オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~ 作:サウス
キンッ。
甲高い金属音が、凍りついた空気を割った。
キンッ、キンッ、キンッ。
一打ごとに、山際の製鉄所から白い火花が散る。斜面の窪地に据えられた製鉄炉の煙出しから、赤い光と橙色の火の粉が交互に噴き上がっていた。外は吹雪。指先が凍りつくような北の冬の夜。だが、粘土を幾重にも重ねて築かれた炉の周囲だけは、炉心から滲み出る熱が積もった雪を円く溶かし、むっとするほどの熱気に満ちていた。
カニタが、炉の脇に据えた金床の上で鉄を叩いていた。
赤く灼けた鉄の塊。半年前には親指ほどの大きさしかなかったものが、今はひと回り大きな握り拳ほどの塊になっている。回を追うごとに歩留まりが伸び、不純物の噛み込みも減ってきた。今では、矢じり・小刀・鉞のいずれも、和人の鉄地金に頼らず、すべてこの炉の鉄で打てる。製鉄所は、もう日々の暮らしの一部として動いている。
「……よし」
カニタが鉄を火箸で持ち上げ、水桶に沈めた。ジュウッ、と蒸気が天井に立ち昇る。水の中から引き上げた鉄の表面を、カニタの目が舐めるように追った。
「ハルコル様。今回も、悪くねえ出来だ」
炉場の隅で座っていたハルコルが、立ち上がって近づいた。カニタが差し出す鉄の塊を受け取る。ずしり、と。掌に確かな重みが乗った。
キンッ、と、カニタが小さな槌で軽く叩く。澄んだ音。硬く、鋭く、芯のある音が、今は当たり前のように出る。
ハルコルは鉄の塊を見下ろした。
(半年前の親指大から、ここまで来た。──だが、今日の本題はこれじゃない)
「カニタ。例のものを見せてくれ」
カニタの目が、一瞬だけ鋭くなった。
「お見せしまさあ。……こっちへ来てくだせえ」
カニタが製鉄所の火を見習い達に任せ、外套を羽織った。吹雪を突っ切って、数十歩離れた山際の鍛冶工房へ向かう。製鉄所は大きな炉と送風装置のために斜面の窪地に築いたが、鍛冶の繊細な細工は、従来どおり山の麓に建てた工房で行っている。万一の暴発でも居住区から離れている──カニタが昔から使い慣れた場所だった。
木戸を開けて中に入る。土壁に囲まれた狭い空間に、熱気が籠もっていた。壁際に鍛造炉。長年の煤で黒く焼けた土壁の表面には、ところどころ罅割れを塗り直した跡が見える。作業台の上に工具が整然と並び、梁には煤が厚く張り付いている。ここは、鉄を「形」にする場所だった。
カニタが作業台の上を、片手で軽く払った。
そして、隅に積み上げられた油紙の包みを、一つずつ作業台の上に並べていく。
油紙を開く。
長い筒。鉄の筒だ。両端に金具がついている。──銃身。
次の包み。木の彫りもの。なめらかに削られ、肩当ての形に整えられている。──銃床。
その次。掌に収まる大きさの、金属部品の集まり。L字型の鉄板、それを支える軸、火縄を挟む細長い火ばさみ、引き金、用心金、火皿、火皿の蓋、ねじ類。一つ一つが、丁寧に油を引いて並べられている。
ハルコルは作業台の前に立ち、息を呑んだ。
ロシア製の火縄銃。ヨイチ経由で山丹交易から手に入れた、あの長銃身の鉄砲が──部品ごとに、解剖されていた。
「この鉄砲をバラしたのは、秋の終わりだ」
カニタが、銃身の表面を指でなぞりながら、ぽつりと言った。
「全部の部品を外して、筒の内側を覗いて、火縄を挟む仕掛けの鉄板がどう動くか、引き金を引くと火縄がどう皿に落ちるか、何日もかけて確かめた。仕組みは、おおよそ掴んだ」
「聞かせてくれ」
「ええ」
カニタは、まず銃身を持ち上げた。
「こいつが、一番の壁だ」
長さは大人の腕より長い。しかし筒の肉厚は薄い。叩いて伸ばし、丸めて溶接し、内側を真っ直ぐに刳り抜いた。継ぎ目は割れ目なく塞がれ、外側は滑らかに磨き上げられている。
「火薬が中で爆ぜても割れねえ硬さと、弾の圧で歪まねえ粘り。その二つを一本の筒の中で両立させなきゃならねえ。和人の鉄砲はもっと厚ぼったくて、装薬の量も控えめだ。だがこの筒は薄いくせに、強装薬に耐える鋼でできてる。……俺の炉の鉄じゃ、まだここまでは届かねえ」
カニタが銃身を作業台に戻した。
「次に、こいつ」
火皿。
「点火薬を盛る皿だ。蓋がついてて、湿気を防ぐ仕掛けになってる。ここは俺の腕で打てる。難しいことはねえ」
次。火縄を挟む細長い顎──火ばさみ。
「火縄を挟んで、引き金を引くと顎が下りて火皿に火縄を落とす。バネと軸の組み合わせだ。仕掛けとしちゃ単純さ。これも作れる」
次。引き金、用心金。
「ここは野鍛冶の仕事だ。問題ねえ」
次。銃床。
「木の彫りもんだ。腕のいい木工師がいりゃ、できる。サㇽ川の上流に、舟を彫る職人がいる。あの手の腕なら、任せられる」
最後。ねじ類。
「螺旋を切るのは難儀だ。だが数が少ねえからどうにかなる。手で一本ずつ刻めば済む」
カニタが、並べた部品を見渡した。
「結論はこうだ。──筒以外は、今の俺の手で作れる。仕掛けの大方は、自製鉄で組み上げられる。だが、筒だけはまだ届かねえ」
ハルコルは黙って部品を見下ろした。
(……分解と再構成。一つ一つの部品の役割と製造難度を、カニタは完全に把握している。前世で言う、リバースエンジニアリングだ。手本を分解し、構造を理解し、自分の手で再現可能かを評価する。それを、この一冬で独力でやり遂げた)
(銃身が最後の壁。それは僕も予想していた。当たり前だ。火縄銃の最大の秘密は、撃発機構ではなく銃身の冶金にある。だが、そこに辿り着くまでの道筋は、もう見えている)
「カニタ」
ハルコルが顔を上げた。
「点火の機構を、火縄から、ヨイチの瑪瑙(めのう)に切り替えたい」
カニタの動きが、止まった。
工房の中の音が、ふっと消えた気がした。鍛造炉の遠い唸りも、外の吹雪の音も、瞬きの間だけ遠ざかった。
カニタが、ゆっくりと顔を上げた。
「……ハルコル様」
声が、低い。
「やっぱり、こいつのためだったんですかい」
ハルコルは、答えなかった。ただ、視線でカニタを受け止めた。
「ヨイチから瑪瑙が届いて──ハルコル様は、あの石を見て震えてた。何度試しても消えねえ火花だ、これだ、と。何のためだとは言わなかった。いつか必ず俺の腕が必要になる、その時に全部話す、と。──そう言ってました」
カニタが、作業台の端に置いてあった小さな革袋を引き寄せた。袋の口を解き、中から半透明の石の欠片を取り出す。半年前、カニタとハルコルが工房で火花を散らした、あの瑪瑙だ。炉の灯りに翳すと、石の奥で赤い光が静かに揺れた。
「俺はずっと考えてた。あの石を、ハルコル様は何に使うつもりなのか。火打ち石として転がしておくにしちゃ、扱いが大事すぎる。何かでかい仕掛けに使うんだ、と。──だが、その『でかい仕掛け』が何なのか、俺には見当もつかなかった」
カニタが瑪瑙を握り締めた。
「今、分かった」
ハルコルは、深く息を吸った。
「火縄の代わりに、瑪瑙を仕掛けに嚙ませる。引き金を引くと、バネの力で瑪瑙が振り下ろされ、鉄板に擦りつけられる。乾いた火花が飛び、下の火皿に落ちる。──火縄はいらない。火種壺もいらない。雨でも雪でも夜でも点火できる」
「……」
「これは遠い国で、火縄銃の次に生まれた仕掛け。和人もまだ持っていない。──火打ち石を集めて試していたのは、いつか、この仕掛けを作りたかったからだ」
カニタが油紙の上に並んだ部品を見渡した。
職人の目が、部品の一つ一つの上を行き来する。火ばさみ、火皿、引き金、軸、ねじ。指が宙で動き、見えない線を引く。
やがて、カニタが火ばさみを手に取った。
「……火縄を挟む顎の代わりに、瑪瑙を挟む顎を作る。バネはこの軸ごと作り直す。火縄じゃなく石を挟むなら、顎の構えはもっと深くて、確実に石を保持しなきゃならねえ。今のこいつじゃ、瑪瑙が振り下ろされた拍子に飛んでっちまう」
カニタが部品を作業台の上で組み合わせ始めた。火ばさみの軸位置はそのまま使える。だがバネの強度は新たに設計し直さなければならない。瑪瑙が当たる角度、鉄板の位置、火花が飛ぶ方向──全てが連動する。
「ここをこうすりゃ──」
カニタが蛇頭を動かす。
「いや、こうか」
角度を変える。
「……バネの強さは、瑪瑙が鉄に当たって火花を出す力に合わせる。弱すぎりゃ火花が出ねえ。強すぎりゃ瑪瑙が割れる。その間を狙う」
カニタの指が、火皿を持ち上げた。
「火皿の位置も、火縄を落とすためのもんだ。瑪瑙の火花を受けるなら、もう少し前にずらした方がいい。火花は下に向かって飛ぶ。皿が遠けりゃ、途中で消える」
「……それと、こいつ」
カニタが、瑪瑙が当たる側になるであろう鉄板を仮の位置に当てた。
「瑪瑙が当たる方の鉄も、ただの鉄板じゃ駄目だ。表面が硬くて火花を出しやすく、芯は割れねえ粘りが要る。瑪瑙を百回ぶつけても割れねえ鉄。──ありゃ、焼き入れの仕方を工夫しなきゃならねえ。普段の刃物の焼き入れとは、別の温度と冷やし方が要るはずだ」
ハルコルは黙って、カニタの指の動きを見つめていた。
(……職人の頭の中で、設計が組み上がっていく。火ばさみの改造、バネの強度、火皿の位置、当たり金の冶金処理。僕が形を与える前に、カニタは自分の手の感覚で必要な要素を一つずつ拾い上げている。──僕が骨格を提示し、カニタが肉を付けていく。前世の知識と、現地の手。その二つが噛み合う場所に、新しい仕掛けが立ち上がる)
カニタが、ひとしきり考え込んだ後、顔を上げた。
「できそうです、ハルコル様」
声に、職人の確信があった。
「火縄を挟む顎を、瑪瑙を挟む顎に作り直す。バネは板バネを新調する。火皿の位置を寄せる。瑪瑙が当たる鉄板──こいつは焼き入れに工夫が要るが、何度か試しゃ落ち着き所が見えるはずだ」
カニタが、作業台の脇の棚を顎で示した。
ハルコルが棚を見た。冬の間にカニタが量産した自製鉄の塊が、用途別に整理されて積み上がっている。薄板状の鉄、帯状にした鉄、丸棒、塊。炉から生まれた鉄が、用途を待って静かに並んでいた。
「──全部、揃ってまさあ」
カニタが、棚に向かって低く呟いた。
ハルコルは深く息を吸った。
(……六年前、僕がこの男の工房を初めて訪ねた日。古釘を叩き直していたカニタの手の中には、和人の鉄しかなかった。今、その同じ手の中には、自分の炉で生んだ鉄がある。そしてその鉄で、和人もまだ持たない仕掛けを作ろうとしている。)
「カニタ」
ハルコルが、作業台の上に指で線を引いた。
「考えていた細かい形と寸法を伝える。ばねは、薄い鋼を折り曲げた板ばねにする。瑪瑙を挟む顎は、ばねの先端に軸で留める。瑪瑙が当たり金を擦る角度は、上から下へ、斜めに滑らせる。火花は下の火皿へ落ちるように、当たり金の下端を火皿の縁に向ける。……これが、おおよその形だ」
カニタが頷いた。何度も頷いた。職人の目が、ハルコルの指が引いた見えない線を追っている。
「……やれる。やってみせまさあ」
◆
それから、冬は深まっていった。
吹雪が幾度も山際の工房を埋め、製鉄所の煙が雪雲に溶けるように流れた。
ハルコルが工房に顔を出すたびに、作業台の上には新しい試作品の残骸が増えていく。歪んだ鉄板。割れた当たり金。曲がった板バネ。カニタは何度も手を止め、何度も焼き入れを繰り返し、何度も鉄の出来を確かめた。
そしてある日、ようやく──
工房を訪ねると、カニタが作業台の前に立っていた。煤に汚れた手の中に、整えられた撃発機構の試作品を握っている。
道は平坦ではなかった。
「……最初は話にならなかった」
カニタが作業台の隅を指さした。そこに、歪んだ金属片がいくつも転がっている。失敗した試作品の残骸だった。
「一番の壁はこいつだ」
カニタが撃発機構の中の一つの部品を指で示した。瑪瑙が打ちつけられる鉄板──当たり金。
「瑪瑙をぶつけて火花を出すには、こいつが石の衝撃に耐えなきゃならねえ。最初に作った当たり金は、三度目で割れた。鉄が硬すぎたんだ。硬いと衝撃を吸収できずに、パキッといく」
「柔らかくしたら」
「火花が出ねえ。瑪瑙が当たった瞬間に表面が凹んで、石が滑る。火花ってのは、鉄の表面が削り取られる時に出るもんだ。柔らかすぎると削れずに凹む。硬すぎると割れる。……丁度いい硬さを出すのに、十四回やり直した」
カニタが当たり金を指先で弾いた。チンッ、と小さく澄んだ音がした。
「答えは焼き入れの温度だった。桜色まで灼いて水に入れると硬くなりすぎる。茜色で止めて、油に沈める。そうすると、表面は削れるほど硬いが、芯には粘りが残る。衝撃が来ても、表面だけが削れて火花が出る。芯が粘るから割れねえ」
ハルコルは何も言わなかった。職人の到達に、言葉は要らない。
「やってみせてくだせえ、と言いたいところだが」
カニタが瑪瑙を顎に挟み、撃発機構を台座に固定した。
「こいつには引き金がねえ。銃に組み込む前の、仕掛けだけの試験だ。この棒を指で弾いて、バネを解放する。……いいですかい」
ハルコルが頷いた。
カニタの指が、棒に触れた。
カチンッ。
L字型の鉄板が跳ね上がり、顎に挟まれた瑪瑙が当たり金の表面を擦った。
パチッ。
火花が散った。
暗い工房の中で、橙色の小さな光が一瞬だけ弾けた。
「……もう一度」
カニタがバネを戻し、もう一度、棒を弾いた。
カチンッ。パチッ。
火花。
三度目。
カチンッ。パチッ。
四度目。五度目。六度目。
六回連続で、火花が散った。当たり金は割れない。瑪瑙もずれない。バネは確実に跳ね上がり、石と鉄がぶつかるたびに、正確に火花を生む。
カニタの手が、微かに震えていた。
「……割れねえ」
その声は、歓喜でも安堵でもなかった。十四回の失敗を経て、ようやく手にした確信の声だった。
「割れねえですよ、ハルコル様。こいつは……こいつは、何度打っても割れねえ」
ハルコルは火花が散った当たり金の表面を見た。瑪瑙が擦った跡が、薄く白い筋になって残っている。表面が削れて火花になった証拠だ。だが本体に亀裂はない。芯が生きている。
(完成した。瑪瑙式の撃発仕掛けが、実物の手本なしに、カニタの手の感覚、試行によって実現された。あとは──)
「あとは銃身だけだ」
声に出していた。
カニタが頷いた。
「分かってます。この仕掛けがいくら完璧でも、弾を飛ばす筒がなけりゃ意味がねえ。だが銃身は──」
「銃身には、当たり金とは逆の性質が要る。当たり金は表面が硬ければいい。だが筒は違う。火薬が中で爆ぜた時、硬いだけの鋼は内側から一気に割れる。かといって柔らかければ、弾の圧で筒が膨らんで歪む。……硬さと粘りを、一本の筒の中で両立させなきゃならない」
「分かってますよ。あの銃身を分解した時、筒の断面を見て腰が抜けたんだ。薄いくせに、叩いても曲がらず、だが割れもしねえ。硬くて、なおかつ粘る鉄。……俺の炉じゃ、まだそこまでの鋼が出せねえ。だから、仕掛けだけ先に仕上げた。筒は……もう少し待ってくだせえ」
ハルコルは撃発機構を見下ろした。掌の上の、小さな鉄の塊。だがこの塊の中に、火縄に依存しない着火の仕組みが全て詰まっている。
(雨でも、雪でも、夜でも撃てる銃の心臓部が、完成した。銃身の自製には、当たり金とは次元の違う冶金の壁がある。硬さと粘りの両立──前世の言葉で言えば、靱性と硬度のバランスだ。だが、仕掛けが先にできたことは大きい。あのロシア製の火縄銃が銃身の手本を与えてくれた。着火方式は、この大地で初めて鳴った。あとは、銃身だけ)
外では吹雪が止まない。だが、工房の中は炉の熱気に満ちている。
ハルコルは撃発機構を油紙で包み直した。
「カニタ。今夜、チセに集まる。父上たちの前で、これを見せる」
「……ついに、ですかい」
「ミナの方も、今日結論が出る」
カニタの目が、わずかに光った。
「そうですかい。──じゃあ、煤を落として、髭も剃ってから行きまさあ」
◆
工房を出ると、吹雪は弱まり、雪が静かに降っていた。
ハルコルは外套の襟を立て、ニプタイの北側へ向かった。陽の当たらない斜面の窪地。雪に覆われた地面の下に、木枠で囲まれた培養床がいくつも並んでいる。土と藁と灰と獣糞を重ねた培養床。三年近く、ミナが管理を続けてきた区画だった。
ミナがいた。
膝をつき、培養床の蓋を一つずつ開けて、結晶を木匙で掬い取り、革袋に集めている。隣には小さな秤が据えられ、採取した結晶の重量を一袋ずつ記録している。帳簿は外套の懐に。木匙が動くたびに、白い結晶がさらさらと音を立てた。
「ミナ」
ハルコルが声をかけると、ミナは顔を上げた。頬が冷気で赤い。だが目は静かに光っていた。
「思ったより多いの」
ミナが、すでに口の縛られた革袋の山を顎で示した。雪の上に、革袋がいくつも並んでいる。
「秋の見立てより、ずっと多い。──冬の間に、一気に結晶が増えていた」
ハルコルは膝をつき、木枠の蓋の下を覗き込んだ。培養床の土の表面に、白い結晶が一面に浮いている。秋に見た時よりも、明らかに多い。指先で触れると、さらさらと崩れた。微細な針のような結晶が、土の表面を薄い霜のように覆っている。
「冬は発酵が遅くなるはずだろう」
「製鉄所の排熱だと思う」
ミナが斜面の上を指さした。製鉄所の煙出しから、わずかに温かい空気が風下の地面を伝って流れてきている。
「春から製鉄が本格化してから、風下に当たる培養床だけ結晶の出方が早かった。気づいたのは秋の終わり。それから、藁を追加して保温を強化して、他の培養床にも温まった風が届くように囲いの向きを変えた。──効いてる」
(偶然を見逃さず、帳簿の数字から因果関係を読み取り、対策を打った。……前世の品質管理部門でも、ここまで機敏な改善サイクルを回せる人間は少なかった)
「ミナ。秋に言っていた『あと一年か二年』の見通しは」
「変わった」
ミナの声が、低くなった。
「ただし、結論は今夜、皆の前で出す。──最後の一袋を秤にかけて、純度を確かめてから。三年待ったんだから、最後の一日くらい、丁寧にやる」
「……分かった」
「ハルコル」
「ん」
「カニタの仕掛けは」
「できた。今日、火花が連続で散った。一度も失敗しなかった」
ミナが小さく頷いた。
「──今夜ね」
「ああ」
ミナは再び木匙を手に取り、次の培養床へ向かった。雪を踏む足音が、静かに遠ざかっていった。
白い息が、雪の中に溶けていく。
(……今夜、二つの輪が閉じる。仕掛けと、硝石。それぞれの場所で積み上げてきたものが、同じ夜に形になる)
ハルコルは外套の襟を立て直し、チセの方へ歩き始めた。
◆
その夜。
囲炉裏の前に、五人が集まった。
ペカンクㇽが上座に座し、腕を組んでいる。カニタが炉の光に照らされた顔で、膝の上に油紙の包みを置いている。煤を落とし、髭も剃り、めずらしく襟元を整えている。カントが壁に背を預け、腕を組んでいる。ミナが帳簿を膝に載せている。
吹雪の音が、チセの壁の向こうで唸っている。
そして、ハルコルが火を挟んで全員を見渡した。
「今日、二つの仕事が形になった」
静かに切り出した。
「一つは、カニタから」
カニタが膝の上の油紙を解いた。
L字型の鉄板、それを支える軸、薄い鋼の板バネ、瑪瑙を挟む小さな顎、それらを支える台座。掌に収まる大きさの、金属の組み合わせ。
囲炉裏の光を受けて、鈍く赤く光る。
「ロシアの鉄砲の、火縄の仕掛けを取り外した代わりに、これを据える。火縄の代わりに、ヨイチの瑪瑙を顎に嚙ませる。引き金を引くと、バネが瑪瑙を振り下ろし、鉄板に擦りつける。乾いた火花が散って、下の火皿に落ちる。──火縄はいらねえ。火種壺もいらねえ。雨でも雪でも夜でも点火する」
ペカンクㇽの目が、じっと撃発機構を見た。
炉の火がパチリと爆ぜた。
「……試したのか」
「試しました。十四回の試作を経て、当たり金が割れねえ硬さに行き着いた。仕掛けだけの試験で、六回連続で火花が散りました。一度も失敗しちゃいません」
「銃身は」
ペカンクㇽの声は低かった。
「まだです。仕掛けは完成しましたが、弾を飛ばす筒は、今の俺の鉄じゃ届かねえ。硬さの中に粘りが残る鋼を、これから探りまさあ。半年か、一年か」
「……分かった」
ペカンクㇽが、ゆっくりと頷いた。それから、ハルコルに視線を移した。
「もう一つは」
ハルコルは、ミナを見た。
「ミナから」
ミナが帳簿を抱えて、立ち上がった。
少女の姿は、囲炉裏の火を背負って、ひどく小さく見えた。だが、声は小さくなかった。
「今日の夕方、培養床から結晶を採取して、秤にかけました」
ミナが帳簿を開いた。
「秋の見立てでは、火薬になる量が採れるのは、あと一年ほど先のはずでした。──でも」
ミナの息が、ほんの一瞬、止まった。
「──できました」
チセの中が、しんと静まった。
囲炉裏の火が、小さく爆ぜた。
「火薬を作れるだけの硝石が、揃いました。春にはさらに倍の量が採れる見込みです」
ミナが帳簿の別のページを開いた。
「火薬の配合比は、硝石が七割五分、木炭が一割五分、硫黄が一割。──大部分は硝石です。その硝石が、もう自分たちで作れる」
ミナが顔を上げた。
「木炭は工房の余剰で足ります。硫黄は──津軽から買い溜めた在庫が、まだ蔵にあります」
ペカンクㇽが、ゆっくりと顔を上げた。
「……つまり」
「火薬の七割五分が自前になった以上、実質、火薬は自分たちの手で作れます。あとは、硫黄の在庫が尽きるまで、調合を進められる」
ミナの声は、震えていなかった。三年と二ヶ月、毎日帳簿に向き合い続けた者の声だった。
ペカンクㇽが目を閉じた。
しばらく、何も言わなかった。
囲炉裏の火だけが、低く燃えている。
ハルコルは、その沈黙を見ていた。
(火薬の七割五分の自給。──これが、火薬を作れるかどうかの分水嶺だ。硝石は培養に三年以上かかる長期戦の原料。それが自前になったということは、もう津軽の商人から硝石を断たれても、ニプタイは火薬を作り続けられるということだ)
やがて、ペカンクㇽが目を開けた。
その視線が、ハルコルへ移る。
「だが、ハルコル」
長の声は、低かった。
「硫黄の在庫は、いつかは尽きる。津軽からはもう来ん。──その先は、どうする」
チセの中の空気が、わずかに張った。カントの目もハルコルへ移る。
ハルコルは、火を見つめたまま、静かに答えた。
「父さん。硫黄については、考えがあります」
「考え」
「ええ。──まだ、形にする時ではありません。だが、いずれ。……必ず、自前の硫黄をこの蔵に積み上げます」
ペカンクㇽが、ハルコルの横顔をじっと見た。
息子の目は、火の奥の何かを見ている。前世の知識でしか掴めない場所を見ている目だった。
ペカンクㇽは、それ以上は問わなかった。
「……分かった。お前が考えがあると言うなら、それでいい」
短く、それだけ。
以前、囲炉裏の前でペカンクㇽが言った言葉と、響き合っていた──「お前がこの村を裏切る子かどうか、それだけ分かっていれば十分だ」と。
ペカンクㇽが、視線をミナへ戻した。
「ミナ」
「はい」
「お前は、いくつになったか」
「正確にはわからないんです。和人の商人に拾われていた頃、誰も誕生日なんて気にしてくれなかったから。──でも、ハルコルより一つか二つ上のはずです」
ペカンクㇽは、それ以上は言わなかった。だが、その短い問答の中に、深い感慨が滲んでいた。本当の歳すら誰も覚えていてくれなかった少女が、ニプタイの帳簿の要として、火薬の原料をこの大地に根付かせた。──それは、戦士の十年の鍛錬に匹敵する仕事だろう。
ペカンクㇽが立ち上がった。
「鉄の仕掛けと、火薬の原料。二つが揃った。……カニタ」
「はい」
「仕掛けが完璧でも、筒がなければ鉄砲にはならん。お前の腕にかかっている」
「……承知しています」
「急がずとも、確かに作れ。お前の手で」
秋に銃を預けた時と、同じ言葉だった。カニタが深く頭を下げた。
ペカンクㇽは囲炉裏の火を一度だけ見下ろし、奥のチセへ向かった。その背中が暗がりに消える直前、立ち止まった。
「ミナ」
「はい」
「お前の帳簿に、今日の日を記しておけ。アイヌが、自分の手で火薬を作れるようになった日だ。よくやった。」
それだけ言って、ペカンクㇽは去った。
◆
カントとカニタが去り、囲炉裏の前にハルコルとミナだけが残った。
火が低く燃えている。吹雪の音が、チセの壁の向こうで唸っている。
ミナが帳簿の最後のページに、何かを書き加えていた。炭の筆が、さらさらと木板の上を走る。
「何を書いている」
「ペカンクㇽおじさんに言われた通り。今日の日付と、培養硝石完成の記録」
「それだけか」
「それと──」
ミナが筆を止めた。
「燧石(ひうちいし)式撃発仕掛け完成。自製鉄による。担当:カニタ」
帳簿を閉じた。
「これで、あと一つだけね」
「銃身」
「そう。銃身ができた日に、この帳簿に鉄砲製造の最後の記録が入る。そうしたら──」
「そうしたら?」
ミナが囲炉裏の火を見つめた。
「新しい帳簿が要るわね。もっと大きな……全体の帳簿が」
ハルコルは黙ってミナを見た。
(全体の帳簿。食料、鉄、火薬、交易品、人口、同盟関係──この村の全てを一冊にまとめた帳簿。ミナの頭の中では、もうその設計が始まっているのだろう)
「ミナ。一つ聞いていいか」
「何」
「帳簿をつけていて、怖いと思ったことはあるか」
ミナの手が、一瞬だけ止まった。
「……怖い?」
「数字が全部見えるということは、足りないものも全部見えるということだ。鉄が足りない。火薬が足りない。人が足りない。時間が足りない。……それが全部、数字で突きつけられる。怖くないか」
ミナはしばらく黙っていた。
囲炉裏の火がパチリと爆ぜた。
「怖いわよ」
ミナの声は、低く、静かだった。
「足りないものが見えるのは、確かに怖い。でもね、ハルコル。帳簿をつけていなかったら、足りないことにすら気づけない。気づかないまま冬が来て、気づかないまま飢えて、気づかないまま終わる。……その方が、ずっと怖い」
「……そうだな」
「だから、帳簿は閉じない。怖くても、数字は追い続ける。足りないものが見えるなら、足りるようにすればいいだけよ」
ミナが立ち上がった。帳簿を胸に抱えた。
「明日から、火薬の調合記録を始めるわ。硝石の採取量、硫黄の使用量、木炭の配合比率。全部、数字で追う」
「頼む」
「これが私の役割」
囲炉裏に薪を一本足した。
火が、少しだけ明るくなった。
山際の工房から、カニタの槌の音が聞こえてくる。キンッ、キンッ、と。吹雪の向こうで、職人が鋼を叩いている。撃発仕掛けは完成した。だが、カニタはもう次の仕事──銃身に耐える鋼の探求──に取りかかっているのだ。
培養区画では、雪の下で、白い結晶が静かに育ち続けている。ミナの帳簿に記録された数字が、明日もまた一行、増える。
ハルコルは囲炉裏の火に視線を戻した。
(鉄と、石と、白い結晶)
(揃った。そしてあと一つ)
火の粉が一つ、天窓の闇へ吸い込まれていった。
第27話をお読みいただき、ありがとうございます!
おまけの解説コーナーです。
【火縄銃(マッチロック式)】
火縄銃は、火縄の火を点火薬に押し付けて発射する銃です。15世紀前半にヨーロッパで発明され、日本へは1543年(天文12年)に種子島へ伝来しました。
マッチロックの「マッチ」は火縄、「ロック」は点火装置を意味します。
主な部品は、銃身(じゅうしん)・火皿(ひざら)・火蓋(ひぶた)・火ばさみ・弾き金(はじきがね)・引き金・銃床(じゅうしょう)・朔杖(さくじょう)・火縄の九つです。
銃身は弾を発射する筒で、鉄板を巻いて叩き溶接した「巻張(まきばり)」工法で作られ、内部にライフリングのない滑腔砲でした。
火皿は点火薬を盛る浅い受け皿で、銃身側面の小穴(火穴)で銃身内部と繋がります。
火蓋は火皿の上に被せる蓋で、雨や暴発を防ぐために設けられました。物事の始まりを「火蓋を切る」と表現するのは、発射直前にこの蓋を開ける動作に由来します。
火ばさみは火縄を挟むS字型の金具で、欧州ではラテン語の「サーペント(蛇)」からサーペンタインと呼ばれました。
弾き金は火ばさみを動かすバネで、日本では引き金と連動して瞬時に火ばさみが落ちる「瞬発式」が独自に発達し、欧州主流の「緩発式」より命中精度に優れたとされます。
銃床は銃身を支える木製の本体で、日本では銃床の末端を頬に当てて構える「頬付け」が標準でした。
朔杖は弾と火薬を銃口から押し込むための棒。
火縄は竹や檜皮の繊維をより合わせて硝石水に浸けた点火用の縄です。火縄は便利な点火具でしたが、雨で消える、夜は赤光が見える、燃える臭いで気付かれる、火種を常時携帯せねばならない、といった戦場での弱点を抱えていました。
【フリントロック式(燧石式=すいせきしき)】
フリントロック式は、火打ち石(フリント)を鋼の板に打ち付けて火花を散らし、その火花で点火薬に着火する銃です。
火縄を使わないため、天候・湿気・夜間の発光・火種携帯といった火縄銃の弱点を一挙に解決しました。完成形の点火装置は1610年から1620年頃にフランスのマラン・ル・ブルジョワ(Marin le Bourgeoys)によって考案され、最古の例として1620年頃のルイ13世のための鳥撃ち銃が現存します。その後の200年以上にわたり欧米の主要な銃の点火方式となりました。
日本では国産の火打ち石の品質が悪く、また平和な世であったことから普及せず、輸入された一部の例が知られるのみです。
主な部品は、銃身・コック(cock)・顎(ジョー)・メインスプリング・フリズン(frizzen)・フリズンスプリング・火皿・触火孔・シア(sear)・引き金・火打ち石の十一です。
銃身・火皿・触火孔は火縄銃と同じ構造です。
コックは火打ち石を顎で挟む可動アームで、雄鶏(cock)が首を曲げる姿に似ていることから名付けられました。火縄銃の火ばさみに相当する位置の部品ですが、挟むものが火縄ではなく石である点が決定的に異なります。
メインスプリングはコックを駆動する強力な板バネ。
シアはコックを引いた状態で固定する係止部品で、引き金を引くとシアが解除されコックが振り下ろされる仕組みです。
多くのフリントロックには「ハーフコック(半起こし)」と呼ばれる安全位置があり、装填中の暴発を防ぎました。「don't go off half cocked(早まるな)」という英語の慣用句はここに由来します。
フリントロック式の最大の発明点は、フリズンと呼ばれるL字型の鋼の板にあります。フリズンは長い面が打撃面、短い面が火皿の蓋を兼ねる一体構造で、コックが振り下ろされた瞬間、火打ち石が打撃面を斜めに削り取って火花を散らすと同時に、フリズン自体が跳ね上がって火皿の蓋が開く──発射の動作と火皿の開放が、一つの動きで完結する設計でした。フリズンには表面が硬くて削れやすく、芯には粘りがあって割れない、という二つの性質を両立させた高炭素鋼が使われました。日本語では「当たり金(あたりがね)」とも呼ばれます。
火打ち石は欧州ではブランドン(イギリス)が有名です。200年にわたり火打ち石産業で栄えました。本作品では、北海道余市(ヨイチ)周辺で産出する瑪瑙(めのう)をフリント素材として使用する設定にしています。瑪瑙は石英の微結晶からなる硬い石で、フリントほどの耐久性はないものの、火花を出す石材として使用可能です。
昨年、種子島にロケットの打ち上げを見に行きました。
種子島は御存知の通り鉄砲伝来の地であり、鉄砲館という鉄砲をメインとした博物館があります。
多種多様な火縄銃が見れて楽しかったです。
空港で火縄銃の実演も拝見させていただきました!
図書館でかき集めた鉄砲資料、鉄砲館での記憶を総動員して執筆していますが間違ってたらご指摘ください!
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