オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~ 作:サウス
ざわ、ざわ、と。
風が、大地を撫でていた。
ニプタイの畑を覆う緑の波が、夏の風に揺れている。手前の広い畝にはエモの葉が力強く茂り、その奥──最初に切り拓いた第一圃場だけが、色の違う緑に覆われていた。大豆の葉が重なり合い、陽の光を受けて深い翠色を湛えている。根の先では、目に見えない小さな粒──根粒菌が、空気の中から窒素を吸い込んで土に還している。
第一圃場だけが、輪作二年目に入っていた。
十一歳になったハルコルの背丈は、ひと冬でまた少し伸びた。母が頭に手を乗せる時、以前のように腰をかがめなくなっている。だが体つきはまだ少年のそれで、腕も脚も細い。カントに「もう少し肉をつけろ」と何度言われたか知れない。
それでも、声にはすでに低い芯が通り始めている。この夏、彼の声は以前より確実に深くなった。
春に生まれた最初の鉄は、十度目の炉入れを越えてから着実に積み上がり始めている。一回の製鉄で握り拳ほどの塊。矢じりなら二、三十本、小刀なら一本。ミナの帳簿には、製鉄のたびに歩留まりが改善していく数字が並び、初回の十倍に達したところだ。鉄の話は、カニタに任せればいい。
今日の仕事は、別にある。
◆
昼過ぎ。
コタンの入り口に、砂埃が立った。
「ハルコル様──! ソウカが戻りました!」
見張りの男の叫び。ハルコルが駆けつけると、ヨイチへの使者であるソウカが、背中に大きな荷を背負って立っていた。顔は日焼けで真っ黒になり、足元は泥だらけだった。秋のヨイチを介した津軽との交易の事前確認のため、ヨイチまでの長い道のりを往復してきたのだ。
「よく戻った、ソウカ」
「はい。ヨイチのハチロウウエモン殿から、伝言を預かってきました」
ソウカの声は落ち着いていた。長旅の疲れはあるが、使者としての芯はぶれていない。
「『次の秋の取引に向けて、そちらの毛皮と干し鮭の在庫を確認しておいてくれ。津軽の商人が、今度はもっと大きな荷を持ってくると言っている』と」
ハルコルは頷いた。松前を完全に迂回した交易の道が、一歩一歩、形を成していく。
「ミナ」
振り返ると、ミナが既に帳簿の木札を手にしていた。
「もう数えてある。熊の毛皮が八枚、鹿が七十枚、狐と貂が合わせて五十三枚。干し鮭は百十束。海が塞がれて松前との交易が止まっている分、蔵に積み上がる一方よ」
「十分か」
「十分どころか、余っているわ。毛皮は保管が長引けば虫に食われる。干し鮭も、いくら燻しが利いていても限度がある。動かせるうちに動かした方がいい」
ハルコルはソウカの肩を叩いた。
「ゆっくり休んでくれ。体が戻ったら、毛皮と干し鮭を持ってヨイチへ発ってもらう。秋の取引に間に合うように、早めに届けておきたい」
「承知しました」
ソウカが頷いて、チセの方へ歩いていった。
(毛皮と干し鮭が蔵に溢れている。松前との交易が断たれたことで動かせなくなった在庫が、ヨイチ経由で津軽に流れる道を待っている。……ソウカの体が戻り次第、荷を出す。だが、問題はその先だ)
◆
夕刻。
ペカンクㇽのチセに、七人が集まった。
囲炉裏を囲んでいるのは、ペカンクㇽが上座に座し、その隣にハルコル。向かい側にミナが帳簿の木板を膝に置いている。カニタは工房から上がってきたばかりで、額に煤がへばりついたまま炉端に腰を下ろしていた。カントは壁に背を預け、腕を組んでいる。そしてソウカが──ヨイチから戻ったばかりの疲れを顔に残したまま、ミナの隣に腰を下ろしていた。昼に湯を浴びて仮眠を取った後、顔の日焼けは変わらぬものの、目には報告を終えた者の落ち着きが戻っていた。
入り口に、もう一つの人影が立った。
「ウタ。座れ」
ウタが炉端に腰を下ろした。ウタもイシカㇼへの使者から戻ったばかりだ。日焼けした顔に、長旅の疲れが滲んでいる。
ペカンクㇽが口を開いた。
「ソウカから昼に聞いた話は、皆に伝わっている。ヨイチとの商いが太くなりつつある。ウタも今戻った。……ちょうどいい。主な者が揃ったところで、一度この村の力を確かめておきたい」
太い声が、囲炉裏の煙を揺らした。
「ハルコル。お前の助言を元にこの村を動かし始めて五年になる。人が増え、同盟が広がり、工房が唸りを上げ、畑が森を呑み込んでいる。……だが、この村がいま何人で、誰が何を担い、いくつの力を出せるのか。それを、ここにいる全員で一度確かめておきたい」
ハルコルは父を見上げた。
(父さんが、自分からこれを言い出した。……正しい。仕組みが大きくなるほど、全員が同じ絵を見ていなければならない)
「ミナ」
「ここにあるわ」
ミナは膝の上の帳簿をめくった。炭で書かれた数字が、薄暗い炉端の明かりに浮かび上がる。
「ニプタイの本拠。サㇽ・ペッ(沙流川)の中流域。ここに暮らす人の数は、今の時点でおよそ三百五十」
「三百五十」
カントが壁から背を離した。
「五年前は五十にも満たなかっただろう」
「下流の河口コタンや、中流域の小さなコタンが次々とニプタイに合流した結果よ。オニビシの襲撃から逃れてきた人たちが一番多いけれど、それだけじゃない。エモの噂を聞いて、自分から移ってきた家族もいる」
ミナの指が、帳簿の別の項を示した。
「上流に同盟コタンが六つ。合わせておよそ百五十人。……ニプタイ全体では、五百人」
五百。
たった五年前、六歳の少年が前世の記憶を思い出した時、このコタンには五十人もいなかった。それが今、周囲のコタンを呑み込み、沙流川中流域を覆う一大勢力に育っている。
(だが五百人は、和人の小さな町にも及ばない。松前の兵が本気で来れば、数だけで蹴散らされる。……数では勝てない。仕組みで勝つ)
「戦になった時、どれだけ出せる」
ペカンクㇽの問いに、カントが答えた。
「巡回部隊の常備は今は二十。だが、弓を引ける男衆なら合わせて百六十はいる。アイヌの男は狩りで育つ。弓を持てる奴は、そのまま戦える」
「百六十か」
「全力で出せばの話だ。そうなりゃ畑も工房も止まる。……留守の守りは、年寄りと女衆に機械弓を持たせてチャシに据える。機械弓なら腕力がなくても弦が引ける。三年前、オニビシが押し寄せてきた時に教え込んだやり方だ。あの訓練は、今も続けている」
「足りねえ、と言いたい顔だな、長」
「足りぬ。……だが、足りぬ分を別の力で補うのが、この村のやり方だ」
ペカンクㇽはハルコルに視線を移した。
「ハルコル、続けろ」
ハルコルは頷いた。
「今のニプタイを支えている柱は五つある」
炭の棒を手に取り、土間の板の上に五つの点を打った。
「一つ。父さんが外の首長たちと顔を繋ぎ、同盟を束ねる。これが表の柱だ」
ペカンクㇽが黙って頷く。
「二つ。僕が技術と戦略の方向を決める。三つ。ミナが帳簿で備蓄と衛生を管理する。四つ。カントが巡回と防衛を担う。五つ。カニタが鉄と火薬を作る」
「それは今までと変わらんだろう」
カントが言った。
「変わるのは、ここからだ。柱の一つ一つを、もう一段太くする必要がある」
ハルコルは五つの点を見渡した。
「まずカニタ。鉄の量産が始まれば、お前一人では回らなくなる。工房の拡張も要る。野鍛冶の心得がある者。集めて、まとめてほしい。弟子も取ってほしい」
カニタの目が、炉の火を映してぎらりと光った。
「……弟子、ですか」
ペカンクㇽが継いで言った。
「腕を継ぐ者がいなければ、全てが止まるということだ。今のうちに育てていく必要がある。工房も、今の山際の場所だけでは天秤鞴を並べる場所も足りぬ。春に新しく築いた製鉄所とは別に、鍛造のための広い作業場をいずれ構えることになる。その先を見越した段取りを、今のうちから立ててくれ」
カニタはしばらく黙っていた。職人の沈黙だった。やがて、にやりと笑った。
「……腕が鳴りますぜ。今の工房を出て、でっかい炉場を造るのは前から考えてた。筋のいい奴が二、三人いる。あいつらなら叩けば光る」
「任せる。工房の設計が固まったら、ミナに人手と資材の手配を相談してほしい」
ペカンクㇽが、今度はミナに目を向けた。
「ミナ」
「はい」
「帳簿と備蓄と衛生は今まで通り頼む。だが、ハルコルから、もう一つ話がある」
ミナがハルコルを見た。
「子供たちへの教えを、始めてほしい。コタンの子供たちの中から、覚えの良い者を集めて、数の数え方と記録の仕方を教えたい。帳簿をつけられる者を、ミナ一人からもっと増やしたい」
ペカンクㇽが続けた。
「お前一人の肩に全てを載せたままでは、いつか村が傾く。……帳簿は、この村の骨だ。骨を支える者を、お前の手で育ててくれ」
ミナの眉が、ほんのわずかに上がった。だがすぐに頷いた。
「……分かった。一緒に連れ歩くわ」
ペカンクㇽがカントに目を向けた。
「カント」
「ここだ」
「巡回部隊の常備は二十のままでよいか。他にも思っていることがあれば言ってくれ」
カントが壁から背を離した。黙っていたが、待っていたという顔だった。
「ああ。西の尾根筋に見張りの拠点を一つ増やしたい。去年の夏、ウタフの軍勢がサㇽの河口に居座って以来、奴らの偵察が森の縁まで上がってくる形跡がある。今の巡回だけじゃ目が届かねえ場所がある」
「やれ。人手は」
「巡回部隊の中から交代で出す。他からは引き抜かねえ」
ペカンクㇽは頷いた。
「工房にも畑にも、手を入れずに守りを厚くする、ということだな。やってくれ」
ハルコルは小さく頷いた。カントが自分から工房や畑への配慮を口にしたのは、初めてだった。
「そして六つ目の柱を立てる。交易だ」
ペカンクㇽの声が、一段深くなった。
囲炉裏の火が揺れた。
「ウタ。ハウカセ殿の返答を聞かせてくれ」
「ハウカセ殿の言葉をそのまま伝えます。『水運は使ってよい。こちらもエモのおかげで余力が出てくるだろう。トカプチにも荷を出したいのだが、日高の山を越えるのは我々だけでは難しい。ニプタイを経由させてもらえないか』と」
ハルコルの目が光った。
(ハウカセ殿が、自分からトカプチとの交易を望んでいる。イシカㇼとヨイチは同じ日本海側で、行き来は比較的楽だ。だがトカプチは日高山脈の向こう。イシカㇼから単独で山を越えるのは大変だが、ニプタイを経由すれば──ニプタイからトカプチへの道は、一昨年の秋、使者たちが山越えして開いた道だ。ハウカセ殿には届かない道が、こちらにはある)
「願ってもない話だ」
ペカンクㇽが低く言った。ハルコルと同じことを考えていた。
「ハウカセ殿がトカプチの品を欲しがるなら、ニプタイが間に入ればいい。イシカㇼの品をニプタイが預かり、トカプチへ届ける。逆もまた然り。……ニプタイが中継の要になるということだ」
ハルコルは頷いた。だが、すぐに付け足した。
「中継は引き受ける。だが、ただの通過点にはならない。ニプタイを経由する全ての荷と情報を、ミナの帳簿に記録する。何がどこからどこへ流れているか。それを最も正確に把握している場所が、ニプタイであり続ける」
ウタが続けた。
「もう一つ。イシカㇼのハウカセ殿は、毛皮と鮭の在庫が余っているのなら、イシカㇼを経由してヨイチへ送る道もあると」
「……ヨイチへは、うちから直接送る」
ソウカが口を開いた。昼の報告の時より、声に芯が通っている。
「俺が連れていきます。体は、もう戻りました。二十人ほど借りたい。蔵に積み上がった毛皮と干し鮭を、全部とはいかなくとも相当量運べる。ハチロウウエモン殿には、こちらから届ける方が早い」
「間に合うか」
ペカンクㇽが問うた。
「秋の取引には、間に合わせます。数日休めば、十分に歩けます」
ペカンクㇽは頷いた。ソウカの目には、疲れの奥に、次の道を見据える光があった。
「よし。二十人は許す。人選はカントと相談しろ」
「承知しました」
(荷が動き始める。そしてイシカㇼからはトカプチへの中継を求める声が来ている。……交易の線が、一本ではなく、網のように繋がり始めている)
「よくやった、ウタ。ソウカも」
ペカンクㇽが二人の使者に向かって、静かに言った。二人が無言で頷いた。
だが、報告は終わっていなかった。
「……もう一つ」
ウタが、珍しく言い淀んだ。この男が言葉を選ぶのは、内容が重い時だ。
「イシカㇼへの道中で、山間の小さなコタンにいくつか立ち寄っています。シムカㇷ゚(占冠)、ユーパㇽ(夕張)、あの辺りの沢筋に点在する集落です。どこの勢力にも属していない。十数人から三十人ほどの、小さなコタンばかりだ」
「ああ。山奥のコタンだな。面識はある」
ペカンクㇽが、記憶を手繰るように目を細めた。
「立ち寄った時の様子が、変わってきました。通るたびにエモの話を聞かれ、ニプタイの噂を聞かれ、先月はシムカㇷ゚の長が俺を呼び止めて、はっきりこう言いました。『我らもサㇽの輪に加わりたい。冬が来るたびに人が減る。このまま山の中で痩せていくのを待つだけの暮らしは、もう限界だ』と」
囲炉裏の空気が、少し変わった。
「シムカㇷ゚だけではありません。ユーパㇽの沢筋のコタンからも、似た話を二つ聞いています。規模は小さい。だが──」
「道の途中にいる」
ハルコルが静かに言った。
ウタが頷いた。
「その通りです。シムカㇷ゚はニプタイからイシカㇼへ抜ける山道の手前、ユーパㇽはさらにその先、イシカㇼ側に近い。荷を運ぶ者が一晩休める場所があるかないかで、道中の安全はまるで違います」
(中継拠点だ。道の途中に味方のコタンがあれば、交易隊の負担が大幅に減る。……そしてそれ以上に、山間のコタンがこちらの網に加わるということは、情報の目が増えるということだ。ハウカセ殿の中継交易とも噛み合う。イシカㇼへの道が安全になれば、トカプチへの品もより確実に届けられる)
ペカンクㇽが腕を解いた。
「……分かった」
低く、短い声だった。
「近いうちに、私が回ろう。シムカㇷ゚とユーパㇽ、両方だ。直に話してくる」
ハルコルが父を見た。
「父さんが、直接?」
「小さなコタンの長が、自分から頭を下げて言ってきたのだ。使者を返すだけでは足りぬ。こちらの長が自ら足を運んで、顔を見せて、手を握る。……それが筋というものだ」
カントが口を開きかけたが、ペカンクㇽの目を見て閉じた。大仰な護衛は連れていかないという顔を、長はしていた。
ハルコルは小さく頷いた。
(父さんの外交は、いつもこうだ。理屈ではなく、足で歩いて、顔を見せて、信頼を積む。……僕にはできないやり方だ。だからこそ、この父がいる)
ペカンクㇽが立ち上がった。
「ウタ。最初の仕事だ。イシカㇼのハウカセ殿に、トカプチへの中継はニプタイが引き受けると伝えろ」
ウタが無言で頷いた。
ペカンクㇽは頷き、奥のチセへ歩いていった。
カニタが立ち上がり、「俺は弟子候補の面を見に行きますぜ」と言って出ていった。カントも「見張りの場所を見てくる」と壁から背を離し、夜の闇に消えた。ソウカは疲れた体を引きずるように自分のチセへ戻っていった。ウタもまた、出立に備えるため席を立った。
◆
一人になった。
ハルコルは地図の前に座った。
囲炉裏の火が、白樺の皮の上に描かれた拠点と線を、赤く照らしている。
(エモを広めた時も同じだった。種芋を渡して、育て方を教えて、あとは各コタンに任せた。押しつけなくても、飢えない冬を一度経験すれば、エモは自然に広がった。……交易も同じだ。利益を一度味わえば、放っておいても各地が自分から参加する)
火がパチリと爆ぜた。
(前世の歴史で国が生まれた過程も似ていた。市場と道と共通の約束事。通貨、度量衡、交易ルール──それが人々を一つの旗の下に集める力になった。……だが、僕がやろうとしていることは、一つの旗の下に集めることじゃない。それぞれの旗を持ったまま、同じ道を歩けるようにすることだ)
(松前がアイヌにやっていることの裏返しになってはいけない。各首長が対等に参加し、離脱も自由。それでも離れたくないと思わせるだけの利益を、生み続けなければならない)
(対等とは、搾取されない構造を作ること。言葉ではなく、仕組みで実現すること。……前世で、親会社の理不尽な単価切り下げに泣いた経験がある。「対等な取引関係です」と口では言いながら、断れば仕事を回してもらえなくなる。あの構造を、絶対に再現してはいけない)
地図をもう一度見つめた。
(アイヌ同士のこの網がどれだけ太く、どれだけ強くなっているかで、全てが決まる。……商いの道が、戦の道に変わる日が来る。そうならないことを祈りたいが、歴史はそこまで優しくない)
(だから今は、この網を育てる。一本ずつ、糸を張っていく。焦らず。だが、止めず)
火が低く燃えていた。
ハルコルは地図を壁に立てかけ直し、囲炉裏に薪を一本足した。
赤い光が、少しだけ明るくなった。
◆
翌朝。
ウタが荷を背負ってコタンの入り口に立っていた。
イシカㇼへ向かう。
「ウタ。……無理はするな。ただし、急げ」
ハルコルの言葉にウタの口元が、ほんのわずかに緩んだ。この寡黙な男にとっては、それが笑みだった。
「秋の取引に間に合わせます」
背中が、夏の朝の光の中に消えていった。
畑を横切って、要塞の土塁の上に立った。
夏の風が吹いている。南からの温かい風が、エモと大豆の畑を渡り、森の梢を揺らし、サㇽ川の水面を波立たせている。
見渡す限りの緑。
この緑の下に、鉄が眠っている。川底に砂鉄が沈み、製鉄所で鉄が産み出され、山際の工房で鍛えられ、畑にエモと大豆が根を張り、地下蔵にエモが備蓄されている。
この大地の上に──目に見えない網が、一本ずつ張られていく。
(ソーヤからヨイチへ、ヨイチからイシカㇼへ、イシカㇼからニプタイへ。そしてニプタイからトカプチへ。逆もまた同じ。……食べ物は十分になった。この大地での人の動きを増やす)
風が、畑の緑を揺らした。
緑の波が、大地を渡っていく。
ハルコルは土塁の上で、しばらくその風を浴びていた。
第25話をお読みいただき、ありがとうございます!
おまけの解説コーナーです。
今回は北海道の地名について。
この物語で頻繁に登場する地名の由来等を解説します。
◆ ニプタイ(二風谷)──「木の多い場所」
現代では北海道沙流郡平取町の字として「にぶたに」と読みます。
一般には「ニプタイ(nip-tai)」──「木の多いところ」「森林のある場所」と解釈されることが多く、沙流川中流域の森深い谷あいの情景を表した地名と考えられています。
一方で、アイヌ語地名研究者の山田秀三は「ニㇷ゚タイ(nip-ta-i)」──「木の柄を作ったところ」とする説も提示しており、語源については複数の解釈が存在します。
二風谷は現在もアイヌ文化の中心地の一つであり、「二風谷イタ」(木製盆)と「二風谷アットゥㇱ」(樹皮織物)は、経済産業省の伝統的工芸品に指定されています。
◆ サㇽ(沙流)──「湿原・葦原」
ニプタイが位置する沙流川流域。「サㇽ(sar)」は、葦などが生い茂る湿地・湿原を意味する語です。
川の下流域に広がるヨシ原の景観に由来すると考えられています。
本作中で用いる「サㇽ・ペッ」の「ペッ(pet)」は「川」を意味し、自然環境そのものを名にした典型的な地名です。
◆ イシカㇼ(石狩)──「曲がりくねった川」
アイヌ語の「イシカラペッ(i-sikar-pet)」に由来するとされ、「それが・回流する・川」すなわち「曲がりくねって流れる川」という意味に解されます。
石狩川は日本有数の蛇行河川であり、その地形的特徴をそのまま言い表した名称と考えられています。
一方、上流のアイヌのあいだには「イㇱカラ(is-kar)=美しく作る」、すなわち国造りの神が親指で大地に川筋を描いたとする神話由来の解釈も伝わっており、正確な語義は確定していません。
この大河は、後に石狩平野という広大な穀倉地帯を育む基盤となりました。
◆ ヨイチ(余市)──「温泉のあるところ」/「蛇の多いところ」
積丹半島東岸に位置する交易の要衝です。
語源には複数の説があり、
・「ユオッイ(yu-ot-i)」──温泉の多いところ
・「イオッイ(i-ot-i)」──蛇の多いところ
などが知られています。
いずれが本来の語義かは確定しておらず、両説が併記されることが一般的です。
余市アイヌの伝承では「水源に温泉がある」と語られていたとも伝えられています。
作中に登場する「ハチロウウエモン(八郎右衛門)」は実在の人物で、シャクシャインの戦いの時代に余市の首長が同名の和名を持っていたことが史料に見えます。アイヌの首長が和名を併用する例は当時珍しくなかったようです。
◆ ソーヤ(宗谷)──「岩礁の多い岸」
北海道最北端の地であり、大陸との交易(山丹交易)の接続点でした。
語源は「ソーヤ(so-ya)」──「岩礁が多い・岸」とされます。
宗谷岬沖の弁天島は「ソーヤシュマ(宗谷の岩)」と呼ばれ、そこから地名が広がったと考えられています。
なお、もともとの地名は「ウェントマリ(wen-tomari)」──「悪い泊地」でしたが、後に改められたとする説もあります。
◆ トカプチ(十勝)──複数説のある地名
日高山脈の東に広がる大地の名です。
語源については定説がなく、
・「トカプチ(tokapci)」──乳房(地形の比喩)
・「トカプチ(to-kapci)」──沼の周辺
など複数の説が知られています。
幕末の探検家・松浦武四郎は「乳房」説を採用しており、現在も広く紹介されていますが、確定的な解釈には至っていません。
◆ シペチャリ(静内)──「本流の川筋」
語源は「シペッチャリ(si-pet-chari)」とされ、
「シ(si)」=本当の・主要な
「ペッ(pet)」=川
「チャリ(chari)」=散らばる・分かれる
すなわち「本流が分流する(河口域)」あるいは「本流の川筋」を意味すると解釈されています。
静内川は日高地方を流れる本流として古くから重要な存在であり、河口付近で分流する地形をそのまま地名に写したものと考えられます。
静内川東岸台地に築かれた「シペチャリ・チャシ」は史跡として確認されており、シャクシャインの拠点と伝えられています。
◆ シムカㇷ゚(占冠)──「上流の静かな場所」
現代表記は「しむかっぷ」。鵡川上流の山間地です。
語源には複数の解釈があり、
・「シモカプ(shimokap)」──静かな上流の場所(行政解釈)
・「シムカㇷ゚(si-mukap)」──本流の鵡川(源流部)(研究者説)
などが挙げられます。
いずれにせよ、山深い源流域の環境を表した地名と考えられています。
◆ ユーパㇽ(夕張)──「鉱泉の湧き出るところ」
アイヌ語「ユーパロ(yu-paro)」に由来し、
「ユー(yu)」=湯・温泉
「パロ(paro)」=口・出口
を意味します。
すなわち「温かい水(鉱泉)の湧き出る場所」という意味です。
この名称は幕末の探検家・松浦武四郎によって記録され、後に地名として定着しました。
明治以降、この地域は石炭の産地として発展し、日本有数の炭鉱地帯となります。
【アイヌ語地名という文化財】
北海道の地名の多くはアイヌ語に由来しており、それは人々が土地の特徴──地形、水、植生、動物、生業──を言葉として記録してきた痕跡でもあります。
アイヌ語地名は2001年に北海道遺産にも選定され、重要な文化資産として位置付けられています。
また、前の地図をAIを使って見栄え良くしました。
古地図風になってます。
【挿絵表示】
お気に入り登録、評価ありがとうございます!
現状の確認回ってやつでした。
内政や技術開発もじっくり描こうと思ってるのですが、それでもいいものか迷ってたりします・・・。