オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~ 作:サウス
励みになってます。
長く、すべてを凍りつかせていた「白い死の季節」が終わりを告げようとしていた。
アイヌモシㇼの春は、かすかな音から始まる。
分厚く張った沙流川の氷が、内側から膨れ上がる雪解け水に耐えきれず、ピキッ、ピキピキッと甲高い悲鳴を上げる。やがてそれが雷鳴のような轟音に変わり、砕けた氷の塊が濁流となって海へ向かって一気に押し流されていくのだ。
風の匂いが変わった。凍てつく刃のようだった風に、黒く湿った土の匂いと、芽吹く命の青臭さが混じり始めている。空を見上げれば、冬を越した白鳥たちが北を目指して大きな羽ばたきを見せていた。
1658年の春。
ハルコルが八度目の季節を迎えたこの年、サルのコタン(村)の広場には、雪解けの泥を跳ね上げながら、周辺のコタンから次々と人々が集まってきていた。
川の上流、下流、そして海岸線。いくつもの小さなコタンの長(おさ)たちが、村の若者を引き連れ、背負い籠(タㇻ)いっぱいの手土産を持って、父・ペカンクㇽのチセ(家)を訪れたのである。
「ペカンクㇽ殿。……いや、沙流の偉大なる長よ」
下流域のコタンの長が、囲炉裏(アペオイ)の向かいに深く頭を下げた。彼の背後には、春一番に獲れた海獣の肉や、分厚い昆布がうず高く積まれている。
「去年の夏から秋にかけて、ペカンクㇽ殿が惜しげもなく我々に融通してくれた干し肉のおかげで、我々の村からは、この冬、ただの一人も飢え死にする者が出なかった。……この恩は、命に代えても決して忘れない」
他の長たちも次々と口を開き、感謝の言葉を紡いだ。彼らの顔には、冬の飢えを耐え抜いた者のげっそりとした影はない。皆、確かな命の熱を帯びていた。それは、秋に融通した食料が、周辺のアイヌたちの命を確実に繋ぎ止めた証であった。
「頭を上げてくれ、同胞たちよ」
ペカンクㇽは、温かい酒を長たちの椀に注ぎながら、太く、包み込むような声で応えた。
「厳しい冬を共に越せたこと、カムイに感謝しよう。……だが、我々が直面している本当の嵐は、冬の雪だけではないはずだ」
父の言葉に、長たちの顔がスッと引き締まった。
東のシベチャリを束ねるメナシクㇽ(東の衆)の長・シャクシャイン。そして、隣接するハエから石狩(札幌周辺)にかけての広大な地を支配するシュムクㇽ(西の衆)の長・オニビシ。この二つの巨大な陣営の睨み合いは、雪解けとともに再び熱を帯び始めている。いつ血みどろの戦が始まり、自分たちの小さな村が巻き込まれるか分からない。
チセの奥の暗がりから、ハルコルが静かに進み出た。
隣には、常に彼の右腕として動く少女、ミナが控えている。ミナの手には、湯気を立てるふかした『エモ(黄金の実)』が山盛りに乗った木盆があった。
「周辺のコタンの長たちよ、まずはこれを食べてみてほしい」
ハルコルが促すと、長たちは不思議そうにその見慣れぬ丸い実を手に取り、口に運んだ。次の瞬間、彼らの目が驚きに見開かれる。
「こ、これは……なんと甘く、腹の底から力が湧いてくる食べ物だ! トゥレㇷ゚(オオウバユリ)の団子よりもずっと柔らかい!」
「それが『エモ』。僕らの村を冬の飢えから完全に救った、大地の秘宝だ」
ハルコルは、長たちの驚愕の顔を見つめながら、静かに、しかし力強く告げた。
「去年、父さんは皆さんの村に肉を融通した。でも、シャクシャインやオニビシの争いが激しくなれば、彼らは必ず、戦うための食料を求めて僕らからすべてを奪おうとする。肉だけじゃ、いずれ限界が来る」
長たちが息を呑む。
「だから、今年はさらにこの『結び目』をそれぞれの得意な形で強くしたいんだ」
ハルコルは、囲炉裏の火に照らされた長たちの顔を一人一人見つめた。
「父さん。みんなに、これからの『約束』を」
ペカンクㇽが深く頷き、居住まいを正した。
「同胞たちよ。森や上流で暮らす村には、このエモの育て方と、我々が編み出した『無駄のない狩りの知恵』をすべて教えよう。お前たちの村は、今までの何倍もの豊かな恵みを得るはずだ」
父の声が、チセの空気を震わせる。
「だが、海に生きる下流のコタンは、無理に慣れない畑を作る必要はない。今まで通り、その腕で極上の海の恵みをここに運んでくれればいい。その代わり、我々からこのエモと干し肉を、必要とするだけいくらでも融通(提供)しよう」
ハルコルの描いた戦略は明快だった。各村の特性に合わせた「比較優位」の分業体制を敷き、このサルの村を『すべての恵みが集まる中央物流ハブ』として永続的に機能させるのだ。
「そして、もう一つ。これが最も重要な約束だ」
ペカンクㇽは、最も戦火に近い場所にいる下流域の長の目を見据えた。
「海沿いにある下流のコタンは、東のシャクシャインと西のオニビシの軍勢が移動する道筋にあり、一番戦火に巻き込まれやすい。もし争いが激化し、これ以上あの場所に住めなくなった時は……村ごと、この二風谷(ニプタイ)へ逃げてくればいい。我々の村が、お前たち全員を受け入れよう」
「我々を、村ごと受け入れると……!?」
下流域の長が、信じられないというように目を見開いた。
「ああ。我々がすべての荷を預かり、秋に来る和人の商人とは、沙流を代表して我々が交渉し続ける。和人に安い値で買い叩かれる村はもう一つもなくなる。そして、万が一、東や西の脅威が迫った時は、この巨大な蔵の備蓄と要塞で、お前たち全員の命を必ず守り抜く」
それぞれの村の誇りと独立を保ちながら、確かな命の保証と、いざという時の「絶対的な避難所(安全保障)」を得る。
その完璧な提案に、下流域の長が震える両手で顔を覆い、男泣きに泣き崩れた。
「……食料だけでなく、一族の命の逃げ場所まで約束してくださるのか」
長は、絞り出すように言葉を続けた。
「十数年前、シュムクㇽ(西の衆)のオニビシと、東のカモクタインが血で血を洗う戦を起こした時……戦火に焼かれた海沿いの同胞たちは、故郷を捨てて津軽の海へと逃げ延びるしかなかった。和人の領地(本州)で肩身の狭い思いをして生きる道を選ぶほど、我々は常に戦火に怯え、『逃げ場』に困り果てていたのだ……!」
ペカンクㇽも、ハルコルも、その悲痛な歴史の重みに静かに耳を傾けた。
「日々、西と東の顔色を窺い、海に出るのも恐ろしかった我々にとって、この生まれ故郷(アイヌモシㇼ)の中に絶対の避難所ができることほど、大きな救いはない……! 誇り高きペカンクㇽ殿。我々はあなたの知恵に学び、この沙流の結び目に絶対の連帯を誓おう!」
次々と長たちが平伏し、連帯の誓いを口にする。
ハルコルは、その光景を静かに見つめながら、胸の中で強く拳を握った。
(よし。これで沙流川流域のすべてのコタンが、経済的にも物流的にも完全に僕らの村に依存する『強固な同盟』になった。……僕らはもう、ただの村じゃない。一つの『国』に等しい基盤を持ったんだ)
◆
雪解けとともに、沙流の地はかつてない活気に包まれた。
ハルコルとミナは周辺のコタンを忙しく巡り、エモの種芋の切り方、灰のまぶし方、そして土寄せの重要性を徹底的に指導して回った。
「ほら、そこの若い衆! 畝(うね)の高さが足りないわよ! 秋に大きなエモを収穫してこの村の蔵をいっぱいにするんでしょ!」
ミナが持ち前の甲高い声で的確な指示を飛ばす。各コタンの人々は、サルの村の圧倒的な豊かさを知っているため、彼女の言葉を神の教えのように熱心に聞き入れた。
一方、狩猟の面でも劇的な変化が起きていた。
各コタンの猟師たちの記憶が集約され、沙流川流域全体の「巨大な獣道図(ヒートマップ)」が共有されたのだ。村の壁を越えて無駄なく獲物が狩られ、解体された毛皮や肉は、次々とサルの広場へと運び込まれてくる。
サルのコタンは、絶え間なく物資が運び込まれ、保管され、管理される巨大な「物流拠点」として、すさまじい熱を帯びていた。
だが、その夜。
ハルコルは、人々が寝静まったチセの隅で、一人静かに小刀で木を削り続けていた。
「まだ起きてたの、ハルコル」
各村の備蓄量の計算を終えたミナが、ハルコルの隣に腰を下ろした。
「うん。……ミナ、各村からの物資の集まり具合はどう?」
「完璧よ。皆、ここを頼りの綱だと思っているから、最高の毛皮と肉がどんどん集まってきてるわ。秋には高床式倉庫(プー)がいくつあっても足りないくらいね」
ミナは誇らしげに笑ったが、ハルコルの顔は真剣なままだった。
「やっぱり、そうだよね。……これだけの富が一点に集中すれば、隠し通せるものじゃない」
ハルコルは、削りかけの木片から顔を上げた。
「東のシャクシャインは、秋の取引(貸し付け)で僕らの力を知っているから、今は手を出してこない。……でも、ハエから石狩までを牛耳るシュムクㇽ(オニビシ陣営)はどうだろう。彼らから見れば、今の僕らのコタンは『丸々と太った、巨大で無防備な獲物』にしか見えないはずだ」
ミナの表情から、笑みがスッと消えた。
沙流の地に富が集まれば集まるほど、血に飢えた西の狼たちが、その恵みを力ずくで奪おうと必ず牙を剥いてくる。それが、この弱肉強食のアイヌモシㇼの避けられない掟だった。
「各村に技術を教えて生産を任せた分、僕らの村の男たちには『時間』ができた。……僕らが力を合わせて蓄えるのは、誰かに奪われるためじゃない。和人にも、他のアイヌにも、僕らの命の対価を指一本触れさせるわけにはいかないんだ」
ハルコルは、手元で組み上げていた奇妙な道具を、囲炉裏の火光の中に掲げた。
「これは……アマッポ(自動弓)の仕掛け?」
ミナが不思議そうに首を傾げた。アイヌが獣道に仕掛ける罠。獲物が糸に触れると、仕掛けられた木のバネが弾け、毒矢が飛び出す仕組みだ。
だが、ハルコルが持っているそれは、地面に固定するものではなかった。太い木の台座(ストック)の先端に、短い弓が横向きに取り付けられ、手で持ち運べるようになっている。さらに異様なのは、その短い弓の部分が木ではなく、黒鈍く光る『鉄』で打ち出されていることだった。
「どうやってこんな鉄の形を……?」
「アイヌはただ和人から鉄を買うだけじゃない。村には、折れた小刀(マキリ)や割れた鍋を叩き直す、腕の良い鍛冶(かじ)の職人がいるだろう?」
ハルコルは、鈍く光る鉄の弓板を指先で弾いた。
「秋の交易で和人から買い集めた鉄を、彼らに頼んで火床で真っ赤に熱し、何度も叩いてこの『しなり』のある形に打ち直してもらったんだ。弦を留める細かい細工もね」
「そうだよ。アマッポの『獲物が触れたら矢が飛び出す』という仕掛けを、人間の手でいつでも引き金を引けるように作り変えたんだ」
ハルコルは、前世の歴史や軍事の知識から引き出した『クロスボウ(機械弓)』の構造を、アイヌの伝統技術と、村の職人が持つ高度な鉄加工の腕を融合させて見事に再現していた。
「伝統的な弓(ク)は、強い腕力と、何年もの厳しい修練がないと、狙った場所に矢を当てることはできない。猟師の男たちにしか扱えない武器だ」
ハルコルは、台座の先端に取り付けられた鉄の輪(鐙・あぶみ)に片足を入れて地面に固定し、全身の体重をかけて太い蔓(つる)で作られた弦をギリギリと引き絞った。そして、台座の中央に埋め込まれた鉄の留め具(ナット)に弦をカチリと引っ掛ける。木のバネとは比較にならない、鉄の凄まじい反発力がそこに封じ込められる。
ハルコルは、台座の上面に真っ直ぐ掘られた溝(矢樋)に短く太い矢をセットすると、その「手持ちのアマッポ」を肩に当て、チセの奥に立てかけた薪の束に狙いを定めた。
「でも、この仕掛けなら……弦を引き絞ったまま、固定しておくことができる。あとは、この溝に沿って真っ直ぐ狙いを定めて、台座の下にある引き金(トリガー)を指で引くだけだ」
カッ!
鋭い金属音と共に留め具が外れて弦が弾け、短く太い矢が一直線に飛び出した。薄暗いチセの奥にあった薪の束の中心に、深々と突き刺さる。
「っ……!」
ミナが息を呑んだ。八歳の子供の腕力から放たれたとは思えない、恐ろしいほどの威力と正確さだった。鉄のしなりが生み出す初速は、熟練の猟師が放つ矢すらも容易く凌駕している。
「これなら、重い弓を引けなくなったおじいさんでも、力のない女の人でも、少しの練習で確実に遠くの敵を射抜くことができる」
ハルコルは、静かな、しかし熱を帯びた声で語った。
「富が集まるこの中央の村を、一部の強い戦士だけに守らせたりはしない。……奪いに来る敵から『この蔵を守る』のは、ここにいる人間全員でやるんだ」
◆
数日後。
ハルコルの指示を受けたサルの村の男たちは、猟の合間を縫って、この「新しい弓」の大量生産に取り掛かった。
同時に、各村から富が集まるこの広場を守るため、村の周囲を囲むチャシ(砦の柵)の強化が始まった。ただの丸太を並べた柵ではない。攻め寄せる敵を必ず横から射抜けるように、柵をジグザグの形に組んでいく。死角を完全に無くし、どこから敵が来ても「十字の矢の雨」を降らせるための、難攻不落の陣地構築だった。
雪解けの泥が乾き、周辺のコタンから絶え間なく荷が運び込まれる頃。
サルのコタンは、ただの豊かな村から、決して何者にも侵されない「物流と防衛の巨大な要塞」へとその姿を変えつつあった。
——そして、ハルコルの予感は最悪の形で的中する。
夏の足音が近づくある日、見張りの若者が血相を変えて広場へ駆け込んできた。
「西の森から、男たちが来る! 武装したシュムクㇽ(オニビシ陣営)の戦士たちが、数十人でこっちへ向かってきているぞ!!」
アイヌモシㇼを二分するシュムクㇽ(西の衆)の巨頭が、ついにサルの富を力ずくで奪うため、飢えた狼のように牙を剥いたのである。
第9話をお読みいただき、ありがとうございます!
おまけの解説です。
【戦火を逃れ、海を渡ったアイヌたち(津軽の狄村)】
「十数年前、戦火を逃れて津軽(本州)へ逃げた同胞たち」。これは史実に基づいた出来事です。
1640年代(正保年間)、シャクシャインの前の世代である東の首長カモクタインと、西の巨頭オニビシの間で、血で血を洗う凄惨な戦争(シベチャリの戦い)が起きました。この激しい戦禍から逃れるため、実際に津軽海峡を渡って青森県の津軽半島(三厩や外ヶ浜など)へと移住したアイヌの人々がおり、彼らの集落は当時の津軽藩の絵図に「狄村(えぞむら)」として記されています。
【アイヌの自動弓「アマッポ」】
本来のアマッポは、獣道に仕掛けておく罠の一種です。獲物が張られた糸に引っかかると、仕掛けられた木のバネが弾け、猛毒(スルク)の塗られた矢が発射されるという非常に高度な自動狩猟装置でした。
【アイヌの鍛冶(かじ)技術と鉄の加工】
アイヌの人々は、和人や大陸との交易で鉄鍋や鉄の棒、古釘などを手に入れていましたが、完成品をただ使うだけではありませんでした。コタン(村)には鉄を加工する専門の鍛冶職人(カンカンクㇽ)がおり、加工や修理をする技術を持っていました。
彼らは交易で得た鉄を材料にして、自分たちの手に馴染む小刀(マキリ)や、山歩き用の鉈(タシロ)、狩猟に使う矢じりなどを自在に作り出していたのです。
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