オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~   作:サウス

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第21話:偽りの休戦と、鉛の雷鳴【1660年 夏】

 「チプを出せ! 対岸の味方を、一人でも多くこちらへ引き上げろッ!」

 

 むせ返るような夏の緑の匂いと、生ぬるい血の臭いが混じり合う、シペチャリ川の河口。

 アイヌモシㇼ東部を支配する大首長シャクシャインは、東岸の砦の丘陵から眼下の惨状を見下ろしながら、重い声で怒鳴り続けていた。

 

 サㇽの河口で起きた、西のオニビシ勢による奇襲。

 生き延びた兵たちは、背後から迫る足音に追われ、このシペチャリ川の西岸へとどうにか逃げ込んできた。だが、本拠地である砦は、豊かな大河を挟んだ東岸にある。

 

 「弓隊、矢をつがえよ! 渡河する味方の背を狙う敵どもを射抜け!」

 

 シャクシャインの号令で、東岸の柵の隙間から数百の強弓が一斉に西岸へ向けられた。

 東岸から往復する数十隻の丸木舟に、泥まみれの戦士たちが我先にと群がり、転がるように身を投げる。舟に乗り遅れた者は、冷たい川水に腰まで浸かりながら、縁にしがみついてでも泳ぎ出そうともがいた。

 

 だが、命を守るために着込んだ獣皮の鎧は、たっぷりと水を吸って鉛のような重さとなり、彼らの体力を容赦なく奪っていく。息が切れ、足が止まり、濁流に飲まれて沈んでいく者も少なくなかった。

 そこへ、西岸の砂地に、木々を薙ぎ倒すようにして姿を現したのが、オニビシの先陣部隊だった。

 

 オニビシの戦士たちは、川へ逃げ込もうとするシャクシャイン勢の背を見た瞬間、地鳴りのような咆哮を上げた。

 

 「逃がすな! 川に沈めろォッ!!」

 

 狂気に駆られたオニビシ勢は、手にした鉞を振りかざし、水しぶきを上げて浅瀬へ雪崩れ込んでいく。

 

 「俺たちが食い止める!!」

 

 舟に乗り遅れた数十人の若い戦士たちが、自ら殿となるべく川から引き返した。泥だらけの槍を構え、オニビシの戦士たちに正面からぶつかっていく。

 だが、凄まじい飢餓の執念を燃やすオニビシ勢の猛攻の前に、その抵抗は長くは続かなかった。

 和人から手に入れた分厚い鉄の鉞が振り下ろされ、骨の砕ける鈍い音が重なる。殿を務めた若者たちは次々と叩き割られ、シペチャリの清流はみるみる真っ赤に染まっていった。

 

 「……放てッ!!」

 

 悲痛な犠牲を見据えながら、味方が射程から離れたことを確認したシャクシャインの氷のような声が落ちる。

 弦が一斉に弾け、黒い雨のような矢の壁が西岸の浅瀬へ突き刺さった。

 

 「ぐあぁッ!?」

 

 川へ踏み込もうとしたオニビシの戦士たちが、次々と猛毒の矢の餌食となり、水柱を上げて倒れていく。さしもの狂犬たちも、東岸の強固な砦から放たれる圧倒的な弾幕の前には足を止めざるを得なかった。

 その矢の援護の合間を縫って、殿の犠牲によって生き延びた最後尾の丸木舟が、東岸の泥に乗り上げる。

 

 味方をすべて収容したのを見届けると、シャクシャインは川に浮かべていた舟をすべて丘へ引き上げさせ、西への連絡手段を完全に断ち切った。

 

 「……ここまでだ。ここから東へは、一歩も踏み入らせん」

 

 固く握りしめた拳から、ぽたぽたと血が滴り落ちていた。

 己の縄張りを不意打ちで奪われた屈辱。

 そして、勇敢な同胞を眼下で無惨に殺された怒り。

 その両方が、彼の腹の底でどす黒く煮え滾っていた。

 

 

 

 

 

 

 それから数刻後。

 シペチャリ川西岸の森が、ずしん、ずしんと重い足音に揺れた。

 サㇽの河口で略奪した物資で体力を回復させた西の覇王オニビシの本隊と、内陸のニプタイへの牽制を配下の一部に任せて駆けつけてきたウタフが到着したのである。

 

 「……ほう。これが噂に聞く、東のシャクシャインの巣穴か」

 

 軍勢の先頭に立ち、西岸の波打ち際まで歩み出たオニビシは、腕を組みながら対岸の巨大な砦を鋭く睨んだ。

 

 「義父上。敵の守りは固く、士気も衰えておりませぬ。あの川を強行突破すれば、我が軍も相応の血を流すことになります」

 

 ウタフの冷徹な進言に、オニビシは深い刀傷の刻まれた顔を歪め、禍々しい笑みを浮かべた。

 

 「あの砦を、真正面から無理に攻め落とす必要などどこにある? サㇽからこのシペチャリの河口までの広大な狩り場は、すでに我らのものだ」

 

 オニビシは川の流れを見下ろしながら、低く続けた。

 

 「ウタフよ。一隊を割いてこのシペチャリ川を遡れ。東岸へ渡る必要はない。この川の西岸を、取れる限りさらに上流まで我らの陣地として押さえ込むのだ」

 

 「西岸を、さらに上流まで、ですか」

 

 「そうだ。奴らをあの砦の窮屈な箱庭に閉じ込め、川を挟んで圧迫し続ける。見晴らしの良さそうな高台や、守りに適した場所があれば、そこに新たなチャシを築け。シペチャリの川沿いは、もはやすべて我らのものだと分からせてやれ」

 

 「御意。直ちに別働隊を差し向け、シペチャリの西岸一帯を我が軍の色に染め上げましょう」

 

 ウタフは即座に戦士を割いて上流へ向かわせた。

 一方、オニビシの本隊は河口の西岸に木々を切り倒して即席の陣を築き始める。

 

 こうして、河口付近では両軍を隔てるのは豊かなシペチャリの大河のみとなり、互いに矢を射掛け罵声を浴びせ合う膠着状態に陥った。

 その裏で、中流域ではオニビシ勢の一部が西岸を次々と制圧し、新たな砦を築いていく。

 シャクシャイン勢の勢力圏と誇りは、少しずつ、だが確実に削り取られていった。

 

 息の詰まる対峙が、じりじりと日を重ねる。

 

 

 

 

 

 

 一方その頃。

 蝦夷地の南の地、和人の支配する松前城――福山館の大広間は、蝦夷地の泥臭い戦場とは打って変わった、冷たく張りつめた空気に包まれていた。

 

 「……全く。あの蝦夷の毛むくじゃら共は、どこまで我らの手を焼かせれば気が済むのだ」

 

 名産の沈香がかすかに香る上座で、苛立たしげに脇息へ肘をついているのは、松前家の若き当主である。

 その眼下には、四人の武士が平伏し、額に脂汗を浮かべていた。

 サㇽからシペチャリにかけての交易権を握る知行主、小林甚五兵衛、蠣崎七郎右衛門、大内松兵衛、新田権之助の四名である。

 

 「お館様、申し上げます。オニビシとシャクシャインの抗争は、我らの想定を遥かに超えて泥沼化しております。シペチャリ川での睨み合いはすでにひと月を越え、現地の者たちは戦にかまけて全く漁に出ようとしませぬ」

 

 筆頭格の小林甚五兵衛が、震える声で報告する。

 

 「漁に出ないだと? 馬鹿なことを申すな!」

 

 当主は持っていた扇子を、ぱしりと畳へ叩きつけた。

 

 「貴様らの知行地からの交易のあがりが減れば、この松前の蔵が立ち行かなくなるのだぞ。日高の川に入らせている金掘りの者たちからは危なくて森に入れないと苦情が相次ぎ、幕府に献上する鷹を捕まえる鷹匠の働きすら鈍っておる。献上品が遅れれば、当家の面子に関わるのだぞ!」

 

 「申し訳ござりませぬ……! 奴らの怒りは深く、我らの使者の言葉にも耳を貸そうとしませぬ」

 

 「ええい、口ばかり達者な奴らめ。ならば船を出せ! 足軽を乗せてシペチャリへ向かい、あの野蛮な蝦夷どもを力ずくで黙らせてこい! 我らの商売を邪魔する者は許さんとな!」

 

 当主の激しい叱責に、四人の知行主たちは「ははっ!」と深く頭をすりつけ、逃げるように大広間を後にした。

 

 

 

 

 

 

 シペチャリ川での膠着状態から、ひと月半が過ぎようとしていた。

 両軍の疲労もピークに達し始めたある日の昼下がり、その息の詰まる対峙は、突如として海の方角から断ち切られた。

 

 「……なんだ、あれは?」

 

 東岸の物見櫓にいたアイヌの戦士が、海を指差して呆然と呟いた。

 シペチャリの河口に、アイヌの丸木舟とは比較にならないほど巨大な和人の船、弁才船が三隻、荒波を蹴立てて姿を現したのだ。

 太い帆柱。ギシギシと軋む巨大な船体。側面に張り巡らされた分厚い木の盾。

 松前の家紋が描かれた旗が、風を受けて激しく翻っている。

 

 松前藩の船は、両軍を分断するように、河口中央へ堂々と錨を下ろした。

 

 次の瞬間。

 甲板に整列した十数人の足軽たちが、構えた鉄の筒の火縄に一斉に火をつける。

 赤い火種がちりと燃え上がったかと思うと――。

 

 ――ズダダダダダダダダダダダァンッ!!!

 

 夏の空を引き裂くような、凄まじい鉛の雷鳴。

 十数丁の火縄銃による一斉射撃の轟音がシペチャリの谷に木霊し、両岸の近くの水面に無数の水柱が狂ったように立ち上った。

 一拍遅れて、風に乗って鼻を突く硝煙の強烈な匂いが広がる。

 

 「ヒィィッ……! カムイの雷だ……!」

 

 弓しか持たない両岸のアイヌの戦士たちは、その圧倒的な破壊音と、見たこともない白煙にパニックを起こし、耳を塞いで次々と泥の上に這いつくばった。

 シャクシャインも、そして西岸のオニビシでさえ、その威容を睨みつけることしかできない。

 

 (なんという……ふざけた力だ)

 

 己が生涯をかけて鍛え上げてきた肉体も、猛毒の矢も、誇り高い戦術すらも、あの鉄の筒の前では意味をなさない。

 これまでのアイヌ同士の血みどろの死闘が、まるで箱庭の子供の喧嘩であったかのように矮小化される。

 戦士としての根源的なプライドが、音を立てて砕かれていく。

 

 やがて、小舟に乗った完全武装の和人の武士たちが次々と上陸し、有無を言わせぬ威圧感で両軍の大将を河口の砂浜へと呼びつけた。

 

 

 

 

 

 

 「……いやはや。今年の鮭は型が小ぶりだと聞いていたが、これでは商いにならんぞ」

 

 「昆布の干し加減も酷い有様だ。蝦夷どもが戦ばかりしているから、質が落ちるのだ」

 

 砂浜に床几を並べ、アイヌの両大将を虫けらのように見下ろして世間話をしているのは、松前城で叱責を受けていた四人の知行主たちだった。

 

 「さて、オニビシ殿、そしてシャクシャイン殿。我らは貴様らの喧嘩の仲裁に来たのではない。『我らの商売の邪魔になるから、今すぐ戦をやめろ』と命じに来たのだ」

 

 小林甚五兵衛が、苛立たしげに扇子で膝を叩く。

 

 「……ふざけるな! 我らの領地を奇襲で奪われたのだ! 引けるわけがなかろう!」

 

 シャクシャインが血走った目で一歩前に出た。

 しかし、蠣崎七郎右衛門が冷酷な笑みを浮かべてそれを遮る。背後の足軽たちが、ちゃきりと音を立てて火縄銃の筒先を彼らへ向けた。

 

 「黙りなされ。蝦夷の領地など我らの知ったことか。……これ以上戦を続けると言うなら、我々知行主の権限をもって、オニビシ、シャクシャイン両陣営への一切の交易を永遠に打ち切る。鉄も、木綿も、酒も、米もだ。それでもやり合うおつもりか?」

 

 ぴたりと、砂浜の空気が凍りついた。

 一切の交易の打ち切り。

 それは、和人の物資に完全に依存しているアイヌにとって、一族の緩やかな死を宣告されたのと同じだった。

 

 オニビシは忌々しげに舌打ちし、シャクシャインは歯を食いしばり、ぎりぎりと奥歯から血が滲むほどに噛み締めた。

 どれほどアイヌの中で強大な権力を誇ろうと、巨大な和人の軍船と、同時に火を噴く鉄砲と、そして経済という首輪を握られている以上、彼らは無力な存在にすぎない。

 

 「……よかろう。休戦の儀、お受けする」

 

 誇り高き大首長たちが、理不尽な和人の力の前に屈服させられた瞬間だった。

 

 「おお、話が分かって助かる。では、このシペチャリ川を両者の新たな境界と定めよ」

 

 大内松兵衛が懐から一枚の紙を取り出し、砂浜に広げた。そこには和人の文字がびっしりと書かれている。だが、アイヌの彼らに読めるはずもない。

 

 「我ら四人が証人としてこの和議を見届けよう。さあ、さっさとこの証文に指印を押し、兵を引け。和人のやり方に従ってもらおうか。川へ入って砂金掘りの手伝いと鮭を獲る準備を急げ。我らとの交易が滞ることは許さんぞ」

 

 シャクシャインとオニビシは、屈辱に震える指先を朱肉に浸し、中身も分からない和紙へ無理やり指印を押させられた。

 アイヌの誇りが、和人の泥靴の下で完全に踏み躙られたのだった。

 

 

 

 

 

 

 「……首尾よく収まったようだな」

 

 数日後、松前城の奥の間。

 風流な庭の池を眺める当主の背後で、藩の屋台骨を支える家老が、低くしゃがれた声で報告を終えた。

 

 「はっ。両大将に和議の証文へ指印を押させ、兵を退かせました。これで砂金掘りも漁も再開され、我らのあがりが減る心配もござりませぬ」

 

 「ふん。アイヌの野蛮人どもめ、身の程をわきまえよという話だ。……だが、これで良かったのだ。適度に争わせて互いの力を削ぎ、最後は我らが武力と兵糧攻めの脅しで首根っこを押さえる。これでしばらくは、あ奴らも我らの言うがままにできよう」

 

 当主は、運ばれてきた上質な茶を満足げにすすった。

 アイヌを生かさず殺さず、互いに争わせて疲弊させ、和人に依存させる。

 それが、松前家が蝦夷地を支配するための最も冷酷で、最も効率的な盤面であった。

 

 「……ただ一つ、気がかりなことがござります」

 

 家老が、わずかに眉をひそめた。

 

 「サㇽの川を遡った内陸……ニプタイという地のコタンでございます」

 

 「ニプタイ? ああ、オニビシの婿が海を塞いで兵糧攻めにしているという狸どものことか」

 

 「はい。不可解なことに、あのコタンの者たち……海を塞がれ、和人の物資が絶たれているにもかかわらず、一向にオニビシに降る気配がありませぬ。それどころか、オニビシの軍勢でさえ近づけないほど、異様な堀と柵を巡らせているとか……」

 

 「放っておけ。海が使えねば、いずれ塩も鉄も尽きる。どれほど立派な柵を作ろうと、我ら和人の力なしに蝦夷の村が生き残れるはずがなかろう」

 

 当主は鼻で笑い、それ以上興味を示すことはなかった。

 絶対的な武力と、経済による支配。

 蝦夷地のすべてが彼らの掌の上で踊らされていると、和人たちは信じて疑わない。




第21話をお読みいただき、ありがとうございます!

最新の勢力図もあるので良ければどうぞ。

【挿絵表示】



そして、おまけの解説コーナーです。

【商場知行制(あきないばちぎょうせい)】
一般的な江戸時代の大名や武士は、領地とそこから獲れる「お米(石高)」でお給料をもらっていました。しかし、寒冷な蝦夷地(北海道)ではお米が育ちません。
そこで松前藩は、家臣たちに領地を与える代わりに、「特定の地域のアイヌと独占的に交易して利益を出す権利(商場)」を与えました。これが商場知行制です。

【史実に基づく知行主(ちぎょうぬし)たち】
本編に登場した松前藩の武士たちは、17世紀半ばに実際に各地域の商場(交易権)を任されていた実在の歴史上の人物たちです。

小林甚五兵衛: サㇽ(沙流)、門別、ケノマエの知行主

蠣崎七郎右衛門、大内松兵衛、新田権之助: シペチャリ(静内)、捫別の知行主

史実においても、彼ら松前藩の使者がシャクシャインとオニビシの間に強引に割って入り、和議(休戦)を結ばせた記録が残っています。

【砂金と松前藩の特産品(鷹)】
当時の日高地方(サㇽ〜シペチャリ川周辺)は、全国から一攫千金を夢見る和人の「砂金掘り」が押し寄せるゴールドラッシュの地でもありました。また、蝦夷地で捕獲される良質な鷹(オオタカやハヤブサ)は、将軍家(江戸幕府)へ献上するための最重要交易品です。

【松前藩の所有する船】
松前藩が所有したのは、北前船と同じ船型の弁才船です。参勤交代の際には御座船の艤装をほどこしました。これらの船は、普段は城下の商人にあずけられ、商品の運搬に使用されていました。有事の際は、船べりに盾をめぐらせ軍船に仕立てていたとされています。



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