オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~   作:サウス

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前後編に分かれています。
後編は夕方に投稿予定です。


第31話(前編):山の道と、白い崖【1662年 夏】

 エゾハルゼミの声が山から下りてきて、サㇽ川の川面に夕映えが伸びる頃、その夕方、ペカンクㇽが口を開いた。

 

「シムカㇷ(占冠)とユーパㇽ(夕張)を見に行く」

 

 囲炉裏の前で帳簿を広げていたハルコルが顔を上げた。

 

「ウタの報告では、どちらもエモが根付いたと」

 

「報告は聞いた。だが、昨年の秋に一度顔を見せただけでは足りない。──あの時はエモの種と食料を渡して戻った。今年はエモが育ったか、蔵はどうか、自分の目で確かめる」

 

 ペカンクㇽの声は低く、穏やかだったが、「行く」の一語には有無を言わさぬ重さがあった。

 

「お前も来い。一緒に見ろ」

 

「……うん」

 

 ハルコルは頷いた。

 

 ペカンクㇽが立ち上がり、囲炉裏の向こうにいたカントに目を向けた。

 

「留守を頼む。ウタを連れていく」

 

 カントが短く頷いた。

 

 

 

 

 

 

 翌朝。夜が明ける前に、一行は広場に集まった。

 

 ペカンクㇽが既に準備を終えて立っていた。

 

 いつもの厚い鹿革の上着。背中には食料の袋がひとつだけ。腰の短刀が朝の薄い光を受けて鈍く光っている。

 

 ハルコルは父の荷を見て、内心で舌を巻いた。

 

(軽い。……山の道を知っている人間の荷だ。僕の革袋より一回り小さい)

 

「歩けるか」

 

 ペカンクㇽの声は短かった。

 

「はい」

 

「前に行った時は秋だったが、今回は夏だ。草が深い。道のない場所もある」

 

 それだけ言って、背を向けた。

 

 ウタが一行の先頭に立った。交易担当として、この道を何度も歩いている。彼にとっては勝手知ったる獣道だ。

 

 護衛の若者が三人。背に弓を負い、腰にマキリ(小刀)を佩いている。

 

 ミナが広場の端に立っていた。帳簿の木札を一枚、胸に当てるように持っている。

 

「調べてきて。帰ってきたら聞かせて」

 

 それだけだった。

 

 

 一行は、サㇽ川(沙流川)の上流へ向かって歩き始めた。

 

 初夏の朝。空気がまだ冷たい。

 

 川面に霧が這い、対岸のトドマツの梢が霞んで見える。エゾハルゼミが鳴き始めるにはまだ早い時刻で、沢の水音と自分たちの足音だけが、朝の森に響いていた。

 

 

 

 

 

 

 サㇽ川を遡るのは、慣れた道だった。

 

 川沿いの細い踏み跡は、夏の草で覆われている。オオイタドリが腰の高さまで伸び、葉が朝露を溜めて重く垂れていた。一歩ごとに、革靴がびしょりと濡れる。

 

 上流へ行くほど、川が細くなった。

 

 水の音が低い轟きから、澄んだ高い音に変わる。石の間を走る水が白く泡立ち、冷たい飛沫が時折頬にかかった。

 

 昼過ぎ、ウタが足を止めた。

 

「ここから道が変わります。熊の古い足跡が多い。警戒しながら」

 

 護衛の若者が弓を背から降ろし、矢筒の蓋を開けた。

 

 ペカンクㇽは歩調を変えなかった。だが、目の動きが変わった。足元と梢を交互に見ている。猟師の目だった。

 

 しばらく歩いて、ハルコルはペカンクㇽの後ろ姿を見た。

 

 父の歩き方は、春の猟の時と同じだった。枯れ枝を一本も踏まない。落ち葉を踏む音すら、風の音に消える。あの巨きな体で、どうすればそんな歩き方ができるのか。

 

 

 

 

 

 

 日が傾き始めた頃、川沿いの踏み跡が少し広がった。

 

 ペカンクㇽが立ち止まった。

 

 川原の砂利の上に、丸太を半ば埋めた舟繋ぎの杭が二本、水際に立っていた。その向こうに、煙が細く上がっていた。

 

 

 

 チセが四棟。サㇽ川の本流が緩やかに曲がる内側の、砂利の平地に寄り添うように建っていた。川向こうの岸は切り立った崖で、トドマツの暗い森が水面まで迫っている。

 

 一棟の前で、男が丸木舟(チプ)の内側を削っていた。

 

 太い丸太をくり抜いた舟の腹に体を入れ、手斧で一打ちずつ、木を剥がしている。コンッ、コンッ、と乾いた音が、川の水音に混じって規則正しく響いていた。

 

 ペカンクㇽが足を止めた。

 

「アエトモ」

 

 短い声だった。

 

 男が手斧を止め、舟の縁から顔を上げた。

 

 五十半ばの、骨の太い男だった。肩幅が広く、腕が長い。だが猟師の筋肉ではない。手の甲に古い刃物傷がいくつもあり、指の節が太く曲がっている。木を削り続けた手だった。

 

「……ペカンクㇽか」

 

 低い声だった。重く、短い。寡黙な男の声だ。

 

「久しいな」

 

「ああ。上まで行く途中だ。──少し、話がある」

 

 

 

 アエトモが舟から出て、手斧を丸太の切り株に突き立てた。木屑を手で払い、ペカンクㇽの前に立った。

 

 二人の間に、若い頃からの馴染みの空気があった。言葉が少なくても通じるものがある。

 

「入れ」

 

 アエトモがチセに顎をしゃくった。

 

 

 

 

 

 

 チセの中は、木の匂いがした。

 

 壁際に削りかけの部材が並び、天井の梁には鉋屑が干してある。囲炉裏の脇に刃物が十数本、革の巻物に包まれて立てかけてあった。大小様々な手斧、鑿(のみ)、曲がった刃の削り刀。道具一つ一つに長年の手入れが見える。

 

 アエトモが囲炉裏に火を入れ、干し肉を炙りながら、ペカンクㇽの向かいに座った。

 

「上とは、どこか」

 

「シムカㇷと、ユーパㇽだ。息子を連れて見に行く」

 

 アエトモの目がハルコルに移った。

 

「……これが」

 

「ああ」

 

 じっと見つめてから、小さく頷いた。

 

「思ったより、小さいな」

 

「どこに行ってもそう言われる」

 

 ハルコルが答えると、アエトモの口の端がわずかに動いた。笑ったのかもしれない。

 

 

 

 ペカンクㇽが火を見つめたまま、切り出した。

 

「アエトモ。ニプタイでお前の腕を借りたい」

 

「何だ」

 

「ニプタイの工房で、難しい木の仕事がある。銃の、木の部分が要る。──銃床(じゅうしょう)だ。ただの柄とは違う。握って構えて、狙って撃つ。人の体に合わせて削らなきゃならねえ」

 

 アエトモは黙っていた。干し肉を裏返し、火の加減を見ている。

 

「舟を彫れる腕なら、できる。お前しか頼める者がいない」

 

「……舟と、銃は違う」

 

「ああ、違う。だが、木を読む目は同じだ」

 

 

 

 アエトモは、しばらく囲炉裏の火を見ていた。

 

 炎が揺れる。その奥に何を見ているのか、ハルコルには分からなかった。

 

 ハルコルは黙って見ていた。口を挟むべき場面ではない。

 

 

 

「……いつだ」

 

「早い方がいい。──儂らはシムカㇷとユーパㇽを回って戻る。五日か六日だ。お前はここからニプタイまで半日だろう。先に行って、鍛冶を受け持っているカニタに会ってくれ。何が要るかは、あいつが一番よく知っている」

 

 アエトモが顎を引いた。

 

「シノッも連れて行く」

 

「娘婿か」

 

「舟彫りはまだまだだが、手は動く。──力仕事なら、あいつの方が儂より使える」

 

 

 

 ペカンクㇽが小さく笑った。

 

「好きにしろ」

 

 

 

 

 

 

 チセを出ると、アエトモが川原の丸木舟のところまで歩いた。

 

 ハルコルは、その舟を見た。

 

 削りかけの、まだ半分しか形になっていないチプだった。だが、すでに曲線が美しかった。舳先に向かって木の肉が厚く残され、腹は薄く、滑らかに削り込まれている。水を切る部分と、水を受ける部分で、厚みが違う。

 

(舟を彫れる人間は、木の中にある形を見ている。木目を読んで、どこに力が掛かるかを知っている。……その目が、銃床に活きる)

 

 

 

「ハルコル」

 

 アエトモの低い声に、振り返った。

 

「お前の親父に頼まれたから行く。──だが、銃がどういうものか、俺は知らねえ。カニタとかいう鍛冶がどんな男かも知らねえ。見てから決める」

 

「それで十分です」

 

 アエトモが舟に手を置いた。半分削りかけの舟の縁を、太い指で撫でている。名残を惜しむような手つきだった。

 

「……こいつは、戻ってから仕上げる」

 

 

 

 ペカンクㇽが手を上げた。

 

「待たせたな。──行くぞ」

 

 

 

 一行はアエトモのチセを後にして、再びサㇽ川の上流へ歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 少し進むと、川はさらに細くなった。

 

 水の音が高く、冷たくなる。石の間を走る水が白く泡立ち、岸のイタドリの葉を揺らしていた。

 

 

 

 サㇽ川の上流で、水が二手に分かれた。

 

 右は沙流川の本流。奥へ行けば日高山脈の懐に入り、源流を越えれば十勝へ抜ける。左は細い沢で、北へ向かっている。

 

 ウタが左の沢を指した。

 

「こちらです。沢を進み尾根を越えるとムカ・ペッ(鵡川)の源流に出ます。そこがシムカㇷの盆地です」

 

 沢に入ると、傾斜が増した。

 

 足場が変わる。砂利から苔むした岩へ。岩と岩の間を水が流れ、滑りやすい。杖を突きながら、一歩ずつ登る。

 

 木々の種類も変わった。トドマツの暗い森が薄れ、シラカンバの白い幹が増えてくる。少し標高が上がった証拠だった。

 

 風が変わった。湿った谷風から、乾いた尾根の風へ。耳の奥がすうっと冷えた。

 

 振り返ると、歩いてきた沢が緑の帯になって下まで続いている。その先に、サㇽ川の流れが光っていた。

 

 

 

 夕方前に、鵡川の源流域に出た。

 

 尾根を越えた途端、風が止んだ。谷の底に小さな平地が開け、清流が細く光っていた。周囲を山が囲んでいる。空だけが広い。

 

「今夜はここで野営します。明日の朝には盆地が見えます」

 

 ウタの声に、一行が荷を降ろした。

 

 

 

 焚き火の火が低く燃える。

 

 干し鮭を焙り、ペミカンを齧りながら、一行は沢の水を飲んだ。冷たい。歯に沁みるほど冷たい。

 

 ウタが静かに話し始めた。

 

「今年のヨイチでは、鉛と銅板が入るはずです。」

 

 ペカンクㇽが火を見つめたまま頷いた。

 

「帰ってきたら、その話はカニタにも伝えておいてくれ」

 

 焚き火がパチリと爆ぜた。火の粉が暗い空に舞い上がり、すぐに消えた。

 

 

 

 

 

 

 翌朝、源流の沢を北へ下った。

 

 水が少しずつ太くなる。苔むした岩の間を滑るように流れていた水が、やがて砂利底の浅い川になった。膝まで浸かる渡渉を二度繰り返すと、木々の間から光が差し込んだ。

 

 視界が、開けた。

 

 

 

 山に囲まれた盆地だった。

 

 ムカ・ペッ(鵡川)の上流がゆるやかに蛇行しながら北へ流れている。両岸に笹原が広がり、その向こうにシラカンバとカラマツの混交林が続く。遠くの山並みは青く霞んでいた。

 

(これがシムカㇷだ。……思ったより、広い)

 

 ハルコルは足を止めて、盆地を見渡した。

 

 地図の上で線を引いていた場所が、今、目の前にある。三十人ほどが、この谷のどこかに暮らしている。

 

 

 

 沢沿いを下ると、煙が見えた。

 

 ウタが先に進み、声をかけた。

 

「ニプタイから来ました」

 

 しばらくして、チセの間から人が出てきた。

 

 男が三人、女が二人。子供が一人、母親の足にしがみついている。

 

 チセは六棟。川沿いに整った作りだった。柱が太い。増築した跡が二棟にある。

 

 そして──チセの裏手に、畑があった。

 

 小さいが、畝がきちんと立っている。エモの葉が、夏の日差しを受けて青々と茂っていた。

 

 

 

 長のニウㇰが、奥のチセから出てきた。

 

 四十半ばの、がっしりした体格の男だった。日に焼けた顔に深い皺が刻まれている。手が大きい。猟師の手だった。

 

「……また来てくれた」

 

 声が短い。だが、目に安堵が浮かんでいた。

 

 ペカンクㇽが一歩前に出た。

 

「秋に挨拶しただけでは足りなかった。今回は時間をとって来た。──息子を連れてきた」

 

 ニウㇰの目がハルコルに移った。

 

 しばらく見つめてから、小さく頷いた。

 

「噂は聞いている。……思ったより、小さいな」

 

「十二だ」

 

「ふむ」

 

 それだけで、挨拶は終わった。

 

 

 

 

 

 

 チセの中は涼しかった。

 

 囲炉裏の火が低く燃え、煙が天井の煙出しへゆっくりと上がっていく。壁に干し肉が吊るされ、隅に毛皮が積まれている。

 

 ニウㇰが囲炉裏の向かいに腰を下ろした。ペカンクㇽがその正面に座る。ハルコルは父の斜め後ろ。ウタが入り口近くに控えた。

 

「まず、聞かせてくれ。冬を越えてどうだった」

 

 ペカンクㇽの問いに、ニウㇰが顎を引いた。

 

「もらった種芋を春に植えた。最初は不安で、小さく植えた。……ちゃんと芋が出てきた」

 

「子供たちが畑に出ているのが見えた」

 

「ああ。あれは嬉しかった。子供たちが、自分から畑の手入れをしたがるのだ」

 

 ニウㇰの声が、少しだけ柔らかくなった。

 

 ハルコルは黙って聞いていた。

 

(エモが根付いている。ウタが報告していた通りだ。種芋を渡しただけで、あとは彼らが自分で育てた)

 

「冬は越えたか」

 

「越えた。だが、ぎりぎりだった。冬の終わりに蔵が空になりかけた。子供が五人いる。乳飲み子が一人。あの時は──」

 

 ニウㇰが言葉を切った。

 

「ニプタイが持ってきてくれた食料。あれがあって助かった」

 

 ペカンクㇽが低い声で言った。

 

「今年はエモの備蓄が増える。それでも足りない分は、ニプタイから届ける。約束する」

 

「……ありがたい」

 

 ニウㇰの声が、かすかに震えた。

 

 

 

 

 

 

 午後、畑を見て回った。

 

 エモの畝は六列。葉の茂り方から見て、土の状態は悪くない。

 

 ハルコルが膝をついて土を摘んだ。指の間で崩すと、黒っぽい腐葉土だった。粘りが少し強い。

 

(火山灰混じりの土特有の癖がある。……だが今は、エモが育つ範囲には収まっている)

 

「ニウㇰ殿。この周りの沢や山に、変わった場所はないか。川の色が違うとか、石の様子が他と違うとか」

 

 ニウㇰが少し考えてから、顎をしゃくった。

 

「変わったといえば……上の沢に、白い崖がある。崩れやすくて、雨が降ると白い水が流れてくる。昔、子供が落ちそうになったから、近づくなと言い聞かせている場所だ」

 

 ハルコルの耳が動いた。

 

「白い崖。──明日、案内してもらえるか」

 

「構わんが、何の役に立つ」

 

「分からない。だが、見てみたい」

 

 ニウㇰが首を傾げた。分からない、という顔だった。だが、断りはしなかった。

 

「明日の朝、連れて行く」

 

 

 

 

 

 

 夜。囲炉裏の火が赤く低く燃えている。

 

 外では虫の声が鳴き交わし、時折フクロウの声が遠くから届いた。

 

 ニウㇰが干し肉を囲炉裏にかざしながら、ぽつりと言った。

 

「前にペカンクㇽ殿が来た時は、正直なところ、何を考えているのか分からなかった」

 

 ペカンクㇽが黙って聞いている。

 

「秋に食料を持ってきて、エモの種を渡してくれた。見返りは要らないと言った。──山の中のこんな小さな村に、なぜそこまでするのかと」

 

「今は分かるか」

 

 ペカンクㇽの声は穏やかだった。

 

「……少しは」

 

 ニウㇰが火を見つめた。しばらく間があった。

 

「お前たちが来るたびに、この村は前より暮らしやすくなっている。去年は蔵が空になりかけた。だが今年は、エモがある。畑がある。……それが答えだと、思っている」

 

「そうだ。それが全てだ」

 

 ペカンクㇽが静かに笑った。

 

 ハルコルは父の横顔を見た。

 

 あの秋の夜、父が言った言葉が蘇る。

 

(「数字で測れないものもある。この村の人間は、お前を信じている。それは帳簿には載らない。だが、最も重い」)

 

 今、目の前にいるニウㇰの顔には、帳簿に書けないものが刻まれていた。安堵と、かすかな誇りと、それでもまだ消えない冬への不安。

 

 

 

 

 

 

 翌朝、ニウㇰに連れられて上流の沢へ向かった。

 

 ペカンクㇽとハルコル、ウタの三人だけが同行した。

 

 沢をしばし登ると、右手の斜面に白い崖が現れた。

 

 崖の一面が白かった。雨水で洗われた部分は薄く溶け、白い縞が下の川へ流れ込んでいる。川底の石にも、うっすらと白い粉が付着していた。

 

 ハルコルは崖に近づき、手を伸ばした。

 

 指先で岩の表面を撫でると、ざらりとした粉が取れた。白い。爪で削ると、容易に崩れる。柔らかい石だった。

 

(石灰を含む岩かもしれない)

 

(焼けば土に使える可能性がある)

 

 一欠片を手のひらに乗せ、鼻に近づけた。無臭。舌の先で軽く舐めると、わずかに苦い。

 

(間違いない。焼いて消石灰にすれば、酸性土壌を中和できる。噴火の後、灰で酸性に傾いた畑に撒けば──)

 

 だが、口には出さない。前世の説明できない知識は、内心だけで処理する。

 

「この石、ニプタイに持ち帰っていいか。畑の土を良くするのに使えるかもしれない」

 

 ニウㇰが崖を見上げた。

 

「この白い石が、畑の土を」

 

「試してみなければ分からない。少量でいい。次にウタが来た時に受け取れれば十分だ」

 

 ニウㇰが腕を組んだ。

 

「崩れやすい崖だ。集めるのは難しくない。だが、重いぞ。運ぶのが──」

 

「崩れ落ちた分だけで十分だ」

 

 ニウㇰが崖を見上げた。白い岩肌が、朝の光に眩しく光っていた。

 

「……分かった。集めておく」

 

 

 

 崖を離れて沢を下りながら、ハルコルはニウㇰに別の話をした。

 

「もう一つ、伝えたいことがある。エモの畑のことだ」

 

「何だ」

 

「同じ畑に毎年エモを植え続けると、土が痩せる。次の年には別の種を植えてほしい。マメを渡す」

 

 ニウㇰの足が止まった。

 

「エモがなくなるのか」

 

「なくならない。別の畑を新しく開いて、そこにエモを植える。最初の畑は、マメで休ませる。三年後にはまたエモが植えられる」

 

「……畑を増やせということか」

 

「そうだ。畑は四つあった方がいい。一つずつ順番に回す」

 

 ニウㇰが長い間黙った。

 

 やがて、ゆっくりと頷いた。

 

「子供たちに話さなければならないな。畑を広げる理由として」

 

「子供たちが分かるように話してくれ。彼らが覚えていれば、来年も再来年も続けられる」

 

「ああ」

 

 ニウㇰの返事は短かった。だが、目に静かな決意があった。

 

 

 

 

 

 

 出発の前に、ペカンクㇽがニウㇰと二人で話した。

 

 ハルコルは少し離れた場所で待っていた。父と長老の対話に、子供が横から口を挟むべきではない。

 

 話は短かった。

 

 ペカンクㇽが戻ってきて、ハルコルにだけ聞こえる声で言った。

 

「今後、交易隊が通る時、ここで一晩泊まれるようにしてくれると言っている。冬の前に、荷を持った人間が休めるチセを一棟作ると」

 

「中継拠点になる」

 

「ああ。……荷を運ぶ者にとって、道の途中に一晩泊まれる場所があるかないかで、体の持ちが全く違う」

 

 ペカンクㇽの声は低く、穏やかだった。

 

 

 

 コタンを発つ時、シムカㇷの若者が一人、出てきた。

 

「ユーパㇽまで案内します。イコㇿ殿とは顔なじみだ」

 

 二十代半ば。痩身で脚が長い。山の道を歩くために生まれてきたような体つきだった。

 

 ニウㇰが短く頷いた。

 

「頼んだぞ」

 

 ペカンクㇽが手を上げた。

 

「また来る」

 

 

 

 シムカㇷの盆地を後にする時、ハルコルは一度だけ振り返った。

 

 六棟のチセ。小さな畑。白い崖のある沢。

 

 三十人の暮らしが、あの谷に収まっている。

 

(帳簿に書くべき数字は、いくつもある。エモの畝の数。種芋の残量。石灰岩の崖の位置。冬の蔵の容量。……だが今は、もう少しだけ、このまま歩いていたい)

 

 

 

 一行はシムカㇷの盆地を出て、西へ向かった。

 

 その先に、ユーパㇽが待っている。




第31話(前編)をお読みいただき、ありがとうございます!

おまけの解説コーナーです。

【アイヌの丸木舟(チプ)】
アイヌ語で「チㇷ゚(chip)」と呼ばれる、一本の大木を刳り抜いて作られる舟です。

材料となるのは、カツラ、ヤナギ、ハリギリ、アオダモといった、頑丈で軽く長い直材が得られる広葉樹。なかでも上等なのが、舟材として最高級のカツラです。山の神に祈りを捧げて木を切り倒し、手斧で外側を整え、内側を刳り抜く。そして削った木に水を張り、そこへ焼き石を投げ込んでお湯にし、木を軟らかくしてから舟の幅を押し広げる──ここがアイヌの舟造りの妙技です。「焼き石で煮る」という素朴な工程一つで、刳り抜いただけでは決して得られない、幅広く安定した船腹が生まれるのです。

なお、今話の舞台一六六二年から五年後──寛文七年(一六六七)夏、樽前山が大噴火を起こします。その時に降り積もった「樽前b火山灰」の下から、昭和四十一年(一九六六)、苫小牧市沼ノ端の勇払川河岸で五艘の丸木舟が発掘されました。河川用三艘、海漁用二艘。最大のものは全長九・〇三メートル。材はカツラ、ヤナギ、アオダモ。海漁用の二艘には、舷側に板を綴り付けるための小穴が、それぞれ七十個、四十個と整然と穿たれていました──これは、海を渡るための板綴り舟「イタオマチㇷ゚」へと拡張する工程の跡です。

チプの進化形がイタオマチㇷ゚(板綴り舟)。丸木舟の舷側に厚板を綴じ付け、舳先と艫を反り上げ、帆を立てて、外洋航海に耐えるまで仕立てた船です。鉄釘を一本も使わず、シナノキの皮で撚った縄で板を綴り合わせる──これはアイヌ独自の技術で、サハリン経由で大陸へと続く山丹交易の動脈でした。



【石灰岩と消石灰、そして酸性土壌】
石灰岩(炭酸カルシウム・CaCO₃)は、爪で削ると容易に崩れ、舐めるとわずかに苦いのが特徴です。

これを窯で焼くと生石灰(CaO)になり、水を加えると激しい発熱とともに消石灰(Ca(OH)₂)が生まれる。強いアルカリ性を持ち、酸性土壌の中和剤として機能します。土壌の石灰改良は古代インド(紀元前二〇〇〇年頃)、古代ローマ(紀元前五〇〇年頃)から続く、極めて古い技術です。

北海道の土壌の多くは火山灰風化由来の「黒ボク土」と呼ばれ、新鮮な火山灰が降り積もると、さらに酸性度が増します。降灰直後の畑が痩せて作物が育たないのは、灰の物理的被害だけでなく、土の化学が崩れることが大きな原因なのです。



【占冠(シムカㇷ)の地質】
占冠(シムカㇷ)は現在の北海道勇払郡占冠村。鵡川の源流域に開けた、山に囲まれた小さな盆地です。地質学的には、ジュラ紀から白亜紀にかけて深い海溝で堆積した付加体(プレートに削り取られた堆積物)が折り重なって作られており、その中に、ペルム紀やジュラ紀の遠い海で生まれた石灰岩のレンズ──昔の珊瑚礁の名残──が、ぽつりぽつりと挟まれている。雨水で溶けやすく、白く崖をなして露出する地形です。



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