オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~ 作:サウス
寛文二年(一六六二)、夏。
松前福山館の表門は、未明から松明と提灯の光に煌々と照らされていた。
藩主・松前高広(まつまえたかひろ)、数えで二十歳(はたち)。
本来であれば、五年に一度許されるはずの参府──だが、松前藩の参勤は今、三年に一度に切り詰められていた。
松前藩主の参勤は、もとより他のいかなる藩とも違う特例であった。津軽・南部・仙台といった奥州の諸大名が一年交代で江戸と国許を往復するのに対し、松前家のそれは「五年に一度、江戸滞在は四箇月ほど」──幕府が辺境の蝦夷島主にだけ与えた、極めて軽い恩典である。
しかし、その恩典が、今の松前家には剥(は)がされていた。
高広自身が、六歳で家督を継いだ。幼年であったがゆえに、参府を怠った。重臣どもが「殿はまだ幼少にござる」と幕府に申し開きをし、何度も参府を見送った。──その積み重ねが、幕閣の不興を買った。
「幼主であろうと、参勤の儀は怠るべからず」
ある時、御老中から、そう冷たい沙汰が下った。以来、松前家の参勤は、五年から三年へと縮められた。あと数年で、ようやく元の五年一勤に戻してもらえるかもしれぬ──と、家老が幕閣の機嫌を伺い続けている。それが現状だった。
(……昔のしくじりが、いまだに尾を引いている)
高広は、駕籠に乗り込む直前、館の正門を見上げて、ふと、そう思った。
(六歳のワシには、何の責もなかった。重臣どもが勝手にワシを担ぎ、勝手に参府を怠った。──だが、幕府にとっては、それは「松前家の不行儀」だった)
(──忘れぬぞ。あの恩典を奪った幕府の冷たさも。あの冷たさを招いた、重臣どもの怠慢も)
奥州の大名たちは、酒席で松前家のことを陰口した。本州の藩から見れば、松前など石高もない、米一粒育たぬ最果てに過ぎない。家格は「客臣」、城は「館(たて)」と呼ぶしかない簡素な陣屋。江戸城内の控室では、奥羽の諸侯から距離を置かれ、譜代の旗本からは「珍しい物」を見るような目を向けられる。
高広自身も、それを知っていた。
知っていて、なお──蝦夷地に戻れば、その鬱屈の倍も三倍も、アイヌどもに返してきたのだった。
卯の刻。日の出と同時に、館の正門から行列が動き出した。
行列が、館前の馬出口(うまだしぐち)に近づくと──道の両側に、既に大勢の見送りの人々が、ずらりと並んでいた。
藩の家臣たちは無論のこと、商場(あきないば)知行を与えられた藩士(知行主)たち、神明社の神官(現在の徳山大神宮)、法幢寺の僧侶、城下の株仲間、町年寄(まちどしより)、そして近在の村主(むらおさ)たち。総勢、百を超える数が、一列に整って、藩主の御出立(おしゅったつ)を、深く頭を下げて見送る。
その前夜から、神明社では「御日待神楽(おひまちかぐら)」が斉行(さいこう)されていた。順風(じゅんぷう)──松前から津軽半島・三厩(みんまや)へ渡海するのに最も良い、北および北西の風──を願う神楽である。神官たちが夜通し祝詞(のりと)を唱え、巫女が舞を舞い、藩主の道中の安泰と、何より「順風」を、神に願い続けた。
その甲斐あってか、この朝の風は──確かに、北寄りの、穏やかな風だった。
「殿。風、よろしゅうござります」
駕籠脇の用人が、恭しく告げた。
「うむ」
高広は短く頷き、見送りの列の中へ目を走らせた。
神官の白い衣、僧侶の黒い法衣、商人たちの羽織。商場知行主の中には、小林甚五兵衛(こばやしじんごべえ)、蠣崎七郎右衛門(かきざきしちろうえもん)──サㇽ(沙流)・シペチャリ(静内)・捫別(もんべつ)などの商場を請け負う、知行主の顔ぶれも見える。
彼らは、年に一度の交易で、蝦夷地の毛皮や鮭や昆布を吸い上げ、藩の御金蔵(おかねぐら)を満たす実務の担い手たちだ。
その人垣の中で、ひときわ目を引く一人の侍が、藩主の駕籠の前へ進み出て、深く頭を下げた。
蠣崎広林(かきざきひろもと)。
松前藩の家老(かろう)。寛永十一年(一六三四)生まれ、数えで二十九歳。
高広より、ちょうど九つ年長である。初代藩主・松前慶広の弟・正広(まさひろ)から派生した正広系蠣崎家──通称「蔵人(くらんど)流蠣崎家」──の当主であり、本家・松前氏とは別系統ながら、家門としては最も近い分家にあたる。高広は、新たにこの広林を家老としていた。
「殿。御無事の御参府、祈願しております」
「うむ。広林、留守を頼む」
「ハッ」
広林は、簡素な絹の小袖に、黒い肩衣(かたぎぬ)を纏っていた。歳のわりに口数が少なく、眼光だけが鋭い。藩主が国元を空ける四箇月の間、福山館の留守を堅く守り、藩政の実務を回し続けるのが、彼の役目である。
(……広林か)
高広は、駕籠の脇で頭を下げ続けるこの若い家老を、ふと、見つめた。
(ワシより九つ上、というだけで、ワシにとっては『大人』だ。──ワシが幼少の頃、重臣どもがワシを人形のように担いでいた頃、こいつは元服したばかりの若者だった。あの時、ワシを直接弄んだ蛎崎友広(かきざきともひろ)らとは違う系統の蠣崎家。──だからこそ、ワシは、こいつを家老に据えた)
(歳が近い、ということは、共に老いていけるということだ。ワシが死ぬまでの数十年。その間、こいつは、ワシの傍らにいる)
広林は、頭を下げたまま、淡々と続けた。
「殿のお留守の間、福山の政(まつりごと)、しかと取り仕切りまする。知行主どもの差配、和人地の徴税、──いずれも例年通り、滞りなく」
「結構。お主の判断に任せる。──知行主どもの上がりさえ細らねば、それでよい」
「ハッ」
広林の顔つきには、変化がなかった。
高広もまた、それ以上は問わなかった。
(蝦夷地の細々したことは、この男に任せる)
(ワシが幼少の頃、重臣どもがワシの頭越しに藩政を握って暴走した。あの轍(てつ)は踏まぬ。だが、現に蝦夷地で日々の交易の差配ができるのは、福山に常駐する家老しかおらぬ。──ならば、ワシの目の届く家老を、ワシが選んだ。それが、広林だ)
「行け」
高広の短い一言で、行列が、馬出口を抜け、福山の港へと下り始めた。
行列の規模は、おおよそ百七十人。
大藩であれば一千、二千を率いる参勤の列も、無高の松前家にとってはこれが精一杯だった。先頭に槍持ち、続いて挟箱(はさみばこ)、長持(ながもち)、徒歩衆(かちしゅう)、馬上の番頭、さらに側近、そして最も豪華に飾られた高広の駕籠(かご)。後尾には荷駄(にだ)の列が長く連なる。
その荷駄の中身こそが、松前家の真の正体であった。
長持の蓋を開ければ──将軍家綱への献上品が、品目ごとに、几帳面に分けて納められていた。
太刀(たち)・馬代(うましろ)──これは諸大名の参府における必須の儀礼献上である。
その上に、松前家ならではの蝦夷地の特産品が、品目を連ねる。
鮭披(さけひらき)──大ぶりの鮭を背開きにし、塩を効かせて干した最上品。
鮭塩辛(さけしおから)──桐の小樽に詰めた、独特の風味の保存食。
寒塩膃肭臍(かんしおおっとせい)──蝦夷地北方の海でしか取れぬ、海獣の塩漬け。「冬至(とうじ)に膃肭臍を喰(くろ)うと、滋養が三倍に増す」と、江戸城の御医師が珍重する一品。
鰊披(にしんひらき)、寄鰊子(よせかずのこ)、椎茸(しいたけ)、塩蕨(しおわらび)、串鮑(くしあわび)、藻魚披(そいひらき)──奥州諸藩でも入手の容易ならぬ、北の海と山の幸が、桐箱に納められて、長持に積まれている。
別の長持には、蝦夷地でしか取れぬ熊膽(くまのい)──熊の胆嚢(たんのう)を乾燥させた最高級の漢方薬。
さらに別の長持には、貂(てん)・狐(きつね)・熊・川獺(かわうそ)の毛皮の束。砂金を詰めた革袋。御緒留(おどめ)、御根付(おねつけ)──蝦夷地で手作りされた、装飾の品々。
そして、行列の最後尾近くに、特別に厚く布で囲われた、一台の屋形(やかた)駕籠があった。
そこには、御鷹(おんたか)が、納められていた。
駕籠と呼ぶには、それは形が違う。むしろ、駕籠の体裁を借りた、移動式の鳥籠(とりかご)であった。
四方を綿入れの厚い布で覆い、内部には松の生木で組んだ止まり木が固定されている。布の外側には、雨風を凌ぐ油紙が幾重にも重ねられていた。
その止まり木に──松前家秘蔵のオオタカが、二羽、足革(あしかわ)で繋がれて、静かに目を閉じていた。
うち一羽は、純白に近い羽色を持つ「白斑(はくはん)」。蝦夷地の山深くで鷹匠が三年かけて手懐けた、一級品の御鷹である。
もう一羽は、それより小ぶりだが俊敏なオオタカで、こちらも将軍家綱への献上用。
松前藩から幕府への献上品の中で、鷹は別格の扱いを受けた。
将軍家の愛用となるため、丁重に扱われ、幕府からは「鷹逓符(たかていふ)」と呼ばれる特別の通行手形が交付されている。籠に載せて行列を組み、宿場ごとに「御鷹がお通りなり」と高札が立つ。
その鷹逓符には、ある「条件」が付いていた。
鷹が宿場で一泊する場合──
「宿場役人は、鷹の餌として、雀二十羽以上、または相応の生餌を、必ず用意すべし」
これは、鷹の生餌(なまえ)の確保が、藩主一行の責任ではなく、宿場側の義務とされていることを意味した。鷹一羽が一日に必要とする生肉の量は、それほどに多い。鷹を一日生かすために、各宿場は、毎回、町中の鳥屋(とりや)を駆けずり回り、雀の罠を仕掛ける百姓に銀を握らせねばならぬ。
松前藩の参勤交代──ことに鷹を伴うこの行列は、五年に、いや今は三年に一度のことであるとはいえ、各宿場にとって、まことに迷惑な来訪者だった。
が、迷惑であろうと、鷹逓符の威光に逆らうことは、できぬ。
二羽の鷹の傍らには、鷹匠頭の白井(しらい)と、その若い手代が、朝のまだ薄暗い時から張り付いていた。
「──白井よ。鷹は、よう連れて行け」
駕籠の脇から、高広が声をかけた。
白髪混じりの鷹匠頭は、深く平伏した。
「ハッ。命に代えても」
「江戸まで二十数日、長い道だ。鷹逓符は携えておるな?」
「はい、しかと懐(ふところ)に」
「結構。──宿場の役人どもに、雀でも兎でも、遠慮なく出させよ」
「ハハッ」
高広は満足げに頷き、駕籠の脇を離れた。
港に着くと、桟橋の沖に、松前家の御座船(ござぶね)が、すでに帆を畳んで待機していた。
船の名は、「長者丸(ちょうじゃまる)」。
松前家の参勤交代に代々用いられてきた、三百石積みの大型弁才船である。隣には、もう一隻、貞祥丸(ていしょうまる)が控え、藩士たちと荷駄を分担して運ぶ供船(ともぶね)を務める。
しかし、長者丸も貞祥丸も、岸壁から離れた沖に錨(いかり)を下ろしていた。福山の港は遠浅で、大型船が直接岸壁に着けることはできぬ。藩主は、まず端舟(はしぶね)──小さな艀(はしけ)──に乗り、本船まで漕ぎ寄せて、そこから乗り移ることになる。
高広は駕籠を降り、家臣たちに見送られながら、桟橋から端舟に乗り移った。鷹匠の白井と、二羽の鷹を納めた特製の鳥籠も、別の端舟で、丁寧に運ばれていく。
艀の櫓(ろ)が軋み、長者丸の船腹に近づいていく。
長者丸の船縁(ふなべり)には、縄梯子(なわばしご)と、藩主専用の登船(とうせん)の踏み板が、丁寧に下ろされていた。
高広は、家臣たちの手を借りて、本船の甲板に登った。
甲板の上座に置かれた畳に脇息(きょうそく)を抱えて座り直すと──港の方から、ゆっくりと、異様な数の小船が、長者丸と貞祥丸の周囲に集まってきた。
四十艘、いや、五十艘はあろうか。
漁師たちの小舟である。一艘ごとに二人、三人が乗り、先端に縄を結びつけている。
「殿。順風ではござりまするが、本船を潮路(しおじ)に乗せまするまで、町(まち)の小舟で曳(ひ)いてまいりまする」
船頭が告げた。
高広は頷いた。
大型の弁才船は、風を捉えて走るためには、まず港の波の弱い場所から、津軽海峡の本流──日本海の暖流と太平洋の潮が交わる潮路──まで、引き出さねばならぬ。風だけでは間に合わぬ。そこで、漁師たちの小舟が、寄ってたかって縄を引き、人力で本船を沖へと曳航(えいこう)するのである。
「──エンヤァ、エンヤァ」
「──ヨーヤサァ、ヨーヤサァ」
漁師たちの掛け声が、夏の朝の海に響き渡った。
四十数艘の小舟が、一斉に櫓を漕ぎ、長者丸を、ゆっくりと、しかし確実に、沖へ引いていく。船腹が軋み、帆柱の縄が鳴る。岸壁の見送りの人々──神官、僧侶、商人、町年寄、村主──が、深く頭を下げ続けている。
その中で、ひときわ姿勢を正して立ち続ける、家老・蠣崎広林の姿が、長者丸の上の高広の目にも、はっきりと見えた。
(……広林、頼んだぞ)
高広は、心の中で、遠ざかる若き家老に短く呟いた。
半刻(はんとき)ほどの曳航ののち、長者丸はようやく潮路に乗った。
漁師たちは、縄を解き、小舟を反転させ、港へと戻っていく。
長者丸の帆が、北寄りの順風を受けて、白く膨らんだ。
「殿。潮路、確認」
船頭が、舵柄(かじづか)を握り直しながら告げた。
「うむ」
高広は、脇息に肘を預け、ゆっくりと福山の方角を振り返った。
遠ざかる、福山館の物見櫓。そして──その背後の山。
七面山(しちめんざん)。
長者丸が潮路に乗った、その瞬間──。
港の物見が、すかさず早馬(はやうま)で駆け出した。
目指すは、福山館の南、七面山の山下(さんか)に設けられた、藩の狼煙台(のろしだい)である。
「殿、御船、無事に潮路。狼煙、上げよ」
物見の報せが届くと、狼煙台の番士たちは、ただちに藁(わら)と松葉(まつば)に火を付けた。生木の松葉が混じった煙は、白く、太く、まっすぐに、夏の青空に向かって立ち上った。
その煙を、白神岬(しらかみみさき)の狼煙台が、すかさず確認する。
白神岬の番士もまた、ただちに自分のところの火を付ける。煙が、海峡を越えて、対岸へ向かう。
その対岸では──津軽半島の最北端、龍飛崎(たっぴざき)突端の狼煙台が、白神の煙を受け止めて、即座に応える。
龍飛崎の煙が上がれば、それは三厩(みんまや)の本陣・脇本陣に「松前様、本日御渡海」を知らせる合図となる。
松前の七面山──白神岬──龍飛崎。
三つの狼煙台を、白い煙が、リレーで結んでいく。
御座船・長者丸の上から、高広は、その第一波──福山の七面山下から立ち上がった煙を、確かに目で捉えた。
(……上がったか)
脇息に肘を預けたまま、薄目を開けて、煙を見上げる。
長者丸の白い帆が、北西の風を捉えて、力強く膨らんでいた。
白神岬の沖を通過したのは、出発からおよそ二刻(ふたとき)ほど後だった。
「殿。白神の岬を抜けました」
舳先の見張りが、振り返って告げた。
高広は陸を見た。白神岬の高台に、白い煙が、ひと筋、太く長く立ち上がっている。
その煙は、海峡を越えて、対岸の龍飛崎へ向かう。
高広の目には、まだ龍飛崎の応えの煙までは見えぬ。だが、しばらくして──。
「殿、龍飛、応えの煙、確認しまいてござります」
舳先の見張りが、再び声を上げた。
高広は、目を細めて、対岸の津軽半島の山陰を凝視した。
遠く、霞(かすみ)んだ山並みの向こうから──ひと筋、白い煙が、ゆっくりと立ち上がっていた。
(──龍飛か)
あの煙台を守っているのは、宇鉄(うてつ)の清八(せいはち)という、土地の猟師だった。松前藩が彼を足軽格(あしがるかく)に取り立て、年に手当を支給して、専属で煙台を管理させている。山に詳しい猟師でなければ、深い森と急峻(きゅうしゅん)な岬の高地に常駐し、海上の船を見張ることなどできぬ。
清八は、五年に一度──いや、近年では三年に一度──松前家の御座船が津軽海峡を渡るその日が近づくと、龍飛の番屋に住み込み、毎日、海と煙の支度を続けてきた。
長者丸は、その白神と龍飛の狼煙の間を、ゆっくりと、しかし確実に、渡っていく。
昼過ぎ、長者丸は三厩の港に入った。
桟橋には、津軽藩の出迎えの役人と、地元の本陣役・山田屋庄右衛門(やまだやしょうえもん)、脇本陣役・安保(あぼ)幸右衛門の主従が並び、深く頭を下げていた。
山田屋──通称「松前屋」──は、代々松前家の三厩本陣を勤めてきた家である。家作の修理や端舟の建造には、松前藩から助成が出るのが慣例であった。屋号を「松前屋」と名乗るのも、そのためである。
その隣に控える脇本陣・安保家もまた、松前家との縁が深い。さらに、町には旅籠(はたご)忠兵衛などもあり、三厩村は、蝦夷地渡海の一大拠点(いちだいきょてん)として栄えていた。
「殿、御無事の御渡海、何よりにござります」
山田屋庄右衛門が、深く頭を下げた。
高広は短く頷き、本陣へと向かった。
松前家の参勤交代の海路は、まだ完全に「松前→三厩」のルートに固まっているわけではない。先代の頃まで、松前家は白神岬・龍飛崎の間の最も狭い海峡──「龍飛・白神・中の潮(なかのしお)」と呼ばれる、最も危険で潮流の激しい箇所──を避けるため、対岸のさらに西、小泊村(こどまりむら)に上陸する経路を取っていた時期もあった。
今回、高広は──御日待神楽の祈願した順風が見事に届いたこともあり──三厩への直行路を選んだ。
◆
松前から江戸まで、海路と陸路を組み合わせた「松前道中」は、およそ二十五日から三十日を要する。
三厩を発った行列は、まず津軽藩領を南下する上磯街道(かみいそかいどう)──別名、松前街道──を進む。三厩から蟹田、青森と南下した。
津軽を抜けると、行列は奥州街道へと入っていく。
青森から小湊(こみなと)、野辺地(のへじ)、七戸(しちのへ)、五戸(ごのへ)、三戸(さんのへ)、一戸(いちのへ)、沼宮内(ぬまくない)──盛岡では、南部家から使者が立ち、酒肴(しゅこう)が届いた。花巻、水沢、金成(かんなり)、築館(つきだて)、古川──仙台では、伊達家の白石城に立ち寄り、馳走を受けた。白石(しろいし)、桑折(こおり)、郡山(こおりやま)──そして、白河(しらかわ)へ。
六ツ時(午前六時頃)に出立し、暮れ七ツ時(午後五時頃)に泊地に入る。途中で昼食を取り、人足の先触れ、宿割の手配を進めながら、雪の日も雨の日も一日も休まず、ただ前進するのみ。大名居城地に入る時には、供揃(ともぞろえ)を整え、黒濡羽(くろぬればね)の松前家の槍を揃え、その大名に表敬の意を捧げて進む。
白河の関を越え、宇都宮の宿。夕餉の膳にて、高広は箸を取り、白米をひと口、頬張っていた。
「……ふむ」
その白さに、その甘みに、その粘りに──微塵も驚かなかった。福山館でも、上方や仙台から取り寄せた米を毎日食している。蝦夷地が無高であろうと、松前家は本州の大名と何ら変わらぬ食卓を持っていた。蝦夷から吸い上げた金で、米を買えば良いだけのことだ。
驚かなかったが──白い飯を見つめる高広の眼の奥には、ある種の冷たい昂揚があった。
(これが、和人の国だ)
(米が獲れる国。武士が、米で家臣を養い、米で禄を払い、米で位を測る国)
(我が松前は、米を作らぬ。代わりに、蝦夷を作っている。蝦夷が我らに代わって、海と山から黄金を生み出してくれる)
(──そして、その黄金を、近江の商人どもが、敦賀(つるが)から琵琶湖を越え、京を抜け、中山道を伝って、こうして本州の津々浦々へ運んでくれる)
(米のかわりに、蝦夷を耕しているのだ)
高広は、白米をもうひと口、ゆっくりと噛んだ。
その夜半──。
宇都宮の宿の寝所で、高広は、ふと胸を押さえた。
「……ぐ」
軽い、しかし鋭い痛みが、左の胸から肩へと走った。
ほんの一瞬。すぐに消えた。
長旅の疲れだろう、と高広は息を吐いた。何日も駕籠で揺られ続けた。多少の疲れはあって当然だ。
高広は、それきり気にとめなかった。
寝所の灯りを消して、横になった。
外は、静かだった。
◆
千住大橋を渡ったのは、福山を発ってから二十六日目の昼であった。
松前家の上屋敷は、浅草(あさくさ)の誓願寺(せいがんじ)前(まえ)にある。
屋敷の総建坪は、譜代大名の藩邸と比べれば見劣りするが、表門は黒塗りに金の家紋(松前氏の家紋は「丸に割菱」)を打ち、長屋門の白壁が眩く陽を照り返していた。
高広は駕籠を降り、玄関の式台に立った。
江戸詰めの留守居役と、奥向きの女中たちが、深く深く平伏して出迎えた。
「殿。お疲れ様にございました。御無事のご到着、何よりにございます」
「うむ」
高広は奥へ向かいながら、ふと、廊下の途中で足を止めた。
奥の間の障子の向こうから、幼い、しかし張りのある声が聞こえてきた。
「父上ぇっ」
障子が、内側から、勢いよく開いた。
飛び出してきたのは、四つ(数え四歳)の男児だった。
万治二年(一六五九)生まれの、松前家嫡男・松前矩広(まつまえのりひろ)。
高広の世継ぎである。
江戸幕府の参勤交代制度では、大名の正室と世継ぎは江戸常住が原則だった。それゆえ矩広は、父と国許で暮らしたことがない。生まれてから、ずっと、江戸の松前藩邸で、母と乳母に育てられている。
「父上、父上っ」
矩広は、小さな手を、絹の袴の裾に絡ませた。
高広は、一瞬、戸惑った顔をした。
「……これが、矩広か」
「はい、殿。矩広様にござります。先月から、父上のお越しを、それは楽しみにしておられまして」
矩広の傍らには、養育係の老女中が控え、深く頭を下げていた。
高広は、しばし、久方ぶりの息子の顔をまじまじと見つめた。自分の顔を、確かに引いている。だが──幼い子の頬は、桃のように丸く、目には何の翳(かげ)りもない。福山館の冬の冷気を知らぬ、江戸の華やかさだけで育った、健やかな顔だった。
(……ワシが幼い頃は、こうではなかった)
高広の脳裏を、一瞬、暗いものが過(よぎ)った。
(ワシは六歳で家督を継ぎ、福山館の薄暗い大広間で、白髪の重臣どもに、人形のように担がれていた。──だから幼少の参府を怠り、その咎(とが)で、五年一勤の特典を奪われた)
(あの頃のワシには、こんな──父の袴の裾に飛びついて笑う、童(わらべ)の時間は、なかった)
「……矩広」
高広は、片膝をつき、息子の頭に手を置いた。
「大きゅう、なったな」
「父上、お土産は? お土産はあるかえ?」
「あるとも。──蝦夷地から、お前のためだけの、白い貂の毛皮を持ってきた。明日、見せてやろう」
「ええっ、白い貂!」
「ああ。雪の中でしか取れぬ、最上の品だ。お前の小袖の裏地に、仕立ててやろう」
「裏地、裏地がよい!」
矩広が、ぴょんと跳ねた。
高広は、その小さな頭をもう一度撫で、立ち上がった。
(──こいつには、ワシのような幼少を、味わわせてはならぬ)
(参勤を怠って、特典を奪われるような、そんな松前家にしてはならぬ)
(こいつはまだ、幼い。それは避けられぬ。だが、こいつには、後ろ盾がある。叔父上(おじうえ)が、いる。──ワシが幼い頃には、いなかった、本物の)
その「叔父上」は、奥の書院で、すでに高広を待っていた。
障子を開けると、上座の手前──藩主の席ではなく、わずかに下がった位置に──背筋の通った武士が、端座(たんざ)していた。
齢(よわい)は、四十代の半ばであろうか。質素な絹の小袖。腰には、刀ではなく、儀礼用の脇差(わきざし)。
松前泰広(まつまえやすひろ)。
第二代藩主・松前公広(まつまえきんひろ)の三男にして、高広から見れば、亡き父・氏広(うじひろ)の弟──伯父にあたる。だが本人は、藩主の座を継がず、若い頃に分家して、江戸幕府の旗本(はたもと)として徳川家に直接仕える道を選んだ。
現在、知行五百石。寄合(よりあい)の旗本として、本丸の役儀(やくぎ)を勤めている。
そして同時に──幼少から重臣たちに弄ばれ、参府を怠った咎で五年一勤の特典まで奪われ、二十歳になった今も、なお完全には自立しきれていない甥(おい)、藩主・高広の、唯一頼れる「江戸での後見人」であった。
「殿」
「叔父上」
高広は、上座に座した。
泰広は、深く頭を下げた。
「ご無事の御参府、まずは何よりにござります」
「うむ。──叔父上には、ご無沙汰しております」
「三年、でござりますな」
泰広は、わずかに、自嘲気味に微笑んだ。
「五年で来られたほうがよかったのですが、まあ、これは仕方ござらぬ。今のうちに参府を怠らず、幕府の御信任を取り戻せば、いずれ五年一勤に戻していただけましょう」
「左様」
「殿。今回の御参府、何があっても、お役儀は怠られませぬよう。御目見えの儀、御老中への献上、御本丸での御接待──すべて、滞りなく」
「うむ。──叔父上が、すべて段取りしてくださっておるのでしょう」
「ハッ。御目見えの差紙(さしがみ)、御老中・酒井忠清様より既に届いてござる。七日後、登城の支度を」
泰広は、淡々と、しかし的確に、四箇月の在府期間中の段取りを述べた。
高広にとって、江戸藩邸は、実質的には「叔父・泰広の管轄」であった。
高広は三年に一度しか江戸に来られない。江戸城内の儀礼、御老中とのやり取り、世継ぎの矩広の養育、奥向きの女中衆の差配、そして藩邸そのものの維持管理──それらすべてを、現地で取り仕切るのは、後見人の泰広の役目だった。
泰広自身は、藩主の座を望まなかった。三男である自分が、長子相続の松前家を継げる目はそもそもない。それを承知した上で、彼は若い頃に分家して旗本となり、徳川家直臣として独立した家を立てた。
しかし、本家とは、深い情で繋がり続けていた。
兄・氏広が二十七歳の若さで江戸藩邸で病没し、六歳の高広が後を継いだ時──泰広は、姪(めい)に当たる兄嫁を支え、幼い甥を陰から守り続けた。福山館での重臣たちの専横を、江戸から完全には防げなかったが──少なくとも、江戸の奥向きと、御老中・若年寄への取り次ぎだけは、泰広が高広のために整え続けた。
「叔父上」
高広は、ふと、付け加えた。
「福山の留守は、広林(ひろもと)に任せてまいりました」
「ほう。──蠣崎広林(かきざきひろもと)殿、家老に就かれてから、もう何年になりますかな」
「……二年ほどになります」
「左様。あの男であれば、心配はござりますまい」
泰広は、わずかに頷いた。
「広林殿は、お若い。──しかし、ワシから見れば、落ち着いておられる。蠣崎の本家筋のあのお家系は、皆、口数こそ少ないが、実務には抜かりがない。福山の留守を、四箇月、安心して任せられる男にござりまする」
「左様。──ワシも、そう見ておる」
「それでこそ、殿の御参府も、心安く務められまする」
高広は、頷いた。
(──広林と、叔父上)
(福山と、江戸)
(若き家老と、旗本の後見人)
(その二人に挟まれて、ワシは、ただ歩めばよい)
「叔父上」
高広は、ふと、付け加えた。
「矩広は、健やかでござるな」
「ハッ。よう、育っておられまする。──殿のような幼少の苦労は、矩広殿には、決して味わわせませぬ」
「……ワシに、もしものことがあった時は」
高広の言葉が、一瞬、宙で止まった。
泰広は、静かに目を伏せた。
「殿。お若いお方が、そのようなことを仰せられますな」
「いや。叔父上にだけは、申し上げておきたい」
高広は、自分の左の胸の奥に、ふと、道中に走ったあの痛みを思い出した。宇都宮の宿で、夜半に一度だけ。長旅の疲れと、自分は片付けた。だが──父・氏広は、二十七で逝った。祖父・公広も、四十を待たずに逝った。
「ワシに、もしものことがあった時は──矩広を、お頼み申す」
「……ハッ」
泰広は、深く、深く、頭を下げた。
「殿の御身に、なきことを願いまする。──されど、もし、その時が来れば。この泰広、命に代えても、矩広殿をお守り申し上げる」
短い、しかし揺るぎのない言葉だった。
高広は、薄く笑い、頷いた。
(──これでいい)
(ワシの代も、矩広の代も、松前家は揺らがぬ。叔父上が、いる限り。広林が、いる限り)
◆
その夜、上屋敷の奥座敷。
高広は、江戸詰めの家臣たちから、四箇月の在府期間中の予定を一通り聞き終えた後──風呂を済ませ、薄手の寝衣に着替えて、一人、座敷の縁(えん)に座っていた。
夏の夜の生ぬるい風が、庭の池の水面を僅かに揺らしている。
遠くから、町人地の祭囃子(まつりばやし)が聞こえてきた。誓願寺の門前町は、夜になっても賑やかだった。江戸の下町の音である。麻布や芝の武家屋敷の静謐(せいひつ)とは、また違う雰囲気。
高広は、絹の袂(たもと)から扇子を取り出し、ゆっくりと開いた。
金箔の鶴が、行燈の灯りを受けて、闇の中で淡く舞った。
(──四箇月)
高広は、頭の中で、すでに在府中の段取りを回し始めていた。
御老中・酒井忠清への直接献上。御本丸での御目見え。御側御用人への根回し。津軽藩の家中の不穏について、それとなく耳打ちする算段。江戸城内での席次の確認。藩邸の財政の総点検。
やるべきことは山積していた。
(……だが、それらはすべて、叔父上が下準備をしてくださっている)
(蝦夷地の細々したことは──広林が、福山館で、ワシの命に従って動いている)
(江戸の細々したことは──叔父上が、藩邸で、ワシのために整えてくださっている)
そう独りごちた瞬間──。
(……ワシに、もしものことがあった時は──矩広を、お頼み申す)
(叔父上が、ハッ、と頷いてくださった)
(──それで、よい)
高広は、扇子をもう一度開き、金箔の鶴を眺めながら──やがて、寝所へと立った。
夏の夜は、深くなろうとしていた。
寛文二年の夏──。
江戸では、四代将軍・家綱の御世(みよ)が、ますます華やかさを増していた。
松前では、家老・蠣崎広林が福山館の書院に座し、知行主たちの上納の帳簿を、淡々と確認していた。
近江では、両浜組の総元締(そうもとじめ)が、本年の松前荷の到着を確認しながら、敦賀から琵琶湖を経て大津へ送り出す手配の指図書を、墨筆で書き連ねていた。
龍飛崎の岬の番屋では、宇鉄の清八が、藩主の御座船の帰路に備えて、準備を始めていた。
松前家上屋敷の浅草の庭で、夏の風が、生ぬるく流れた。
その風の下では、四つの矩広が、紙の鷹を高く掲げて、無邪気に笑っていた。
幕間をお読みいただき、ありがとうございます!
おまけの解説コーナーです。
【松前からの産物の行方】
蝦夷地物産が江戸に届くまでの道は、藩主の参勤交代の道筋とは、大きく異なっています。
当時、日本海から瀬戸内へ抜ける「西廻り航路」も、東北の太平洋岸を南下する「東廻り航路」も、まだ整備されていませんでした。
蝦夷地の昆布や鮭が江戸城に届くまでの道は、福山港から近江商人(両浜組(りょうはまぐみ))によって敦賀・小浜(おばま)へ運ばれ、そこで一旦荷を降ろして、馬の背に積み替えて若狭(わかさ)路の山を越え、琵琶湖の北岸──塩津(しおつ)・海津(かいづ)・今津(いまづ)──へ運ばれ、湖を渡る船で大津(おおつ)に至り、そこから京都・大坂、あるいは中山道を経て江戸へ──という、気が遠くなるほどの陸路を含んだ大迂回路です。
その迂回路を、近江の商人たちは、ものともせず、いや──むしろ、そうであるからこそ、自分たちの独占を確立していました。
さて、この話では一気に松前藩サイドの人物を出しました。
松前家は重臣が一門衆ばかりの藩です。
そのせいもあり、身内通しで権力争いが絶えなかったようですね。
史実では、このあと家老の変死事件や若くして亡くなる不審死が相次ぎます。
参勤交代の途中、仙台藩白石城に立ち寄っていますね。
なんでここだけ城まで立ち寄ったのか疑問に思った方はおられるでしょうか?
これは初代藩主・松前慶広の弟・安広(まさひろ)から派生した松前家が仙台藩に仕えているからです。
しかも、白石城主片倉小十郎の娘を迎え、白石城主片倉家を相続し、伊達家一門となってます。松前藩主が参勤交代の節は、必ず白石に泊り、片倉氏を訪問するのが慣例となっていたようです。
他にも幕府に直接仕える旗本身分の分家が話中に出てきた泰広の家を含め、三家あります。
現藩主にとっては、他藩や旗本の身分で藩の権力からは身を引いている親族のほうが信用できたことでしょう。
松前藩の複雑なお家事情が描けていればよいのですが・・・。
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