オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~ 作:サウス
第23話:火花と天秤、そして黒い石【1660年 冬】
外は、視界を白く塗り潰す猛吹雪だった。
アイヌモシㇼの冬は、命を試す。北の大地から吹き荒れるウパㇱルイ(猛吹雪)は木々の枝を折り、獣たちの足跡を一晩で消し去る。一歩外に出れば氷の刃が頬を切り裂き、吸い込んだ空気は肺の奥まで凍りつく。方角も、天地の境も、何もかもが白に呑まれる。
これまでのアイヌにとって、冬とはすなわち「死と隣り合わせの耐え忍ぶ季節」だった。雪に閉ざされたコタン(村)では、秋の間に蓄えたわずかな干し鮭や木の実を少しずつかじり、ただひたすらに寒さに震えながら春を待つ。蓄えが底を突けば、女子供から順に痩せていく。それが、この大地の理だった。
だが、もうニプタイは違う。
分厚い茅葺きの屋根と雪の壁に覆われた巨大なチセ(家)の中は、外が嘘のような穏やかさに満ちていた。
パチ、パチパチ、と。
中央に切られた囲炉裏では、薪が赤々と燃えている。天井の棚に吊るされたサッチェプ(干し鮭)の脂がじわじわと溶けて、香ばしい匂いを漂わせていた。火の周りでは、男たちがイクパスイ(捧酒箸)や木彫りの椀を彫りながら低い声で笑い合い、女たちはアットゥㇱ(樹皮衣)の糸を縒りながら、ゆったりと言葉を交わしている。子供たちは寒さに震えることなく、チセの広い土間を走り回っていた。
彼らの腹を満たしているのは、備蓄蔵に山のように積まれたエモ(じゃがいも)だった。
エモを刻んで煮込んだ温かいオハウ(汁物)。干し肉と大豆を加えた濃厚な鍋。乾燥させて砕いたエモの粉を練り上げた餅。冬の飢えに怯える顔は、このチセのどこにもなかった。去年の秋、ハルコルの計画通りに積み上げられた備蓄は、コタンの全員が春まで食べてなお余るほどの量だった。
ミナが欠かさず更新している帳簿の木札には、消費量と残量が炭で記されている。それは、まだ十分な余裕があることを示していた。
「……よかった」
ハルコルはチセの入り口の筵をくぐり、外套に積もった雪を払いながら、つぶやいた。
(今年の冬も、誰一人欠けることなく春を迎えられる)
走り回る子供たちを避けながら囲炉裏の脇を通り過ぎ、奥に座っているミナのそばで足を止めた。ミナは膝に板を置き、炭の筆を舐めながら何かを書き込んでいる。
「今日の分は」
「昨日より少し消費が増えた。でも想定の範囲内よ。このペースなら、雪解けまで一月を超える余裕がある」
ミナが板を傾けて見せた。ハルコルはそれを一瞥して頷いた。
「十分だ。……これから工房に行ってくる。カニタに用がある」
「また工房?」
「うん。今日、試すことがある」
ミナが顔を上げた。何を試すのか問いたげな目だったが、ハルコルはそれ以上は言わずに立ち上がった。
◆
チセを出て、夜の冷気の中を歩く。チセの集まる区域を離れ、山際へと続く細い道を辿った。
積もった雪を踏む音だけが、暗い森に響く。吐く息が白く凍り、すぐに闇に溶けた。
やがて、岩山の斜面にくっつくようにしてある工房が見えた。漏れる赤い光と、微かな鉄の匂い。
カニタの工房。
村の中心から離れた山際の端──この空間は、外の天候に一切左右されないようにチセとは違いさらに強固に造ってある。天井は低く、山側の壁は岩と土が剥き出しのまま。だが炉の熱が溜まり、石の壁が汗をかいていた。煤と鉄粉の匂いが空気に溶け込み、一歩足を踏み入れただけで肺が重くなる。ここはカニタだけの世界であり、ニプタイの「牙」を研ぎ続ける心臓部だった。
「おう、ハルコル様。待ってましたぜ」
カニタが炉の前で立ち上がった。額には汗が滲み、腕は煤で真っ黒だった。だが目だけが、異様なほどぎらぎらと輝いている。鍛冶師が何かを掴みかけている時の目だ。
「見てくだせえ。ついに見つけましたよ」
カニタが作業台の前に駆け寄った。
そこには、これまで試してきた石の欠片が並んでいる。黒曜石、日高のチャート、トカプチの石英、イシカㇼの河床石──どれにもカニタが刻んだ結果の印がついていた。印はそれぞれ「弱い」「惜しい」「不安定」を示す。その木札の列の一番端に、新しい石が一つだけ、別にして置かれていた。
半透明で、淡い乳白色。炉の光を受けると、奥に赤い光を透かすように映す。
「ヨイチの瑪瑙(めのう)でさあ。ソウカが海辺で拾い集めてきたやつですよ」
カニタが石を手に取り、指先で表面を撫でた。
「見た目は地味ですがね、こいつの硬さは段違いだ。和人の小刀を当てたら、逆にこっちの刃が欠けちまった。日高のチャートとは、もう格が違う」
「どうやって形を整えた」
「鹿の角と、別の硬い石を使って、少しずつ割りました。叩いて削るんじゃねえ。石の目を見極めて、薄く鋭い形に割り出す。俺たちの先祖が矢じりを作った時と同じやり方でさあ。……何度も割り損ねましたけどね」
工房の隅に、砕けた瑪瑙の欠片がいくつも転がっていた。失敗の数だけ、カニタの手が覚えたことがある。
「それで、肝心の火花は」
「今から見せますよ」
カニタが整形した瑪瑙の欠片を左手に握り、右手に鉄の棒を構えた。
これまで何十回と繰り返してきた動作。石を鉄に打ちつけ、火花を見る。黒曜石ではほとんど光らなかった。チャートでは晴れた日にかろうじて散った。だが雨の後には全く機能しなかった。
カニタが、瑪瑙を鉄に打ちつけた。
バチンッ!
これまでのどの石とも違う、鋭く乾いた音。
その瞬間、鉄の表面から弾け飛んだ微細な粒子が空中で燃焼し、眩い白い火花がパァッと散った。一つや二つではない。無数の火花が放射状に飛び、暗い工房の壁を一瞬だけ昼のように照らした。
チャートの時の、頼りない線香花火とは全く違う。力強く、鮮明で、確信を持てる火花だった。
カニタがもう一度打った。
バチンッ!
同じ火花。同じ強さ。揺るぎない再現性。
「……これだ」
ハルコルの声が、わずかに震えた。
「これが、僕が探していた石だ」
カニタが瑪瑙を掲げた。炉の赤い光が、半透明の石の奥で静かに揺れている。
「チャートの時は『惜しい』で止まった。でもこいつは違う。何度打っても石の方が負けねえ。鉄を削って、鉄の粉を燃やしてる。……ハルコル様が言ってた通りだ。鉄より硬い石ってのは、こういうことだったんですね」
「ああ。これなら安定して使える。雨の日も、雪の日も」
ハルコルは瑪瑙の欠片を手に取り、指で表面を撫でた。
(ヨイチの瑪瑙。微結晶質石英。……これで、最大の障壁が一つ消えた)
だが、その先をカニタに語るのは、まだ早い。この石が何のために必要なのか──その全容を明かす時は、もう少し先だ。
「カニタ、この瑪瑙をもっと取り寄せよう」
「ソウカに聞いたところじゃ、海辺にいくらでも転がってるそうですよ。次の使者にまとめて持ち帰らせりゃ、いくらでも手に入る」
「よし。春になったら、まとまった量を確保する。……大事に使う石だ」
「何に使うんですか」
「今はまだ言えない。でも、いつか必ずカニタの腕が必要になる。その時に、全部話す」
カニタはしばらくハルコルの顔を見つめていたが、やがて静かに頷いた。
「……分かりました。俺は待ちますよ。ハルコル様が話してくれる時まで、この石の扱い方をとことん覚えておきます」
瑪瑙の欠片を丁寧に布で包み、作業台の奥にしまった。試行の木札の列に、新しい一枚が加わる。「瑪瑙。ヨイチ産。極上。採用」。
「さて、カニタ。今日の本題はこっちだ」
ハルコルが工房の奥へ歩き、布を被せてあった巨大な装置の前に立った。
工房の半分を占めるほどの大きさ。巨大な長方形の木箱の上に、シーソーのような長い踏み板が据えられている。踏み板の両端には革の蝶番が取り付けられ、箱の内部から土管が炉の方角へと伸びていた。カニタの腕と、村の屈強な男たちの手を借りて、この冬の間に組み上げた、全く新しい送風装置だった。
ハルコルが布を一息に引き剥がす。
ばさり、と布が土の床に落ちた。
(天秤鞴。出雲の鍛冶師たちがこれを完成させるのは、まだ数十年先の話だ。……だが、僕らが先に作ったところで、誰にも文句は言われない)
「カニタ。今まで使っていた革鞴(かわふいご)の問題を覚えてるか」
「嫌ってほど。引く時に風が止まる。いくら必死に手で動かしたって、押す時にしか風が出ねえ。そのたびに炉の温度がガクンと落ちちまう。それがずっと壁でさあ」
「この天秤鞴(てんびんふいご)は違う。板の右端を踏めば左の箱が空気を押し出す。左端を踏めば右の箱が空気を押し出す。つまり──」
「……踏み続ける限り、風が途切れねえのか」
カニタの目が変わった。
半信半疑のまま、踏み板に足をかけた。左に体重を乗せる。
ギィ、と板が沈む。
バコンッ、と箱の蓋が跳ね上がる。
炉に繋がった土の羽口(はぐち)から──
ゴォォォォッ!
嵐のような風が吹き出し、炉の残り火が爆発的に燃え上がった。赤い火が一瞬で白に近い色に変わり、すさまじい熱波が工房を満たした。
「うおっ──!」
カニタが悲鳴を上げて飛び退いた。頬を焦がすほどの熱が、数歩離れた場所まで押し寄せてくる。炉の中で、木炭が白い光を放ちながら灰になっていく速度が、これまでとは比較にならなかった。
「な、なんだこの風は……!」
カニタが腕で顔を覆いながら、それでも目だけは炉から離さなかった。職人の目だった。温度を見ている。火の色を読んでいる。
「……すげえ。こいつはすげえぞ、ハルコル様。この色は……今までの炉じゃ、見たことがねえ」
「木炭でも、風を送り続ければ千度を超える温度が出る。砂鉄を鉄に変えるには、これくらいの熱がいるんだ」
「砂鉄……?」
カニタの動きが止まった。
「春になったら、サㇽの川底に沈んでいる重くて黒い砂を集めてほしい。砂鉄だ」
その一言で、カニタは全てを理解した。鍛冶師として長年鉄と向き合ってきた男が、「砂から鉄を生み出す」という途方もない言葉の意味を、一瞬で飲み込んだ。
「……俺たちの手で、鉄を作るってことですか」
「そうだ。和人から買い叩かれた古釘や割れ鍋じゃなく、自分たちの川から、自分たちの手で、この炉で鉄を生み出す」
アイヌが自ら鉄を作る。
それは、和人が百年以上かけて築いてきた「鉄の支配」からの、完全な脱却を意味していた。
カニタの喉が鳴った。
「……だが、ハルコル様。この炉じゃ、まだ足りねえ」
「分かってる」
「今の炉は、俺が一人で掘って土を固めただけの野鍛冶の炉だ。古釘を叩き直すにゃ十分でも、砂鉄を溶かすとなりゃ話が違う。炉の壁が熱に耐えられねえ。崩れちまう」
「だから春になったら、炉そのものを作り直す。工房とは別に製鉄のための場所を造る。炉は粘土で壁を厚く積み上げて、地面からの湿気を遮断する床を敷いて、羽口の位置も変える。……本格的な製鉄炉だ」
カニタの目が、さらに変わった。野鍛冶としてではなく、製鉄師としての目になっていた。
「羽口の位置を変える……。今は横から突っ込んでるだけですが、もっと下に据えて、砂鉄が溜まる場所に直接風を送り込むってことですか」
「その通りだ。さすがだな、カニタ」
「いや……炉の前に座り続けてりゃ、嫌でも見えてくるもんがあるんですよ。今の炉の弱え場所は、俺が一番よく知ってる」
カニタは炉の壁に手を当てた。黒く煤けた土壁の表面が、長年の熱で罅割れている。ところどころ、前の冬に塗り直した跡が見えた。この壁が、カニタの戦いの歴史そのものだった。
「春を待ちましょう。雪が溶けたら、川底の砂鉄と、粘土を集める。炉を、一から作る。……それまでの間に、俺は設計を考えておきますよ」
「頼む」
「もう一つ、見せたいものがある」
ハルコルは作業台の隅に置いてあった木箱を引き寄せ、蓋を開けた。中には、拳ほどの大きさの真っ黒な石の塊がいくつも入っていた。
「トカプチから集めたものだ」
カニタがその石を一つ手に取り、指先で表面を撫でた。黒く、鈍い光沢がある。持ち上げると、木炭よりずっしりと重い。
「こいつが……あの燃える黒い石か。少ししかねえが」
「ああ、量はまだ少ない。だからこそ今のうちに、こいつの正体を確かめておきたい」
「正体?」
「この石には、大きな可能性がある。だが同時に、そのまま炉に放り込んだら厄介な問題を起こす。……試してみよう」
ハルコルは石炭の欠片を一つ、炉の端に転がした。熱で表面が焦げ始めると同時に、ツンと刺す臭いが立ち上った。卵が腐ったような、胃の底を突く不快な臭い。
「ゲホッ……! なんだこりゃ、ひでえ臭いだ」
「それが硫黄だ。石炭の中に含まれている毒だよ。この硫黄が鉄に混じると、鉄が脆くなって使い物にならなくなる。だから生のまま鍛冶に使うのは駄目だ」
「……道理で。和人の古釘を鍛え直してた時にも、たまにわけの分からねえ脆さの鉄に当たることがあった。あれも、こういう毒が混じってたのかもしれねえ」
「可能性はある。……でも、この毒を抜く方法がある」
ハルコルは石炭をいくつか砕いて小さな土鍋に入れ、上から練った泥を塗って隙間を塞いだ。わずかに空気が通る穴だけを一つ残し、それを炉の端に置いた。
「空気を遮断して、ゆっくりと蒸し焼きにする。そうすると、石炭の中の硫黄や余計なものが煙になって抜け出る。残ったものは、元の石炭より軽くなるが、はるかに強い火力を持つ燃料に変わるんだ」
しばらく待った。
土鍋の僅かな穴から、シューッという音と共に黄色味がかった煙が噴き出し始めた。同時に、べっとりとした黒い液体が穴から滲み出てくる。
「うわっ……また来た、あの臭え煙!」
カニタが鼻をつまんだ。だが今度は飛び退かなかった。職人の目で、煙と黒い液体の両方を観察している。
「ハルコル様、この黒いドロドロは何です」
ハルコルは木の棒で黒い液体をすくい取り、石の上に垂らした。粘り気のある、真っ黒な液体。異様な臭いを放っている。
(コールタールだ。石炭の乾留で出る副産物。……防腐剤や防水剤として使われる)
「これも石炭から出てくるものだ。まだ何に使えるか分からないが、捨てるな。別の器に集めて取っておいてくれ」
「使えるか分からねえのに取っておくんですか」
「この手のものは、後で使い道が見つかることが多い。木に塗れば腐りにくくなるかもしれないし、水を弾くかもしれない。……試す価値はある」
カニタは怪訝そうな顔をしたが、言われた通りに木の椀で黒い液体を受け始めた。
やがて黄色い煙が出尽くし、土鍋が冷めた。
泥を割って中身を取り出す。元の石炭より一回り小さく、軽くなった灰色がかった黒い塊。表面には無数の小さな穴が空いている。
「触ってみてくれ」
カニタが手に取った。
「……軽い。元の石よりずっと軽いのに、叩いた感じは固い。妙な石ですね」
「それを炉に入れてみよう。天秤鞴と一緒に」
蒸し焼きにした石炭──コークスを炉に投じ、カニタが天秤鞴を踏んだ。
ゴォォォ、と風が送り込まれる。
コークスに火が移った瞬間、木炭とは明らかに異なる、青白い炎が立ち上がった。温度の上がり方が、段違いに速い。
「おお……! こいつは、木炭よりもっと──」
「ああ。毒を抜いた石炭は、木炭をはるかに超える温度を出す。……ただし」
ハルコルは炉の火を見つめながら、静かに続けた。
「今すぐこれを製鉄に使うわけじゃない。トカプチからの石炭はまだ少ない。大量に採れるようになるまでは、木炭で十分にやれる。天秤鞴の風力があれば、木炭だけでも砂鉄から鉄を作る温度には届く」
「じゃあ、なぜ今これを試したんですか」
「将来のためだ」
ハルコルは炉から目を離さずに言った。
「製鉄には、膨大な量の木炭がいる。木炭を作るには木を伐る。木を伐りすぎれば、森が死ぬ。森が死ねば、獣がいなくなり、川が枯れ、この大地そのものが痩せていく」
カニタの表情が変わった。鍛冶師として、木炭の消費量は身に染みて分かっている。一本の刃物を鍛えるのに、どれだけの炭を焼き、どれだけの木を倒すか。
「……なるほど。いつか森を守るために、木炭の代わりにこいつを使う日が来るってことですか」
「そうだ。だから今のうちに、蒸し焼きの方法と、あの黒い液体の性質を確かめておきたかった。石炭が十分に手に入るようになった時に、すぐに切り替えられるように」
カニタはコークスの欠片を指で弾いた。カツン、と硬い音がした。
「……先のことまで考えてやがる。いつものことですがね」
「先のことを考えるのは、僕の仕事だ。今の火を守るのが、カニタの仕事だよ」
「へっ、言ってくれますね」
カニタが笑った。だが目は笑っていなかった。職人として、新しい素材を手にした時の、あの底光りする真剣さがあった。
「整理させてくだせえ、ハルコル様」
カニタが作業台に両手をつき、言った。
「ヨイチの瑪瑙で、今までの石ころとは段違いの火花が出た。これが、ハルコル様が探してた石だ」
一つ目。
「天秤鞴で、革鞴とは比べもんにならねえ風が出る。木炭でも、砂鉄を溶かす温度に届く」
二つ目。
「トカプチの石炭を蒸し焼きにすりゃ、毒が抜けて木炭を超える燃料になる。ただし量がまだ足りねえから、当面は木炭で進める。石炭は将来の備えだ」
三つ目。
「春になったら、サㇽの川底の砂鉄を集めて、炉を粘土で一から作り直して、自分たちの手で鉄を作る」
四つ目。
カニタは顔を上げた。
「……全部、この大地にあるものばかりだ。和人から恵んでもらうもんは、一つもねえ」
「そうだよ。全部、この足の下にある」
「ハルコル様。あんた、いつからこれを考えてたんですか」
「エモを植えたときから、ずっと」
「……そうかい」
カニタは深く息を吐いた。
「もうこの全部が頭の中にあったってわけだ」
「いや、僕の頭にあったのは絵だけだ。それを形にしたのはカニタだよ。瑪瑙の目を読んで割ったのも、天秤鞴の蝶番を何度も直したのも、全部カニタの手だ。絵だけじゃ、何も動かない」
カニタは何も言わなかった。ただ、作業台の奥の瑪瑙の包みをそっと手に取り、掌の中で重さを確かめた。
「……春が待ち遠しいですよ、ハルコル様。こんな冬は初めてだ。春が来るのが、怖くねえどころか、楽しみでしょうがねえ」
◆
工房を出ると、夜の冷気が一気に肌を刺した。山際から居住区域へ戻る細い道を、雪を踏みしめながら歩いた。
チセに戻ると、囲炉裏では変わらず薪がパチパチと燃えていた。子供たちはもう眠りにつき、大人たちも静かに毛皮にくるまり始めている。
ハルコルは囲炉裏の端に座り、火を見つめた。
ペカンクㇽが、いつの間にか隣に座っていた。
「工房で、カニタと何を話していた」
「新しい送風の仕組みが完成したよ。春になれば、次の段階に進める」
「次の段階とは」
「自分たちの手で、鉄を作る」
ペカンクㇽは腕を組んだまま、しばらく何も言わなかった。炉の火が、二人の間でパチリと爆ぜた。
「……鉄を作る、か」
その一言に、驚きはなかった。息子がどこに向かっているか、この父は最初から分かっていた。分かった上で、黙って見守っていたのだ。
「和人が絶対に手放さないものだな」
「そう。鉄がある限り、彼らはいつでも僕らの首根っこを押さえられる。鉄鍋ひとつ、小刀ひとつを、向こうの言い値で買わされ続ける。……その鎖を、断ち切る時が来た」
ペカンクㇽが太い腕を組み直した。
「必要なものは」
「川底の砂鉄。それを集める人手。炉を作り直すための粘土。あとは時間。失敗を重ねて、少しずつ質を上げていく時間」
「人手は出す。時間は、エモがある限り、いくらでもある」
それだけだった。
ペカンクㇽは立ち上がり、チセの奥へと歩いていった。
◆
深夜。
村が寝静まった後、ハルコルは一人で要塞の土塁の上に立った。
吹雪は少しだけ弱まり、雲の切れ間から星がちらちらと覗いていた。白い息が暗闇に溶けていく。
足元の雪の下に、エモが眠っている。備蓄蔵の中で、来年の種芋が静かに春を待っている。そして山際の工房では、カニタの炉が今も赤い光を放ち続けているはずだ。
(瑪瑙が見つかった。天秤鞴が動いた。コークスの製法も確認できた。……春になれば、炉を作り直して、砂鉄から鉄を作る。最初は豆粒ほどの塊かもしれない。でもその一粒が、和人に握られてきた鉄の鎖を断ち切る最初の刃になる)
(だが、間に合うか)
西の空を見た。有珠山のある方角。今は何の変哲もない、凍りついた夜空の一角。
(あと三年で、あの山が目を覚ます。そしてその六年後に──。それまでに、少なくとも鉄の自給を確立しなければならない。)
風が強くなった。星が雲に隠れ、また白い闇が押し寄せてくる。
ハルコルは両手を擦り合わせ、白い息を吐いた。
(焦るな。だが、止まるな)
「ここにいた」
背後から、聞き覚えのある声。
振り返ると、ミナが毛皮の外套を肩にかけて立っていた。手に湯気の立つ木椀を持っている。
「エモのオハウ。まだ温かいうちに」
「……ありがとう」
受け取った椀から、じゃがいもと干し肉の匂いが立ち上る。両手で包むと、凍えた指先にじわりと熱が戻った。
ミナが隣に立ち、同じ方角の空を見上げた。
「カニタさんのところで、何ができたの」
「いろいろ。……鉄を、自分たちで作る準備ができた」
「鉄を?」
「春になったら、炉を一から作って、川底の砂から鉄を取り出す。……たぶん、最初は何度も失敗する」
「じゃあ、帳簿の項目が増えるわね。砂鉄の採取量、木炭の消費量、炉の稼働記録……全部、数字で追わなきゃいけない」
ハルコルは少し笑った。
「頼むよ」
「頼まれなくてもやるわよ。……それが私の役割だもの」
二人の間に、穏やかな沈黙が落ちた。
吹雪の音が遠くなり、また近づいてくる。川の音は雪の下に埋もれて聞こえない。だが確かに、氷の下を流れ続けている。
オハウを一口すすった。温かかった。この温かさは、四年前にはなかったものだ。エモが根付く前、この村の冬に常に温かい汁物などなかった。
(四年かかった。エモが根付き、蔵が満ち、仲間が増えるのに。……次は、三年で鉄を手にいれ、間に合わせる)
空の椀をミナに返した。
「もう寝なよ。明日もあるだろう」
「あなたこそ」
「もう少しだけ」
ミナが去った後、ハルコルはもう一度だけ西の空を見上げた。
星は見えなかった。
だが、山際の工房で、カニタの炉が燃え続けていることだけは、確かに知っていた。
吹雪の音だけが、世界を覆っていた。
その下で。
アイヌモシㇼの真の独立を支える炎が、誰の目にも触れることなく、静かに、しかし確かに燃え続けていた。
第23話をお読みいただき、ありがとうございます!
おまけの解説コーナーです。
【天秤鞴(てんびんふいご)】
鉄を作るためには、木炭を爆発的に燃焼させるための「絶え間ない風」が不可欠です。
シーソー型の送風機『天秤鞴』は、史実では1691年(本作の舞台から約30年後)に、日本の製鉄の本場である出雲国(現在の島根県)で発明されたとされる画期的な装置です。
踏み板の左右を交互に踏むだけで、押しても引いても空気が途切れることなく炉へ送り込まれます。
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