オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~   作:サウス

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第30話:組み直す手と、最初の一発【1662年 夏】

 夏の夜、ハルコルは工房に呼ばれた。

 

 カニタからの呼び出しだった。

 

「夜、少し時間をいただきてえ。工房まで来てもらえねえか」

 

 日暮れ間際、製鉄所の天秤鞴の音が止んだ後の、短い言伝。子どもの使いを介した素っ気ない伝言だが、カニタが「少し時間をいただきてえ」と前置きする時は、いつも何か考えがある時だった。

 

 

 

 工房に入ると、カニタが囲炉裏の前で胡坐をかいていた。

 

 ハルコルは黙って向かい合い、座った。

 

 囲炉裏の炎が、カニタの顔の片側を橙色に染めていた。煤で黒く焼けた土壁。梁から吊された鉄の道具類。作業台の上の整然と並んだ工具。──全てが、見慣れた工房の風景だ。

 

 だが、見慣れてはいるが、この春以降、工房の景色は少しずつ変わっていた。作業台の奥に、もう一つ小さな台が増えている。銃身用の鉄を試作するための台だ。早春のあの日──カニタが五つの鉄を並べ、ペカンクㇽの脇差を借りて聞き比べ、自分の手で用途別の鉄という新しい物差しを掴み取ったあの日から、工房の奥は二つに分かれた。手前は今までのニプタイの鉄(矢じり、小刀、鏃)を扱う区画。奥は炭との付き合いを減らした、粘る鉄を試作する区画。ミナの帳簿にも、新しい欄が一本増えた。「用途別の鉄」。その下に、矢じり用、小刀用、鉞用、そして銃身用の試作鉄。

 

 今夜は、その奥の台の脇に、ひとつ油紙の包みが置かれていた。

 

 ハルコルはそれが何かを、すぐに察した。

 

 ロシア製マスケット銃。

 

 カニタが分解して構造を解析し、早春には銃身の鉄を聞き比べる土台として作業台に並べた、あの一挺。残りの部品は、分解された姿のまま油紙にくるまれて、工房の奥の棚に置かれていた。

 

「あれだ」

 

 カニタは囲炉裏の火を見つめたまま、低く言った。

 

「ハルコル様。あの山丹の鉄砲を、もう一度組み直させてくだせえ」

 

 

 

 ハルコルは少し息を呑んだ。

 

 その提案自体に驚いたのではない。──カニタが「組み直したい」と言うなら、その理由が必ずある。職人がそう言う時は、必ず理由がある。問題は、何のために組み直したいのか、だ。

 

「理由を聞かせてくれ」

 

「自製の筒が、まだ物にならねえ」

 

 カニタは即答した。

 

 

 

 言葉を選ばずに、骨を見せるような話し方だった。

 

「炭との付き合いを減らした粘る鉄を内側に、今までのニプタイの鉄を外側に巻く。──和人式の二重を試す方針で、春から進めてる。内側の鉄は、四度目で形が出るようになった。外側との鍛接も、五度目あたりから継ぎ目が割れねえようになってきた。半年前と比べりゃ、随分と進んだ。」

 

 カニタは囲炉裏の火を一度睨んだ。

 

「だが、まだ実弾を込めて撃てる物にはならねえ。試しで筒の中に火薬を詰めて、薬室の側だけで燃やす試験──それは、二度通った。三度目で、継ぎ目から細い煙が漏れた。鍛接が、まだ甘え場所がある。あと、いくつか試行を重ねねえと、弾を込める段には進めねえ」

 

「分かっている」

 

「それで、だ」

 

 カニタは囲炉裏の火を一度見つめ、それから顔を上げた。

 

「火薬の調合も、弾の鋳造も、――今は試しようがねえんだ」

 

 

 

 ハルコルは黙って続きを待った。

 

「自製銃が出来てから初めて試したんじゃ、何が悪いのか分からねえ。撃ってみて、思ったように飛ばなかった、命中しなかった、爆発した──その時に、銃の性能のせいなのか、火薬の出来のせいなのか、弾の形のせいなのか、――原因を切り分ける軸が、要る」

 

 カニタの声が、夜の工房の空気を硬く締めた。

 

「自製銃が完成してから初めて全てを試したら、どこが悪いのか分からねえまま、銃が悪いのか火薬が悪いのか分からねえまま、堂々巡りになる。──それは、避けてえ」

 

「……」

 

「だから、あの山丹の鉄砲を、もう一度組み直す。あれは既に仕上がっている銃だ。あれで撃って、火薬の出来と弾の出来だけを変えて試せば、変わったのは火薬と弾だけ、と切り分けられる。銃そのものは変わらねえからな」

 

 カニタは囲炉裏の火を見つめた。

 

「自製銃が完成した時には、火薬と弾の方は既に最適に近い形まで詰めてある。銃の方の性能だけを、その時に見極めればいい。──そういう順序で、進みてえ」

 

 

 

 ハルコルは、しばらく黙っていた。

 

「やってくれ」

 

 ハルコルは言った。

 

「組み直すなら、構わない。──というより、それは正しい順序だ」

 

 カニタが小さく頷いた。

 

「ありがてえ」

 

 

 

 その時、工房の入り口から声がした。

 

「ハルコル」

 

 ミナだった。帳簿の木板を抱えている。ミナは、こうした技術の話の場には、自然とやってくる。

 

 囲炉裏の脇に座り、ハルコルとカニタの顔を順に見た。

 

「鉄砲の話?」

 

「組み直す。試射のためだ」

 

「……それ、いい考え。記録を取るなら、銃は変えないほうがいい。カニタの考えで、行ってほしい」

 

 ミナの声には、いつものような淡々さの中に、わずかな熱があった。

 

 

 

 囲炉裏の火が爆ぜた。

 

 その時、工房の入り口に、もう一つ影が立った。ペカンクㇽだった。いつ来たのか、ハルコルにも気づかなかった。三人の話は、入り口の外で聞いていたらしかった。

 

「カニタの言う通りにしてやれ」

 

 短い一言だった。カニタが深く頭を下げた。

 

「ありがとうごぜえます、コタンコㇿクㇽ様」

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 

 工房の奥の棚から、油紙の包みが下ろされた。

 

 半年以上、そこに置かれていた包みだ。表面の油紙に、薄く埃が積もっている。包みを丁寧に持ち上げる時、カニタの手つきが、いつもと少し違っていた。

 

 慎重で、几帳面で、そして──少し、嬉しそうだった。

 

「久しぶりに会うなあ、お前さん」

 

 カニタは独り言のように呟いた。

 

 ハルコルは作業台の脇で見守っていた。

 

 包みが解かれていく。油紙の中から、分解された部品が次々と現れた。銃身、銃床、火縄を挟む火ばさみ(サーペンタイン・蛇のように曲がった金具)、引き金とそれに繋がる内部機構、火皿、火皿の蓋、ばね、ねじ、釘の類。──全部で三十個近い部品。

 

 半年前、カニタが一つ一つ油紙に分けて包んだものだ。部品ごとに、どの位置にあったか、どう組み合わさっていたかを、カニタは全て覚えている。

 

「あの時は、分解するのに必死だった」

 

 カニタが部品を作業台に並べながら、独り言のように漏らした。

 

「初めて見る仕掛けで、どこをどう外せば壊さずに済むか、一つ一つ手探りだった。組み直す時のために、外す順番を全部覚えたつもりだったが、内心は震えてた」

 

 カニタは小さく笑った。

 

「だが、今ならもっと早く組める」

 

 

 

 ハルコルは黙って頷いた。

 

 半年の間に、カニタは変わった。

 

 変わったのは、知識ではない。──いや、知識も変わったが、それ以上に、手の自信が変わった。砂鉄から鉄を取り出し、薄い板を巻いて銃身に近い形を作り、二度の破裂の後で原因を読み切り、燧石式の撃発機構を試行錯誤し、瑪瑙と当たり金の角度を一日中削り続けた手。──そして、五つの鉄を並べ、ペカンクㇽの脇差まで借りて、三十年の物差しを横に倒した手。「いい鉄」ではなく「用途にあった鉄」を、自分の手で探り出した手。その手が、ロシア製銃の部品を見て「もっと早く組める」と言わせている。

 

(職人の半年は、こうやって手の中に刻まれていく)

 

 

 

 カニタは部品を並べ終わると、まず銃身を持ち上げた。

 

 その銃身を、慎重に銃床の溝に嵌め込んだ。

 

「銃床の方は、分解したときに拭いて油を引いておいた。木が痩せちゃいねえかどうか」

 

 カニタは溝の中で銃身が動かないかを確認した。少し緩い、と呟いて、銃床の溝に薄い木の薄皮を一枚噛ませる。それで、ぴたりと収まった。

 

 次に、銃身を留める金属の帯を、銃床の上から二箇所で固定した。釘を打つのではなく、ねじで締める。これはヨーロッパ式の特徴だ──分解と組み立てを繰り返すことを前提に作られている。

 

 その次に、引き金覆い(引き金を守る鉄の弓)を銃床の下に取り付けた。

 

 その次に、引き金の内部機構を組み付けた。──これが一番、神経を使う作業だった。引き金、シア(引き金が引かれた瞬間にサーペンタインを開放する小さな金具)、ばね。三つの部品が小さな空間で連動するように、位置を慎重に合わせる。

 

 カニタの指先が、確かな速度で動いている。

 

 迷いがない。

 

 分解作業の時の、一手ごとに考え込む手つきとは、まるで違っていた。

 

 

 

 組み立ては、順調に進んだ。

 

 最後に、サーペンタイン(火縄を挟む蛇のような金具)を取り付ける段になった。

 

 カニタはその部品を手に持ち、しばらく眺めていた。

 

「……このまま火縄式で組むのは、もったいねえ気もすんだ」

 

 ぽつり、と漏らした。

 

「俺たちが作った燧石式の仕掛けも、まだ銃に取り付けて撃ったことがねえ」

 

 ハルコルは黙って続きを待った。

 

「いっそ、最初から燧石式で組み直しちまった方が、二度手間にならねえんじゃねえか、と」

 

 

 

 ハルコルは、しばらく考えた。

 

 カニタの言うことは、もっともだった。ニプタイがこれから造る銃は最初から燧石式だ。それは決まっている。なら、組み直すロシア製の銃も燧石式にしてしまってもいいんじゃないか。

 

 効率としては、確かにそうだ。

 

 だが──

 

「カニタ。段階を踏もう」

 

 ハルコルは静かに言った。

 

「まずは火縄式のまま、この山丹の銃がどれだけ撃てるかを見る。撃ち手のカントの肩に対して、どれだけの反動が来るのか、銃身がどれだけ熱くなるのか、火薬のどれだけが燃え残るのか。──それを、まずは数字で取りたい」

 

「……」

 

「燧石式に改造した後、同じ条件で撃ち比べた時、撃発機構を変えたことの効果が、はっきり数字で見える。火縄式の数字を持っていなければ、燧石式の良さは『たぶん良くなった』としか言えない。だが火縄式の数字を持っていれば、『装填から発射までの時間が、こうこう短くなった』『雨の日の不発率が、これだけ下がった』と、数字で書ける」

 

 ハルコルは火を見つめた。

 

「比較の軸を、捨てたくない」

 

 

 

 カニタはしばらく黙っていた。

 

 それから、ゆっくりと頷いた。

 

「そうか」

 

 間を置いて、もう一度。

 

「……そうだな」

 

 カニタはサーペンタインを手に取り直し、ロックプレートに取り付けた。火縄を挟む金具──蛇の口の部分が、ばねの力で火皿の方向にゆっくりと倒れ込む構造になっている。

 

「ハルコル様の言う通りだ。俺らは、急いでねえ。急いで二度手間を省くより、確かな数字を残して、確かな道を進む方が、結局は早え」

 

 ハルコルは黙って頷いた。

 

「まずは火縄式で撃つ。火薬と弾の出来も含めて、山丹の銃の元の性能を、徹底的に数字にする。──それから、燧石式に改造する」

 

 カニタの目は、もう前を向いていた。

 

 

 

 夕暮れの少し前、組み直しが完了した。

 

 作業台の上に、一挺の銃が横たわっていた。

 

「動作を確認するぜ」

 

 カニタは銃を手に取った。

 

 火薬は入れない。火縄も挟まない。機構の動きだけを確かめる。

 

 サーペンタインを起こし、引き金を引く。──カチン。サーペンタインが、火皿の蓋の上に勢いよく落ちる。

 

 もう一度。──カチン。

 

 もう一度。──カチン。

 

 十回連続で、機構は正常に動いた。

 

「よし。火皿の蓋の開閉も、固くもなく緩くもねえ」

 

 カニタは銃を作業台に置いた。

 

「明日にでも、火薬と弾を用意して、試し撃ちに行きたい」

 

 

 

 

 

 

 短い夏の強い日差しが森の上に照りつけている朝。

 

 ニプタイを出た一行が、サㇽ川の上流の支流に沿って、北東の山間部へと向かっていた。

 

 先頭はカントだった。腰に弓と矢筒、手にはロシア製マスケット銃を抱えている。その後ろにカニタ、ハルコル、ミナが続いた。最後尾は、カントが連れてきた選抜射手二名──いずれも巡回部隊の若手で、目の良さと体力で選ばれた者たちだ。

 

 目指すのは、半日ほど登った山間の小さな沢地。両側を切り立った崖に挟まれた、細長い谷だった。

 

 ハルコルが選んだ場所だった。

 

 

 

 昼前に、沢地に着いた。

 

 夏の山は、緑が深い。フキの大きな葉が腰の高さで茂り、谷川の脇にはエゾアジサイの薄青い花が咲いていた。崖の上にエゾマツの梢が並び、空は細く青く切り取られている。

 

 風はほとんどなかった。山の間に閉じ込められた空気は、湿気を含んで重たい。

 

「ここで、いい」

 

 カニタが足を止めた。

 

 谷の底に、平らな砂利地が広がっている場所だった。

 

 

 

 まず、標的の設置から始まった。

 

 ミナが手帳の木板を取り出し、縄を地面に引いて距離を測った。──五十歩、百歩、百五十歩、二百歩。人の歩幅で数える。五十歩でおよそ二十五メートル、二百歩でおよそ百メートル。

 

 各距離に、選抜射手が木板の標的を立てた。木板はカニタが工房で作ったもので、人の上半身ほどの大きさ。中央に黒い炭で同心円が描かれている。

 

「火薬と弾を用意する」

 

 カニタが背負ってきた革袋を開いた。

 

 小さな陶器の壺に、黒い火薬。──ニプタイで初めて自家製造された火薬だ。

 

 硝石は、津軽商人経由で去年までに買い込んだ在庫と、ミナが製造を任されている培養硝石を混合したもの。木炭は、村のすぐ脇の炭焼き場で焼いたエゾマツの炭。硫黄は、津軽商人経由の在庫。──三つの材料を混ぜて、湿らせて、潰して、乾燥させて、再び砕いた、典型的な黒色火薬だ。

 

 もう一つの革袋から、鉛弾が取り出された。

 

 鉛は、ニプタイ中からかき集めた貴重な在庫を取り崩したものだった。カニタが、ロシア製銃の口径に合わせて、丁寧に鋳造した。一発一発、目方が同じになるように。

 

 

 

 ミナが革袋の中から、小さな秤を取り出した。

 

 和人から交易で手に入れた天秤棒と、それに吊るす幾つかの分銅。もとは干し鮑の目方を量るために商人が使っていたものだ。

 

「火薬の量を揃えるなら、これで量る」

 

 ミナが言った。

 

「和人の重さの単位で、匁(もんめ)という。俺たちには重さを数える言葉がなかったから、借りた。──一匁(いちもんめ)は、おおよそ小指の爪先に乗る程度の重さだ」

 

 カニタが頷いた。重さを正確に揃えなければ、試射の記録が意味を持たない。それは、すでに全員が分かっていた。

 

「あの仕掛けに刻んである目盛り通りなら、三匁(約十一グラム)が標準だ。多すぎても少なすぎても駄目だろう」

 

 カニタは言った。

 

 ──カニタは、銃の仕掛けに刻まれた小さな目盛りから、その量を読み取っていた。

 

「三匁(約十一グラム)で、まず五発」

 

「分かった」

 

 

 

 ハルコルはカントの前に立った。

 

「カント。装填の手順を、教える。よく見てくれ」

 

 ハルコルは銃を受け取り、銃口を上に向けた。

 

「まず、火薬を銃口から注ぐ。量はミナが量った三匁(約十一グラム)きっかり。次に、鉛弾を布の小片で包んで銃口に載せ、搠杖(さくじょう)──この細い棒で、奥の薬室まで押し込む。きつすぎず、隙間なく」

 

 ハルコルの手が、一つ一つの動作を丁寧に示した。

 

「火皿の蓋を開けて、ここに少量の点火薬を盛る。盛りすぎると火花が顔に飛ぶ。少なすぎると不発になる。──盛ったら、蓋を閉じる。これで、引き金を引くまで火薬が風に飛ばされない」

 

「……」

 

「最後に、火縄を挟む。サーペンタインの先端に、火の点いた縄を挟んで固定する。引き金を引けば、この金具が倒れ込んで、火皿の蓋に火縄を押し当てる。火が点火薬に移り、薬室の火薬に届いて、弾が飛ぶ」

 

 ハルコルは銃をカントに渡した。

 

「一発ごとに、この手順を繰り返す。弾を撃ったら、銃口から煤を拭って、また最初からだ」

 

 カントは無言で銃を受け取った。両手で重さを確かめるように構え直し、一度だけ深く息を吸った。

 

「やってみる」

 

 

 

 カントが銃を構えた。

 

 火縄に火を点ける。赤い火種が、ちりちりと燃え始める。

 

 ハルコルが教えた通りに、火薬を銃口から注ぎ、布で包んだ鉛弾を搠杖で押し込む。火皿に点火薬を盛る。蓋を閉じる。

 

 カントは銃を肩に当てた。

 

 

 

 一瞬、カントの動きが止まった。

 

「……重え」

 

 カントが小さく呟いた。

 

 鉄砲というものを手に持ったのは、今日が初めてだった。和人の射撃を遠くから見たことはある。だがあの時は、轟音と白煙の壁でしかなかった。今、その轟音を自分の肩で受け止めようとしている。

 

「だがこの重さが、肩で受けるならちょうどいい」

 

 カントは呼吸を整えた。

 

 

 

 カントは五十歩先の標的を見据えた。

 

 火縄の赤光が、サーペンタインの先で揺れている。

 

 カントの指が、引き金にかかる。

 

 

 

 ──ドォォォン、と。

 

 

 

 夏の谷に、雷鳴が落ちた。

 

 崖の上で、エゾマツの枝から一斉に鳥が飛び立った。

 

 白煙が立ち昇り、谷の空気を重く染めていく。火薬の硝煙の匂いが、ハルコルの鼻を刺した。

 

 

 

 五十歩先。

 

 木板の標的の中央──同心円のすぐ脇──に、まっすぐな穴が空いていた。

 

 炭で描かれた円が、半分弾け飛んでいた。

 

「……命中」

 

 ミナの声が、煙の向こうで言った。

 

 和人との交易で覚えた長さの単位がここでも使われた。一寸(いっすん)は指の幅三つ分(約三センチ)。匁と同じく、記録を揃えるために和人の数え方を借りている。

 

「火縄式、装薬量三匁(約十一グラム)、距離五十歩(約二十五メートル)、命中。命中箇所は中心からおよそ一寸(約三センチ)の右上」

 

 ミナの炭筆が、帳簿の木板の上を走った。

 

 

 

 カントが銃を下ろし、長く息を吐いた。

 

「……来たぜ、ハルコル様」

 

 カントの声には、興奮ではなく、深い静けさがあった。

 

「これだ。これが、和人どもがアイヌの俺たちに向けてきた鉛の雷鳴だ。──シペチャリの河口で、シャクシャインとオニビシの両軍を一斉射撃で黙らせた、あの音だ」

 

 ハルコルは黙って頷いた。

 

「だが今日、この音は、俺たちの側にある」

 

「ああ」

 

「これからは、俺たちが鳴らす音だ」

 

 カントの目は、もう次の標的を見据えていた。

 

 

 

 その後、百歩、百五十歩、二百歩で、それぞれ五発ずつ撃った。

 

 ミナが帳簿を広げた。四つの距離の数字が、炭筆で整然と並んでいる。五十歩(約二十五メートル)は全弾命中、中心から平均一寸(約三センチ)前後でばらつきは小さい。百歩(約五十メートル)で一発外し、ばらつきが少し大きくなる。中心から平均二寸(約六センチ)前後。百五十歩(約七十五メートル)は五発中二発のみ命中、命中位置はかなりばらつく。二百歩(約百メートル)に至っては、五発のうち当たったのは一発だけだった。残りは標的を外れて背後の崖に当たるか、風に流された。

 

 

 

 カントが額の汗を拭った。

 

「二百歩は、難しいな」

 

「火薬の量を増やせば、もう少し遠くまで飛ぶだろうが、銃身が持つかどうか」

 

 カニタが首を傾げた。

 

「あんたはどう感じる、カント。引き金を引いた時の感覚で」

 

「……五十歩と百歩は、確かに当たる手応えがあった」

 

 カントは右手を見つめた。

 

「百五十歩からは、引き金を引いてから弾が出るまで、間がある。その間に、的がずれる気がするんだ。動かねえ木板でもそう感じるなら、動く獣や動く敵に対しては、もっと差が出るはずだ」

 

(カントは、火縄式の撃発遅延を、今日、自分の指と肩で感じ取った。火縄が火皿の火薬に触れ、それが銃身の中の火薬に火を移し、弾が飛ぶまでの間。)

 

 

 

 ハルコルはカントを見た。

 

「カント。ひとつ聞きたい。今日のこの銃を、和人の頬当て式と比べて、どう感じる」

 

 カントは少し考えた。

 

「和人のやつは、見た目は軽くて取り回しがよさそうだ。だがこいつは重い分、肩で反動を受け止められる。頬で受けたら、五発も撃てねえだろう。頬で受け続けたら、骨が痺れる」

 

「もう一つ聞く。──僕らがこれから自分で作る銃は二重の鉄だ。火薬の量を増やせるからこの銃より射程が伸びるだろう。反動が増える。そのため、肩で受ける形にする。それで構わないか」

 

 カントはハルコルを見つめた。

 

 間を置いて、答えた。

 

「それで構わねえ」

 

 カントの声は迷いがなかった。

 

「百五十歩先まで狙えるなら、俺たちの戦い方が、根本から変わる。和人の頬当て式は、せいぜい百歩(約五十メートル)までだ。それより遠ければ、矢の方が確かだ。だが二百歩(約百メートル)なら──矢じゃ届かねえ。届かねえ距離で、敵を倒せる。それは、戦の形を変えるぜ」

 

 

 

(カニタの腕、カントの肩。ニプタイの銃の形が、今日、輪郭を持ち始めた)

 

 ハルコルはカントの肩を叩いた。

 

「ありがとう。今日の試射で、僕らが作る銃の形が、決まった」

 

「……?」

 

「肩で受ける、長い銃身、強装薬。──和人の銃を真似ない。山丹の銃の系譜を引いて、僕らの大地に合わせて作る」

 

 カントは少し笑った。

 

「そりゃあ、楽しみだ」

 

 

 

 

 

 

 しかし、午後になって。

 

 

 

 試射を続けるうち、奇妙なことが起こり始めた。

 

 午前中の試射では、装薬量三匁(約十一グラム)で安定した威力が出ていた。同じ距離で、同じ装薬量で撃てば、同じような命中傾向が出る。五十歩なら必ず標的の中央付近に当たり、百五十歩なら半分くらいの確率で標的に当たる。

 

 だが、午後の三発目あたりから。

 

 

 

「……変だぜ、これ」

 

 カントが首を傾げた。

 

「さっきと同じ三匁(約十一グラム)を入れたのに、今のは飛び方が弱え」

 

 

 

 ハルコルが標的を見に行った。

 

 午前中なら命中していた距離で、今の弾は標的の手前の地面に落ちていた。

 

 弾痕を見ると、地面に当たった角度が、明らかに浅い。──つまり、弾が低く飛んでいる。距離の途中で重力に負けて落ちている。

 

「装薬量は同じだ」

 

 カントが帳簿の方を見た。

 

「同じ三匁(約十一グラム)。──昼前と同じ量を、お前さんが量って袋に入れた」

 

「数字は変わってない」

 

 ミナが帳簿を確認した。

 

「装薬量は同じ。距離も同じ。標的までの風向きも、ほぼ同じ。──でも命中箇所は、昼前より低く、ばらついてる」

 

 

 

 カニタが、火薬の壺に手を伸ばした。

 

 壺の中を覗き込む。

 

 しばらく、無言だった。

 

 

 

「……ハルコル様。これ、見てくだせえ」

 

 カニタが壺をハルコルの方に傾けた。

 

 ハルコルは中を覗き込んだ。

 

 

 

 壺の中の火薬は、色が均一ではなかった。

 

 壺の上の方に近い火薬は、深い黒色をしていた。粒も比較的大きく、艶がある。

 

 しかし壺の底の方の火薬は、わずかに黄色っぽく、粉が細かく、艶がない。

 

「上は黒。下は黄色っぽい」

 

 カニタが指でつついた。

 

「層が分かれてる。重いのが下に、軽いのが上に」

 

「……」

 

「ハルコル様。これ、何だ」

 

 

 

(──成分が分離している。三つの素材はそれぞれ比重が違う。振動で層が分かれる)

 

 

 

「カニタ。──今日の壺は、運ぶ前に、混ぜ直していなかったのか」

 

 ハルコルは、慎重に問いを置いた。

 

「混ぜ直してねえ。工房で混ぜたまま、壺に詰めて、ここまで運んだ」

 

「運んだり壺を傾けたりする間に、層が分かれた、ということか」

 

「……たぶん、そうだ」

 

 カニタは壺を持ち上げ、軽く振った。それから中を覗き込んで、また首を傾げた。

 

「振っても、完全には混ざらねえ。一度分かれた粉は、なかなか元に戻らねえ」

 

「分離する、ということだな」

 

 ハルコルは、その単語を、わざとはっきり発音した。

 

「分かれる。──振動で。あるいは、ただ置いておくだけでも、自重で」

 

 カニタは少し黙った。

 

 それから、ゆっくりと口を開いた。

 

「……これは、面倒な話だな」

 

「面倒だ」

 

「同じ量を入れても、上から取るか下から取るかで、火薬の力が変わるってことだろ。これじゃ、火薬の量を測る意味が薄れる」

 

「そういうことだ」

 

「……」

 

「考えてくれ」

 

 ハルコルは静かに言った。

 

「今すぐ答えを出さなくていい。今日の試射の続きは、壺をその都度よく振ってから取り出すことで、ある程度ごまかせる。──だが、根本的にどうすればこの『分離』を防げるか、それは、別の宿題として、置いておこう」

 

 カニタは頷いた。

 

 目が、火を見つめる時の目になっていた。

 

 

 

 

 

 

 その日の午後、試射は何とか続けた。

 

 壺をよく振り、上下の層を混ぜてから装薬する、という即席の対処で、命中率はある程度回復した。だが、ハルコルもカニタもミナも、この対処は本質的な解決ではないことを、互いに分かっていた。

 

 日が西に傾き始めた頃、試射を切り上げた。

 

 帰り道、谷を下りながら、カニタが何度か独り言を呟いた。

 

「……分けねえ。混ざったまま、固める。粒、にすればどうだ。……砂鉄を、粘土と木炭粉でペレットにした、あの感じで」

 

 ハルコルはその独り言を、後ろから聞いていた。

 

 何も答えなかった。

 

(──芽は、もう出ている)

 

 

 

 

 

 

 試射場から戻った夜。

 

 工房に戻ったカニタは、囲炉裏の脇に銃を置いた。火薬と弾の入った革袋を作業台に上げ、丁寧に整理する。それから、囲炉裏の火を見つめてしばらく動かなかった。

 

 ハルコルは黙って、向かいに座った。

 

 

 

「ハルコル様」

 

 しばらくして、カニタが口を開いた。

 

「いよいよ、あれに取り掛かりてえ」

 

「燧石式への改造だな」

 

「ああ」

 

 カニタは囲炉裏の火を見つめたまま、続けた。

 

「火縄式の限界が、今日の試射で見えた。雨も雪も駄目、夜は赤光が敵に見える。──それは、前から分かってた。だが今日、もう一つ分かったことがある」

 

 カニタは顔を上げた。

 

「蓋を開ける一手間が、どうしても邪魔になる。撃ち手は引き金を引く前に、蓋を手で開けねえといけねえ。開けてから引き金を引くまでの間に、雨や風が火薬に当たる」

 

「……」

 

「瑪瑙なら、その一手間が要らねえ。瑪瑙が当たり金を打つ動きと、火皿の蓋が跳ね上がる動きを、一つの仕掛けにすればいい。──火を点けながら、蓋が開く。蓋が開いてる時間は、ほんの一瞬だ。雨も風も、入る暇がねえ」

 

 カニタの声が、確信を含んでいた。

 

「……これだ。これこそが、燧石式が火縄式に勝つ本当の理由だ」

 

 

 

 ハルコルは深く頷いた。

 

「やろう。」

 

 

 

 

 

 

 それから数日。

 

 カニタは燧石式撃発機構の取り付けに没頭した。

 

 銃床のネジ穴はそのまま使える。銃身には一切触れなくて済む。問題は一つだけ──タッチホール(点火口)と新しい火皿の位置合わせだった。紙一枚分のずれが不発に繋がる。

 

 マッチロックの古いプレートを型紙代わりに、新しい鉄板を削り出す。

 

 カチッ。カチッ。カチッ。

 

 カニタの槌の音が、工房に響き続けた。

 

 

 

 森の緑が、わずかに濃くなり始めている。蝉の声は弱まり、代わりにスズムシの鳴き声が森の縁から聞こえ始めた。

 

 窓の外を、ハルコルは見た。

 

 

 

 

 カニタの槌の音が、続いている。

 

 カチッ。カチッ。カチッ。

 

 新しいロックプレートが、少しずつ形を整えていく。




第30話をお読みいただき、ありがとうございます!


おまけの解説コーナーです。

今回は「火縄銃の撃ち方」と、「有効射程・射程距離」について。

以前のあとがきでは部品構造を解説しましたが、今回は実際にどうやって撃っていたのか、そしてどれくらい当たったのかを中心に触れていきます。


【火縄銃の射撃まで】
火縄銃は、現代の銃のように弾倉(マガジン)を入れて引き金を引けば撃てる武器ではありません。
一発撃つたびに、火薬と弾を先端の銃口から詰め直す必要があります。

基本的な射撃手順は、以下の通りです。
① 銃口から火薬を入れる
② 弾を入れる
③ 搠杖(さくじょう)で奥まで押し込む
④ 火皿に点火薬を盛る
⑤ 火蓋を閉じる
⑥ 火縄を火ばさみに固定する
⑦ 狙いを付ける
⑧ 火蓋を切る(火皿を開ける)
⑨ 引き金を引く

かなり手間が多く、熟練者でも一分間に二〜三発程度が限界でした。
しかも火縄は常に燃えている必要があります。
火縄は雨で消え、夜は赤く光り、燃える臭いでも位置が知られるため、火縄の管理そのものも重要でした。。



【「火蓋を切る」】
物事の開始を意味する慣用句「火蓋を切る」は、実際の火縄銃の動作から来ています。
火皿には点火薬が盛られており、その上を覆う蓋が「火蓋」です。
発射直前、この火蓋を開けて火縄を落とすことで発射できるため、

「戦いの始まり」

「火蓋を切る」

この動作が由来となっています。



【有効射程と最大射程】
火縄銃の「射程」には、
・有効射程(狙って当てられる距離)
・最大射程(弾そのものは届く距離)
があります。

◆ 有効射程
戦国時代〜江戸初期の火縄銃は、滑腔銃(ライフリングのない銃)でした。
そのため弾が回転せず、遠距離では軌道がかなり不安定になります。

一般的な有効射程は、
・50m前後 → 高い命中率
・100m前後 → 熟練者なら実戦可能
・150m超 → 当たれば幸運
程度と考えられています。

特に集団戦では、「狙撃」というより「集団で撃ち込む」運用が主流でした。
数十挺〜数百挺を並べ、一斉射撃で敵集団へ弾幕を浴びせる。
これが火縄銃の戦い方です。


◆ 最大射程
一方で、弾そのものはもっと遠くまで飛びます。
銃の種類や装薬量によりますが、300〜500m程度飛ぶ例もありました。
ただし、そこまで行くと命中精度はほぼ期待できません。



【日本の火縄銃と欧州のマスケット銃】
本作でも触れていますが、日本の火縄銃と欧州マスケット系銃では、少し思想が異なります。

日本の火縄銃は、
・比較的軽量
・頬付け構え
・短〜中銃身
・精密射撃寄り

という特徴がありました。
※とはいっても、弾丸重量・銃身長で色々と開発されています。
(小筒・中筒・士筒・大筒・馬上筒・短筒・大鉄砲・狭間筒など)
ここでは戦場で撃ち合うケースに絞ります。

一方、欧州のマスケットは、
・重量級
・肩付け構え
・長銃身
・強装薬
・集団戦向け
という方向へ発達していきました。






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