オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~   作:サウス

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第8話:猛吹雪の夜と、新しい獲物【1657年 冬】

 すべてを白く塗り潰し、命を凍りつかせる猛吹雪(ウパㇱルイ)が、今年もアイヌモシㇼに牙を剥いた。

 一歩でも外に出れば、肺の奥まで凍りつくような暴風雪が視界を奪い、方向感覚を狂わせる。ヤウンモシㇼ(北海道)の冬は、人間が抗うことのできない巨大な神(カムイ)の怒りそのものであった。

 

 しかし、今年のサㇽ(沙流)のコタン(村)は、例年とは全く違う冬を迎えていた。

 分厚い雪と笹に覆われたチセ(家)の中は、外の地獄が嘘のような、穏やかで満ち足りた熱気に包まれていたのだ。

 

「熱っ、あちちっ……! でも、甘くて美味しい!」

「こら、焦って丸飲みするんじゃない。エモはまだまだ蔵に山ほどあるんだから」

 

 パチパチとはぜる囲炉裏(アペオイ)の火を囲み、村の子供たちが笑顔で頬張っているのは、秋に大地の底から掘り出した黄金色の恵み『エモ』だった。

 熱い灰の中に埋めてじっくりと焼き上げられたエモは、皮を割ると中から湯気とともにホクホクとした黄色い実が顔を出し、口に入れれば、厳しい寒さにこわばった体を芯から溶かしてくれるような、力強い甘みが広がった。

 獣の肉や鮭を煮込んだ汁物(オハウ)の中にも、たっぷりとエモが入っている。これまで、冬の汁物といえば貴重な肉の欠片と、干した山菜が少し浮いているだけの塩気のあるお湯に過ぎなかった。だが今のオハウは、エモが溶け込んでとろみがつき、腹の底にずっしりと溜まる圧倒的な「命の熱」を持っていた。

 

 そして何より、村人たちの体を包んでいるのは、冷たい風を通す樹皮の着物だけではない。秋の取引で和人の商人から手に入れた、分厚く、柔らかい『木綿の布』だった。

 何枚も重ね着した木綿は、囲炉裏の熱を逃がさず、子供たちの手足からしもやけの痛みを消し去っていた。

 

「……信じられないな。冬の夜に、腹の虫が鳴かないなんて」

 若者のひとりが、ふっくらとした腹をさすりながら、夢でも見ているかのように呟いた。

 毎年、冬になれば大人は自らの食事を極限まで減らし、子供たちに分け与え、それでも足りずに弱った者から命を落としていくのが「当たり前」だった。

 だが、今年は違う。腹を満たし、温かい布に包まれ、誰も明日の飢えを恐れていない。コタンの歴史が始まって以来、最も豊かで、最も穏やかな冬の夜だった。

 

「これもお前たちのおかげだ、ハルコル、ミナ」

 上座に座る父・ペカンクㇽが、温かい酒をあおりながら、満足げに目を細めた。

「あの土の神(カムイ)が育てたエモと、和人から引き出した木綿の布。これで、我らの村から冬の死神は遠ざかった」

 

 大人たちが次々と感謝の言葉を口にする中、ハルコルは手元の小刀(マキリ)を動かしながら、静かに首を振った。

 

「まだだよ、父さん。僕らは冬の寒さと飢えを退けただけだ。……本当の恐ろしいものは、雪解けとともにまた、南の海からやって来る」

 

 ハルコルの静かな声に、チセの中の空気が少しだけ引き締まった。

 秋の取引で、彼らは見事な知恵を使い、松前の商人・勝右衛門から主導権を握った。だが、それで和人が大人しく引き下がるわけがない。次に彼らが来るときは、もっと狡猾な手段で、この豊かな村からすべてを奪おうと企んでくるはずだ。

 

「弓矢やマキリの腕を磨くだけじゃ、もう大切なものは守れない。和人たちは、刀よりもずっと恐ろしい『見えない武器』を使って、僕らの恵みを奪いに来るから」

 ハルコルは、小刀で削り出していた奇妙な木の枠を、大人たちの前に掲げて見せた。

 

 それは、四角い木の枠の中に細い木の棒が何本も渡され、そこに鹿の骨を削って作った小さな「玉」が、いくつも串刺しにされている道具だった。

 

「なんだい、それは? 新しい罠の仕掛けか?」

 村の男が不思議そうに首を傾げる。

 

「罠じゃないよ。これは……和人の『見えない罠』を見破るための、僕らの新しい武器だ」

 ハルコルは、骨の玉を指先で弾いた。

 パチッ、パチッ、と、チセの中に乾いた音が響く。

 

「みんな火のそばに集まって」

 ハルコルが声をかけると、エモを頬張っていた子供たちが、不思議そうな顔をしてハルコルの周りに集まってきた。ミナもまた、面白そうなものを見る目をして、ハルコルの隣に座った。

 

「秋に蔵へ入れたエモの数は、いくつだった?」

 ハルコルが、ひときわ好奇心旺盛な少年に尋ねた。

 

「えっと……すごく、たくさん! 両手と両足の指を全部使っても、全然足りないくらい!」

 元気に答えると、大人たちからどっと笑いが起きた。アイヌの言葉にも数を数える表現はあるが、それは目の前にある獲物や、家族の人数を数えるためのものだ。蔵を埋め尽くすような膨大な数を、正確に表現する言葉や方法は、彼らの暮らしの中には存在しなかった。

 

「そうだね。たくさんある。でも、『たくさん』じゃ、春までにいくつ食べていいのか、次の種にするためにいくつ残せばいいのか、誰にも分からないだろう?」

 ハルコルは、子供たちの目を真っ直ぐに見つめた。

「和人の商人たちは、そこを狙ってくるんだ。彼らは、僕らが持っている恵みの数を『だいたい』でしか把握していないことを知っている。だから、少しずつ誤魔化して、本来なら渡さなくてもいい毛皮や肉まで、言葉巧みに巻き上げていくんだ」

 

 ハルコルは、前世の記憶を思い返していた。

 父の会社が倒産したあの吹雪の夜。親会社が突きつけてきたのは、暴力ではなく「難解な契約書」と「操作された帳簿(数字)」だった。知識を持たない者は、どれだけ汗水流して働いても、紙の上の数字ひとつで骨の髄までしゃぶり尽くされる。

 二度と、あんな思いはさせない。この優しく誇り高い人々を、絶対に数字の奴隷にはさせない。

 

「だから、今日から僕が、この道具の『読み方』を教える」

 ハルコルは、骨の玉で作られた算盤(そろばん)を子供たちの前に置いた。

 

「この下の玉を一つ上に弾けば、『1』。これが五つ集まれば、上の玉『一つ』に姿を変える。……上の玉と下の玉を合わせれば、たった一列の棒で、両手の指の数(10)まで数えられるんだ」

 

 ハルコルの手つきに合わせて、骨の玉が上下に弾かれる。

「隣の棒は、ただの『1』じゃない。その十倍の重みを持つ棒だ。その隣は、さらに十倍……。この小さな木の枠ひとつで、空の星の数ほどの獲物を、間違いなく数えることができる」

 

 子供たちは、目を丸くして算盤を見つめた。

 最初はちんぷんかんぷんだった子供たちも、ハルコルが「この玉一つを、鹿一頭だと思ってごらん」と教えると、徐々にその法則を理解し始めた。

 

「じゃあ……これと、これを弾けば、今日村で獲れた鹿の数になるの?」

「正解だ。じゃあ、昨日獲れた数と合わせてごらん。玉をどう動かす?」

「ええと……こう、かな? あ、玉がいっぱいになったから、隣の棒の玉を一つ動かす……!」

 

 パチッ。

 玉を弾き、新しい位(くらい)へ繰り上がった瞬間、彼の顔にパッと光が差した。自分の指の数を超えた「見えない量」を、自分の頭と手で正確に把握できたという、知的な興奮の輝きだった。

 

「すごい……! ハルコル、これなら蔵の中にあるエモの数も、全部数えられるよ!」

 

「そうさ。これが、数を数え、足したり引いたりする『計算』という力だ」

 ハルコルは頭を撫でた。

「この力を持っていれば、次に和人が来て『毛皮百枚に対して、木綿はこれだけでいいだろう』と誤魔化そうとしても、お前たちは絶対に騙されない。頭の中でこの玉を弾いて、『釣り合いがおかしい。我々の命の恵みを盗む気か!』と、堂々と言い返せるようになるんだ」

 

 子供たちの目の色が、変わった。

 彼らは、アイヌの誇り高き狩人の子だ。弓の引き方や、熊の足跡の追い方は、物心ついた時から親の背中を見て学んできた。だが今、ハルコルが教えているのは、見えない敵から村を守るための「新しい狩りの技術」なのだと、子供たちの本能が理解したのだ。

 

「……ハルコル。あんたが計算のやり方を教えるなら、私は和人の『数の文字』を教えようかしら」

 ハルコルの隣で、ミナが囲炉裏の灰を平らにならしながら言った。

 

「和人の言葉、かい?」

 父・ペカンクㇽが、少しだけ難色を示した。

「我々には、カムイと対話し、先人たちの歴史(ウパシクマ)を語り継ぐ、美しく誇り高いアイヌの言葉がある。和人の言葉など、商取引の時にミナが訳してくれれば十分ではないか」

 

 大人のアイヌたちにとって、和人の言葉を学ぶことは、自分たちの誇りを捨てるような抵抗感があった。だが、ミナは灰の上に、指先で奇妙な線をいくつか引いた。それは、和人の使う『一、二、三、十』といった数を示す文字(漢数字)と、取引に使われる特有の記号だった。

 

「ペカンクㇽおじさん。私は、みんなに和人の言葉を全部話せるようになれと言っているんじゃないわ」

 ミナは、かつて孤児として虐げられていた頃の、鋭い眼差しを見せた。

 

「和人たちは、私たちがこの文字を読めないことをいいことに、紙切れに嘘の『数』を書き残し、私たちから森や川を奪い取ろうとする。……以前に他のアイヌのコタンでの取引に同行してたとき、あの勝右衛門の番頭は、小さな紙切れを見て『今年はこれだけしか出せない』と交渉で言い張った。でも、私がその紙を覗き込んで和人の数字を読んだら、口で言っているのとは全く違う数が書いてあったの。それを後で指摘したら、途端に顔を青くして黙り込んだわ」

 

 ミナは、灰に書かれた文字を指差した。

「この村の子供たちが、せめて証文に書かれる『数』の文字だけでも読めるようになればどうなると思う? 和人たちはもう、紙切れ一つで私たちを騙すことができなくなるのよ」

 

 チセの中は、しんと静まり返った。

 外では猛吹雪がゴーゴーと音を立てて荒れ狂っている。だが、囲炉裏の火に照らされた村の大人たちの顔には、もう迷いはなかった。

 

「……武器、なのだな」

 ペカンクㇽが、深く、重々しい声でつぶやいた。

「熊を狩るには、熊の足跡と習性を知らねばならない。和人という狡猾な獣から村を守るには、奴らの足跡(文字)と、奴らの牙(計算)を知らねばならないということか」

 

「その通りだよ、父さん」

 ハルコルが力強く頷く。

「僕らがアイヌとしての誇りや、カムイへの感謝を忘れることは絶対にない。古老たちが語る歴史(ウパシクマ)は、僕らの『心』だ。でも、その美しい心を守るためには、分厚い『鎧』を着て、鋭い『武器』を持たなきゃいけない。……これは、僕らが二度と誰にも都合よく使われないための、知識の武装なんだ」

 

 父はゆっくりと目を閉じ、そして大きく頷いた。

「許そう。いや……頼む、ハルコル、ミナ。この村の未来を担う子供たちに、お前たちの知恵を授けてやってくれ」

 

 村の長からの正式な許可。

 それは、文字を持たない狩猟採集の民であったアイヌの歴史において、自らの手で未来を切り開くための、はじめての「学校」が誕生した瞬間だった。

 

「よし! お前はさっきの計算、もう一度やってみろ!」

「ミナ姉ちゃん! その和人の呪文(数の文字)、私にも教えて!」

 

 子供たちが目を輝かせ、我先にとハルコルとミナの周りに群がる。

 骨で作られた算盤の弾かれる音が、楽しげな笑い声とともにチセの中に響き渡る。中には、子供たちに混ざって、少し恥ずかしそうに灰の上の文字を指でなぞる若者たちの姿もあった。

 

 冬はもう、ただ寒さと飢えに耐え、じっと春を待つだけの恐ろしい季節ではない。

 豊かなエモが腹を満たし、温かい木綿が体を守る中、このサㇽ(沙流)のコタンでは、和人の搾取を根底から打ち砕くための「知の種」が、猛烈な勢いで芽吹き始めていた。

 

 ハルコルは、囲炉裏の火に照らされて算盤を弾く子供たちの横顔を見つめながら、密かに決意を固めていた。

 

(史実なら、あと六年……六年後に、空を覆い尽くし、すべてを枯らす死の灰(超巨大噴火)がこのアイヌモシㇼを襲う。その時、エモという食料だけじゃなく、こうして自ら考え、計算し、和人と対等に交渉できる『人』が育っていなければ、決して生き残ることはできない)

 

 さらに、とハルコルはチセの小さな窓から覗く、猛吹雪の暗い夜空へと深く思いを馳せた。

(エモの栽培に成功し、当面の飢えという最大の脅威は去った。……だけど、狩猟と採集に頼ってきたアイヌは、悲しいほどに『人口』が少なすぎる。圧倒的な人の数の差は、いずれそのまま経済力と軍事力の決定的な差になってしまう)

 

 和人たちは海を越え、次から次へと無尽蔵にやって来る。松前藩の背後には、千万単位の人間を抱える巨大な幕府が控えているのだ。

(少数精鋭の猟師がいくら強い弓を引いても、数の暴力にはいつか必ず飲み込まれる。生き残り、誇りを守り抜くためには……僕がこのエモの圧倒的な生産力を使って、村の人口を十倍、いや百倍へと爆発的に増やし、強大な『国力』を育て上げなきゃいけないんだ!)

 

 猛吹雪の音をかき消すように、熱気に満ちた学びの声が夜遅くまで響き続ける。

 アイヌの歴史を変える戦いは、すでに剣を交えることなく、この温かな囲炉裏のそばで静かに、そして力強く始まっていた。




第8話をお読みいただき、ありがとうございます!

今回はアイヌと日本の当時の人口についての解説です。

【当時のアイヌの推定人口】
狩猟と採集を中心とする生活スタイルは、広大な自然の縄張りを必要とするため、農耕社会に比べて多くの人口を養うことができませんでした。17世紀頃のアイヌ民族の人口はおよそ以下の規模だったと推定されています。

ヤウンモシㇼ(北海道本島)のアイヌ:約2万人〜4万人程度
カラフト(樺太)のアイヌ:約2,000人〜3,000人程度
チュプカ(千島列島)のアイヌ:約1,000人〜2,000人程度

広大な北の大地に、全アイヌを合わせても数万人規模しか住んでいませんでした。冬の厳しさによる乳幼児の死亡率の高さも、人口が増えにくい大きな要因でした。

【対する松前藩と「和人」の人口】
一方、北海道の南端を支配していた松前藩(和人地)の定住人口は数万人規模でしたが、春夏になれば本州(津軽や南部など)から大量の出稼ぎ漁民や労働者が絶え間なく押し寄せてきました。
さらに「江戸幕府(日本全体)」の総人口ですが、すでに推定1,750万人に達していました。
江戸の人口は約50万人と推定されています。

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