オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~ 作:サウス
蝦夷地の最南端、福山(松前)の地に建つ『福山館(ふくやまだて)』。
のちに幕末に築かれる壮麗な松前城とは異なり、この時代の松前氏の居城は天守閣を持たない陣屋(居館)であった。
しかし、海を見下ろす高台にそびえる館の望楼(ぼうろう)から見下ろす津軽海峡は、鉛色に重く淀み、荒れ狂う白波が次々と暗い海面へ砕け散っていた。
眼下に広がる城下町は、容赦のない猛吹雪によって白く覆い隠されている。港には帆柱を寝かせた弁財船(べんざいせん)が何十隻も雪に埋もれ、春の雪解けをじっと待っていた。
行き交う町人や下級武士たちは、凍てつく海風に身をすくませて足早に歩いている。だが、彼らの背後に建ち並ぶ豪商たちの土蔵群は、どれも分厚い漆喰で塗り固められ、内部には蝦夷地から吸い上げた莫大な富――極上の毛皮、鮭、昆布、鷹の羽――が、それこそ天井までぎっしりと詰め込まれていた。
「……今年も、ひどく冷えるな」
松前藩第四代藩主・松前高広(まつまえたかひろ)は、京から取り寄せた分厚い最高級の絹の綿入れを羽織り、赤々と炭が熾(おこ)る蒔絵(まきえ)の火鉢に両手をかざしながら低く呟いた。
今年で数えの十六。若き藩主の横顔には、その年齢にそぐわない酷薄な影が落ちている。
高広は寛永二十年(一六四三)、先代・氏広の長男としてこの福山館で生を受けた。しかし慶安元年、僅か六歳という幼さの時に父の急死に見舞われ、無理やり家督を継がされることとなった。
当然、六歳の童に政(まつりごと)などできるはずもなく、藩の全権は高祖父・慶広の甥にあたる蛎崎友広(かきざきともひろ)や蠣崎利広といった、野心ある古参の重臣たちに完全に握り潰されていた。飾られた人形のように藩主として担ぎ上げられ、大人たちの顔色を窺う屈辱の日々。
加えて生来より身体も丈夫ではなく、十の歳には重い病に伏し、死の淵をさまよいながら領内の湯の川温泉で長きにわたる湯治を余儀なくされた苦労人でもある。
自らの肉体の弱さと、周囲を囲む重臣たちの権勢。その過酷な幼少期の中で、若き高広が生き残るために身につけたのは、決して他者を信じず、他者の欲と争いを盤上の駒として操る『冷徹な謀略の才』であった。
部屋にはほのかに沈香の香りが漂い、襖には見事な金箔の障壁画が描かれている。
本州の諸大名から見れば、この松前藩は異端中の異端である。領内に田畑はほとんどなく、米は一粒たりとも育たない「無石(むこく)」の地。武士の力の象徴である「石高」を持たない辺境の地でありながら、彼らは徳川幕府から特例として「大名格の来賓待遇」を受けていた。
初代・慶広は、無断での築城が固く禁じられていた徳川幕府に対しては「蝦夷を防ぐための単なる『館(たて)』を建てたのみ」と謙って取り入りながら、一方でアイヌたちに対しては自らの居館を「松前城」と名乗って威圧した。
その見事な二枚舌こそが、松前藩のしたたかさの象徴である。
無石の小藩が、なぜ十万石の大大名にも引けを取らない豪奢な暮らしを維持できているのか。
答えは一つ。「蝦夷(アイヌ)との交易の独占権」である。
神君・徳川家康公から拝領した黒印状には、『蝦夷地に出入りする者は、すべて松前藩の許可を得ること』と記されていた。本州の商人たちは、松前の港に船を止め、松前藩に莫大な税(運上金)を払わなければ、蝦夷地の奥へ入ることはできない。そして松前藩の家臣や御用商人たちは、本州から持ち込んだ安物の鉄器や古着、濁酒を、蝦夷たちが命懸けで獲った極上の特産品と「不当なまでに有利な比率(レート)」で交換する。
米が獲れなくとも、無知な蝦夷の血と汗を搾り取り、それを本州で高く売り捌けば、福山館の蔵は小判で満たされる。それこそが、松前藩を根底から支える『商場知行制(あきないばちぎょうせい)』という、揺るぎない中抜きの搾取機構であった。
「殿。各方よりの報告書をまとめてまいりました」
背後のふすまが静かに開き、家老が恭しく書類の木箱を差し出した。
高広が物心つく前から藩政に携わってきたこの老獪な男は、うやうやしく頭を下げながらも、その眼光には若き主君を見定めるような鋭さがあった。
「うむ。まずは、江戸の様子はどうだ」
「はっ。昨年の『明暦の大火』による爪痕は未だ深く、江戸の町の復興はかつてない熱狂に包まれております。幕府は焼け出された町人の救済や大名屋敷の修復に、莫大な御金蔵の金銀を惜しみなく注ぎ込んでおられるご様子」
家老は、うやうやしく書状を開いた。
「四代将軍・家綱公の御世とはいえ、実質的には将軍の叔父にして最強の後見役たる会津藩主・保科正之(ほしなまさゆき)公や、『知恵伊豆』と名高い老中・松平信綱様らが凄まじい手腕で政を取り仕切っており、幕閣も財政の立て直しと都市整備に躍起になっておりまする。全国から大工や左官が江戸に集結し、町は異常な活気に満ちているとのこと。……もっとも、我が松前藩の江戸上屋敷もあの猛火に巻き込まれ、見事に全焼いたしましたが」
「……結構なことだ。屋敷の一つや二つ、くれてやれ」
高広は痛痒も感じていない様子で、青白い頬を歪めて冷たい笑みを浮かべた。
「江戸が燃え、町を一から作り直すとなれば、全国の富が江戸へ集まる。幕府が復興のために大量の木材を求め、集まった職人たちを食わせるために『塩引き鮭』や『昆布』をこぞって求めれば求めるほど、我ら松前藩の運上金はうなぎ登りに増える。屋敷を建て直す費用など、またたく間に取り戻してなお余りあるわ。蝦夷地の産物は、今や江戸の復興と武家の見栄を支える必需品よ」
「仰る通りでございます。しかし殿、江戸の復興需要の裏で、本州の諸藩……特に、海を隔ててすぐ隣にある津軽の『弘前藩』の動きが少々きな臭うございます」
家老が、声のトーンを一段落として書類をめくった。
「津軽だと?」
「はっ。弘前藩もまた、昨年の大火にて江戸の藩邸が灰燼(かいじん)に帰し、その再建費用で藩の金庫は完全に底を突いております。その上、先代が亡くなり、わずか十三歳の若君(四代・信政)が家督を継いだばかりというお家騒動の火種まで抱える始末。……我が藩とは違い、彼らに復興の要となる産物はありませぬ。藩政の立て直しのため、領民や商人には容赦のない御用金(重税)が課せられ、まさに火の車にございます。それに耐えかねてか……現に最近、津軽のならず者商人どもが我ら松前の目を盗み、勝手に蝦夷地で『抜け荷(密貿易)』を働いているという噂が絶えませぬ」
「なるほど。飢えと重税に耐えかねた津軽の商人どもが、一攫千金を夢見てついに掟破りに手を染めたか」
高広は、意地悪く鼻で笑った。
「津軽の連中は、いまだに中世の『十三湊(とさみなと)』が栄えていた頃の、蝦夷の富がすべて津軽の海に流れ込んでいた昔の夢を見ているのだ。かつて我ら松前の先祖(蠣崎氏)が、津軽を追われた旧主・安東氏の『蝦夷の代官(下働き)』に過ぎなかったことをいまだに見下し、我らのことを『幕府の威光を笠に着て、津軽から蝦夷の利権をすべて掠め取った成り上がり者』と忌み嫌っておるからな」
かつて蝦夷地の交易を牛耳っていたのは、津軽の海を支配していた安東氏だった。松前藩の祖である蠣崎氏は、もともと彼らに仕える蝦夷地の現地管理人に過ぎなかったのだ。
しかし豊臣秀吉、そして徳川家康の時代にうまく立ち回り、旧主を出し抜いて「蝦夷地の独占支配権」を幕府から公認させたのが松前氏である。ゆえに、津軽の商人たちにとって松前藩は「自分たちの利権を盗んだ、元・下働きの裏切り者」であり、両者の間には深い歴史的確執が横たわっていた。
「左様にございます。津軽の者にとって、我ら松前藩の独占は腹に据えかねる屈辱。それゆえ、切羽詰まった商人どもも決死の覚悟で冬の荒海を渡ってくるのでしょう」
「愚かな」
高広は、冷たく吐き捨てた。
「蝦夷との商いは、神君・家康公より我ら松前藩のみに許された特権だ。貧乏人の負け犬どもがそれを侵すというのなら、春になれば水軍を出して、津軽の小舟など容赦なく海の藻屑にしてやれば済むこと。……ところで、その津軽の貧乏人どもが抜け荷をしている先はどこだ?」
「それが……確証はございませぬが、日高地方、『沙流(さる)』の川筋にある村ではないかと」
沙流、という言葉に、高広の眉がピクリと動いた。
「殿、御用商人の勝右衛門からの秋の交易報告書も上がっております。……今年もまた、沙流のコタン――ペカンクㇽという長が治める村から、異常な量の極上の毛皮と鮭が上納されております。海沿いの他の村が戦の警戒で猟を休んでいるというのに、この村だけは、まるで蔵から無限に湧き出してくるように品を出してくると」
家老は、白髪の混じった眉を寄せ、若き藩主に試すような視線を向けた。
「この沙流のコタン……蝦夷の分際で、少しばかり知恵をつけ、周辺の村の品を一手に束ねて、なんと泥にまみれて『砦』まで築いていると聞きます。殿、このまま沙流の蝦夷が富と武具を蓄え、力をつけるのを捨て置かれますか? 春になれば軍を出し、見せしめにあの泥の砦ごと踏み潰してやりまするか?」
高広は火鉢の灰を火箸でかき混ぜながら、薄く笑った。
「いや、待て。沙流のコタンが力をつけ、自ら砦を築いているというなら、それはそれで構わん。むしろ好都合やもしれんな」
「ほう。好都合、でございますか」
家老が、感心したように目を細める。
「うむ。東の狂犬(シャクシャイン)と西の狼(オニビシ)、二匹の争いばかりではいずれどちらかが勝つ。だが、そこに沙流という『第三の勢力』が割って入り、三つ巴で泥沼の争いをしてくれるなら、我ら松前の『やりよう』はさらに増えるというものよ。互いに牽制し合い、永遠に血を流し続けてくれればな。蝦夷どもは自らを削り合い、我らにすがりつくしかなくなる」
蝦夷たちを意図的に分断し、互いに争わせることで力を削ぐ。そして疲弊したところに、圧倒的に不利な条件で物資を売りつけ、骨の髄まで支配する。
自分が幼い頃、目の前にいるこの重臣たちに弄ばれたのと同じように。それこそが松前藩が蝦夷地を統治してきた『分割統治』の冷徹な盤面だった。
「ご明察にございます。さすがは我が殿、頼もしきお考え」
家老は深く平伏しながらも、口元には老獪な毒を含んだ笑みを浮かべていた。
「……ならば殿。その三つ巴の火種、我らが少しばかり『煽って』やるというのはいかがでしょう」
「煽る、とは?」
「西のオニビシ陣営は、戦と不漁でひどく飢え、焦っております。そこに『沙流の村には冬を越すための莫大な食糧と富が眠っている』と、我らの耳目(間者)を使って、それとなく耳打ちしてやるのです」
高広は、手元の火箸をカラリと置き、家老と顔を見合わせて会心の笑みを浮かべた。
「なるほど。飢えたオニビシの狼どもに、沙流の村を襲わせるというわけか」
「左様にございます。幕府には『館』と嘯(うそぶ)きながら蝦夷には『城』と見栄を張る……直接手を下さずとも、知恵を巡らせるのが我らの伝統。我らは高みの見物を決め込めばよいのです。沙流の蝦夷がどれほどの備えを持っているか、オニビシどもが勝手に我らの代わりに試してくれましょう」
「ふっ……。相打ちになれば良し、どちらかが勝とうが、傷ついた勝者を我らが後からゆっくりと叩けば済むことだな」
家老の提案に、高広は心底愉快そうに喉を鳴らした。
高広から見れば、サルの村の豊かさも、シャクシャインたちの争いも、すべて松前藩という巨大な手のひらの上で踊る滑稽な人形劇に過ぎなかった。
彼は自らの完全無欠の支配体制に微塵の疑いも持っていなかった。蝦夷は無知で、文字を持たず、数の計算もできず、明日の飢えにすら怯える惨めな民だ。彼らに、数百年もの間、国を治めてきた和人の武士や商人を出し抜くような『知恵』などあるはずがない。
(東と西の蝦夷は互いに血を流し合い、ただ我らにひざまずいて黄金の富を捧げればよいのだ)
館の外では、相変わらず猛烈な吹雪が、厚い板葺き(いたぶき)の屋根を叩きつけている。
高広も、老獪な家老も、知る由はなかった。
この雪の向こう、遠く離れた沙流の深い森の奥で——和人が決して気づくことのない「黄金の恵み(エモ)」が地下に強靭な根を張り、蝦夷の子供たちが「見えない数の理(計算)」と「文字」という、和人の支配構造を根底から破壊する恐るべき武器を研ぎ澄ませていることを。
そして、自分たちが「共食いをしてくれる駒」と見下している東西の巨大な怒りの炎が、やがて一つに燃え上がり、この驕り高き福山館の足元まで迫り来る歴史のうねりとなることを。
1658年の冬は、江戸の熱狂と松前の傲慢、そして津軽の焦燥を孕んだまま、静かに、しかし確実に終わりへと近づいていた。
幕間2をお読みいただき、ありがとうございます!
おまけの解説コーナーです。
【松前藩】
江戸時代、武士の力は「石高(米の収穫量)」で測られるのが絶対のルールでした。しかし、寒冷な蝦夷地を治める松前藩には田がなく、なんと「無高(むこく:石高ゼロ)」です。それでも彼らが十万石の大名と同じように贅沢な暮らしができたのは、幕府から「蝦夷地との交易を独占する権利」を認められていたからです。
【松前高広】
今回登場した第四代藩主・高広は、この時まだ16歳の若者です。
彼は6歳で父を亡くして藩主になり、老獪な家老たちに実権を握られて「お飾り」として生きる屈辱を味わいました。さらに病弱で、長期間の湯治(現在の函館・湯の川温泉)を経験するなど、非常に苦労の多い幼少期を過ごしています。
【弘前藩(津軽藩)】
最近は「津軽藩」と呼ばれてもいます。(藩主の津軽氏からくる通称ですね。)
明暦の大火で江戸屋敷が全焼。さらに藩主・津軽信政はわずか13歳の少年です。
かつての津軽(十三湊など)は中世における蝦夷交易の絶対的な中心地であり、松前藩の祖(蠣崎氏)は、もともと津軽の海を支配していた旧主・安東氏の「下働き(蝦夷代官)」に過ぎませんでした。
【「明暦の大火」(1657年)】
「明暦の大火」は、前年の1657年に発生した日本史上最大の火災です。
江戸の町の6割以上が灰燼に帰し、江戸城の象徴であった天守閣も焼け落ちてしまいました(以後、江戸城に天守閣が再建されることはありませんでした)。10万人近くが犠牲になったとされる大惨事です。
幕府は復興のために、金蔵に貯め込んでいた莫大な金銀を惜しみなく放出しました。
【当時の江戸幕府の首脳陣】
1658年当時の将軍は、まだ若い四代将軍・徳川家綱(いえつな)です。
実際に幕府の政治を回し、この未曾有の大火からの復興を指揮していたのは、以下の超優秀な幕閣(トップ官僚)たちでした。
保科正之(ほしな まさゆき): 将軍の叔父であり、強力な後見人。「天守閣の再建など無用! その金で町人を救済し、江戸の町を作り直せ」と英断を下した大政治家です。
松平信綱(まつだいら のぶつな): 「知恵伊豆」の異名をとる天才老中。両国橋の架橋や、火事に強い都市計画(道幅の拡張や大名屋敷の移転)を恐ろしい手腕で推し進めました。
幕府直轄の消防組織「定火消(じょうびけし)」の設置(後に町火消へとつながる)もこれがきっかけです。
ちなみに筆者の先祖というか家は火消しの家系です。本家に纏があります。
この大火は筆者にとって想いが深い出来事です。
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次話から第二章に入ります。
こっから徐々に世界を広げていきますよ・・・!