オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~   作:サウス

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第31話(後編):黒い石と、水の道【1662年 夏】

 シムカㇷの盆地を出て、ムカ・ペッ(鵡川)に沿って西へ歩いた。

 

 川は盆地を抜けると少しずつ谷を狭め、両岸の山が迫ってくる。シムカㇷの若者が先頭を歩いた。彼の足取りは軽い。この道を何度も往復しているのだろう。

 

「ムカ・ペッを下れば海に出ますが、途中で南に折れます。ユーパㇽへはその手前から山道に入ります」

 

 ウタが頷いた。

 

 

 

 昼を過ぎた頃、谷がさらに狭まった。

 

 川の流れが急になる。水音が低い轟きから、岩を叩く鋭い音に変わった。

 

 そして──足が止まった。

 

 

 

 目の前に、赤い岩が立っていた。

 

 川の中に、人の背丈を超える巨岩が転がっている。岩の表面が赤い。血の色ではない。もっと深く、錆びた鉄のような、くすんだ赤だった。水に濡れた部分は特に色が濃く、朝の光を受けて鈍く光っている。

 

 赤い岩だけではなかった。

 

 その隣に、青みがかった岩がある。灰色とも青とも言い切れない、冷たい色の巨石が、赤い岩と並んで川の中に鎮座している。二つの色の岩が交互に散らばり、その間をムカ・ペッの清流が白い飛沫を上げて流れ抜けていた。

 

 崖の壁にも赤い縞が走っている。層をなして重なった赤い岩の断面が、渓谷の両壁にむき出しになっていた。

 

 ハルコルは足を止めて見上げた。

 

(……すごい)

 

 前世の知識が、内心で囁く。

 

(チャートだ。大昔の海底に、放散虫の殻が積もって固まった石。赤は鉄分、青は珪質の成分の違い。一億年前の海底が、今ここに立っている)

 

 だが口に出したのは、別の言葉だった。

 

「この場所に名前はあるか」

 

シムカㇷの若者が答えた。

 

「赤い岩の峡(はざま)、と呼んでいます。誰がつけた名かは分かりません。昔からそう呼ぶ」

 

 ペカンクㇽが崖を見上げた。

 

「前に来た時は秋だった。紅葉の中に赤い岩が混じって、どこまでが山でどこまでが岩か分からなかった」

 

 声に、珍しく感嘆の色があった。

 

「夏は違うな。……緑の中に赤が映える」

 

 

 

 渓谷を抜けるのに、半刻ほどかかった。

 

 岩と岩の間を縫うように歩き、時に膝まで水に浸かって渡渉した。水は冷たい。底の石が丸く磨かれている。何千年も水に洗われ続けた石の手触りだった。

 

 渓谷を抜けると、ムカ・ペッはさらに西へ流れ、やがて大きく南へ向きを変え始めた。

 

 

 

 ウタが足を止めた。

 

「ここから先のムカ・ペッは、南へ向かいます。河口のムカまで」

 

 ハルコルは川の流れを目で追った。南へ向きを変えたムカ・ペッの水面が、木々の間にちらちらと光って消えていく。

 

(ムカ・ペッの下流。ムカの河口まで。……その流域は──)

 

 ウタが短く言った。

 

「ムカ・ペッを舟で下れれば、ニプタイまでの荷が楽なんですが」

 

 一行の足が、一瞬だけ止まった。

 

 ペカンクㇽが静かに首を振った。

 

「ムカ・ペッの中流から下流にかけては、オニビシの勢力圏だ。あの辺りを舟で通れば、見つかる」

 

 ウタが口を閉じた。

 

 ペカンクㇽが前を向いたまま、低い声で言った。

 

「今は使えない。だが、いつまでも使えないとは限らない」

 

 それだけ言って、歩き始めた。

 

 

 

 

 

 

 ムカ・ペッが南に折れる地点から、一行は山道に入った。

 

 西へ向かう。道は細い。猟師が通った獣道の名残が、笹の間にかすかに残っているだけだった。

 

 シムカㇷの若者が先頭で藪を分ける。彼の脚の長さが、ここで活きた。笹を跨ぎ、倒木を乗り越え、沢を飛び越える。

 

 傾斜が上がった。ムカ・ペッの谷から離れ、尾根筋に乗る。

 

 尾根の上で一休みした時、ウタが南を指した。

 

「今越えているのが、ムカ・ペッとユーパㇽ・ペッ(夕張川)の境です。この峰を境として南の水がムカ・ペッ、北の水がユーパㇽ・ペッに入る」

 

 ハルコルは両方の谷を見下ろした。

 

 南は、さっきまで歩いていたムカ・ペッの渓谷が山並みの間に消えていく。北は──谷が広い。シムカㇷの盆地より明らかに開けている。

 

(北の水は夕張川に入り、石狩川へ注ぎ、石狩の河口から日本海へ出る。南の水は鵡川を下り、太平洋へ。……ここが分水嶺だ)

 

 

 

 北の谷へ下りると、木々の間から川が見え始めた。

 

 ムカ・ペッより太い。水量がある。

 

 そして、崖の面に黒い縞が走っていた。

 

 

 

 

 

 

 ユーパㇽのコタンは、シムカㇷとは雰囲気が違っていた。

 

 まず、谷が広い。

 

 ユーパㇽ・ペッの上流域は両岸に段丘が発達しており、川沿いに平らな土地が続いている。シムカㇷの山に囲まれた小さな盆地とは違い、ここには人が多く住める広い土地がある。チセの周囲に畑を広げる余地が、目に見えて広がっていた。

 

 チセは八棟。だがそれだけではなかった。少し離れた場所にも、小さなチセが三棟見えた。

 

 シムカㇷの若者が声をかけた。

 

「イコㇿ殿。──ニプタイのペカンクㇽ殿が来られました」

 

 奥のチセから、長身の男が出てきた。

 

 イコㇿ。五十代。細く背が高く、目が鋭い。猟師というよりは川師の目だ、とハルコルは思った。水を読む目。流れの速さと深さを一瞬で測る目。

 

「ペカンクㇽ殿。──よく来た」

 

 声は低い。敬意と、わずかに警戒が混じっている。受け入れているが、まだ全てを預けてはいない目だった。

 

 ペカンクㇽが一歩前に出た。

 

「今回は息子を連れてきた。話がある」

 

 イコㇿの視線がハルコルに移った。上から下まで、ゆっくりと見た。

 

「……これが」

 

 一言だけ言って、黙った。

 

 ハルコルは頭を下げた。深くも浅くもなく、ちょうどいい角度で。

 

 イコㇿが、かすかに眉を上げた。

 

「中に入れ」

 

 

 

 

 

 

 囲炉裏を囲んで話を聞いた。

 

「エモは今年の春に初めて植えた。秋に育ちを確かめてから、来年はもっと広げるつもりだ。育ちは悪くない。──だが、人が増えた」

 

 イコㇿの声は平坦だった。愚痴ではない。現状の報告だ。

 

「上流のコタンから移ってきた家族が三つある。子供が多い。乳飲み子が二人。冬の前に備蓄をもっと増やしたい。だが、余剰がまだ足りない」

 

 ハルコルは黙って聞いていた。

 

(増えている。移住者が来ている。エモの噂を聞いて集まってきた家族だろうか。……平地が広いぶん、シムカㇷより人を受け入れる余地がある)

 

 ペカンクㇽが問うた。

 

「ユーパㇽの他のコタンの動きはどうだ」

 

 イコㇿが少し間を置いてから答えた。

 

「……実は、それを話したかった」

 

 囲炉裏の火がパチリと爆ぜた。

 

「このユーパㇽの沢筋には、うち以外にもいくつかのコタンが点在している。川沿いに三つ、山の奥に二つ。どれも十人から三十人の小さな村だ」

 

「ああ。」

 

「その全てが──ニプタイの輪に加わりたいと言っている」

 

 イコㇿの目が、ペカンクㇽを真っ直ぐに見た。

 

「俺のところだけの話じゃない。ユーパㇽの沢筋全体の話だ。全部合わせれば、二百人になる」

 

 ハルコルの指が、膝の上でわずかに動いた。

 

(二百人。……ユーパㇽの谷はそれだけの人を抱えている。平地が広いぶん、コタンが分散して点在しているのだ)

 

 ペカンクㇽが腕を組んだ。

 

「お前が取りまとめるのか」

 

「俺が音頭を取る。だが、各コタンの長が自分の村を仕切る。そこは変えない」

 

「それでいい。──受け入れる」

 

 ペカンクㇽの声は短く、重かった。

 

 イコㇿが目を伏せた。一瞬だけだった。

 

「……助かる」

 

 

 

 ハルコルが口を開いた。

 

「食料の支援は、これまで通りニプタイが行う。エモの種芋も追加で渡す。輪作の知恵も伝える。──そのうえで、頼みたいことが二つある」

 

 イコㇿが顔を上げた。

 

「言ってみろ」

 

 

 

 

 

 

 翌朝、イコㇿが川沿いを案内してくれた。

 

 ユーパㇽ・ペッの上流部。昨日通った崖の前に立つと、朝の日差しが黒い縞を照らしていた。

 

 イコㇿが崖に手を当てた。

 

「これが燃える石だ。昔から知っている。薪が手に入らない冬に、外の焚き火で使ったことがある」

 

「煙と臭いは」

 

「多い。チセの中では使えない。だが外なら、よく燃える。火持ちがいい。薪より長く燃え続ける」

 

 ハルコルは崖の面に近づいた。黒い縞の一つに指を当てて、なぞった。指先が黒くなる。爪で擦ると、薄い破片がぱらりと剥がれた。

 

(露頭石炭だ。何層にも走っている。量は相当なものだろう。蒸し焼きにすれば硫黄が飛んでコークスになる。コークスがあれば、炉の温度をもう一段上げられる)

 

「この黒い石を集めてほしい。ニプタイで使い道がある」

 

「何に使う」

 

「鉄を作る炉に入れる。薪より高い熱が出る」

 

「……鉄」

 

 イコㇿの目がわずかに鋭くなった。

 

「お前たちは鉄を作っているのか」

 

 ペカンクㇽが静かに言った。

 

「ああ。ニプタイの工房で作っている。──これからもっと要るようになる」

 

 イコㇿがしばらく黙っていた。崖の黒い縞を見つめている。

 

「……集めることはできる。崖を削れば、いくらでも出てくる。陸路で運ぶのは重いが、まずは少量ずつ始めるということか」

 

「そうだ。受け取りはこちらから人を寄越す。──量が増えたら、別の道も考える」

 

 

 

 

 

 

 石炭の崖を離れ、川沿いをさらに少し下った。

 

 水面が広がっている場所があった。流れが緩やかで、岸辺に砂利が堆積している。丸木舟を着けるには悪くない地形だった。

 

「もう一つの頼みがある」

 

 ハルコルが言った。

 

「この川を使う水運を、本格的に整えたい」

 

 イコㇿが足を止めて振り返った。

 

「水運は、もう使っている。イシカㇼまで下ったことがある者が、この村に二人いる。夏から秋が安全だ」

 

 ウタが補った。「私も一度、下まで確認に行きました。イシカㇼ・ペッとの合流点まで、舟で二日ほどかかります」

 

 ハルコルが頷いた。

 

「知っている。だが、今のままでは荷を大量に動かせない。陸揚げ場と、舟をつなぎ止める場が要る。流れが速い場所では、案内する者も要る。──それを、ユーパㇽのコタンに管理してほしい」

 

 イコㇿの目が、ハルコルを正面から射抜いた。

 

「管理、というのは」

 

「川を行き来する舟を受け入れて、荷を安全に降ろして、次の便まで預かる。ニプタイからイシカㇼへ下る舟も、イシカㇼからニプタイへ遡る舟も、ここを通る。ユーパㇽがその結び目になる」

 

 イコㇿが腕を組んだ。

 

「イシカㇼのハウカセ殿の水運と、繋がるということか」

 

「そうだ」

 

 長い沈黙だった。

 

 川の音だけが続いている。水は涼やかに流れ、岸辺の石を洗い、何も知らない顔で下流へ向かっていく。

 

 ペカンクㇽが一歩前に出た。

 

「難しい頼みだとは分かっている。だが、この川を一番よく知っているのはお前たちだ。他に頼める者がいない」

 

 イコㇿが川を見つめた。

 

 やがて、口を開いた。

 

「杭を打つ場所は、俺が選ぶ」

 

 声が硬かった。

 

「陸揚げ場も、舟をつなぐ方も、俺が決める。川のことは俺が一番よく知っている。口を出されたくない」

 

 ハルコルは即座に頷いた。

 

「そうしてほしい。川のことは任せる。いつ舟を出すかも事前に伝える」

 

 イコㇿがハルコルを見た。

 

 十二歳の少年の目と、五十を過ぎた川師の目が、まっすぐにぶつかった。

 

「……分かった。やってみる」

 

 ペカンクㇽが短く言った。

 

「助かる」

 

 イコㇿが少し間を置いて、付け足した。

 

「川下りの経験がある二人に、下流の瀬と淵を全て覚え直させる。秋までに、案内役を仕立てておく」

 

 ペカンクㇽが頷いた。「秋に、一度試しに荷を乗せてみよう。それが最初の一歩だ」

 

「秋に、試してみる」

 

 

 

 

 

 

 夕方。川沿いの焚き火を囲んだ。

 

 イコㇿの家の者たちが出てきた。若い男が三人、女が四人。子供たちが走り回っている。

 

 一番小さな赤子を抱いた若い女性が、焚き火の少し離れた場所に座った。赤子は毛皮にくるまれて、静かに眠っている。

 

 ハルコルはその赤子の顔を見た。

 

 

 

 焚き火の火が赤く揺れる中、イコㇿが干し鮭を焙りながら言った。

 

「去年の冬が、一番厳しかった」

 

 声が低い。

 

「食料が尽きかけた。子供が熱を出した。蔵の底が見えた時──ニプタイから荷が届いた。ウタ殿が持ってきてくれた」

 

 ウタが焚き火の向こうで、黙って頷いた。

 

「間に合ったか」

 

 ハルコルが聞いた。

 

「間に合った。……あの一荷で、冬を越えた」

 

 焚き火がパチリと爆ぜた。火の粉が暗い空に散って、すぐに消えた。

 

 しばらく、誰も何も言わなかった。

 

 川の音と、虫の声と、子供たちが笑う声だけが夏の夕暮れに溶けている。

 

 

 

 ペカンクㇽが焚き火に枝を足しながら、静かに言った。

 

「二百人の暮らしを、お前一人の肩に乗せるな。支えるのはニプタイだけの仕事でもない。それぞれのコタンの長が、それぞれの村を回す。お前は川と石を束ねればいい」

 

 イコㇿが火を見つめた。

 

「……そうする」

 

 

 

 ハルコルは焚き火の輪を離れ、川の岸辺に歩いた。

 

 ユーパㇽ・ペッは暗くなった空を映して、黒く光っていた。水面にちらちらと、焚き火の明かりが揺れている。

 

(この水が石狩川に入り、石狩の河口まで流れる。

 荷を積んだ丸木舟が、いつかこの流れを行き来する。

 今年の秋。それが最初の一艘になる。

 陸揚げ場はまだない。係留の杭もまだ打たれていない。

 だがイコㇿは「俺が選ぶ」と言った。あの言葉が、全ての始まりだ)

 

 背後の焚き火から、子供の笑い声が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 翌朝。

 

 一行はユーパㇽを発ち、帰路についた。

 

 イコㇿがコタンの入り口まで見送りに出た。

 

「秋に、杭を打っておく」

 

 短い言葉だった。

 

 ペカンクㇽが頷いた。

 

「次はウタが来る。荷の話はその時に」

 

 イコㇿが手を上げた。

 

 

 

 帰路は来た道を戻る。尾根を越え、ムカ・ペッに出て、赤い岩の渓谷を再び通った。

 

 朝の光の中で見ると、赤い岩はまた違う表情だった。水に濡れた表面が光を弾いて、血のように見えた箇所が、朝の日差しでは柔らかな琥珀色に変わっている。

 

 渓谷を抜け、シムカㇷの盆地を通過する。シムカㇷの長ニウㇰが入り口で手を上げた。

 

「また来い」

 

 ペカンクㇽが短く頷いた。

 

 

 

 峠を越え、サㇽ川の谷に戻った。

 

 見慣れた水の音が耳に届いた時、ハルコルの体が──帰ってきた、と知った。

 

 

 

 サㇽ川沿いを下る道中。ウタが珍しく自分から話した。

 

「ここを通るたびに、少しずつ人の声が増えている気がします」

 

 ハルコルが少し考えてから答えた。

 

「道を使う人が増えれば、道が太くなる」

 

「それが、ニプタイのやり方ですか」

 

「父のやり方です」

 

 ペカンクㇽが前を向いたまま、何も言わなかった。

 

 だが歩調が、少しだけゆっくりになった。

 

 

 

 

 

 

 ニプタイに着いたのは、五日目の夕方だった。

 

 西の山並みが橙色に燃えている。サㇽ川の水面が夕日を受けて金色に光り、チャシの山の輪郭が暗く浮かび上がっていた。

 

 広場に出ると、ミナが帳簿を抱えて待っていた。

 

「おかえり」

 

「シムカㇷに白い石の崖がある。畑に使えるかもしれない石だ。──ユーパㇽは川の整備を引き受けてくれた。それと、ユーパㇽ一帯のコタンがニプタイに加わりたいと言っている。合わせて二百人」

 

 ミナの目が、少しだけ開いた。

 

「二百」

 

「ああ。イコㇿ殿が取りまとめる」

 

 ミナが帳簿の木札を一枚取り出した。

 

「帳簿には載らないものも、たくさん見てきた」

 

 ミナがハルコルの顔を見た。少し間があった。

 

「それは書き方を考えないとね」

 

 

 

 

 チャシの入り口の奥から、カニタの金属音が聞こえた。キンッ、キンッ──。工房の火は五日間、落ちていなかったらしい。

 

 ハルコルは広場に立ったまま、夕暮れの空を見上げた。

 

 橙色の空の下に、サㇽ川が光っている。あの水は河口まで下って太平洋に注ぐ。

 

(シムカㇷの白い石。ユーパㇽの黒い石。ムカ・ペッの水。ユーパㇽ・ペッの水。──そして、使えない道と、これから太くなる道)

 

(ムカ・ペッを下れれば楽だった。だが今は使えない。オニビシの目がある。……だからこそ、ユーパㇽ・ペッを整える。)

 

(道は歩かなければ道にならない。川は整えなければ荷は運べない。帳簿に線を引くだけでは、何も動かない。──僕は五日かけて、自分の足で線を歩いた。やっと、地図が体の中に入った)

 

 

 

 

 シムカㇷのエモの畝の数。種芋の残量。チセの棟数。石灰岩の崖の位置。ユーパㇽの人口。石炭の露頭。川の陸揚げに使える砂利場。──二百人の、まだ見ぬ顔。

 

 書ける数字は、山ほどある。

 

 だが帳簿の裏には、ニウㇰの安堵の目と、イコㇿの「俺が選ぶ」という声と、赤子の眠る顔と、赤い岩の渓谷がある。

 

 それは数字では書けない。

 

 けれど──忘れることもない。

 

 

 

 夏の夕暮れが、ニプタイの山並みを染め上げていた。

 

 川は、流れている。




第31話(後編)をお読みいただき、ありがとうございます!
ふと思いつきでサブタイトルを対照的にできることに気づきまして、前後編に分割しました。


おまけの解説コーナーです。

【赤い岩と青い岩の渓谷──赤岩青巌峡】
占冠から夕張へ向かう途中、鵡川沿いの渓谷。錆びた鉄のような赤い巨岩と、灰色とも青ともつかぬ冷たい色の巨岩が、清流の中に交互に並ぶ場所──これは実在の景勝地で、現在は「赤岩青巌峡(あかいわせいがんきょう)」と呼ばれています。占冠村中央とニニウ地区の中間に位置し、現代ではラフティングの名所、そしてロッククライミングの練習場としても知られる、北海道地質百選にも選ばれた場所です。

赤い岩は、地質学的には成層赤色チャート。深海の底に降り積もった放散虫という微小プランクトンの珪質殻が、何千万年もの時間をかけて圧縮されて出来た石です。色の赤は、わずかに含まれる鉄分が酸化したもの。

「青巌」と書かれる青みがかった岩のほうは、珪長質凝灰岩と泥岩の互層を源岩とする弱変成岩。古い火山灰と海底の泥が交互に積もったものが、長い年月の中で押し固められて変質した石です。地質学では、この一帯は「神居古潭帯ハッタオマナイ層」と呼ばれ、白亜紀の付加体(プレートに削り取られた海底堆積物)を起源とする低温高圧型の変成岩帯に分類されます。


【夕張(ユーパㇽ)】
「ユーパㇽ」は、現在の北海道夕張市。語源はアイヌ語の「ユーパロ」または「ユーパッ・オ・ナイ」で、「鉱泉のわき出る所」を意味します。夕張川流域には古くから鉱泉の湧出地が点在しており、それを目印にしたアイヌの呼び名が、そのまま近代以降の市名となりました。

ユーパㇽ・ペッ(夕張川)は、石狩川の主要な支流の一つ。北東の日高山脈の懐から流れ出て、栗山・由仁を経て千歳川と合流し、石狩川本流に注ぎます。

なお、ムカ・ペッ(鵡川)は太平洋側へ注ぐ別水系。日高山脈の西縁、占冠と夕張を隔てる尾根筋が、太平洋と日本海の分水嶺になっています。


【「燃える石」──夕張石炭】
夕張の石炭は、今から約三千四百万年前(古第三紀)の地層に含まれています。当時の北海道は今よりずっと温暖で、夕張のあたりは広大な湿地帯。そこに生い茂った植物が、倒れ、積み重なり、土砂に埋もれ、長い時間をかけて地圧と地熱で蒸し焼きにされた結果、炭素分の濃い黒い石となりました。

夕張の炭層が「世界に通用する」と評価された最大の理由は、その質。製鉄用コークスやガスを作るのに適した原料炭で、カロリーが高い。国内最優良炭と呼ばれ、二十世紀には「日本の炭都」として年間四百万トンを超える出炭量を誇りました。

「コークス」──これは、近代製鉄の核心そのものです。炭の中に含まれる硫黄分は、鉄に混じると脆くする厄介者。これを蒸し焼き(乾留)で予め飛ばしておけば、純度の高い高温燃料が得られ、炉内温度を千度を超えて引き上げられます。


【史実における露頭の発見】
史実で、夕張の石炭大露頭が「発見」されたのは明治二十一年(一八八八)のこと。アメリカ人地質学者ライマンの探検隊に随員として加わっていた経歴のある坂市太郎が、志幌加別川の上流で、三層の石炭が地表に露出している巨大な崖を発見しました。これが日本の近代石炭産業の出発点となります。三層の厚みを尺貫法で示した「十尺層・八尺層・六尺層」、合計二十四尺──別名「夕張二十四尺層」と呼ばれ、現在は北海道指定の天然記念物となっています。



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