オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~ 作:サウス
励みになってます。
沙流(さる)の森が、一年で最も美しく、そして最も忙しい黄金色に染まる季節がやってきた。
木々の葉が落ちるのを合図に、村人たちは一斉に大地に鍬(くわ)を入れ、丸々と太った大地の恵み『エモ(黄金の実)』を次々と掘り起こしていく。土の匂いとともに顔を出す黄色い実は、昨年よりもさらに大きく、数も増えていた。
同時に、沙流川には海から無数の鮭(カムイチェㇷ゚)が遡上してきていた。
川面が銀色の鱗で黒く見えなくなるほどの群れだ。エモの収穫を終えた男たちが今度は冷たい川に入り、見事な手際で次々と鮭を網や銛(もり)で獲っていく。それを広場に集め、老人や女たちが小刀(マキリ)で捌き、チセ(家)の囲炉裏の煙で徹底的に燻していく。
エモという「決して枯れない命の糧」が冬の飢えを完全に保証しているため、村人たちは冬を越すための食料をギリギリまで切り詰める必要がない。だからこそ、獲れた鮭や獣の肉、毛皮のすべてを、自分たちの命を削ることなく、惜しげもなく「和人との交易品」に回すことができるのだ。
ニプタイ(二風谷)の広場に建つ巨大な高床式倉庫(プー)は、もはや溢れんばかりの富の重みで太い柱がミシミシと軋むほどになっていた。
「すごい量だね……。去年の倍じゃきかない。これなら、どんな冬が来ても誰も飢えない」
ハルコルは、高く積み上げられた上質な毛皮と、香ばしい匂いを放つ燻製肉の山を見上げ、隣のミナと顔を見合わせた。
「ええ。沙流川のすべての村の力が、一つの結び目になった結果よ。みんな、もう冬を恐れていないわ」
ミナも誇らしげに微笑む。だが、ハルコルの顔にはわずかな警戒の色が混じっていた。
「でも、これだけの量になれば、あの和人が『おかしい』と気づくかもしれない。……狩猟採集しか知らないはずのアイヌが、こんなにも大量の毛皮や肉を、どうやって集めたのかってね」
ハルコルは、自分たちの足元や、村人たちの着物の裾にこびりついた黒い泥を見つめた。
「それに、和人の商人は目が利く。この泥が獣を追ってついたものではなく、『畑仕事』でついたものだと見抜かれたら終わりだ。アイヌが農耕で定住し、自ら莫大な食料を生み出していると知れ渡れば、松前藩は交易ではなく、武力で土地ごと奪って『年貢』を取り立てる支配に切り替えてくる」
エモの存在は、アイヌを救う光であると同時に、和人の底知れぬ強欲を呼び覚ます劇薬でもあった。
「どうやって和人の目を誤魔化すか、絶対にボロが出ない都合のいい『言い訳(隠れ蓑)』が必要だ」
「なら、夏の『あの事件』を使うしかないわね」
ミナが、東と西の空をあごでしゃくった。
「オニビシの戦士頭がこの村を襲い、逃げ遅れた村人が矢を受けたわ。下流域の海沿いでも、東のシャクシャインと西のオニビシの陣営が睨み合い、小競り合いを繰り返しているという噂が風に乗って届いている。……あの流血の争いを、私たちの『隠れ蓑』にするのよ」
「そうだね。実際に僕らは砦を作るために泥だらけになったし、味方の血も流れたんだ。これ以上ない説得力になる」
◆
数日後。冷たい秋風が川面を波立たせる頃、松前藩の大きな和船が岸辺に姿を現した。
護衛の若衆たちを引き連れて真っ先に降りてきたのは、豪商・勝右衛門である。上等な着物を羽織った今年の勝右衛門は、いつにも増して顔が赤く、上機嫌で下品な笑い声を響かせていた。
「ガッハッハ! ペカンクㇽ殿! 息災であったか!」
勝右衛門は、まるで旧知の友のようにペカンクㇽの大きな肩をバンバンと叩いた。
「いやあ、笑いが止まらん! 昨年お前たちから買い取った毛皮と鮭が、江戸で飛ぶように売れてな! 知っておるか? 昨年の春、江戸で『明暦の大火』という恐ろしい火事があって、百万の人が住む町の大半が丸焼けになりおったのだ! おかげで復興のための木材やら、職人が食うための鮭やらがいくらでも高く売れる! わしは小判の雨を降らせたぞ!」
遠く離れた異国の、人の不幸(火事)で得た莫大な利益(黄金)に酔いしれる勝右衛門。
彼は広場に案内されると、うず高く積まれた極上の毛皮と干し肉の山を見て、さらに目をひん剥いて歓喜の奇声を上げた。
「おお、おおお……! なんだこの山は! 今年はさらに凄まじい量ではないか! まったく、お前たちの村は最高だ!」
勝右衛門は、脂の乗った美しい毛皮にすり寄りながら、忌々しそうに海の方角を睨んだ。
「海沿いの村はどうしようもない! シャクシャインとオニビシの馬鹿どもが小競り合いばかり起こしおって、若い衆が戦に駆り出されて狩りにも出られず、ろくな毛皮が集まっとらんのだ! このままでは江戸の問屋に卸す品が足りぬと焦っていたが、ここへ来て大正解よ!」
勝右衛門はツバを飛ばしながら、さらに腹立たしげに声を荒らげた。
「おまけに、あの連中の縄張りの河口で雇ったものたちにやらせておった『砂金採り』も、物騒でさっぱりはかばかしくないのだ! 江戸の復興には、小判の元になる砂金もいくらあっても足りぬというのに!」
そこで勝右衛門は、ふと何かを思いついたように、目をギラギラと輝かせてペカンクㇽにすり寄った。
「そうじゃ、ペカンクㇽ殿。お前たちのこの沙流川の上流で、キラキラと光る『黄金の砂』を見たことはないか? もし見つけたら、毛皮や肉など比べ物にならんほど高く買い取ってやる。わしに真っ先に声をかけるのだぞ!」
砂金。
松前藩や和人の商人たちが、危険な蝦夷地の奥深くまで入り込んでくる最大の目的の一つだ。
(……冗談じゃない。砂金が出るなんて教えれば、松前の軍勢が直接この沙流川を支配しに来る)
ハルコルが内心で舌打ちする中、ペカンクㇽは興味もなさそうに鼻で笑った。
「黄金の砂だと? そんな食えもしない冷たい砂粒を探す暇など、我々にはないな。……それよりも我々は、その海沿いの争いがいつこちらへ本格的に火の粉を散らすか不安でな。松前の殿様は、あの争いをどう見ているのだ?」
ペカンクㇽの誘導に乗り、勝右衛門はふっと声を潜めた。
上機嫌に回っていた酒の勢いと、目の前の莫大な利益をもたらしてくれたペカンクㇽに対する機嫌の良さが、彼の手綱をわずかに緩めさせたのだ。
「……ペカンクㇽ殿だから、特別に教えてやろう。ここだけの話だがな」
勝右衛門は、まるで悪巧みをするように身を乗り出し、和語でヒソヒソと話し始めた。ミナがそれを、一言一句漏らさずハルコルに耳打ちする。
「松前様は、静観よ。……あの方々からすれば、アイヌの二大勢力が勝手に潰し合って疲弊してくれた方が、後々蝦夷地を御しやすいからな。どちらにも加担せず、互いに牙を折り合うのを高見の見物と決め込んでおられるわ。我ら商人からすれば、品も砂金も手に入らなくなる大迷惑な話だがな」
(なるほど。松前藩の基本方針は『アイヌの分断と弱体化』か。なら、当分の間、和人の武力がこの争いに直接介入してくることはないな)
ハルコルは頭の中で、外の世界の地政学的な勢力図を正確に組み上げていった。松前藩の動向が分かれば、自分たちの立ち回りも格段に計算しやすくなる。
ひとしきり内緒話をこぼし、気分を良くした勝右衛門だったが、ふとペカンクㇽの足元や、周囲の村人たちの姿を見て首を傾げた。
「ん? そういえばペカンクㇽ殿……。先ほど川から見えたが、村を囲う奇妙な柵などの備えが去年より随分と増えておるな? 着物もひどく泥汚れておる。それに、向こうで足を怪我して引きずっている若い衆もいるようだが」
さすがは商人、見逃さない。
だが、その鋭い問いに対する「答え」は、すでに用意してあった。ペカンクㇽはわざと重々しいため息を吐き、首を振った。
「隠し事などない。お前が言った通り、海沿いの戦火がとうとうこの村にも及んできたのだ。……夏に、オニビシの戦士頭が五十人ばかりでここを襲撃してきてな。我々の富を奪おうとし、何人かの若い衆が矢傷を負わされた」
「なんと! オニビシがここを!?」
「ああ。いつ再びこの村が力ずくで狙われるか分からん。だから我々は、夏の間ずっと深い空堀を掘り、防衛の砦(チャシ)を作る土仕事に追われていたのだ。着物が泥だらけなのはそのせいだ」
「ほう……! そのために防衛の砦を」
「そうだ。そしてこの大量の荷も、我々だけが狩猟をしたわけではない。争いと略奪を恐れた周辺の村の者たちが、我々の堅牢な砦を頼って、自らの毛皮や肉を持ち込んできたのだ。……どうだ? お前たち商人から見ても、なかなかの『儲け話』だろう?」
見事に辻褄が合う。
村の人間が泥だらけである理由も、怪我人がいる理由も、そしてこの村に不自然なほど異常な量の毛皮や肉が集まっている理由も。
「ガッハッハッハ!」
勝右衛門は、ポンッと手を叩いて下品に笑い転げた。わずかに抱いた疑念など、大火バブルの熱に浮かされた彼の頭からは完全に吹き飛んでいた。
「なるほど、なるほど! 実際に襲われたから必死で土を掘って作事をしつつ、怯えた周辺の村から荷をかき集めたのだな! アイヌにしては随分と強かではないか! いやはや、わしは極上の品さえ手に入れば理由などどうでもいい!」
「そうだろう。だから来年の春は、この品と引き換えに木綿の布の他に、『鉄の鍬(くわ)』と『先が尖った鉄の棒(ツルハシ)』を大量に持ってこい」
ペカンクㇽは、間髪入れずに要求を突きつけた。
「鉄の鍬とツルハシだと? なぜまたそんなものを……」
言いかけて、勝右衛門はニヤリといやらしく口角を上げた。
「ははあん。さてはお前たち、深い堀を掘るついでに、川底をほじくり返して砂金でも見つけるつもりだな?」
「我々の村を守るため、さらに固い地面を掘らせて強固な堀を作らせるためだ。お前が頑丈な鉄の道具をたくさん持ってくれば、来年の秋は、この倍の毛皮を約束してやろう。……砂金が出るかは知らんがな」
ペカンクㇽがとぼけるように言うと、勝右衛門は目の前の毛皮がすべて「江戸の黄金」に見えており、完全に理性を奪われていた。
「ガッハッハ! 分かった、分かった! 鉄の鍬でも何でも、望むだけ持ってこよう! 精々、その立派な砦作りと『宝探し』に励むことだな!」
その日の夕暮れ。
松前の和船は、膨大な毛皮と肉を積み込み、そして「江戸の復興バブル」という黄金の夢を抱きながら、上機嫌で川を下っていった。彼らは、アイヌの村の奥深くにある本当の秘密(広大なエモの畑)には、ついに一度も目を向けることはなかった。
船が見えなくなった後。
広場に残された村人たちは、キョトンとした顔でペカンクㇽを見ていた。
「長よ。我々は、なぜ和人に鉄の鍬など要求したのだ?」
「なに、ただの目隠しさ」
ペカンクㇽは、後ろでクスクスと笑い合うハルコルとミナを振り返り、豪快に笑った。
「あの商人は、我らの本当の恵み(エモ)から目を逸らしてくれただけではない。来年の春、我々がエモの畑をさらに広く深く開墾するための『最強の鉄の農具』を、わざわざ向こうから船で大量に運んできてくれることになったのだ。砂金探しだと勝手に勘違いしてな」
実際に流れた血と戦火を隠れ蓑にして和人の目を逸らし、価値ある外の情報を引き出した上で、開墾用の最先端の農具を要求する。商人特有の「利益への強欲」と「砂金への執着」を逆手に取り、見事にコントロールした鮮やかな外交戦だった。
村人たちが「なるほど」と感心して笑い合う中、ハルコルだけは、暮れゆく西の空を見つめながら、その先のさらに深い思惑を巡らせていた。
(……もちろん、農具としても使うさ。でも、和人が持ち込む『鉄』の本当の価値はそれだけじゃない)
ハルコルの脳裏には、先日のオニビシの襲撃を退けた『手持ちのアマッポ(機械弓)』の姿が浮かんでいた。
あれは交易で手に入れた小刀などの僅かな鉄を溶かし、限界まで工夫して作ったものだ。もし、勝右衛門が重い『鉄の鍬やツルハシ』を大量に持ち込んでくれればどうなるか。
(鉄は、熱して叩けば形を変える。鍬は矢尻になり、ツルハシは強力な機械弓のバネや引き金になる。……勝右衛門は砂金を見つけるための道具を届けているつもりだろうけど、実際には、自分たち和人を脅かす強大な『牙』の材料を、せっせと運び込んでいることに気づいていない)
いずれ来る松前藩との衝突の日に向けた、兵器の量産。そのための極上の資源ルートが、今ここに確立されたのだ。
高く澄み切った秋の夜空の下。
ニプタイのコタンは、和人の脅威をふわりとかわし、来たるべき新たな春の飛躍、そして戦乱の時代に向けて、静かに、しかし力強くその土台を固めていた。
第11話をお読みいただき、ありがとうございます!
おまけの解説コーナー。
今回は北海道での砂金について。
【史実における北海道(蝦夷地)の砂金ラッシュ】
物語の舞台となっている17世紀(1600年代半ば)、実は蝦夷地では空前の「砂金ラッシュ(ゴールドラッシュ)」が起きていました。
松前藩の領内や、日高地方(まさに沙流川や、シャクシャインのいる静内川の流域)などの河川で豊かな砂金が発見され、一攫千金を夢見る本州の和人(金掘り労働者たち)が大量に蝦夷地へと押し寄せたのです。
和人にとって砂金は莫大な富でしたが、アイヌの人々にとっては「災厄の種」でしかありませんでした。
和人の労働者たちが川底を激しく掘り返したため、川の水は泥で濁りきってしまいました。その結果、アイヌの冬の命綱である「鮭(カムイチェㇷ゚)」が川を遡上できなくなり、深刻な食糧難(飢餓)が引き起こされたのです。さらに、強欲な金掘り労働者たちはアイヌに対して横暴な振る舞いを繰り返し、労働を強制するなど過酷な搾取を行いました。
この砂金掘りによる「環境破壊(鮭の不漁)」と「和人の横暴」に対するアイヌの怒りは極限まで達し、のちに1669年に勃発する『シャクシャインの戦い』の最も大きな原因の一つとなりました。
この大規模な戦いをなんとか鎮圧した後、松前藩は「これ以上アイヌを刺激して反乱を起こされれば、藩の存続に関わる」と危機感を抱き、また砂金自体も枯渇し始めていたため、蝦夷地での砂金採取を厳しく禁じることになります。