オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~   作:サウス

4 / 37
続きました!

これを書くために図書館で連日アイヌの資料ばっかり漁ってます。
人権関連が混ざってたりで純粋なアイヌの歴史文化の資料の選別が大変。


第3話:囲炉裏の夜と、春を待つ木簡【1656年 冬】

 その夜、村長であるペカンクㇽのチセは、久しぶりに村人たちの明るい笑い声に包まれていた。

 土間には、昼間の商談でハルコルが勝右衛門から引き出した米俵が三つ、どっしりと据えられている。

 囲炉裏には真新しい鉄鍋がかけられ、たっぷりの米と干し肉、鮭が煮込まれた熱いオハウ(汁物)が、集まった村の皆に惜しみなく振る舞われていた。

 

「カムイの恵みだ! 今年の冬は、腹いっぱい飯が食えるぞ!」

 

 大人たちは椀を傾けて安堵の息を漏らし、子どもたちは珍しい米俵の周りをはしゃぎ回っている。冬を前に張りつめていた村人たちの顔から、ようやく強張りが抜けていた。

 それは、理不尽な取引を跳ね返し、飢えの影が少しだけ遠のいた夜だけに許される、ささやかな祝祭だった。

 

 やがて夜が深まり、腹を満たした村人たちがそれぞれのチセへ帰り去ると、賑やかだった家の中は、パチパチと爆ぜる囲炉裏の音だけになった。

 宴の熱気が静まり、家族だけが残るころになると、チセの空気はまた別の顔を見せた。

 

 父ペカンクㇽは、椀に残った酒をひと口飲み、しばらく火を見つめていた。

 そして、静かに、だが有無を言わせぬ声でハルコルを呼ぶ。

 

 「ハルコル。火の前に座りなさい」

 

 その声は、村長のものだった。

 ハルコルが黙って向かいに座ると、囲炉裏の火が父の顔に揺れる影を落とした。

 昼間の商談で見せた荒々しさはない。代わりにあるのは、村を背負う者の、重く沈んだ目だった。

 

 「……今日の商談。お前の機転には驚かされた」

 

 父はそう切り出した。

 

 「おかげで、村はかつてないほどの米と鉄を手に入れた。そのこと自体は、長として礼を言う」

 

 ハルコルは何も言わない。

 父は一度、短く息を吐いた。

 

 「だが、やり過ぎだ。大人の商談に割って入り、相手を脅し、あろうことか、村の至宝であるクロテンの毛皮を、あのような泥だらけの芋と交換する約束まで勝手にしてしまった」

 

 火が、ぱちりと音を立てた。

 

 「……和人は狡猾だ。春に芋が届かず、毛皮だけを持ち逃げされたらどうする? お前のやり方は、あまりに危うい」

 

 それは、村を守ってきた長として、当然の懸念だった。

 誇りを守ることと、村を守ることが、同じではないと分かっていても、なお簡単には呑み込めない。

 父の沈黙の底には、そんな葛藤が見える。

 

 だが、ハルコルは視線を逸らさなかった。

 前世の記憶が、痛いほど鮮明に告げている。

 このままでは、目の前にいる誇り高い男も、母も、村の子どもたちも、いずれ理不尽に呑み込まれる。

 

 「父さん。僕らの知っているやり方は、もう通じなくなりつつあるんだ」

 

 「なんだと?」

 

 「和人の商人は、僕らが鮭や毛皮の本当の値打ちを知らないことを利用して、ずっと村を買いたたいてきた。彼らにとって、僕らは対等な交易相手じゃない。都合のいい獲物なんだ」

 

 囲炉裏の火が、ハルコルの横顔を赤く照らしていた。

 その光の中で、六歳の子どもにあるまじき冷静さが、かえって目立つ。

 

 「狩りの腕を磨くだけじゃ、もう村は守れない。相手が狡猾なら、僕らはそれ以上に賢くならなきゃいけない。今日、僕がやったのは賭けじゃない。相手の欲を利用して、絶対に損をしないように仕組んだ契約だよ」

 

 父は黙った。

 火の音だけが、しばらく二人のあいだを流れた。

 ペカンクㇽは、目の前にいる息子を見つめた。

 小さな肩、まだ細い腕、だがその奥で燃えているものは、子どもの駄々とは到底思えない。

 熊と対峙したときに近い、底の知れない気迫。

 森で何か巨大なものと出会ったときに、人が本能で感じる畏れに似ていた。

 

 「……それで、その泥芋で、お前は何をするつもりだ。本当に、それが村を救うというのか」

 

 「救うよ」

 

 ハルコルは即答した。

 

 「米や肉は、食べれば終わる。狩猟で得た恵みは、手のひらで溶ける雪みたいなものだ。それに、和人の米はシサㇺモシㇼ(本州)では育っても、ここじゃ育たない。でも、ジャガタライモは違う」

 

 その目に、強い光が宿る。

 

 「春に届いた芋を、村の空き地に植える。秋には、それが十倍にも二十倍にも増える。それをまた種芋にして、来年はもっと増やす。土に埋めるだけで勝手に増え続ける、決してなくならない恵みの泉を、村の中に作るんだ。そうすれば数年後には、このコタンは和人の米に頼らなくても、二度と飢えなくなる」

 

 父は、長いあいだ黙っていた。

 言葉を探しているのではない。

 目の前の未来を、どこまで信じるべきか測っているのだ。

 自然の巡りに従い、獲物に従い、季節に従って生きる。

 それが当然だった男にとって、土から食料を増やすという発想は、あまりにも異質だった。

 だが、囲炉裏の火に照らされた息子の目は、子どもの空想にしてはあまりに具体的で、あまりに冷静だった。

 

 やがて父は、ゆっくりと頷いた。

 

 「……分かった。お前の描く未来を、信じてみよう」

 

 節くれだった大きな手が、ハルコルの小さな肩に置かれる。

 

 「春に芋が届いたら、好きにするがいい。作付けの場所も、人手も、お前の望む通りに手配しよう。村の者たちには、私が納得させる」

 

 その手の重みは、支配の重さではなかった。

 背を支えるための重みだった。

 ハルコルは、強く頷いた。

 

 (父さん……絶対に後悔はさせない)

 

 その胸の内では、前世の歴史知識が冷たく、しかし確実に未来を組み立てていた。

 この先には、和人の搾取に対抗して起こるシャクシャインの戦いがある。

 さらに、その少し先には、有珠山や樽前山の大噴火が続き、灰が大地を覆い、森の獣も川の魚も弱り、村を丸ごと飢えへ追い込む死の冬が来る。

 狩猟と採集だけに頼ったままでは、この村は耐えられない。

 吹きすさぶ火山灰の下でも育ち、命を濃く蓄えるエゾイモだけが、この理不尽な自然と歴史の暴力から村を守れる。

 それは、希望と呼ぶにはあまりに泥臭い。

 だが、泥臭いからこそ、生き延びられる。

 

 

 

 

 

 

 父の承認を得た夜を境に、サㇽの地は本格的な深い雪に閉ざされた。

 一歩外へ出れば、視界は猛吹雪によって白く塗り潰される。

 吸い込んだ空気は肺の中で凍り、まぶたを上げているだけでも涙がにじむ。

 一晩で人の背丈ほども積もる雪の前では、人間の暮らしなど、あまりに頼りない。

 

 だが、分厚い雪と茅に覆われたチセの中は、外の地獄が嘘のように穏やかだった。

 パチパチと囲炉裏の火が爆ぜる。

 煙は天窓へ細く抜け、チセの中を乾かし、吊るしたサッチェプを燻す。

 獣脂と煙と木の香りが、ひとつになって家を満たしていた。

 

 冬のあいだ、アイヌの人々は外での狩りを最小限に抑え、火の周りで春を待つ手仕事に没頭する。

 土間の片隅では、女たちがオヒョウの樹皮を温泉に浸して柔らかくし、細い糸へと撚り合わせていた。

 それを何日もかけて機で織り、丈夫なアットゥㇱへ仕立てる。襟元や袖口には、悪いものが入り込まぬようにと、魔除けの意味を持つ美しい文様が、一針一針、祈るように刺されていく。

 

 上座では、父をはじめとする男たちが車座になり、小刀で木を削っていた。

 狩猟の道具の修繕。

 そして、カムイへの祈りに欠かせないイナウの削り出し。

 白い木肌が、薄い花弁のようにくるりと丸まり、火の光を受けて静かに輝く。

 

 夜が深まると、囲炉裏を囲んだまま、村の古老の語りが始まる。

 今夜語られたのは、神々のユーカラではなかった。

 先祖たちの辿ってきた、ウパシクマ――歴史の伝承だった。

 

 『——我らアイヌは昔、板を蔓で綴り合わせたイタオマチㇷ゚を漕ぎ出し、松前や、さらに海の向こうのシサㇺモシㇼまで、自由に行き来していた』

 

 古老の深く嗄れた声が、チセの中へしみ込んでいく。

 

 『我らは極上の毛皮や干し魚、時には大陸から渡ってきた絹織物を運び、和人の村は我らを迎えた。鉄や米と交換し、互いに笑い、共に恵みを分け合っていたのだ』

 

 囲炉裏の火の粉が、ぱちりと跳ねた。

 大人も子どもも、手を止めて語りに聞き入る。

 

 『だが、和人の数は増え、欲も深くなった。我らの大地に館を築き、不当な取引を強いるようになった。今からおよそ二百年前、和人の鍛冶屋が、一本のマキリの値をめぐってアイヌの若者を理不尽に殺した。それに怒って立ち上がったのが、偉大なる首長コシャマインだ』

 

 古老の打つ拍子が、次第に重くなる。

 

 『コシャマインに率いられ、我らは和人の館を次々と打ち破った。だが最後は、和人の卑劣な罠に遭い、無念の敗北を喫した。それ以来だ。今の松前の先祖にあたる者たちが和人をまとめ上げ、商いの道を少しずつ我が物顔で牛耳るようになったのは』

 

 古老の声に、深い悔恨が混じる。

 

 『遠く離れた同胞(ウタリ)同士で海や川を渡って交わしていた商いも、いつしか和人の商人が間に割って入るようになった。我らは彼らが持ち込む鉄の鍋や刃物がなければ暮らせなくなり、気づけばアイヌ同士の直接の繋がりすらも薄れ、和人を介さねば必要なものも手に入らなくなってしまった』

 

 『かつては笑い合える対等な隣人であったはずが、和人の力が増すにつれ、我らは彼らが決めた値打ちで、都合の良い取引ばかりを押し付けられる立場へと追いやられてしまったのだ——』

 

 語りが締めくくられると、チセの中に深いため息が漏れた。

 怒りと悲しみが、誰の胸にも同じように沈んでいた。

 文字を持たないこの世界では、長い物語そのものが、記憶であり、教えであり、歴史だった。

 

 ハルコルは毛皮の外套にくるまりながら、炎に照らされる村人たちの顔を静かに見渡した。

 前世の深夜オフィスには、膨大な文字と数字があった。

 だが、そこにはこんなふうに痛みを分け合う共同体も、過去を語り継ぐ温かな声もなかった。

 ここには帳簿はない。

 その代わり、命の重みを知っている人々がいる。

 

 (だからこそ、守らなきゃいけない)

 

 この優しい人たちが、理不尽な力にすり潰される未来など、絶対に見過ごせない。

 

 ハルコルは、伝承の余韻を聞きながら、小刀を動かし続けた。

 彼が削っているのは、祈りのためのイナウではない。

 春に届くはずの大量のジャガタライモを、村のどの空き地に、どれだけの間隔で植えるか。

 日当たりの良い斜面を第一圃場、川沿いの湿り気のある地を第二圃場と分け、誰をどの作業に回すか。

 現代の工程表にも似た、その緻密な計画を、平らに削った木簡へ、独自の記号で刻み込んでいく。

 

 外は、まだすべてを凍らせる猛吹雪だった。

 けれど、チセの囲炉裏の火のそばで、六歳の少年は誰よりも熱く、確かな春の準備を進めていた。

 

 静かな火の光の中で。

 冬の向こう側にあるものだけを、見据えながら。




第3話をお読みいただき、ありがとうございます!
おまけの用語解説コーナーです。

【アイヌ文化・歴史用語】
アイヌモシㇼ
人間の住む大地の意。アイヌが暮らす世界。アイヌ文化圏。

ヤウンモシㇼ
陸地の国土の意。北海道のこと

シサㇺモシㇼ
隣の島の意。本州のこと。

ウパㇱルイ
猛吹雪のこと。ヤウンモシㇼ(北海道)の冬は非常に厳しく、吹雪の日は外に出ることも命がけでした。

アペオイ
チセ(家)の中央にある「囲炉裏」。暖を取り、調理をし、チセを乾燥させて長持ちさせるための、文字通り家族の「心臓」です。

アットゥㇱ
オヒョウなどの樹皮の繊維から織られた着物。襟元や裾には、外から悪い霊が入り込まないよう「魔除け」の願いを込めた独自の美しい刺繍(アイヌ文様)が施されています。

マキリとイナウ
マキリは男たちが日常的に使う「小刀」のこと。アイヌの男たちは冬の間、このマキリを使ってカムイ(神々)への祈りに使う「イナウ(美しく削り掛けを残した木幣)」を熱心に作りました。

ユーカラ(叙事詩)とウパシクマ(歴史の伝承)
「ユーカラ」が神々や英雄の神話を語り継ぐものであるのに対し、「ウパシクマ」は先祖たちの実際の経験や歴史、生きる教訓を語り継ぐものです。文字を持たないアイヌの人々にとって、この口伝こそが歴史を後世に遺す手段でした。

イタオマチㇷ゚(板綴り舟)
丸木舟を土台とし、側面に板を当てて「蔓(つる)や木の根」などで縫い合わせるように縛って(綴り合わせて)作られた大型の舟。鉄の釘を使わないアイヌ独自の高度な造船技術であり、この波に強い構造のおかげで、彼らは荒れる海を越えて本州や大陸と広く交易することができました。

コシャマインの戦い(1457年)
和人の鍛冶屋によるアイヌの若者殺害事件を発端に、首長コシャマインが立ち上がった大規模な戦い。道南十二館の内10までを落としました。かつては海を越えて自由に行き来し、共存していた両者でしたが、この戦いを境に和人側がアイヌの交易を制限し、不平等な支配を強めていく歴史の転換点となりました。
また、コシャマインの戦いを鎮圧したのは、武田信広という人物。この武田信広こそ、松前藩主・松前氏(蠣崎氏)の祖となる人物です。

17世紀北海道の巨大火山噴火
実はハルコルが生きているこの時代(1600年代半ば)の北海道は、有珠山(1663年)や樽前山(1667年)などの超巨大噴火が立て続けに起こる「火山災害のピーク」でもありました。大量の火山灰が太陽光を遮り、森の獣も川の魚も死に絶える大飢饉が、すぐ数年後に迫っています。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。