オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~   作:サウス

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第28話:森の声と、父の背中【1662年 春】

 雪が溶けた。

 

 サㇽ川(沙流川)の岸辺に、灰色の氷の欠片が流れていく。透き通った雪解け水が黒い川底の石を洗い、砂鉄を含んだ細かい砂がきらきらと光りながら下流へと運ばれていく。あの砂を掬い取ることの意味を知っている者は、この村にはもう何人もいる。だが今日、ハルコルの目はそこにはなかった。

 

 森を、見ていた。

 

 トドマツとエゾマツの黒い針葉に混じって、広葉樹の枝先に薄緑の芽が噴き出している。フクジュソウの黄色い花が、まだ残る雪の白い塊の縁から顔を覗かせていた。エゾエンゴサクの青紫の花も。キバナノアマナの黄も。短い北の春が、凍りついた大地を一斉にこじ開けようとしている。

 

「支度はできたか」

 

 背後から、低い声が落ちてきた。

 

 ペカンクㇽだった。獣皮の外套を纏い、腰にはエムㇱ(太刀)とマキリ(小刀)を帯びている。背には弓(ク)と矢筒、そして使い込まれた革の背負い袋。猟師として山に入る時の、父の装いだった。

 

 ハルコルも同じ支度を整えていた。弓は父のものより二回りほど小さいが、自分の体に合わせてカニタが削り直してくれたもので、握りが掌に吸いつくように馴染む。矢筒には通常の矢が十本、それとは別に油紙で包まれた矢が三本。油紙の中身は、先端にスルク(トリカブトの毒)を塗った毒矢だ。

 

「はい」

 

「行くぞ」

 

 それだけだった。ペカンクㇽは振り返ることなく、森へ向かって歩き始めた。

 

 ハルコルは黙ってその背中を追った。

 

 

 

 朝靄の中に畑が広がっていた。

 

 去年の秋に刈り取られた畝が、黒い土を春の空気に晒している。ここは初期に開墾した第一圃場──五年前に最初のエモ(ジャガイモ)を植えた場所だ。エモの後に大豆を育て、今年はいよいよ三年目の作物、アワとヒエの番になる。

 

 畑の端に、ミナが立っていた。

 

 手に小さな袋を抱えている。中には、アワとヒエの種が入っている。ミナは朝の霜が溶けるのを待ってから、土の状態を確かめるつもりらしい。帳簿の木板を脇に挟み、畝の土を指先で摘まんでは崩している。

 

「ハルコル。今日、蒔くわよ」

 

「ああ。土の中は?」

 

「十分。昨日から五日続けて計っているけど、地面の中が凍っていない。畑に霜柱が立たなくなって三日目。大豆の後の土だけど、畝の配置は去年と同じでいい?」

 

「頼む。アワとヒエは根が浅いから、畝を少し低く作り直してくれ。排水は大豆の時ほど要らない」

 

「分かった。畝の高さは帳簿に残しておくわ。来年の菜種の参考になる」

 

 ミナが軽く頷いた。視線はもう土に戻っている。

 

 ペカンクㇽはその会話を横で聞いていたが、何も言わなかった。ただ、畑の広さを──かつてはただの広葉樹の森だった場所に、今は整然と畝が並んでいる光景を──ゆっくりと見渡しただけだった。

 

「行くぞ」

 

 再び、短い一言。

 

 ハルコルは畑に背を向けた。ミナの姿が朝靄の中に小さくなっていく。

 

 

 

 畑の向こうに、別の光景が見えた。

 

 チセ(家屋)が増えている。

 

 六年前──ハルコルが前世の記憶を取り戻した時、ニプタイのコタンにはチセが十数棟しかなかった。川沿いの小さな集落。冬を越すたびに何人かが飢え、何人かが病で倒れ、人口は緩やかに減り続けていた。

 

 今、チセは四十棟を超えている。

 

 エモが根付いた結果だった。冬の飢えが消えた。子どもが死ななくなった。飢えを恐れて山奥へ散っていた小さなコタンの家族が、食料の安定を求めてニプタイに集まり始めた。さらに、オニビシ陣営の海沿いの争いから逃れてきた難民を受け入れ、同盟コタンからも若い働き手が移り住んできた。

 

 その人間を養っているのが、エモだった。

 

(前世の日本史で、稲作が国家を作ったように。この大地では、エモが人を集め、人が集まることで技術が生まれ、技術が更に人を養う。……その循環がようやく回り始めた)

 

 だが今日は、畑のことも、数字のことも、もう考えない。

 

 今日は、父と山に入る日だ。

 

 猟を初めて直に教わる日。アイヌの大人への一歩を踏み出す日だ。

 

 

 

 

 

 

 ペカンクㇽは、ニプタイの裏手から沢筋に沿って山に入った。

 

 踏み跡はない。道など、ない。けれどもペカンクㇽの足は一度も迷わなかった。倒木を跨ぎ、笹藪を掻き分け、沢の石を踏んで渡る。その全てが、考えるより先に体が動いているように見えた。三十年以上この山を歩いてきた男の足が、地面の起伏を丸ごと覚えている。

 

 ハルコルは遅れずについていった。十二歳になった体は、去年より一回り大きくなっている。肩幅はまだ狭いが、脚は伸び、山道を歩く足取りに以前ほどの危うさはない。カントに「もう少し肉をつけろ」と言われ続けた体も、毎朝の弓の弦引きと、冬の間の製鉄所での砂鉄運びで、少しずつ筋がつき始めていた。

 

 それでも、ペカンクㇽの背中は遠い。

 

 音がしないのだ。あの体格で、あの重い荷を背負って、枯れ枝を一本も踏まない。落ち葉を踏む音すら、風の音に紛れて消える。ハルコルが一歩ごとにパキリ、サクリと音を立てるのとは、次元が違った。

 

(これが、本物の猟師の歩き方だ。この技術は直にしか学べない)

 

 半刻ほど登ったところで、ペカンクㇽが足を止めた。

 

 沢が二股に分かれる場所。右の沢はトドマツの暗い森の奥へ続き、左の沢は陽の差す笹原に開けている。

 

「昨日、ここに仕掛けた」

 

 ペカンクㇽが左の沢の縁を指さした。

 

 ハルコルは目を凝らした。何も見えない。笹の根元と、苔の付いた石と、黒い腐葉土しか見えない。

 

「……見えない」

 

「そこだ」

 

 ペカンクㇽが一歩進み、笹の根元をそっと掻き分けた。

 

 細い蔓が一本、地面すれすれに張られていた。蔓の端は曲げた若木の枝に結ばれ、その枝の先に輪が作ってある。獣が蔓に足をかけると枝が跳ね上がり、輪が足首を締める。クㇽ(罠)だった。

 

「エゾウサギのクㇽだ。蔓はマタタビの皮を編んだもの。ウサギはマタタビの匂いを嫌わない。麻の紐では匂いで気づかれる」

 

 ペカンクㇽが罠の構造を示しながら、短い言葉で説明した。言葉は少ないが、指先の動きが雄弁だった。蔓の張り方、若木の選び方、枝の曲げ具合。一つ一つの所作に、長い歳月の中で積み上げられた知恵が凝縮されている。

 

「場所はどう選んだの」

 

「糞だ」

 

 ペカンクㇽが地面を指さした。腐葉土の上に、小さな丸い粒がいくつか散らばっている。薄茶色の乾いた糞。

 

「エゾウサギの糞は丸い。シカのように固まらず、バラバラに落ちる。この糞の散らばり方を見ろ。一箇所に固まっているだろう。ウサギは同じ場所で繰り返し糞をする。この場所を毎夜通っている証拠だ」

 

 ハルコルは膝をつき、糞の散らばり方を観察した。確かに、半径一尺ほどの範囲に二十個以上の粒が集中している。古いものは灰色に乾き、新しいものはまだ湿っている。

 

「この笹の根元を見ろ」

 

 ペカンクㇽが笹の茎を指でなぞった。根元近くの茎が、斜めに齧り取られている。断面が鋭い。

 

「ウサギの歯の跡だ。冬の間、雪の下でこの笹を齧っていた。雪が溶けて地面が出たから、今は夜にここへ来て芽を食う。……罠は、獣の習慣の上に仕掛ける」

 

 その言葉を聞きながら、ハルコルは地面の上に散らばる情報を読んでいた。

 

(糞の密度、茎の齧り跡、雪解けの時期。この三つから、この場所が獣道であることを父は読み取った。)

 

「かかっているか、確認するぞ」

 

 ペカンクㇽが先を歩いた。沢筋に沿って、同じような笹の根元を三箇所確認した。最初の二箇所は空振り。蔓は張られたまま、枝も曲がったまま。獣は通らなかったか、罠を避けたか。

 

 三箇所目。

 

 笹藪が乱れていた。蔓が引き伸ばされ、曲げた枝が跳ね上がり、その先の輪の中で──灰褐色の毛玉が、ぐったりと垂れ下がっていた。

 

 エゾユキウサギだった。後ろ足が輪に締められ、首を曲げて動かなくなっている。冬毛の白がまだ残り、背中から脇腹にかけて春の灰褐色に生え替わりつつある。大きい。後ろ足を伸ばせば、ハルコルの前腕ほどもある。

 

 ペカンクㇽが膝をつき、ウサギの体をそっと持ち上げた。まだ温かい。夜明け前にかかったのだろう。

 

「この毛の生え替わりを見ろ」

 

 ペカンクㇽがウサギの脇腹を指でなぞった。白い冬毛の下から、灰褐色の毛が出始めている。

 

「冬毛が半分残っている。まだ使える。もう半月も経てば完全に生え替わって、夏毛だけになる。毛皮を取るなら、今のうちだ」

 

 ペカンクㇽはウサギを革袋に収める前に、短い祈りを捧げた。声は出さない。目を閉じ、ウサギの頭をそっと撫で、何かを唇の中で呟いただけだった。

 

「カムイに、何と」

 

「送ってくれたことへの礼だ。……ウサギのカムイはな、自分の肉と毛皮を持って人間の国に遊びに来る。我々がその肉を食い、毛皮を使い、骨は丁寧に始末して送り返す。そうすれば、カムイは『この人間の国は居心地がいい。また来よう』と思ってくれる」

 

 ペカンクㇽの声は、いつもの重々しい調子とは少し違った。柔らかい、とまでは言わない。だが、カムイについて語る時の父の声には、普段は見せない穏やかさが滲んでいた。

 

「雑に扱えば、カムイは怒って二度と来なくなる。丁寧に迎え、丁寧に送る。それが猟師の務めだ」

 

 ハルコルは頷いた。

 

(アイヌの世界観では、動物は神──カムイ──が人間の世界を訪れる時に纏う衣のようなもの。狩猟は、神の訪問を受け入れ、感謝を持って送り返す儀式。)

 

 

 

 

 

 

 沢筋を離れ、尾根に向かって斜面を登った。

 

 陽が高くなるにつれて、霜が溶け、森の地面がぬかるんできた。腐葉土が柔らかくなり、足跡がくっきりと残る。

 

 ペカンクㇽが足を止めた。

 

「足跡がある。何の足跡か分かるか」

 

 泥の上に、小さな足跡が並んでいた。四つの指の跡が扇形に開き、爪の跡が前方に鋭く刻まれている。前足と後ろ足の跡が交互に並び、直線に近い列を作っている。

 

「キタキツネだ。爪の跡が深い。犬の足跡に似ているが、歩幅が狭く、一直線に並んでいる。犬は足跡がもっと乱れる」

 

「いつのものかわかるか」

 

 ハルコルは足跡の縁を見た。くっきりしている。だが、泥の表面に薄く霜が残っている部分もある。

 

「……昨夜のもの、だと思う。朝の霜が足跡の上に薄くかかっているから」

 

「その通りだ」

 

 ペカンクㇽが珍しく頷いた。

 

「霜の溶け方を見ろ。足跡の中に霜が残っているなら、足跡は霜が降りる前──つまり夜のうちにつけられたものだ。足跡の上に霜がなければ、朝になってからつけられた。……これだけで、獣がいつここを通ったか分かる」

 

 さらに尾根を進んだ。

 

 別の足跡が現れた。こちらはキツネより大きく、丸みを帯びている。指の開き方がキツネとは違い、爪の跡がほとんどない。

 

「エゾタヌキ」

 

 ペカンクㇽが言った。

 

「キツネとの違いは、爪の跡の有無だ。タヌキの爪は短く、丸く、泥に残りにくい。それと、歩き方が違う。キツネは一直線に歩くが、タヌキはよたよたと蛇行する。足跡の列が曲がっているだろう」

 

 確かに、足跡は左右にふらふらと揺れていた。

 

「沢の水を飲みに来た。タヌキは水場の近くに巣穴を持つ。この足跡を追えば巣穴に辿り着くが、春のタヌキは痩せている。冬の脂を使い果たした後だ。獲っても肉が少ない。秋まで待て」

 

 ペカンクㇽはそれだけ言って、また歩き始めた。獲る必要のないものは追わない。その判断に迷いがなかった。

 

(必要なだけ獲る。必要でなければ獲らない。でも、何を「獲らないか」を決めることの方が、ずっと難しい)

 

 

 

 

 

 

 昼を過ぎた頃、ペカンクㇽが木の根に腰を下ろし、背負い袋からペミカンを取り出した。ハルコルも隣に座り、同じものを口に入れた。

 

 無言で食べた。

 

 ペカンクㇽは、座ったままでも森を見ていた。視線が止まらない。風の向き、木の葉の揺れ、遠くの鳥の声。全てを同時に読んでいる。

 

「父さん」

 

「なんだ」

 

「ここ数年で、森が変わった気がする」

 

 ペカンクㇽの咀嚼が、一瞬止まった。

 

「……お前も気づいたか」

 

 ペカンクㇽがペミカンを飲み込み、立ち上がった。尾根の向こう側を指さした。

 

「昔は、この尾根を越えたところにシカの群れがいた。毎年春になると、十頭、二十頭の群れが沢筋に降りてきて、新芽を食った。罠を仕掛けるのも、待ち伏せるのも、あの沢だった」

 

「今は」

 

「来ない」

 

 ペカンクㇽの声に、嘆きはなかった。事実を述べているだけだった。

 

「三年ほど前から、この尾根を越えるシカが減り始めた。去年の冬は、一頭も見なかった」

 

「何が原因」

 

「いくつかある」

 

 ペカンクㇽが森の奥を見つめた。

 

「人が増えた。ニプタイのコタンが大きくなり、畑が広がった。人間の匂いと煙が、森の奥にまで届くようになった。シカは臆病な獣だ。人の気配が濃くなれば、遠くへ行く」

 

「群れの道が変わったなら、猟師も変わらなければならない。去年の冬から、俺は新しい道を探していた」

 

「見つかったの」

 

「今日、試す」

 

 ペカンクㇽが立ち上がり、尾根を東へ向かって歩き始めた。

 

「シカの群れは、この尾根の東側──サㇽ川の上流寄りに移った。人の匂いが薄く、沢の水が綺麗な場所だ。新芽が多い。あそこなら、春にシカが集まる」

 

 

 

 

 

 

 東の沢に着いたのは、日が西に傾き始めた頃だった。

 

 沢の両側に、ダケカンバの白い幹が並んでいる。木の根元に新芽が萌えている。エゾノリュウキンカの黄色い花が、沢の水際にこんもりと咲き、その向こうの日向に──地面が踏み荒らされた一帯が見えた。

 

 シカの食み跡だった。

 

 笹の茎が齧り取られ、若芽が食い散らかされている。地面には無数の蹄の跡と、丸い糞が散らばっていた。

 

「いたぞ」

 

 ペカンクㇽの目が細くなった。猟師の目だった。

 

「糞が新しい。今朝の分だ。群れは朝にここで食って、今は森の奥で休んでいる。日が暮れる前にもう一度出てくる」

 

「待ち伏せだね」

 

「ああ。だがその前に、やることがある」

 

 ペカンクㇽが革袋から、油紙に包まれた小さな壺を取り出した。蓋を開けると、黒い粘り気のある液体が入っている。鼻をつく、甘い腐敗臭のような匂い。

 

 スルクだった。

 

 トリカブトの根を砕き、煮詰め、発酵させた猛毒。矢の先端に塗れば、傷口から毒が獣の血に入り、やがて心臓を止める。アイヌの狩猟を支えてきた、最も古い技術の一つ。

 

「見ていろ」

 

 ペカンクㇽが矢筒から一本の矢を取り出した。矢の先端には、カニタが打った自製鉄の鏃がついている。去年まで和人の古釘を打ち直したものだった鏃が、今年から自製鉄に替わった。切っ先の鋭さが、火に照らされた時とは違う、青白い鈍さを帯びている。

 

 ペカンクㇽはスルクの壺に矢先を浸し、ゆっくりと回した。黒い液体が鏃の溝に染み込んでいく。

 

「塗りすぎるな。鏃の溝に染み込む分だけでいい。垂れるほど塗ると、弓を引く時に手についたり、矢が飛ぶ時に風で吹き飛んだりする」

 

「溝があるのは、毒を保持するためなんだね」

 

「そうだ。カニタが打った新しい鏃には、この溝が深く彫られている。古い和人の鉄よりも、毒の乗りがいい」

 

 ペカンクㇽが毒矢を乾かす間に、周囲を確認し始めた。風向き、木の配置、地面の傾斜。視線が素早く動き、場所を選んでいく。

 

「風はどちらから吹いているかわかるか」

 

「……東から」

 

「であれば、こちらから近づけばシカに匂いが届かない。あのダケカンバの陰に身を隠す。シカが食み跡に戻ってきたところを、三十歩の距離で射る」

 

 ペカンクㇽがダケカンバの太い幹の裏に身を寄せた。ハルコルもその隣に、体を小さくして座った。

 

 待った。

 

 

 

 森が、静かだった。

 

 

 

 時折、遠くでアカゲラが幹を叩く音がする。コン、コン、コン、と。沢の水が石の間を流れる音が、途切れることなく続いている。風が梢を揺らすと、葉と葉が擦れてさらさらと鳴った。

 

(前世の僕は、こういう時間を持たなかった。あの会社の経理部にいた時、静寂は恐怖だった。数字が動かない時間は、何かが間違っている証拠だった。電話が鳴らない午後は、取引先が他社に流れた合図だった。……だから常に、動いていなければ不安だった)

 

(ここでは違う。待つことに意味がある。動かないことが、猟師の技術だ)

 

 ペカンクㇽは微動だにしなかった。呼吸すら聞こえない。目だけが生きていて、森の奥を見据えている。

 

 

 

 どれほど待っただろうか。

 

 

 

 ペカンクㇽの手が、ゆっくりと上がった。

 

 人差し指が、一本だけ立てられた。

 

 音はない。

 

 ハルコルは父が指さす方を見た。

 

 沢の向こう、笹の切れ間に──灰褐色の影が、静かに現れた。

 

 エゾシカだった。

 

 牡鹿。角がまだ袋角で、先端が丸く膨らんでいる。春の若い角だ。体は大きい。肩の高さがハルコルの胸ほどもある。その後ろに、もう一頭。牝鹿だ。角がない分、首が長く見える。

 

 二頭は警戒しながら、ゆっくりと食み跡の方へ歩いてきた。頭を上げ、耳を四方に向け、鼻先を風に突き出している。

 

 ペカンクㇽがスルクを塗った矢を弓につがえた。動作は恐ろしく遅い。矢を弦にかける指先が、蝸牛のように動く。弦を引く腕が、木の幹の陰から一寸ずつ出ていく。弓が少しずつ曲がる。

 

 シカは気づいていない。風下からの接近。匂いが届かない。音もない。

 

 牡鹿が食み跡の笹に頭を下げた。

 

 

 

 ヒュッ。

 

 

 

 空気を切る音。

 

 

 

 矢が牡鹿の首の付け根に刺さった。深く。鏃が肉の中に沈み、矢羽だけが残った。

 

 牡鹿がビクンと体を震わせた。頭を跳ね上げ、二歩、三歩と横に飛んだ。だが、走らなかった。走れなかった。四歩目で前脚が折れ、五歩目で膝がつき──ゆっくりと、横倒しになった。

 

 スルクの毒が、血を通って心臓に届いたのだ。

 

 牝鹿が跳ねて逃げた。笹藪に消える蹄の音が、数秒で森に吸い込まれた。

 

 

 

 静寂が戻った。

 

 

 

 ペカンクㇽが弓を下ろし、立ち上がった。

 

 倒れた牡鹿のもとへ、ゆっくりと歩いていった。ハルコルもその後ろに続いた。

 

 シカは横たわったまま、もう動かなかった。大きな黒い目が開いたまま、空を映している。喉の付け根に矢が一本。それ以外に傷はない。

 

 ペカンクㇽが膝をつき、シカの頭のそばに座った。

 

 背負い袋から、小さなイナウ(木幣)を取り出した。ナイフで削られた白い房が、風に揺れた。

 

 イナウをシカの角の根元に立て、ペカンクㇽは目を閉じた。

 

 

 

 そして、祈った。

 

 

 

「ユㇰカムイ(鹿の神)。お前は今日、自分の肉と毛皮を持って、我らの国に降りてきてくれた。我らはその恵みに感謝する。お前の肉は我らの命になり、毛皮は我らの子どもを寒さから守る。骨と角は丁寧に送り返す。……どうか、カムイの国に戻り、また来てくれ」

 

 感謝の祈りだった。

 

 仕留めた獲物の魂をカムイの国に送り返す儀式。言葉はアイヌ語で、低く、静かに、しかし一音一音に重みがあった。

 

 ハルコルは、父の横で膝をつき、黙ってその祈りを聞いていた。

 

 ペカンクㇽが目を開けた。

 

「お前もやれ」

 

「……僕が?」

 

「お前はもう十二だ。自分の弓で獲ったわけではないが、この猟に同行した。獲物の前で祈ることは、猟師になるための最初の一歩だ」

 

 ハルコルは牡鹿の大きな黒い目を見た。

 

 光を失った瞳が、春の空を映している。

 

 言葉が出なかった。

 

 前世の知識が、何の役にも立たなかった。効率化も、計算も、前世で叩き込まれた経理の技術も。この瞬間に必要な言葉は、どこにも書かれていない。

 

「……ユㇰカムイ」

 

 ハルコルは、ゆっくりと口を開いた。

 

「あなたが来てくれたことに感謝します。……僕には、まだあなたを送るのに足る言葉がありません。でも、あなたの命は無駄にしない。それだけは」

 

 短い、拙い祈りだった。

 

 ペカンクㇽは何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。

 

 

 

 解体は、その場で行った。

 

 ペカンクㇽがマキリ(小刀)で手際よくシカの腹を割き、内臓を取り出した。心臓と肝臓は革袋に入れて持ち帰る。腸と胃は沢の水で洗い、干して保存食にする。血は溝を掘って大地に還した。毛皮は丁寧に剥がし、肉は骨に沿って切り分け、背負えるだけの量を革袋に収めた。

 

 残りの骨と角は、木の根元にまとめて置いた。

 

「次に来る獣が食う。キツネが来て、それからカラスが来る。最後に土に還る。何も無駄にはならない」

 

 作業の間、ペカンクㇽは一度も急がなかった。刃を入れる位置を誤らず、肉と骨の間を正確に切り分けていく。ハルコルも手伝ったが、同じ刃物を持っているのに、肉への食い込み方が全く違う。刃の角度、力の入れ方、引く方向。全てが、何十年もの反復の上に成り立っていた。

 

(これが、この大地で生きるということの根幹だ。獲物を仕留め、解体し、感謝する。)

 

 

 

 

 

 

 帰り道は、来た道とは別の尾根を通った。

 

 日が沈みかけていた。西の空が茜色に染まり、トドマツの黒いシルエットが尾根に並んでいる。シカの肉を詰めた革袋が背中に重い。ペカンクㇽの背中には、ハルコルの倍以上の量が載っているはずだが、歩調は変わらない。

 

「父さん」

 

「なんだ」

 

「さっき言っていた。森が変わった、と」

 

「ああ」

 

「変わることは、悪いことかな」

 

 ペカンクㇽがしばらく黙った。

 

 尾根を一つ越えた。眼下にニプタイが見えてきた。夕暮れの薄闇の中に、チセの屋根から立ち昇る煙が幾筋も見える。四十棟以上のチセ。人の声と、子どもの笑い声が、遠くから風に乗って届いてきた。

 

「森は変わる」

 

 ペカンクㇽが言った。

 

「シカの道が変わり、ウサギの巣穴が移り、キツネの出る沢が変わる。それは昔からそうだ。冬が厳しければ獣は減り、春が暖かければ増える。火が出れば森が焼けて、焼けた跡に新しい草が生え、草に誘われて獣が戻る」

 

「でも今の変化は、人が原因だ」

 

「……ああ。だが、人も同じだ。日照りが続けば飢えて減る。川が暴れれば流され減る。程度が違うだけで、どこまでいっても同じなのを忘れてはならない。驕ってはならない」

 

 ペカンクㇽの足が止まった。

 

 眼下のコタンを見下ろしている。煙の数。チセの数。畑の広さ。その全てが、六年前とは違う村の姿だった。

 

「人が増えた。子どもが死ななくなった。飢える者がいなくなった。それは──良いことだ」

 

 ペカンクㇽの声に、一瞬だけ、かすかな躊躇が混じった。

 

「だが、人が増えれば、森への負担が増える。畑が広がれば、獣の住む場所が狭くなる。獣が減れば、猟師の腕だけでは追いつかなくなる。……それも、事実だ」

 

「どうすればいいの」

 

「変わることを拒むのではなく、変わることを受け入れて、その上で猟師としての目と耳と足を磨く。シカの道が変わったなら、新しい道を探す。ウサギが来なくなった場所には罠を仕掛けず、来るようになった場所に仕掛ける。……森を、読み続けるしかない」

 

 ペカンクㇽが歩き始めた。

 

「森も、変わる。だから猟師も変わる」

 

 その背中が、夕日を受けて赤く染まった。

 

「変わらないのは、感謝だけだ」

 

 

 

 

 

 

 門をくぐると、ミナが待っていた。

 

 畑の端に立っている。夕暮れの光の中で、手のひらに何かを載せて見せた。

 

「蒔いたわよ。アワとヒエ。第一圃場の全部の畝に」

 

「早いな」

 

「待ってたの。土の温度が丁度良かったから。数日後にはもう芽が出るかもしれない」

 

 ミナの声は淡々としていたが、その目は少し輝いていた。輪作三年目の最初の種蒔き。五年前にエモを植えた場所に、今度はアワとヒエが入る。大地は、四年で一巡する輪を刻み始めている。

 

「来年は菜種ね。それで一巡する」

 

「ああ。一巡する」

 

「帳簿に記録したわ。蒔いた日、種の量、畝の配置、土の状態。全部」

 

 いつものミナだった。

 

 ハルコルは背中の革袋を門の内側に下ろした。シカの肉の重みが肩から消え、ぐっと体が軽くなった。

 

 ペカンクㇽは、ミナに一言「ご苦労だった」とだけ言い、シカの肉を背負ったまま、自分のチセへ向かった。その背中に、夕日の最後の光が当たっていた。

 

 

 

 ハルコルはしばらく、その背中を見送っていた。

 

 

 

 

 

 

 夜。

 

 囲炉裏の前で、ハルコルは一人、火を見つめていた。

 

 今朝獲ったシカの肉が、炉の上で薄く切られて干されている。心臓と肝臓は明日の朝に村の者たちで分ける。毛皮はペカンクㇽが自分で鞣すと言った。

 

 ウサギの毛皮は、ミナに渡した。冬の手袋に使えるだろう。

 

 火がパチリと爆ぜた。

 

 

 

(今日、父に教わったこと)

 

(罠の仕掛け方。足跡の読み方。風の利き方。スルクの塗り方。シカの待ち伏せ。祈りの言葉)

 

(どれも、前世の知識にはないものだった。帳簿にも、教科書にも、ビジネス書にも書かれていないもの。大地の上で、体で覚えるしかないもの)

 

(今日、父は──森の歩き方を教えてくれた。罠の仕掛け方を。足跡の読み方を。獲物の前での祈り方を)

 

(言葉は少なかった。説明もほとんどなかった。ただ、やって見せた。黙って歩いて、黙って仕掛けて、黙って射って、黙って祈った。その背中を追うだけで、僕の体に何かが刻まれていった)

 

 

 

 火が、また爆ぜた。

 

 

 

 目の奥が、少しだけ熱くなった。

 

 

 

 囲炉裏の火がパチリと爆ぜた音が、やけに大きく聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 翌朝。

 

 チセから出たところで、遠くから子どもの泣き声が聞こえた。生まれたばかりの赤子だろう。人が増えている。エモが人を養い、人が集まり、村が大きくなっていく。

 

 製鉄所の方角から、天秤鞴を踏む音が聞こえてきた。ドン、ドン、と。カニタが今日も炉に火を入れた。銃身に耐える鉄を求めて、試行錯誤を続けている。

 

 

 

 ハルコルは、畑の先に広がる森を見た。

 

 昨日、父と歩いた森。シカの道が変わり、ウサギの巣穴が移り、それでも春が来れば新芽が萌え、花が咲き、命が巡る森。

 

 

 

 製鉄所の鞴の音。

 

 畑の向こうの子どもの声。

 

 森から吹いてくる、春の風。

 

 

 

 ハルコルは深く息を吸い、工房へ向かった。

 

 

 

 今日もまた、変わるために動く。




第28話をお読みいただき、ありがとうございます!


おまけの解説コーナーです。

【アイヌの狩猟──自然と共に生きる技術と思想】
 アイヌの狩猟は、単なる食料調達の手段ではありません。
それは「自然と共に生きるための体系化された知恵」であり、同時に「カムイ(神)との関係性」を保つための文化的営みでもありました。


【カムイ(神)の贈り物】
 アイヌの世界観では、シカやクマ、ウサギといった動物はすべて「カムイ(神)」が人間の世界に姿を変えて訪れた存在とされます。

つまり狩猟とは、
「命を奪う行為」ではなく
「カムイから贈られた恵みを受け取る行為」
と捉えられていました。

そのため、獲物を仕留めた後には感謝の祈りを捧げ、
肉や毛皮を使った後は、骨や頭骨を丁寧に扱い、カムイの国へ送り返す儀礼が行われます。

この「丁寧に迎え、丁寧に送る」という思想が、アイヌの狩猟文化の根幹です。


【罠(クㇽ)と弓矢】
 アイヌの狩猟では、効率と安全性を両立するために様々な技術が使われました。

・罠(クㇽ)
エゾウサギなど小動物には、蔓や木の弾力を利用したくくり罠が使われました。
獣の習性──通り道や餌場──を正確に把握することが前提となります。

・弓矢
シカなど大型獣には弓矢が用いられました。
矢の鏃には溝が刻まれ、そこに毒を保持できる構造になっています。


【毒(スルク)──トリカブトの利用】
 アイヌはトリカブトの根から抽出した毒「スルク」を矢に塗って使用しました。
この毒は心臓の働きを止める強力な神経毒で、深く刺さった場合、獲物はやがて力を失い倒れます。



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