院の広間は今、一子の誕生日を祝うファミリーの熱気で爆ぜんばかりになっていた。

今朝、九鬼からクッキーを贈られたことさえ、遠い過去の出来事のように感じるほどの喧騒だ。

 

「ぐま、ぐまぐまぐま……っ! ぐまー!!」

「一子、そんなに慌てんでも肉は逃げんぞい。ほれ、焼き鳥もあるぞ」

 

骨付き肉に一目散にかぶりつき、野獣も真っ青な勢いで咀嚼する一子。総代は酒杯を片手に、その様子を実に微笑ましそうに見守っている。この家長のどっしりとした存在感があるからこそ、この狂騒はバラバラにならず「宴」として成立していた。

 

「ちょ、ちょっとガクト!! 僕の皿から照り焼きチキン取らないでよ!」

「うるせえ!! この世は弱肉強食だろ!? このお肉ちゃんたちは、弱っちいモロじゃなく、強者である俺に喰われる運命なんだよ!」

「弱肉強食、か。……ならば、私が喰らうのが道理だな」

「あ、ちょ、なにするんだよモモ先輩!」

 

刹那。

ガクトが勝利を確信して口に運ぼうとした肉が、視界から消えた。

百代が、目で捉えるのがやっとの神速で肉を強奪したのだ。

 

「……ふむ。修行の後の肉は、やはり格別だな」

「俺のチキンがああああああああ!!」

 

阿鼻叫喚と笑い声。ジュースを酌み交わす音。

そんな熱狂の中心で、俺のパーソナルスペースは急速に失われていく。

 

「はい。灯火、あ~ん」

「京ずる~い!! 僕も僕もー!!」

「灯火くん、私のメロンソーダ……飲む?」

 

宴が中盤に差し掛かると、俺の両脇は完全に封鎖された。

皿を差し出す京、身を乗り出す小雪。そして、グラスを差し出し、切実な表情でこちらを見上げる辰子。左右から漂う女子たちの甘い香りが、焼肉の匂いと混ざり合って脳を麻痺させる。

 

『じーーー』

「クッキーはなんでそんなにこっち見てるの……?」

『なんで、そんなに距離が近いのかなーって』

「クッキー、これはね『愛』って呼ぶんだよ」

 

幸せを噛みしめるようにそっと目を閉じ、身をくねらせる京。もしここがアニメの世界なら、ピンクのハートがこれでもかと乱舞しているに違いない。それほどまでに、彼女から放たれるオーラは圧倒的な『陽』の熱量に満ちていた

 

『……なるほど。視覚情報から推測するに、対象への過度な執着に伴う、論理的思考機能の一時的な停止状態……という理解でいいのかな?』

 

クッキーの無機質なレンズが、京の放つ極彩色のオーラを冷徹に分析するように淡く明滅する。

 

「もうっ、クッキーは情緒がないなぁ。理屈じゃなくて、こう、胸がキュンとして、世界がキラキラして見える魔法のことだよ」

『魔法、ね。僕の辞書には「非科学的な超常現象」とあるけれど……』

 

そんな賑やかな押し問答の横で、小雪が箸を止め、「魔法……」と小さく呟いた。

彼女は、まるで自分の中にある「正体不明の何か」を確認するように、柔らかな手のひらをそっと胸の上に当てる。

 

「魔法かぁ……。じゃあ、僕が灯火のこと見てると、たまに心臓がギュッてなるのも、魔法なのかなぁ?」

 

何の計算も、裏表もない、あまりに純粋な独白。

その言葉が放たれた瞬間、周囲の喧騒がふっと遠のいたような錯覚に陥った。小雪の瞳は、まるで宝石のように透き通っていて、そこにあるのはただ一点、俺に対する無垢な好意だけだった。

 

「人、それを愛と呼ぶ!!」

 

沈黙を切り裂くように、京がガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。

その表情は、あたかも世紀の大発見に立ち会った科学者のようであり、あるいは真理を悟った預言者のようでもある。

 

『……心拍数の急激な上昇に伴う、胸部の圧迫感。それを魔法と定義するのは、飛躍が過ぎる気がするけど……』

 

クッキーが冷徹なツッコミを入れるが、今の京と小雪には届かない。

ピンク色のオーラを放ちながら熱弁を振るう京と、不思議そうに、けれどどこか嬉しそうに胸を抑える小雪。

 

そんな喧騒を余所に、辰子が俺の唇にメロンソーダのストローをそっと運んできた。

騒がしい広間の片隅で、彼女の周りだけが凪いだように静かだ。

切実な、それでいてどこか熱を帯びた瞳が、真っ直ぐに俺を射抜いている。

 

「はい、灯火くん。……飲んで?」

 

差し出されたストローの先。俺は、努めて平然を装いながら、それを軽く啜った。

最初の頃は「恥ずかしいから」と頑なに断っていたけれど、今では俺もすっかり、彼女の無邪気なペースに根負けしてしまっている。

 

……ほんとに、これでいいんだろうか

 

「どお……? おいしい?」

 

上目遣いで、まるで手料理の感想でも待つような顔をして彼女が聞く。

 

……いや、これ、ただのペットボトル飲料だぞ。 味なんて彼女も知ってるはずだし、俺だって何度も飲んだことがある。

 

けれど、期待に満ちたその瞳を見ていると、「普通」なんて無粋な感想は喉の奥に引っ込んだ。

 

「うん。……美味しいよ」

「えへへ……よかったぁ」

 

ただの市販のジュース。けれど、陽だまりのように弾む彼女の笑顔をトッピングされると、工場のラインで大量生産されたはずの甘みが増幅しているような気もする。

 

「くっ……いつの間に外堀を! 私たちも行くよ、小雪!」

「あいあいさー!!」

「わわーっ!?」

 

次の瞬間、辰子が左右から押しのけられ、怒涛の勢いで料理が俺の口へと放り込まれる。色んな味が口内で渋滞を起こし、思考が止まる。

 

「愛だの恋だの、俺にはよくわかんねーな」

「全くだ。結局のところ愛なんてのは、性欲に服を着せただけの『まがいもの』に過ぎん」

 

淡々と、冷徹に言い放つ大和。

 

そうなのかな……確かにそうかも。

 

すると、口の周りをタレだらけにした小雪が、無邪気な爆弾を投下した。

 

「……せーよくって、なに?」

「俺も俺も!! 気になる気になる!!」

 

好奇心に瞳を輝かせるキャップ。大和は「しまった」という顔で俺を見た。

 

「……相棒。あとは頼んだ」

 

大和の、あまりにも無責任な丸投げが飛んできた。彼は面倒な役目を放り出した達成感からか、視線をスッと逸らして手元の烏龍茶を啜り始めている。

 

「俺に振るなよッ! そもそも誕生日会の席でする話じゃないだろ!」

 

俺の必死の抗弁も、大和の鉄面皮には届かない。教育上よろしくない話題をここで広げるわけにはいかない。

だが、そんな俺の焦りを見透かしたように、京が獲物を見つけた猛獣のような、あるいはすべてを悟った賢者のような、邪悪で艶やかな笑みを浮かべた。

 

「ククク……私は知ってるよ。性欲っていうのは、ムラ――」

『ストーップ!! 京、なんで小学生なのにそんな不適切な単語を知っているのさ!?』

 

京の唇からこぼれ落ちようとした「禁断の四文字」を、クッキーの警告音が遮る。レンズを赤に近いオレンジ色に激しく明滅させ、ロボットのスピーカーから発せられたとは思えないほど必死な制止。

だが、京は動じない。むしろ楽しそうに人差し指を唇に当て、小悪魔的なウィンクを俺に送ってきた。

 

「灯火がね、保健の勉強として教えてくれるんだぁ♪」

「……教えた記憶ないよ?」

 

俺は即座に、かつ断固として否定した。だが、冤罪というものは往々にして、真実よりも残酷に周囲を侵食していく。

隣に座る辰子の、どこか「私にも詳しく教えてほしい」と言いたげな、潤んだ瞳が一番こたえる。彼女の持つ純粋な熱情が、今この瞬間だけは、俺を問い詰める静かな圧力へと変わっていた。

 

助けを求めて、この場にいる唯一の「まともな大人」であるはずの総代の方に目をやった。だが、そこにあったのは孫たちの喧騒を肴に酒を煽り、全てを慈しむかのような満面の笑みだった。

……気持ち悪すぎる。

 

『……マイスター。後で京には徹底的な再教育の必要がありそうだね。不適切な語彙の削除と、健全な道徳プログラムを強制インストールしてあげよう』

 

クッキーの声は、静かだが決意に満ちていた。まるで主人の名誉を守る騎士のような、あるいは不良娘を更生させようとする熱血教師のような気迫だ。

 

「……クッキー、頼める? 流石にそこは異性の俺が踏み込む領域じゃないから」

『お安い御用さ、マイスター! なんたって僕は九鬼が誇る超高性能ロボットだからね!!』

 

不貞腐れる京を尻目に、キャップが瞳を輝かせてクッキーに詰め寄る。

 

「いいなー、やっぱり俺もロボットほしい!!」

『ごめんねキャップ。僕のマイスターは灯火なんだ。でも川神院に弟子入りしたら、朝から晩まで僕と話せるよ』

「じゃあ、いいやッ! 風は縛られないものだからな!!」

 

モロが大和の隣にちょこんと座り、興味深げに尋ねる。

 

「クッキーはトランスフォームとかできるの?」

『うん。僕には108個の形態があるからね』

「「「108!?」」」

 

驚愕の声が重なる。

前世より20年ほど時間が戻っているはずなのに、この世界の科学技術は異様に歪だ。形態云々の前に、自律思考と自立歩行ができるロボットが目の前にいること自体が、最大のオーパーツだけど。

 

「じゃ、じゃあさ! ビームとかって撃てる!?」

『そういう形態もあるにはあるよ』

「じゃあさ他には――――――」

 

 

一子の誕生日会は日が沈む前にお開きになり、風間ファミリーも嵐のような賑やかさを残して、それぞれの帰路についた。

あれほど騒がしかった川神院も、今は深い夜の静寂に包まれている。

 

……結局、主役の一子よりも、後半のクッキーに対する男子たちの質問攻めの方が印象に残ってしまった。

 

まあ、そんな俺も参加者の一人だけど。

 

時計の針は22時を回ったところ。

俺は独り、縁側で夜空を見上げていた。

昼間の喧騒が嘘のような静けさだが、心なしか空気の端々に、さっきまでの祝祭の熱気がまだ微かに残っている気がする。

 

ふと、背後から「パタパタ」と板間を叩く小さな足音が聞こえた。

 

「お。灯火だ! 隣、いい?」

「うん。いいよ」

 

今日の主役、一子だ。パジャマ姿の彼女は、昼間の元気いっぱいな様子とは少し違い、どこか寝る前のリラックスした雰囲気を纏っている。

俺が場所を空けると、一子はすとんと隣に腰を下ろした。

 

「俺の誕生日プレゼント、どうだった?」

「うん。すっごくいい匂いだった。あろまでぃふゅーざー」

 

少し言い慣れない横文字を、彼女は大切そうに反芻する。その響きがどこか幼くて、俺の肩の力がふっと抜けた。

 

「気に入ってもらえたなら良かったよ。……まあ、あの九鬼の『クッキー』を見た後だと、だいぶ見劣りしちゃうけどさ」

 

自嘲気味に笑うと、一子は「もう」と頬を膨らませて、むくれたように俺を見上げた。月明かりに照らされた彼女の瞳が、まっすぐに俺を射抜く。

 

「ううん。すっごくうれしかった。……それにあれ、本当はすっごく高かったんじゃない?」

 

一子は少しだけ声を潜めて尋ねた。プレゼントの価値を理解した上での、彼女らしい遠慮と気遣い。俺はそんな彼女の優しさをはぐらかすように、夜空へ視線を戻して肩をすくめた。

 

「……まあ、それなりの値段はしたかな。ほら、灯火の両親――俺の親って結構ブルジョワというか。……転生してからも、変わらずに通帳にお金を振り込み続けてくれてるんだ」

 

言いながら、胸の奥が少しチリッとした。働いて稼いだわけでもない、人となりもよく知らない灯火の両親の金で買ったプレゼント。

 

「お~。それはちょっと羨ましいかも」

 

一子はのんきに笑ったが、俺の内心は少し複雑だった。

冬休みに一度だけ会ったきりの、あの夫婦。彼らは今の俺を、変わらず「息子」として見てくれているんだろうか。

 

もしそうだとしたら、それは嬉しいようで――どこか、申し訳ない。

 

「ねえ、灯火。私、ちょっと相談したいことがあるんだけど、いいかな?」

 

不意に、一子の声のトーンが落ちた。

 

「うん。どんな相談でも、ばっちこいだよ」

「実はね。灯火なら気づいてるかもだけど……私ってお姉さまと入れ替わる前は今と比べ物にならないくらい弱かったの」

「……。やっぱり、そうだったんだ」

 

俺の静かな肯定に、一子が意外そうに、けれどどこか救われたように目を細めた。

今の彼女の拳から放たれるのは、天賦の才が描く華やかな軌道ではない。もっと泥臭く、執念すら感じるほどに積み上げられた、逃れようのない「重さ」だ。

 

俺がその気配の正体を感じ取っていたことを察したのか、一子は再び夜空を見上げ、自分の中の「核」をさらけ出すように言葉を紡いだ。

 

「川神院に弟子入りできたのも、才能じゃなくて、私の往生際の悪い努力を見て……って感じだったしね」

 

一子が夜空を見上げる。その瞳は、遥か遠くの何かを凝視しているようでもあり……俺の手の届かない「無」を見つめているようにも思えて、少しだけ怖くなった。

 

「そもそも、小一の頃から武道に勤しんできたお姉さまと私では、積み重ねてきた経験も才能も、何もかもが違った――だから、入れ替わりが起きるまでのあの一年は、死ぬ気で誰にも負けないくらい努力したんだ」

 

月光に照らされたその横顔には、昼間の天真爛漫な明るさはなく、ただ一人の武道家としての、峻烈な覚悟が滲んでいる。

 

「でもね、前の灯火には、そうは映らなかったみたいなの」

「……?」

「弟子入りして半年くらいの時かな。灯火に呼び出されたの」

 

夜風が、二人の間を通り抜けていく。さっきまで感じていた祝祭の熱気が、急速に冷えていくのを感じた。

 

「灯火に言われたんだ。……『君には才能がない。これから武道を続けるにしろ辞めるにしろ、違う道を探した方がいい』って」

「…………え」

 

思考が白く塗り潰されるような、衝撃。

それは、彼女が泥を啜るようにして積み上げてきた歳月を、その掌のタコを、根底から叩き潰すような残酷な宣告。

 

……けれど、同時に。

届かない星を掴もうとして、心も体も擦り切れていく彼女に「もう降りていい」と引導を渡す、彼なりの痛切な『救い』だったのかもしれない。

その無機質な合理性は、今の俺には、鋭利な刃物のような優しさに感じられた。

 

「少し、というか……正直、だいぶショックだった。でもね、『絶対に見返してやる!!』って思ったの」

 

一子は膝の上で拳をぎゅっと握りしめる。その小さな手には、これまでの絶え間ない修行の積み重ねを物語るような、硬いタコができていた。まだ十一歳ほどの少女の肌には不釣り合いな、けれど誇り高い武人の証だ。

 

「そこで腐らないのが一子のいいところだよね」

「えへへ…ありがと」

 

一子が罰が悪そうにはにかむ。

その笑顔は、さっきまで肉にかぶりついていた野獣のような勢いも、修行中の鋭い眼光もなく、ただ年相応の、どこか幼い少女のそれだった。

 

「私は将来、川神院の総代になるはずのお姉さまを、一番近くで支えられる師範代になりたかった。そのために、自分なりに精一杯修行した。……でも、現実は厳しくて。思うように結果が伸びなくて焦ってた……そんな時にね、お姉さまと入れ替わりが起きたの」

 

一子がふっと視線を落とし、言葉を区切る。

静まり返った縁側に、遠くで鳴く虫の声だけが響く。

 

「目が覚めたときは、お姉さまの部屋で……最初は夢かと思った。鏡を見たら、自分の見た目もお姉さまのものに変わってて、憧れのお姉さまに、肉体だけでも近づけたような気がして……一瞬だけ、嬉しかったんだ。でもね、夢じゃなかった」

 

一子は自嘲気味に、けれどどこか懐かしむように目を細めた。

 

「私の部屋に行ったら、そこにはだらしない寝相で寝ている『私』がいたの。もしかしたらって思って、身体を揺すってみたら、私の方の身体にはお姉さまが居て……。結局、何が原因でこんなことが起きたのか、今もわからないまま」

「それって……俺みたいな『転生』とは違うんだよね? 実は入れ替わったんじゃなくて、別の世界の百代と一子が、それぞれ今の身体に上書きされる形で転生してきた……とか、そういう可能性は?」

 

俺の邪推をぶつけてみる。だが、一子は迷うことなく首を横に振った。

 

「ううん。私もお姉さまも、それまでの記憶はしっかり持ってたから。昨日の晩御飯の内容も、修行で叱られたことも、全部。だから、そういうのではないと思う」

 

一子は夜風にさらわれた髪を耳にかけ、また遠くを見つめた。

 

「ただ中身が入れ替わっただけ。……それだけのことなのに、世界が全部ひっくり返っちゃったみたい」

 

一子は自らの掌を月明かりにかざし、静かに言葉を紡ぐ。

 

「私の身体に入ったお姉さまはまともに気を練ることすらできなくなった。……逆に、お姉さまの身体を得た私は、前の自分じゃ到底辿り着けなかった高みにまで、手が届いた。……ねえ、灯火。正直に言うね。私はボロボロになったお姉さまを見るのは悲しかったけど……嬉しかったんだ」

 

一子の声が、夜風に震える。

 

「形はどうあれ、あんなに遠かったお姉さまを、私は超えることができた。その上でお姉さまをサポートすることまでできた。……ずっと夢だったことが、こんな形で叶っちゃったんだ…」

 

一子は自嘲するように笑ったが、その瞳からは今にも一筋の涙が零れ落ちそうだった。努力しても届かなかった姉の背中に、身体が入れ替わるという「ズル」のような形で追いついてしまった。姉の苦悩を間近で見ることへの悲しみと、ようやく手に入れた「力」への高揚感。

 

その矛盾した感情に、彼女はずっと一人で苛まれてきたのだろう。偽物の器に宿る、偽物の魂。俺と似た者同士だからこそ、彼女は俺にこの胸中を明かしてくれたのかもしれない。

 

「……でも、お姉さまは、そんなことでへこたれる人じゃなかった。一時は落ち込んでたけど、すぐに私と同じくらい……ううん、私以上に、死に物狂いで修行して。……多分、もうすぐで私は追い越されちゃう」

 

震える声で、一子は言葉を絞り出す。

 

「入れ替わる前までは、お姉さまはじいちゃんの孫だから、私より強いのは当たり前だって思いたかった。……思おうとしてた。私の体が弱いから、才能がないから、お姉さまに勝てないんだって……そうやって言い訳して、自分を守ってたんだよ」

 

一子は顔を覆い、膝を抱えて小さく丸まった。世界最強を謳われるその肉体が、今はただの、嵐に怯える小動物のように小さく見えた。そのギャップが、彼女の心に刻まれた傷の深さを何よりも雄弁に物語っている。

 

「でも、今の私はお姉さまの『最高の体』を持ってる。それなのに、お姉さまは……『ダメな私の体』を使って、今の私を追い抜こうとしてる。……それって、結局、中身の私がダメなんだって、突きつけられてるみたいで。私が、お姉さまを汚してるみたいで……っ」

 

一子の嗚咽が、夜の静寂に溶けていく。

「才能」という名の呪い。そして、肉体という「入れ物」のせいにすらできなくなった絶望。

彼女が今背負っているのは、世界でたった二人にしか、本当の意味では理解できない苦悩。

 

「前の灯火が言った通り。私には、最初から何もなかったの」

 

一子のしゃくり上げる声が、冷たい夜の空気に消えていく。

 

俺は、一子の正体を知っている。彼女も俺の正体を知っている。同じ「異常事態」の渦中にいる仲間として、これまでうまくやってきたつもりだった。

 

けれど、今、目の前でぼろぼろと涙をこぼす彼女は――。

「中身が自分だからダメなんだ」と絶望しているその姿は、俺が心の奥底に封じ込めていた「一番認めたくない恐怖」を、これでもかと引きずり出してきた。

 

俺は一子の背中に手を置いて、庭に視線を向けたまま言葉を繋ぐ。

 

「……一子。俺だって毎日、吐き気がするほど思ってるよ。この体も、周りの優しさも、本当は俺のものじゃない。持ち主の人生を勝手に簒奪している自分を、どこかで許せていないんだ」

 

一子が、膝を抱えたまま少しだけ俺の方を向いた。俺は、自分自身の傷口をさらに広げるように言葉を重ねる。

 

「でもさ、一子がその体で、血を吐くような思いで修行してたのは、俺がずっと隣で見てた。朝早くから薙刀を振る音も、稽古の後に足を引きずって歩く姿も……それは全部、百代から借りたものじゃない。一子が、一子として積み上げてきたものだ」

 

震える背中に、少しだけ力を込める。

 

「百代の肉体があれば、誰でも強くなれるのか? ……違うよね。肉体を悲鳴が上がるまで追い込んで、神経を焼き切るような気を練って、毎日泥を啜るような思いで制御してきたのは――他でもない、一子なんだ」

 

掴んだ肩から、彼女の熱い体温が伝わってくる。

 

「もし『中身が偽物なら、どれだけ足掻いても全部偽物だ』なんて理屈が通るなら、俺も一子も生きる理由がない。……一子まで自分の努力を『偽物』だって切り捨てたら、俺たちの居場所なんて、この広い世界のどこにもない」

 

特別な感情があるわけじゃない。でも、同じ「身の丈に合わない器」に入れられた者同士。せめてその中身が流した汗と涙だけは、誰にも否定できない「本物」だと、俺は信じたかった。

 

「人の伸び方なんて、千差万別なんだ。一子には、一子にしかできない泥臭い積み上げ方がある。……そもそも一子は、俺よりもずっと、ずっと強いんだよ」

 

その言葉は、気休めでも同情でもなかった。

 

「川神百代を背負うなら、偽物でも気持ちだけは常に本物であり続けるべきだ」

 

俺の声は、夜の静寂を切り裂くように低く、けれど確かな質量を持って彼女に届く。

 

「卑屈になってる一子なんて、百代は多分見たくない。……もし彼女が今の一子を見たら、ただただ自分を嫌いになるだけだ。間接的に自分が愛している妹を苦しませてるからな」

「…………っ」

 

一子が息を呑む音が、静寂に響いた。

 

「……でも、私は……っ。お姉さまのこの力を、泥棒みたいに奪って……。ほんとは、私なんかが振るっていい力じゃないのに……!」

 

俺は一歩踏み出し、彼女の震える拳を、包み込むように握った。かつての灯火が「才能がない」と断じたはずの、泥臭い修行の証。

 

「才能がないと言われた自分の身体で足掻き続けた一年。最強の肉体に振り回されながら、必死にその手綱を引き戻そうとしてきたこの一年。……合わせて二年間、一子が流してきた血と汗だけは、この世界で一子だけのものだ。百代の肉体だろうが、神様の奇跡だろうが、それは絶対に奪えない」

 

俺の言葉が終わっても、一子はすぐには答えなかった。

喉の奥でせき止められた嗚咽が、しゃくりのような短い吐息となって、何度も彼女の肩を震わせる。

どれだけ言葉で取り繕っても現実は変わらない。ただこうして手に力を込め、自分の体温を彼女の芯に届けること以外、今の俺にできることなんて何一つなかった。

 

どれくらい、そうしていただろうか。

一度、夜風が二人の間を強く吹き抜けていった。

それを合図にするように、一子の呼吸から次第にトゲが抜け、一定のリズムを取り戻し始める。

顎の先から零れ落ちた涙が、俺の手の甲で冷たく弾けた。

それが、彼女の内側に溜まった毒をすべて吐き出し切った、終わりの合図のように思えた。

 

彼女はぐしぐしと、乱暴に目元を拭った。

赤く腫れた瞼の隙間で、まだ涙の膜が月の光を反射して揺れている。

 

彼女は一度大きく天を仰ぎ、これまで溜め込んできた毒をすべて吐き出すように、長く、深い息を吐いた。

 

 

「……アタシ、もっと頑張る。お姉さまに相応しくなれるまで。やっぱり私は諦めきれない」

 

その瞳の奥には、先ほどまでの虚無を焼き切るような、微かな火が灯っている。

 

「勇往邁進、だね」

 

一子は無理やり作ったような、歪な笑顔を見せた。その不器用さが、今の彼女には一番似合っている気がした。

 

プレゼントしたアロマの香りが、夜風に乗ってふわりと漂う。

 

「ごめんね…さっき祝ってくれたのに暗い話しちゃって」

「いいんだよ。今日は一子のための日だから」

 

彼女が俺と同じ傷口を曝け出してくれたこと。

その残酷なまでの符合が、空洞だった俺の器を、静かに、けれど確かに満たしていくのを感じた。




いつもお読みいただきありがとうございます。
本作は当初より、心理描写の深掘りや語彙の選定において、AIを創作のパートナーとして活用しています。
あくまで自分のプロットと思想を形にするための補助ですが、本作の執筆方針として、ここに明記させていただきます。
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