オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~ 作:サウス
励みになってます。
お待たせしました。
ニプタイ(二風谷)の広場に、秋の収穫で土の底から掘り出された『エモ』の山がそびえている。朝の冷たい空気の中、大地が産み落とした無数の命の塊から、むせ返るような濃い土の匂いが立ち昇っていた。
大きいもの、小さいもの、土がこびりついたもの、傷のあるもの。村人たちはそれを一つ一つ素手で確かめ、来年の種芋として取り置くもの、越冬の食糧として蔵に入れるもの、傷んで使えないものへと選り分けていく。
ずっしり、ずっしりと。
編み込まれたカゴに積まれたエモが蔵へ運ばれるたびに、それは確かな『命の重さ』となって人々の腕に食い込んだ。
ミナが広場の端に座り、白木の板に炭の筆を走らせる。
カリッ、カリッと炭が板を擦る音が響き、数字が刻まれていく。ハルコルが三年前にこの村へ持ち込んだ「数を記す」という概念は、最初は誰もその意味を理解できなかった。しかし今では、刻むこの黒い数字なしで、村の冬越しの計算は成り立たなくなっていた。
広場では老人も子供も、海沿いの戦火から逃れてきた難民たちも、全員が無言で手を動かしていた。
運ぶ者、積む者、選り分ける者。誰かが指示を飛ばすわけでもないのに、それぞれの役割が自然に噛み合っている。三年間、同じ季節に同じ土に触れてきた者たちの、身体の奥底に染み込んだ美しい連帯の動きだった。
午後になって日が傾き、長い影が広場に伸び始めた頃。
ミナがふと手を止め、顔を上げた。
「今の時点で、去年の秋の全備蓄量を超えた」
ハルコルは差し出された板の数字を、黙って見つめた。
(……予想をはるかに上回っている)
前世の記憶では、ジャガイモは一つの種芋から十倍から十五倍の収量が得られるはずだった。三年間かけて土に有機の堆肥を混ぜ込み、水はけを整え、強い種芋の選別を執念深く続けてきた。その泥臭い積み重ねが今年、爆発的な収穫量となって一気に実を結んでいた。
しかし、頭の中で計算していた無機質な数字と、実際に目の前に積み上がっている圧倒的な芋の山の間には、まだ埋めがたい感触の差があった。
数字は正しかった。しかし、冷たい風に乗って香る土の匂いと、村人たちの安堵の吐息、そして芋の確かな重さは、前世のどんな完璧な帳簿にも載っていないものだった。
「よかった」
ミナが短くそう呟いて、また板に向き直った。
それだけだった。本来なら飛び上がって歓喜すべき豊穣の数字なのに、この過酷な大地に生きてきた者たちは、豊かさに対してそういう静かな言葉を選ぶ。派手に喜ばず、ただ、深く、神(カムイ)からの恵みとして静かに受け取る。
その謙虚な強さが、ハルコルは好きだった。
夕刻。燃えるような夕焼けが森に沈む頃、最後のエモが蔵に収まった。
ギィィ……ドンッ。
分厚い木の重い扉が閉まる音が、広場に一度だけ重々しく響いた。作業を終えた村人たちが、満ち足りた疲労とともに思い思いのチセ(家)へと散っていく。
ミナが最終的な数字を板に刻み終え、ハルコルに差し出した。
食料分、種芋分、傷んで使えないもの。三つの桁外れな数字が並んでいる。
ハルコルはそれを見て、静かに目を閉じた。
(十分だ。この村全員が来年の春まで腹いっぱい食べて、なお余る。そして種芋は……遠くへ旅させられるだけの圧倒的な量がある)
その計算が正しいことを、ハルコルは知っていた。しかし、理屈で「知っている」ということと、実際にその数字が目の前の現実として立ち現れることの間には、全く別の重さがある。
じわりと、胸の奥底で熱い塊が動いた。
次の手を打つ時が来た。
しかしその前に、もう一つの『戦場』を見届けなければならない。
◆
要塞の岩山際に深く掘られた地下工房は、地上の涼やかな秋とは全く別の、異界の空気を孕んでいた。
天井の低い岩窟に炉の猛烈な熱がねっとりと滞留し、岩の壁が絶え間なく汗をかいている。肺を焼くような煤と、むせ返るような鉄の匂いが鼻の奥にへばりつく。外の清涼な風とは完全に隔絶された、若き野鍛冶・カニタだけの修羅の世界だった。
分厚い木の作業台の上には、大小様々な石の欠片がずらりと並んでいる。
濡れたように黒く光るもの、くすんだ灰褐色のもの、暗緑色のもの。それぞれの脇には小さな木片が置かれ、カニタ自身の覚えのための「印」が小刀で刻まれていた。数字を記す習慣を持たないカニタが、自らの試行錯誤の記録を後世に残すために編み出した独自の方法だった。
ハルコルのやり方とは違う。しかし、確かに「記録し、積み上げる」という思想が、この薄暗い工房にも根づいている。
チッ。
カニタが手に持った石の欠片を、鉄の棒の側面に斜めに打ちつける。火花は散った。
しかし、弱い。命の短い線香花火が消える瞬間のような、儚く頼りない赤い光が一瞬だけ虚空に散り、瞬く間に鉄の闇へと吸い込まれていった。
「……クソッ」
カニタは低く舌打ちし、その石の脇に「駄目」を意味する深いバツ印を刻んだ。
この春から数えて、二十回を超える試行。そのどれもが、何かが惜しかった。
惜しいのが一番つらい。全く見当違いの石なら諦めもつくが、かすかに光る分だけ、次を試さずにはいられないのだ。
入り口の岩陰に、影が差した。ハルコルが身を屈めて中に入ってくる。
「どうだ」
「全滅に近いです。……津軽の商人から引き出した鉄は極上だってのに、相手にする石がからきしだ。悔しくてたまらねえ」
カニタは油にまみれた手で、作業台の石の並びを示した。ハルコルは一つずつ手に取りながら、カニタの熱を帯びた説明を聞いた。
黒曜石(十勝石)は、割れ方と鋭さでは他の追随を許さない。矢じりや刃物として使えば、この大地の石の中で最高の素材だろう。しかし鉄に当ててもほとんど火花が出ない。圧倒的に鋭いが、鉄より「柔らかい」のだ。ハルコルが黒曜石を持ち上げると、炉の赤い光を受けてガラスのような断面が深い紫に透けた。美しいが、用途が違う。
チャート(角岩)は黒曜石よりは明らかに硬くマシだったが、湿気に弱く、形を整えようと打つと細かく砕けすぎた。カニタが実演してみせた。鉄の棒に力強く打ちつけると、パラパラと粉のように無惨に崩れ落ちる。
日高の山の中でも特に固い地層から割り出したという「灰褐色のチャート」だけが、晴れた日にかろうじて火花を散らした。しかしそれも、雨の翌日には全く機能しなかった。カニタが「この石だけは惜しい」と言って、別にしてある欠片を見せた。乾いているときは硬い。しかし、わずかな水分を吸うと極端に脆くなるのだ。
「どれだけ炉のそばで乾かしても、しまいにゃ雨の日に使えねえんじゃ話にならねえ。カムイフㇺ(雷)を呼ぶ『新しい銃』ってのは、雨の夜でも確実に火を噴いてこそだろうに」
カニタが忌々しげに舌打ちして石の欠片を放り投げた。
ハルコルは灰褐色のチャートの欠片を拾い上げ、指の腹でざらつく表面を撫でた。
(方向は合っている。しかし、決定的に質が足りない。この大地のどこかに、もっと緻密で硬い石が必ずあるはずだ)
カニタが工具を置き、ハルコルを真っ直ぐに見据えた。職人として、あやふやな希望ではなく、より正確な「情報」を求める鋭い目だった。
「ハルコル様、俺に教えてくれませんか。どんな石を探してるか。俺は手で触れば、そいつの強さが分かる。言葉で説明してもらえれば、探す方向が見える」
ハルコルは少し考えてから、慎重に言葉を選んだ。
「緻密で、均質で、割った断面が滑らかで鋭いこと。そして何より……鉄よりも『必ず硬い』石だ。鉄の棒に打ち付けた時に、石が砕けて負けるんじゃない。石が鉄の表面を削り取り、その摩擦の熱で鉄の粉を燃やして火花を出す。……そういう強靭な石が、どこかに眠っている」
カニタは太い腕を組み、煤けた天井の岩肌を見上げた。
鍛冶師として長年、鉄という強固な金属と向き合ってきた男が、「鉄よりも硬い石」という矛盾するような言葉を、自分の手のひらの記憶と照らし合わせながら静かに消化していく。
「……鉄より硬え石か。そりゃあ相当なバケモノだ。この日高周辺の山や川じゃ、俺はまだそいつに出会ってねえ。山を歩き、川原の石を片端から割り、手に触れてきたが……どこにも、なかった」
「そうだろう。だから今夜、皆に話すことがある。この大地の別の場所から、石を集める。遠く離れた別の地層には、ここにはないものが眠っているかもしれない」
カニタの目が、暗がりの中でわずかに光を帯びた。
各地の地層が違えば、別の石が出てくるかもしれない。その論理的な意味を、天才的な職人の頭脳が素早く理解したのだ。
「……そいつは面白え。春まで待ちますよ」
さっき工房の入り口で交わした言葉の、確かな続きだった。
カニタはしばらく無言で炉の奥の赤い火だまりを見つめた。それから、ゆっくりと立ち上がり、傍らに積まれた新しい石の欠片を無造作に手に取った。
「俺はこの工房の火を落とすつもりはありません。春にどんな石が届いても、すぐに試せるよう、手を動かし続けますよ。……ハルコル様が津軽の裏商人から引き出してくれたあの極上の鉄を、くだらない石ころのせいで遊ばせておくのは、職人として勿体なさすぎる」
そのぶっきらぼうな一言の後ろには、二十回を超える途方もない試行錯誤の熱量がすべて積み重なっていた。決して軽くはない、鋼のような誓いの言葉だった。
ハルコルは何も言わずに深く頷いた。岩の天井に反射した炉の赤い光が、二人の間をちらちらと熱く揺らしていた。
◆
その夜。
一番大きなチセ(家)の囲炉裏を囲んで、主要な仲間たちが重い顔で向き合っていた。
コタンコㇿクㇽ(村長)であるペカンクㇽが、太い腕を組んで火の向こうに岩のように座っている。カニタは工房から戻ったばかりで、顔や指先にまだ黒い煤の跡がこびりついていた。
カントは厚手の外套をまだ脱いでいない。冷え込む夜間巡回を終え、そのまま呼ばれてきたのだろう。外の鋭い冷気を纏ったまま、無言で炉の傍に座った。ミナは少し離れた場所で白木の板を膝に置き、今日の最終数字を何度も見直している。炭の筆の先を小さく舐め、一箇所だけ数字を書き直した。
炉の上に吊るされた大鍋からは、鮭とキトビロ(行者ニンニク)を煮込んだエモのオハウの濃厚な湯気が、白く立ち昇っていた。
「今年の収穫は、この村の全員が次の春まで腹いっぱい食べても、まだ蔵に有り余る。……だから、その余剰分の『ほんの一部』を、種芋として全道各地の大コタンへ届ける。僕らが培ってきた栽培の方法を教えることとセットでだ」
ハルコルの静かな宣言に、ミナが板から顔を上げた。
「ほんの一部って言っても、今日の全体の数から弾き出すと……これだけの量になるわよ」
板を全員に見えるように高く掲げた。炉の赤い光に照らされた炭の数字が、一瞬だけ全員の網膜に焼きついた。
重い、息が詰まるような沈黙が落ちた。広場で積み上げた、あの見上げるほどの黄金の芋の山を、全員が脳裏に思い出していた。ハルコルが言う『ほんの一部』であっても、それは他所のコタンの冬の命運を完全に左右するほどの、惜しげもない莫大な富の量だった。
最初に口を開いたのは、巡回部隊の隊長のカントだった。
「……うちの蔵にどれだけの富があるか、周辺の勢力にひけらかすことになる。……逆に、略奪を招く弱みにならねえか」
声は平静を装っていたが、刃のような鋭い警戒心があった。巡回から戻った直後の猟師の声には、まだ森の暗さと血の匂いが残っている。
「その通りだ。だから使者には、絶対的な備蓄の数字は口にするなと厳重に言い含める。芋の現物は届ける。しかし、こちらに『あとどれだけあるか』は決して言わない」
「言わなくても分かるだろう。見ず知らずの他人にこれだけの種芋を分け与えられるということは、それだけの異常な余裕があると向こうは見る」
「それは、逆に読んでほしいんだ。こちらはこれだけ外に出せる。つまり、攻め込んでも返り討ちにされるだけの『それ以上の武力と兵站の力がある』と」
カントの眉が、ピクリとわずかに動いた。
「……強さの見せ方、ってやつか」
「そうだ。怖いから隠して縮こまるのではなく、圧倒的な余裕があるからこそ『ほんの少しの欠片』を他者へ与える。その精神的な優位の順番を、決して崩したくない」
カントは黙った。否定したわけではない。納得したわけでもない。炉の火をじっと見つめたまま、自分の中の戦士の天秤にかけている。この男はいつもそうだ。答えを出すまでに時間はかかるが、一度出した答えは決して揺るがない。
次に口を開いたのは、ペカンクㇽだった。組んでいた太い腕を解き、火の向こうでゆっくりと巨体を前に乗り出した。
「ハルコル。お前に聞く」
それは、ただの父親の声ではなかった。五十の命を預かる長(おさ)としての、地を這うような重い声だった。
「お前が使者を出そうとしている四方向の大コタンとは、今日の時点でまだ深い信頼の縁がない。そこへ我らの命の結晶である種芋を届けて、もし何かあったとき……お前は責任が取れるか」
ペカンクㇽの目が、炎越しにハルコルを射抜く。
「もし向こうの首長の蒔き方が悪くて、来年の芋が実らなかったとき。こちらが教えたのに、向こうの村で餓死者が出たとき。……『サㇽの狸に騙された』と、その恨みと咎の刃が、このコタンの民に向くぞ」
パチンッ、と炉の薪が崩れ、一瞬だけ炎が高く揺れ上がった。
ハルコルは目を逸らさず、父の顔を真っ直ぐに見据えた。
「来年、もし向こうの畑が実らなかったなら、それは向こうのせいじゃない。こちらの教え方が足りなかったということだ。……なら、補う。次の秋に、もう一度使者を出して、何度でもやり直して改めて教える。何年かかってもだ」
「それができる保証は」
「ない。でも、リスクを恐れてやらない理由にはならない」
ペカンクㇽの鋭い目が、わずかに細くなった。囲炉裏の炎の中に、ハルコルの言葉の真意を探すようにゆっくりと視線を落とす。
「……話を続けろ」
それが、今日の父の最大の譲歩だと、ハルコルにははっきりと分かった。
「イシカㇼ(石狩)のハウカセ殿、ヨイチ(余市)のハチロウウエモン殿、北の果てソーヤ(宗谷)、そして山越えのトカㇷ゚チ(十勝)。この四方向の巨大勢力へ使者を出す。栽培の秘伝を教える代わりに、向こうにも対価を求める。条件は三つだ」
ハルコルは指を一本ずつ立てた。
「一つ、定期的な情報の交換。和人(松前)の不穏な動きや各地の様子を互いに知らせ合う、全道規模の耳目を持たせる。二つ、継続的な交易の約束。各地の産物を直接取引する。今でもアイヌ同士では交易があるが少しの物々交換に過ぎない。これを変えたい……そして三つ目」
少し間を置いた。
「各地で取れる『岩石』を、集めて送ってほしいと頼む。特に、火打ち石として使えそうな、最高に硬い石を」
カニタがハッとして体を起こした。煤のついた太い指先が、膝の上で強く握り込まれた。
「今、カニタと一緒に日高周辺の石を試練しているが、まだ完璧な答えが出ていない。アイヌモシㇼは広大だ。まったく別の地層の石が、別の場所にあるかもしれない。各地の使者に、とにかく硬い石があれば片端から集めて送ってほしいと頼む」
「……春まで、待ちますよ」
カニタが炎を見つめながら、短くそう言った。さっき薄暗い工房で交わした誓いの言葉の続きだった。ハルコルとカニタの間だけで通じる、簡潔にして絶対の確認。
ミナが板を膝に置いたまま口を開いた。目はハルコルを見ず、板の上の黒い数字を追ったままだった。
「情報の交換って言ったけど、向こうの首長が自分に都合のいい嘘を教えてきたら、こっちには確かめようがないでしょ。そこはどうするの」
「一つのコタンの言葉だけを信じるんじゃない。四方向から『同時に』情報を集めるんだ。同じ時期の話が四か所で食い違えば、誰かが嘘をついているか、見誤っているかが地図上で浮かび上がってくる」
「……なるほどね」
ミナは感心したように小さく頷いて、板の端に何かを書き込んだ。炭の筆が石の面を擦る乾いた音が、頼もしく響く。
ペカンクㇽが、再びゆっくりと口を開いた。
「四方の大首長に、その条件を断られたらどうする」
「断られても構わない。ただ、断る前に『考えてほしいこと』がある、と伝えてもらう」
ハルコルは、囲炉裏を囲む全員の顔を一度だけ見渡した。
「今、このアイヌモシㇼに何人のアイヌが生きていると思う。決して多くない。松前との不平等な交易の中で、冬の飢えと和人が持ち込む疫病で、少しずつ、しかし確実に減り続けている。このままでは百年後に僕らがどうなるか……誰も口には出さないが、全員が肌で知っているはずだ」
鍋の湯気だけが、変わらず白く立ち昇っていた。誰もその真実からは目を逸らせなかった。
「エモは、単なる冬を越すための食料じゃない。人を、アイヌの命を増やすための手段だ。腹が満ちれば凍えずに子が生まれる。子が育てば二十年後に屈強な働き手になる。働き手が増えれば畑が広がる。畑が広がれば、また人が爆発的に増える。……この連鎖が始まれば、武力に頼らずとも、この大地の力が根本から和人を凌駕する。僕がエモを植え始めた日から、ずっとそれだけを考えていた」
カントが炉の火を睨みつけながら、唸るように低く言った。
「……使者が無事に戻るまで、俺は手放しで信用はしねえ。だが、お前のその狂ったほどの執念を、止める理由も今はない。……やろう」
それがカントの答えだった。結果を見届けるまで安易な判断は保留する。しかし、命懸けの盤上遊戯の邪魔もしない。冷徹な武人の矜持だった。ハルコルには、それで十分すぎるほどだった。
囲炉裏の炎が揺れるたびに、ペカンクㇽの顔に深い光と影が交互に落ちた。
父は長い間、息子の横顔を静かに見つめていた。まだ九歳に満たない幼い顔の奥に、時折、自分より遥かに老いた、底知れぬ業を背負った何かが宿るのを、この父はもう何度も見てきた。
やがて、巨木が揺れるように深く息を吐いた。
「……すべて、お前に任せる」
「もう一つだけ」
ハルコルは声のトーンを変えずに、しかし鋼のような硬さではっきりと言った。
「このエモは、アイヌのコタンにだけ渡す。渡したコタンにも言い含める。和人には一欠片も渡さない。松前にも、津軽の裏商人にも、誰にも渡さない。少なくとも今は。このエモが広まっている範囲が、そのままこちらの『国境』であり、信頼の範囲になる。その意味を薄めたくない」
誰も反論しなかった。
炉の火がパチリと爆ぜた。その音が、この歴史的な取り決めに対する絶対の承認のように、静かな室内に一度だけ力強く響いた。
◆
翌朝の夜明け前。まだ星が瞬く暗闇の中、特命を帯びた使者たちが出発した。
空は重く暗く、東の日高の稜線がかろうじて藍色に浮かび上がっているだけだった。吐く息が、濃い白煙となって冷気に溶けていく。
イシカㇼへはウタが向かった。
ハウカセの砦まで遠路を走り切った経験がある。道を知っており、足が速く、何より一度聞いたことを違えずに記憶する。前夜、ハルコルはウタを工房に呼んで、長い時間をかけて言葉の刃を叩き込んだ。ハウカセ殿への三つの条件の伝え方、石の依頼の言葉、栽培方法の説明の順番。そのすべてを、ウタ自身の血の通った言葉で言えるようになるまで、何度も何度も繰り返させた。
「一つだけ、必ずハウカセ殿の耳の奥に届けてくれ。腹が満ちれば子が育つ。子が育てばアイヌモシㇼが強くなる。このエモはそのための『国造りの種』だ、と」
「三度繰り返して覚えます」
ウタが深く頷き、暗い北の獣道へ消えていった。背中に背負った重い荷の中に、黄金の種芋が詰まっている。ハウカセの砦まで、片道だけでも十数日はかかる。雪が根雪になる前に辿り着けるか、ぎりぎりの判断だった。帰りは雪解けの春になるだろう。
ヨイチへは、ウタと共に使者へ向かった経験がある若者の一人、ソウカを向かわせた。
口数は少ないが腹が座っており、初めて顔を合わせる大物相手にも決して物怖じしない。ハチロウウエモン殿とはすでに蝦夷錦の取引でニプタイが繋がりを持っている。ソウカの静かで動じない物腰が、あの計算高い首長には合うだろうとハルコルは判断した。
「まず顔を合わせて、口で丁寧に伝えてくれ。三つの条件を、順番に。決して急かさずに、向こうが腹の底で考える時間を取ること。……返事は急がなくていい。冬越しをしてから戻ってきてくれ」
ソウカは無言で力強く頷き、西の海沿いの道へ向かった。その背中は小さかったが、一歩一歩の歩き方が決して揺れなかった。
ソーヤへは、口の達者な若者を二人組で立てた。
宗谷まで日本海沿いに北西へ進む、途方もなく長い道のりだ。秋のうちに辿り着けたとしても、帰りは完全に雪が解けてからになる。出発前夜、二人が全く同じ言葉を言えるようになるまで、ハルコルは繰り返し練習させた。道中で凍えそうになっても言葉を忘れないよう、何度も声に出して覚え込ませた。片方が忘れても、もう片方が補える。二人組にした理由は、それだけではない。長い北の氷の道を、決して一人で歩かせたくなかったのだ。
最後に、トカㇷ゚チへ向かう四人組の屈強な若者たちに声をかけた。険しい日高山脈を越える、この秋最後の機会だ。
「雪が根雪になる前に、必ず山を越えてくれ。向こうの首長殿に口で伝えること。この芋が何をするものか、疑うなら来年の秋まで待って確かめてほしいと。栽培の方法は、現地で泥だらけになって直接やって見せながら教えてくれ。それから他の使者たちと同じように、各地で取れる硬い石を集めて送ってほしいと頼んでくれ。日高山脈の東側の地層は、こちらとは違う未知の石が出るかもしれない」
ハルコルは一拍置いた後、声を一段と落として続けた。他の三組の使者にはない、この四組目だけへの言葉だった。
「もう一つだけ。……トカㇷ゚チの地には、地面や川岸の崖から『黒い石の層』が地表に露出している場所があると聞いたことがある。燃える黒い石だ。もしそれを見つけたら、少しだけでいいから持ち帰ってほしい。何に使うかは、向こうにはまだ言わなくていい。ただ、そういうものが本当に転がっているかどうかだけ、確かめてきてほしい」
「燃える黒い石……それが、何かの戦の役に立つんですか」
「まだ分からない。でも、持っていれば世界が変わる何かになるかもしれない」
それ以上の説明はしなかった。四人は顔を見合わせたが、深く頷いて東の険しい山道へ力強く踏み出していった。
最後の一人の背中が、朝もやの森の中に完全に溶けるように見えなくなるまで、ハルコルは土塁の上から動かなかった。
ミナが隣に並んで、白い息を吐きながら静かに言った。
「……うまくいくと思う?」
「分からない。でも、蒔かなければ何も始まらない」
「エモみたいに」
「そう、エモみたいにね」
使者たちが四方へ散った後の要塞は、急に静かになった。大きな祭りが終わった翌朝のような、充実した空虚さが広場に漂っていた。遠くの森で鳴く鳥の声が、いつもより澄んで遠くまで聞こえた。
(今日、種を蒔いた。エモという種と、全道を繋ぐ関係という種を。芽が出るかどうかは、これからだ)
彼らからの答えが返ってくるのは、全員、早くても雪解けの春になる。
それまでの長く過酷な冬を、ただ震えて待つのではなく、さらなる牙を研ぎ澄ませながら越えるのだ。
◆
それから間もなく、サㇽの森に初雪が降った。
はらはらと、音もなく。夜のうちにエモ畑の土の上に薄く積もり、朝になると巨大な要塞の土塁が真っ白に縁取られていた。昼に溶けかけた雪が、土塁の太い木柵に沿って細い水筋を作り、まるで大地が白い涙を流しているように見えた。
使者たちはまだ、誰も戻っていない。
ウタは今頃、石狩の広い低地をどこまでも歩いているだろう。枯れ草の原を、背中のエモの確かな重さを感じながら。ソウカはヨイチの冷たい海沿いの風に吹かれているか、あるいはすでにハチロウウエモン殿の前に座って静かに口を開いているか。ソーヤへ向かった二人は、もう北の果ての荒れる海が見えているかもしれない。トカㇷ゚チの四人組は、牙を剥く峠の雪に足を取られながら、必死に日高の山を越えているはずだ。
答えは、春になれば必ず返ってくる。
それまでの間、この大地は分厚く深い雪に覆われ、外の世界との行き来が完全に絶える。
しかし今年の冬は、ニプタイの巨大な蔵に、村人全員の命を繋ぐ十分な食料が眠っている。カントの研ぎ澄まされた巡回部隊が森を守り、地下ではカニタの工房の炉が落ちることなく、希望の火を燃やし続ける。
ハルコルは工房の前の切り立った岩場に腰を下ろし、暗く沈んだ夜空を見上げた。
西の方角――和人の地がある空を、しばらく見続けた。
(あと、四年だ)
歴史の真実を『知っている』ということが、これほどまでに重く苦しいとは思っていなかった。
前世では、知識は武器であり、生き残るための力だと信じて疑わなかった。今でもその信念は正しいと思っている。しかし、知識は同時に、決して下ろすことのできない見えない重荷でもあった。
数年後にこの大地を襲う血みどろの未来と絶望を知っているのに、それを一人で止める魔法などない。知っていることは時に、焦燥という名の呪いに変わる。
一人では抗えない。だから、備えることしかできない。
エモを全道に広める。同じ思いを抱く仲間を増やす。鉄を削る石を探す。炉の火力を上げる。武器を研ぎ澄ます。その泥臭い一つ一つの積み重ねだけが、いつか理不尽な歴史の暴力を打ち砕く意味を持つ。
「……ここにいた」
不意に背後から声がして振り返ると、ミナが赤々と燃える松明(たいまつ)を持って、岩場を登ってくるところだった。炎が冬の風に煽られて横に伸び、ミナの少し大人びた顔を下から温かく照らしている。
「工房を覗いたら、カニタさんが一人で石を叩いてたから。ハルコルは外かなと思って」
ミナが隣に腰を下ろした。松明の火が、二人の小さな影をゴツゴツとした岩肌に大きく揺らめかせる。
しばらく、二人は黙って暗い空を見上げていた。星が凍った川面に直接映りそうなほど、透明で近く感じられる夜だった。重い雪雲が風で切れ、冬の星座が息を吹き返したように白く鋭く光っている。
ミナが膝を抱え、白い息を吐きながら静かに言った。
「今年の秋……すごかったね。蔵が芋で埋まって、あの大きな祝宴(ウポポ)があって、嵐の夜に海から船まで来て」
ハルコルは黙って夜空を見ていた。ミナはゆっくりと続けた。
「難民の親子が、温かいエモ餅を食べて声を出して泣いてた。あの安心した顔、私、一生忘れられない。……それで同じ夜に、あの崖の下の暗がりでは、津軽の船と恐ろしい硝石を裏で取引してたんだよね。同じ秋に、光も影も、全部が起きた」
嬉しくないわけではない。腹を空かせていた子供が食べ物に飛びついた瞬間、炉の明かりの中でカニタが運び込まれた鉄塊に目をギラつかせた瞬間、確かに何かが胸の奥で熱く動いた。
しかし、その手応えの奥に、いつも『歴史の焦燥』という別の化け物が潜んでいる。備えが一つ整うたびに、次に備えなければいけない絶望の壁が見えてくる。終わりがないのだ。
(それを、僕はずっと一人で抱えている)
ミナがそれを問うた。重くないか、と。
重い、とハルコルは心の底から思った。しかし声に出す前に、ミナが静かに、だが確かな温度を持って続けた。
「じゃあ、話せばいいじゃない。全部じゃなくていいから。私でよければ、聞くよ」
その言葉が、ハルコルの胸の奥底に静かに落ちた。
深い井戸の冷たい水面に、小さな石が触れたような、小さくて確かな音がした。話したい、と思っている。自分が何に怯え、何と戦おうとしているのかを。しかし今は、未来の歴史の知識など、まだ話せないことの方がずっと多い。
それでも、誰かに「隣にいてもらうこと」は、全く別の救いの話だった。
「……一人で岩の上に座って空を見てる時は、声をかけていい?」
ハルコルは、前世の重圧を少しだけ下ろしたような顔で、小さく笑った。
「いいよ」
「じゃあ、今度からそうする」
二人の間に、穏やかで温かい沈黙が落ちた。サㇽ川の流れる音が、変わらず耳の奥に聞こえていた。
ハルコルは暗い空の一点を、しばらく見続けた。むき出しになった畑の黒い土の上に、初雪が静かに、ただ静かに積もっている。
しかしその冷たい雪の下には、来年の春を待つ黄金の種芋が確実に眠っている。今は何も見えない。しかし確実に、何かが命の息をしている。
(今日、種を蒔いた。エモという種と、関係という種を。芽が出るかどうかは、春になれば分かる)
あと四年。
その言葉は、今夜も声には出さなかった。ただ、隣にある温かい気配だけが、今世を生きる少年の心を静かに支えていた。
サㇽの川が、初雪の下で変わらず海へと流れていた。
第17話をお読みいただき、ありがとうございます!
おまけの解説コーナー。
今回は「石」にまつわる描写が登場しましたが、のちに開拓使が入る明治時代以降、北海道は「資源の宝庫」として日本の近代化を大きく支えることになります。
当時のアイヌモシㇼの大地に眠っていた、代表的な鉱物資源についての解説です。
【石炭】
北海道の石狩・空知・夕張などの地域は、世界的にも非常に良質な石炭が採れる巨大な炭田地帯として知られ、近代日本の産業革命を根底から支えるエネルギー源となりました。本格的な炭鉱開発が始まる以前の時代でも、川岸の崖などに地層がむき出しになった「露頭炭(ろとうたん)」が自然に転がっており、古くからその存在自体は知られていたようです。
【砂金】
17世紀の北海道(特に日高地方などの河川)は、空前のゴールドラッシュに沸いていました。松前藩の許可を得た大量の和人の「金掘り」たちが一獲千金を夢見て川に入りましたが、彼らが川底を掘り返して泥水を流したため、アイヌの生活基盤である鮭が遡上できなくなり、両者の間に激しい対立を生む大きな要因の一つとなりました。
【黒曜石(十勝石)】
北海道(特に遠軽町の白滝ジオパークや十勝地方)は世界有数の黒曜石の産地です。「十勝石」とも呼ばれるこの石は、ガラス質でカミソリのように非常に鋭く割れるため、旧石器時代から極上の矢じりや刃物として重宝され、海を渡って本州へも交易品として運ばれました。切れ味は抜群ですが、ガラスと同じく脆い一面もあります。
【硫黄】
火山大国である北海道は、硫黄の超大産地でもあります。特に道東の「アトサヌプリ(アイヌ語で『裸の山』、通称:硫黄山)」などが有名です。硫黄は古くから火薬やマッチなどの重要な原料であり、のちの時代には厳しい労働環境下での大規模な採掘が行われ、北海道開拓の歴史に深く関わっていくことになります。
【瑪瑙(めのう)】
北海道の日本海側の海岸(今金町や花露辺など)や河川では、瑪瑙(メノウ)などの美しく緻密な石英系の石が採取できます。これらは装飾品用途では十分な硬さがあり、磨けば美しい光沢を放つため、古くから勾玉などの装飾品として珍重されたほか、その硬さを活かした実用品としても利用されました。
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年度末で忙しく、
しばらくは週イチペースでいけたらいいなと思ってます。