オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~ 作:サウス
後編は夕方に投稿予定です。
エゾハルゼミの声が山から下りてきて、サㇽ川の川面に夕映えが伸びる頃、その夕方、ペカンクㇽが口を開いた。
「シムカㇷ(占冠)とユーパㇽ(夕張)を見に行く」
囲炉裏の前で帳簿を広げていたハルコルが顔を上げた。
「ウタの報告では、どちらもエモが根付いたと」
「報告は聞いた。だが、昨年の秋に一度顔を見せただけでは足りない。──あの時はエモの種と食料を渡して戻った。今年はエモが育ったか、蔵はどうか、自分の目で確かめる」
ペカンクㇽの声は低く、穏やかだったが、「行く」の一語には有無を言わさぬ重さがあった。
「お前も来い。一緒に見ろ」
「……うん」
ハルコルは頷いた。
ペカンクㇽが立ち上がり、囲炉裏の向こうにいたカントに目を向けた。
「留守を頼む。ウタを連れていく」
カントが短く頷いた。
◆
翌朝。夜が明ける前に、一行は広場に集まった。
ペカンクㇽが既に準備を終えて立っていた。
いつもの厚い鹿革の上着。背中には食料の袋がひとつだけ。腰の短刀が朝の薄い光を受けて鈍く光っている。
ハルコルは父の荷を見て、内心で舌を巻いた。
(軽い。……山の道を知っている人間の荷だ。僕の革袋より一回り小さい)
「歩けるか」
ペカンクㇽの声は短かった。
「はい」
「前に行った時は秋だったが、今回は夏だ。草が深い。道のない場所もある」
それだけ言って、背を向けた。
ウタが一行の先頭に立った。交易担当として、この道を何度も歩いている。彼にとっては勝手知ったる獣道だ。
護衛の若者が三人。背に弓を負い、腰にマキリ(小刀)を佩いている。
ミナが広場の端に立っていた。帳簿の木札を一枚、胸に当てるように持っている。
「調べてきて。帰ってきたら聞かせて」
それだけだった。
一行は、サㇽ川(沙流川)の上流へ向かって歩き始めた。
初夏の朝。空気がまだ冷たい。
川面に霧が這い、対岸のトドマツの梢が霞んで見える。エゾハルゼミが鳴き始めるにはまだ早い時刻で、沢の水音と自分たちの足音だけが、朝の森に響いていた。
◆
サㇽ川を遡るのは、慣れた道だった。
川沿いの細い踏み跡は、夏の草で覆われている。オオイタドリが腰の高さまで伸び、葉が朝露を溜めて重く垂れていた。一歩ごとに、革靴がびしょりと濡れる。
上流へ行くほど、川が細くなった。
水の音が低い轟きから、澄んだ高い音に変わる。石の間を走る水が白く泡立ち、冷たい飛沫が時折頬にかかった。
昼過ぎ、ウタが足を止めた。
「ここから道が変わります。熊の古い足跡が多い。警戒しながら」
護衛の若者が弓を背から降ろし、矢筒の蓋を開けた。
ペカンクㇽは歩調を変えなかった。だが、目の動きが変わった。足元と梢を交互に見ている。猟師の目だった。
しばらく歩いて、ハルコルはペカンクㇽの後ろ姿を見た。
父の歩き方は、春の猟の時と同じだった。枯れ枝を一本も踏まない。落ち葉を踏む音すら、風の音に消える。あの巨きな体で、どうすればそんな歩き方ができるのか。
◆
日が傾き始めた頃、川沿いの踏み跡が少し広がった。
ペカンクㇽが立ち止まった。
川原の砂利の上に、丸太を半ば埋めた舟繋ぎの杭が二本、水際に立っていた。その向こうに、煙が細く上がっていた。
チセが四棟。サㇽ川の本流が緩やかに曲がる内側の、砂利の平地に寄り添うように建っていた。川向こうの岸は切り立った崖で、トドマツの暗い森が水面まで迫っている。
一棟の前で、男が丸木舟(チプ)の内側を削っていた。
太い丸太をくり抜いた舟の腹に体を入れ、手斧で一打ちずつ、木を剥がしている。コンッ、コンッ、と乾いた音が、川の水音に混じって規則正しく響いていた。
ペカンクㇽが足を止めた。
「アエトモ」
短い声だった。
男が手斧を止め、舟の縁から顔を上げた。
五十半ばの、骨の太い男だった。肩幅が広く、腕が長い。だが猟師の筋肉ではない。手の甲に古い刃物傷がいくつもあり、指の節が太く曲がっている。木を削り続けた手だった。
「……ペカンクㇽか」
低い声だった。重く、短い。寡黙な男の声だ。
「久しいな」
「ああ。上まで行く途中だ。──少し、話がある」
アエトモが舟から出て、手斧を丸太の切り株に突き立てた。木屑を手で払い、ペカンクㇽの前に立った。
二人の間に、若い頃からの馴染みの空気があった。言葉が少なくても通じるものがある。
「入れ」
アエトモがチセに顎をしゃくった。
チセの中は、木の匂いがした。
壁際に削りかけの部材が並び、天井の梁には鉋屑が干してある。囲炉裏の脇に刃物が十数本、革の巻物に包まれて立てかけてあった。大小様々な手斧、鑿(のみ)、曲がった刃の削り刀。道具一つ一つに長年の手入れが見える。
アエトモが囲炉裏に火を入れ、干し肉を炙りながら、ペカンクㇽの向かいに座った。
「上とは、どこか」
「シムカㇷと、ユーパㇽだ。息子を連れて見に行く」
アエトモの目がハルコルに移った。
「……これが」
「ああ」
じっと見つめてから、小さく頷いた。
「思ったより、小さいな」
「どこに行ってもそう言われる」
ハルコルが答えると、アエトモの口の端がわずかに動いた。笑ったのかもしれない。
ペカンクㇽが火を見つめたまま、切り出した。
「アエトモ。ニプタイでお前の腕を借りたい」
「何だ」
「ニプタイの工房で、難しい木の仕事がある。銃の、木の部分が要る。──銃床(じゅうしょう)だ。ただの柄とは違う。握って構えて、狙って撃つ。人の体に合わせて削らなきゃならねえ」
アエトモは黙っていた。干し肉を裏返し、火の加減を見ている。
「舟を彫れる腕なら、できる。お前しか頼める者がいない」
「……舟と、銃は違う」
「ああ、違う。だが、木を読む目は同じだ」
アエトモは、しばらく囲炉裏の火を見ていた。
炎が揺れる。その奥に何を見ているのか、ハルコルには分からなかった。
ハルコルは黙って見ていた。口を挟むべき場面ではない。
「……いつだ」
「早い方がいい。──儂らはシムカㇷとユーパㇽを回って戻る。五日か六日だ。お前はここからニプタイまで半日だろう。先に行って、鍛冶を受け持っているカニタに会ってくれ。何が要るかは、あいつが一番よく知っている」
アエトモが顎を引いた。
「シノッも連れて行く」
「娘婿か」
「舟彫りはまだまだだが、手は動く。──力仕事なら、あいつの方が儂より使える」
ペカンクㇽが小さく笑った。
「好きにしろ」
チセを出ると、アエトモが川原の丸木舟のところまで歩いた。
ハルコルは、その舟を見た。
削りかけの、まだ半分しか形になっていないチプだった。だが、すでに曲線が美しかった。舳先に向かって木の肉が厚く残され、腹は薄く、滑らかに削り込まれている。水を切る部分と、水を受ける部分で、厚みが違う。
(舟を彫れる人間は、木の中にある形を見ている。木目を読んで、どこに力が掛かるかを知っている。……その目が、銃床に活きる)
「ハルコル」
アエトモの低い声に、振り返った。
「お前の親父に頼まれたから行く。──だが、銃がどういうものか、俺は知らねえ。カニタとかいう鍛冶がどんな男かも知らねえ。見てから決める」
「それで十分です」
アエトモが舟に手を置いた。半分削りかけの舟の縁を、太い指で撫でている。名残を惜しむような手つきだった。
「……こいつは、戻ってから仕上げる」
ペカンクㇽが手を上げた。
「待たせたな。──行くぞ」
一行はアエトモのチセを後にして、再びサㇽ川の上流へ歩き出した。
◆
少し進むと、川はさらに細くなった。
水の音が高く、冷たくなる。石の間を走る水が白く泡立ち、岸のイタドリの葉を揺らしていた。
サㇽ川の上流で、水が二手に分かれた。
右は沙流川の本流。奥へ行けば日高山脈の懐に入り、源流を越えれば十勝へ抜ける。左は細い沢で、北へ向かっている。
ウタが左の沢を指した。
「こちらです。沢を進み尾根を越えるとムカ・ペッ(鵡川)の源流に出ます。そこがシムカㇷの盆地です」
沢に入ると、傾斜が増した。
足場が変わる。砂利から苔むした岩へ。岩と岩の間を水が流れ、滑りやすい。杖を突きながら、一歩ずつ登る。
木々の種類も変わった。トドマツの暗い森が薄れ、シラカンバの白い幹が増えてくる。少し標高が上がった証拠だった。
風が変わった。湿った谷風から、乾いた尾根の風へ。耳の奥がすうっと冷えた。
振り返ると、歩いてきた沢が緑の帯になって下まで続いている。その先に、サㇽ川の流れが光っていた。
夕方前に、鵡川の源流域に出た。
尾根を越えた途端、風が止んだ。谷の底に小さな平地が開け、清流が細く光っていた。周囲を山が囲んでいる。空だけが広い。
「今夜はここで野営します。明日の朝には盆地が見えます」
ウタの声に、一行が荷を降ろした。
焚き火の火が低く燃える。
干し鮭を焙り、ペミカンを齧りながら、一行は沢の水を飲んだ。冷たい。歯に沁みるほど冷たい。
ウタが静かに話し始めた。
「今年のヨイチでは、鉛と銅板が入るはずです。」
ペカンクㇽが火を見つめたまま頷いた。
「帰ってきたら、その話はカニタにも伝えておいてくれ」
焚き火がパチリと爆ぜた。火の粉が暗い空に舞い上がり、すぐに消えた。
◆
翌朝、源流の沢を北へ下った。
水が少しずつ太くなる。苔むした岩の間を滑るように流れていた水が、やがて砂利底の浅い川になった。膝まで浸かる渡渉を二度繰り返すと、木々の間から光が差し込んだ。
視界が、開けた。
山に囲まれた盆地だった。
ムカ・ペッ(鵡川)の上流がゆるやかに蛇行しながら北へ流れている。両岸に笹原が広がり、その向こうにシラカンバとカラマツの混交林が続く。遠くの山並みは青く霞んでいた。
(これがシムカㇷだ。……思ったより、広い)
ハルコルは足を止めて、盆地を見渡した。
地図の上で線を引いていた場所が、今、目の前にある。三十人ほどが、この谷のどこかに暮らしている。
沢沿いを下ると、煙が見えた。
ウタが先に進み、声をかけた。
「ニプタイから来ました」
しばらくして、チセの間から人が出てきた。
男が三人、女が二人。子供が一人、母親の足にしがみついている。
チセは六棟。川沿いに整った作りだった。柱が太い。増築した跡が二棟にある。
そして──チセの裏手に、畑があった。
小さいが、畝がきちんと立っている。エモの葉が、夏の日差しを受けて青々と茂っていた。
長のニウㇰが、奥のチセから出てきた。
四十半ばの、がっしりした体格の男だった。日に焼けた顔に深い皺が刻まれている。手が大きい。猟師の手だった。
「……また来てくれた」
声が短い。だが、目に安堵が浮かんでいた。
ペカンクㇽが一歩前に出た。
「秋に挨拶しただけでは足りなかった。今回は時間をとって来た。──息子を連れてきた」
ニウㇰの目がハルコルに移った。
しばらく見つめてから、小さく頷いた。
「噂は聞いている。……思ったより、小さいな」
「十二だ」
「ふむ」
それだけで、挨拶は終わった。
チセの中は涼しかった。
囲炉裏の火が低く燃え、煙が天井の煙出しへゆっくりと上がっていく。壁に干し肉が吊るされ、隅に毛皮が積まれている。
ニウㇰが囲炉裏の向かいに腰を下ろした。ペカンクㇽがその正面に座る。ハルコルは父の斜め後ろ。ウタが入り口近くに控えた。
「まず、聞かせてくれ。冬を越えてどうだった」
ペカンクㇽの問いに、ニウㇰが顎を引いた。
「もらった種芋を春に植えた。最初は不安で、小さく植えた。……ちゃんと芋が出てきた」
「子供たちが畑に出ているのが見えた」
「ああ。あれは嬉しかった。子供たちが、自分から畑の手入れをしたがるのだ」
ニウㇰの声が、少しだけ柔らかくなった。
ハルコルは黙って聞いていた。
(エモが根付いている。ウタが報告していた通りだ。種芋を渡しただけで、あとは彼らが自分で育てた)
「冬は越えたか」
「越えた。だが、ぎりぎりだった。冬の終わりに蔵が空になりかけた。子供が五人いる。乳飲み子が一人。あの時は──」
ニウㇰが言葉を切った。
「ニプタイが持ってきてくれた食料。あれがあって助かった」
ペカンクㇽが低い声で言った。
「今年はエモの備蓄が増える。それでも足りない分は、ニプタイから届ける。約束する」
「……ありがたい」
ニウㇰの声が、かすかに震えた。
午後、畑を見て回った。
エモの畝は六列。葉の茂り方から見て、土の状態は悪くない。
ハルコルが膝をついて土を摘んだ。指の間で崩すと、黒っぽい腐葉土だった。粘りが少し強い。
(火山灰混じりの土特有の癖がある。……だが今は、エモが育つ範囲には収まっている)
「ニウㇰ殿。この周りの沢や山に、変わった場所はないか。川の色が違うとか、石の様子が他と違うとか」
ニウㇰが少し考えてから、顎をしゃくった。
「変わったといえば……上の沢に、白い崖がある。崩れやすくて、雨が降ると白い水が流れてくる。昔、子供が落ちそうになったから、近づくなと言い聞かせている場所だ」
ハルコルの耳が動いた。
「白い崖。──明日、案内してもらえるか」
「構わんが、何の役に立つ」
「分からない。だが、見てみたい」
ニウㇰが首を傾げた。分からない、という顔だった。だが、断りはしなかった。
「明日の朝、連れて行く」
夜。囲炉裏の火が赤く低く燃えている。
外では虫の声が鳴き交わし、時折フクロウの声が遠くから届いた。
ニウㇰが干し肉を囲炉裏にかざしながら、ぽつりと言った。
「前にペカンクㇽ殿が来た時は、正直なところ、何を考えているのか分からなかった」
ペカンクㇽが黙って聞いている。
「秋に食料を持ってきて、エモの種を渡してくれた。見返りは要らないと言った。──山の中のこんな小さな村に、なぜそこまでするのかと」
「今は分かるか」
ペカンクㇽの声は穏やかだった。
「……少しは」
ニウㇰが火を見つめた。しばらく間があった。
「お前たちが来るたびに、この村は前より暮らしやすくなっている。去年は蔵が空になりかけた。だが今年は、エモがある。畑がある。……それが答えだと、思っている」
「そうだ。それが全てだ」
ペカンクㇽが静かに笑った。
ハルコルは父の横顔を見た。
あの秋の夜、父が言った言葉が蘇る。
(「数字で測れないものもある。この村の人間は、お前を信じている。それは帳簿には載らない。だが、最も重い」)
今、目の前にいるニウㇰの顔には、帳簿に書けないものが刻まれていた。安堵と、かすかな誇りと、それでもまだ消えない冬への不安。
翌朝、ニウㇰに連れられて上流の沢へ向かった。
ペカンクㇽとハルコル、ウタの三人だけが同行した。
沢をしばし登ると、右手の斜面に白い崖が現れた。
崖の一面が白かった。雨水で洗われた部分は薄く溶け、白い縞が下の川へ流れ込んでいる。川底の石にも、うっすらと白い粉が付着していた。
ハルコルは崖に近づき、手を伸ばした。
指先で岩の表面を撫でると、ざらりとした粉が取れた。白い。爪で削ると、容易に崩れる。柔らかい石だった。
(石灰を含む岩かもしれない)
(焼けば土に使える可能性がある)
一欠片を手のひらに乗せ、鼻に近づけた。無臭。舌の先で軽く舐めると、わずかに苦い。
(間違いない。焼いて消石灰にすれば、酸性土壌を中和できる。噴火の後、灰で酸性に傾いた畑に撒けば──)
だが、口には出さない。前世の説明できない知識は、内心だけで処理する。
「この石、ニプタイに持ち帰っていいか。畑の土を良くするのに使えるかもしれない」
ニウㇰが崖を見上げた。
「この白い石が、畑の土を」
「試してみなければ分からない。少量でいい。次にウタが来た時に受け取れれば十分だ」
ニウㇰが腕を組んだ。
「崩れやすい崖だ。集めるのは難しくない。だが、重いぞ。運ぶのが──」
「崩れ落ちた分だけで十分だ」
ニウㇰが崖を見上げた。白い岩肌が、朝の光に眩しく光っていた。
「……分かった。集めておく」
崖を離れて沢を下りながら、ハルコルはニウㇰに別の話をした。
「もう一つ、伝えたいことがある。エモの畑のことだ」
「何だ」
「同じ畑に毎年エモを植え続けると、土が痩せる。次の年には別の種を植えてほしい。マメを渡す」
ニウㇰの足が止まった。
「エモがなくなるのか」
「なくならない。別の畑を新しく開いて、そこにエモを植える。最初の畑は、マメで休ませる。三年後にはまたエモが植えられる」
「……畑を増やせということか」
「そうだ。畑は四つあった方がいい。一つずつ順番に回す」
ニウㇰが長い間黙った。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「子供たちに話さなければならないな。畑を広げる理由として」
「子供たちが分かるように話してくれ。彼らが覚えていれば、来年も再来年も続けられる」
「ああ」
ニウㇰの返事は短かった。だが、目に静かな決意があった。
出発の前に、ペカンクㇽがニウㇰと二人で話した。
ハルコルは少し離れた場所で待っていた。父と長老の対話に、子供が横から口を挟むべきではない。
話は短かった。
ペカンクㇽが戻ってきて、ハルコルにだけ聞こえる声で言った。
「今後、交易隊が通る時、ここで一晩泊まれるようにしてくれると言っている。冬の前に、荷を持った人間が休めるチセを一棟作ると」
「中継拠点になる」
「ああ。……荷を運ぶ者にとって、道の途中に一晩泊まれる場所があるかないかで、体の持ちが全く違う」
ペカンクㇽの声は低く、穏やかだった。
コタンを発つ時、シムカㇷの若者が一人、出てきた。
「ユーパㇽまで案内します。イコㇿ殿とは顔なじみだ」
二十代半ば。痩身で脚が長い。山の道を歩くために生まれてきたような体つきだった。
ニウㇰが短く頷いた。
「頼んだぞ」
ペカンクㇽが手を上げた。
「また来る」
シムカㇷの盆地を後にする時、ハルコルは一度だけ振り返った。
六棟のチセ。小さな畑。白い崖のある沢。
三十人の暮らしが、あの谷に収まっている。
(帳簿に書くべき数字は、いくつもある。エモの畝の数。種芋の残量。石灰岩の崖の位置。冬の蔵の容量。……だが今は、もう少しだけ、このまま歩いていたい)
一行はシムカㇷの盆地を出て、西へ向かった。
その先に、ユーパㇽが待っている。
第31話(前編)をお読みいただき、ありがとうございます!
おまけの解説コーナーです。
【アイヌの丸木舟(チプ)】
アイヌ語で「チㇷ゚(chip)」と呼ばれる、一本の大木を刳り抜いて作られる舟です。
材料となるのは、カツラ、ヤナギ、ハリギリ、アオダモといった、頑丈で軽く長い直材が得られる広葉樹。なかでも上等なのが、舟材として最高級のカツラです。山の神に祈りを捧げて木を切り倒し、手斧で外側を整え、内側を刳り抜く。そして削った木に水を張り、そこへ焼き石を投げ込んでお湯にし、木を軟らかくしてから舟の幅を押し広げる──ここがアイヌの舟造りの妙技です。「焼き石で煮る」という素朴な工程一つで、刳り抜いただけでは決して得られない、幅広く安定した船腹が生まれるのです。
なお、今話の舞台一六六二年から五年後──寛文七年(一六六七)夏、樽前山が大噴火を起こします。その時に降り積もった「樽前b火山灰」の下から、昭和四十一年(一九六六)、苫小牧市沼ノ端の勇払川河岸で五艘の丸木舟が発掘されました。河川用三艘、海漁用二艘。最大のものは全長九・〇三メートル。材はカツラ、ヤナギ、アオダモ。海漁用の二艘には、舷側に板を綴り付けるための小穴が、それぞれ七十個、四十個と整然と穿たれていました──これは、海を渡るための板綴り舟「イタオマチㇷ゚」へと拡張する工程の跡です。
チプの進化形がイタオマチㇷ゚(板綴り舟)。丸木舟の舷側に厚板を綴じ付け、舳先と艫を反り上げ、帆を立てて、外洋航海に耐えるまで仕立てた船です。鉄釘を一本も使わず、シナノキの皮で撚った縄で板を綴り合わせる──これはアイヌ独自の技術で、サハリン経由で大陸へと続く山丹交易の動脈でした。
【石灰岩と消石灰、そして酸性土壌】
石灰岩(炭酸カルシウム・CaCO₃)は、爪で削ると容易に崩れ、舐めるとわずかに苦いのが特徴です。
これを窯で焼くと生石灰(CaO)になり、水を加えると激しい発熱とともに消石灰(Ca(OH)₂)が生まれる。強いアルカリ性を持ち、酸性土壌の中和剤として機能します。土壌の石灰改良は古代インド(紀元前二〇〇〇年頃)、古代ローマ(紀元前五〇〇年頃)から続く、極めて古い技術です。
北海道の土壌の多くは火山灰風化由来の「黒ボク土」と呼ばれ、新鮮な火山灰が降り積もると、さらに酸性度が増します。降灰直後の畑が痩せて作物が育たないのは、灰の物理的被害だけでなく、土の化学が崩れることが大きな原因なのです。
【占冠(シムカㇷ)の地質】
占冠(シムカㇷ)は現在の北海道勇払郡占冠村。鵡川の源流域に開けた、山に囲まれた小さな盆地です。地質学的には、ジュラ紀から白亜紀にかけて深い海溝で堆積した付加体(プレートに削り取られた堆積物)が折り重なって作られており、その中に、ペルム紀やジュラ紀の遠い海で生まれた石灰岩のレンズ──昔の珊瑚礁の名残──が、ぽつりぽつりと挟まれている。雨水で溶けやすく、白く崖をなして露出する地形です。
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