オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~   作:サウス

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第32話:鉱(あらがね)眠る大地【1662年 秋】

 畝のアワとヒエが黄金色に垂れた秋の末、収穫は女衆の手で淡々と進み、ミナの帳簿に「輪作三年目、アワとヒエの収穫量」が加わった。来年の春に菜種を播けば、四年で一巡する。ペカンクㇽが畝の端に立って「土が、深くなったな」と短く言った、その日の夕暮れ。

 

 ハルコルは畝ではなく、工房の方角を見ていた。

 

 

 

 

 

 

 秋に入って、カニタの仕事は二つに分かれていた。

 

 一つは、燧石式(ひうちいししき)撃発機構のロシア製マスケット銃への組み付け。撃発の仕掛けそのものは、夏の間に板バネも当たり金も瑪瑙の顎も、全て手の中で動くようになっていた。残っていたのは、それを据え付ける段取りの方だった。──元の火縄式の機構を外した跡に、新たに鉄板を切り出して、燧石式の各部品を載せる土台にする。側面の曲線に合わせて、土台となる鉄板の輪郭を精密に削り出し、ねじ穴の位置を慎重に合わせる。秋が深まる頃にその鉄板の据え付けが終わり、空撃ちの試験に全て成功した。──燧石式ロシア製改造銃の完成だ。

 

 もう一つは、銃身の試作だった。

 

 こちらは、まだ終わっていない。

 

 

 

 

 

 

 カニタは、工房の奥の作業台で、試作筒の破片を並べていた。

 

 早春に「用途別の鉄」を掴んでから、半年以上が経つ。粘る鉄(炭との付き合いが短い鉄)を内側の芯として筒に巻き、その外側にニプタイの硬い鉄を帯にして螺旋に鍛接する──和人式の二重巻き張りを試す方針で進めてきた。

 

 内側の粘る鉄で筒を作るところまでは、夏の間にようやく形になった。割れずに筒にできる。──だが、問題は外側だった。

 

 硬い鉄の帯を螺旋に巻いて鍛接する工程で、帯と芯筒の間に隙間が生まれる。鍛接が甘い場所から、圧力試験のたびに煙が漏れる。

 

 

 

「……まただ」

 

 

 

 カニタは、割れた試作筒の断面を覗き込みながら、低く呟いた。

 

 芯筒は無事だ。裂けるのは、いつも外側の帯。螺旋の鍛接の継ぎ目──そのどこか一箇所が、圧に耐え切れずに口を開ける。外から芯筒を抱え込んで支えるはずの帯が、自分の継ぎ目から先に音を上げる。

 

 

 

 だが、カニタはもう、目の前の継ぎ目だけを睨み続けはしなかった。

 

 

 

 何度かこういう壁に当たったことがある。砂鉄団子の頃も、当たり金の焼き入れの頃も。同じ手順を繰り返している限り、同じところで躓く。──同じ場所を百度叩いても、答えが出ない時がある。

 

 春先、五つの鉄を並べて叩き比べた日のことを、カニタは覚えている。三十年使ってきた縦の物差しを、横に倒した日。あの時、行き詰まりを抜けたきっかけは、目の前の鉄ではなく、「他の鉄」を並べて見比べることだった。

 

 

 

(行き詰まったら、目の前の筒から、いっぺん手を離せ)

 

 

 

 カニタは試作筒の破片を布の上に集め、棚の隅に押しやった。代わりに、作業台の上を空にした。

 

 

 

(鉄の方を、もう一遍見直す)

 

 

 

 工房の奥の棚から、銃身用に取り置きしてある鉄の塊を引っ張り出した。──筒に巻く前の、素材の段階の鉄。砂鉄団子から取って、ひと通り鍛え直したきり、棚に並べてあるもの。

 

 いつもなら、これを取り出すのは、次の試作筒に使うと決めた時だ。だが、今日は筒のことを一旦忘れた。素材だけを、もう一度、初めて触るような気で見直す。

 

 

 

 窓の外では、もう日が落ちかけていた。工房の中の灯火を点け直し、作業台の脇に油皿を引き寄せた。

 

 

 

 塊が三つ、作業台の上に並んだ。

 

 

 

 どれも同じ砂鉄団子から取った鉄だ。同じ炉、同じ送風、同じ俺の手。──筒に巻く時には、どれも同じ「ニプタイの硬い鉄」として扱ってきた。

 

 だが、三つを並べてみると、色がわずかに違う気がした。一つだけ、表面の艶が、他の二つより、ほんの少し深い。

 

 

 

 カニタは小槌を取った。

 

 

 

 キィィンッ。

 

 キィィンッ。

 

 キィィィィンッ。

 

 

 

 三つ目だけ、響きが長かった。同じ澄んだ音なのに、最後の余韻が、わずかに長く、わずかに細く尾を引く。

 

 

 

 カニタは、その三つ目の塊を手に取って、指の腹で撫でた。

 

 

 

(……やっぱり、同じ音じゃねえ)

 

 

 

 同じことを感じたことがある。

 

 あの日、五つの鉄を並べて叩き比べた時──ニプタイの今の鉄で、時々、妙に澄んだ音のやつがあると感じた。

 あの時は、内側の銃身試作の壁に突き当たっていて、それどころではなかった。

 

 だが、今。

 

 

 

(……同じ団子、同じ送風、同じ炉。──それなのに、わずかに音が違う。変わったのは何だ)

 

 

 

 カニタは三つの塊をもう一度叩いた。

 

 一つ目と二つ目は、いつも通りのニプタイの鉄だった。三つ目だけが、わずかに違う。

 

 硬い。──だが、硬いだけじゃない。叩いた時の跳ね返りの中に、ほんのわずかな「粘り」が混じっている。

 

 

 

(硬くて、なおかつ、少しだけ粘る。──こいつは、いったい何だ)

 

 

 

 

 

 

 翌朝。

 

 

 

 カニタは、工房ではなく、ミナのところへ行った。

 

 昨夜叩いた三つの塊のうち、響きの違った一つを、革袋に入れて持ってきていた。

 

「ミナ。帳簿を見せてくだせえ」

 

 ミナが顔を上げた。

 

「どの帳簿」

 

「砂鉄のだ。──取った場所と日付がわかるやつ」

 

「鉄の品質の方は」

 

「それも要る。──砂鉄を取った場所と、出来た鉄の音を、並べて見てえ」

 

 

 

 カニタは革袋から塊を取り出し、囲炉裏の脇の板の上に置いた。

 

「こいつだ。同じ団子、同じ送風で取った三つの鉄のうち、一つだけが音が違う」

 

「音が違う、というのは」

 

「澄んだ音の余韻が、少し長い。叩いた時の跳ね返りの中に、ほんのわずかな粘りが混じる。──炭の入り方じゃ説明がつかねえ」

 

 カニタはしばらく言葉を切ってから、低く続けた。

 

「春先にも、似たやつを叩いたことがある」

 

「春先」

 

「あの時は、銃身試作の壁に突き当たっていて、それどころじゃなかった。流した。だが──」

 

 カニタは指先で板の上の塊を軽く弾いた。

 

「同じ音だ。春先の時と、昨夜のこれと。同じ砂鉄、同じ炉、同じ俺の手で取ったはずなのに、時々こいつが混じる。──炭との付き合いは全部同じだ。なら、何が違う」

 

 

 

 ミナはしばらく黙って塊を見ていた。それから棚に立ち上がった。

 

「砂鉄の方を、疑っているのね」

 

「ああ」

 

「分かった。──全部出す」

 

 

 

 ミナは棚から木板を三枚取り出した。砂鉄の採取記録、製錬の記録、出来上がった鉄の品質記録。──三つの帳簿を、囲炉裏の脇に並べた。

 

 

 

「この鉄を作った製錬は、いつ」

 

「四日前だ」

 

 ミナは製錬の帳簿を繰り、四日前の頁で指を止めた。

 

「四日前の製錬。──使った砂鉄は、その三日前に運び込まれた束」

 

 次に砂鉄の帳簿を繰る。

 

「……採取場所は、東の支流の合流点。本流ではない」

 

「支流」

 

 カニタは小さく繰り返した。

 

「春先の方は」

 

 ミナは帳簿の頁を更に遡った。雪解け後の早春の記録までいったん戻り、それから、指で一行を押さえた。

 

「あった。──こちらも、東の支流の合流点。同じ場所」

 

 

 

 二人は、しばらく黙った。

 

 

 

 ミナは更に頁を繰っていく。東からの支流から採れた砂鉄は、二年の記録の中で、そう何度もない。本流からのものに比べれば、ずっと少ない。だが、確かに、点々と記されていた。

 

 ミナはその各回を製錬の帳簿と突き合わせ、出来上がった鉄の品質記録を確認していった。

 

 

 

「どれも、支流。本流じゃねえ」

 

「そう。本流から採った砂鉄で作った鉄は、いつも通りの音。東の支流の合流点から採った砂鉄で作った鉄だけが、音が違う」

 

 

 

 ミナは帳簿の東からの支流の箇所に、赤い炭筆で丸を付けた。

 

「偶然じゃない」

 

 

 

 

 

 

 その日の夕方、ハルコルが工房に来た時、カニタとミナが揃って待っていた。

 

「ハルコル様。報告がごぜえます」

 

 カニタの目に、あの早春の日と同じ光があった。

 

「──同じ団子、同じ送風、同じ炉で作った鉄なのに、音が違うやつがある。ミナと一緒に帳簿を遡ったら、音が違う鉄は、全部、東の支流から取った砂鉄で作った鉄だった」

 

 ハルコルは黙って聞いた。

 

「本流の砂鉄と、東の支流の砂鉄で、出来上がる鉄が違う。──炭との付き合い方は同じだ。変わったのは、砂鉄の方だ」

 

「……砂鉄そのものが、違う」

 

 ハルコルが、低く繰り返した。

 

「そう思うか、カニタ」

 

「思う。──二年の帳簿が、そう言ってる」

 

 

 

 ミナが帳簿を、ハルコルにも見えるように広げ直した。赤い丸が頁を跨いで並んでいる。

 

「二年分の記録。砂鉄の採取場所と、出来上がった鉄の品質。──本流から採った砂鉄は、いつも同じ品質の鉄になる。だけど、東の支流の合流点から採った砂鉄が混じった回だけ、鉄の音が変わる。硬さが少し上がって、なおかつ──カニタの言う『粘り』が出る」

 

「硬くて、粘る」

 

 ハルコルの声が、わずかに震えた。

 

 

 

(──硬くて、粘る。銃身に必要な、あの性質だ)

 

 

 

(砂鉄の産地で、鉄の性質が変わる。炭との付き合い方ではなく、砂鉄そのものに何かが混じっている。──東の支流の上流に、何かがある)

 

 

 

「カニタ。ミナ。──東の支流の上流に、何があるか、見に行きたい」

 

 カニタが頷いた。

 

「俺も、そう思ってた」

 

 

 

「アエトモにも声を掛ける。──娘婿のシノッもいる」

 

 

 

 ハルコルがそう続けると、カニタが小さく顎を引いた。

 

「ああ。──あの人なら、サㇽ川を、丸木舟で何度も行き来している。岩肌の場所も、沢の二股も、頭の中にある」

 

 カニタが続けた。

 

「シノッは、運ぶ手が要る時に役に立つ。──若えし、脚も達者だ」

 

 

 

 ペカンクㇽが上流のピパウㇱから連れてきた木工職人の親子。先に工房に来て、銃床に使うミズナラ材の見立てを進めている。カニタの作業台の隅で削りかけの試し木が積まれている。寡黙な義父が木目を読み、軽口を叩く娘婿が刃を入れる──そういう手の組み合わせだった。

 

「ちょうど、銃身の長さが決まったら、銃床の反りを詰めると言ってた。──道々、その話もできる」

 

 カニタの目に、わずかな笑みが混じった。

 

 

 

 

 

 

 三日後。

 

 

 

 出立の朝は霜が深かった。

 

 調査隊は十名。ハルコル、カニタ、カント、精鋭の若者五名、アエトモ、シノッ。アエトモは舟材を探して沙流川を幾度も遡った男で、沢の二股と崖の位置を諳んじている。一行の足元を読む目になる。シノッは義父の隣で、背負い袋の縄を肩に掛け直しながら、「義父さんが行くんだ、俺が荷を持たんでどうする」と笑った。

 

 サㇽ川の本流をすこし北へ遡り、問題の支流に入る。支流は本流より細く浅く、両岸にエゾマツとトドマツが迫っていた。初雪が木の枝に薄く積もり、足元の枯れ葉を踏むと、霜が砕ける乾いた音がした。

 

 

 

 一行は支流を半日遡った。

 

 

 

 はじめのうちは、川底も岸も、見慣れた灰色の石ばかりだった。サㇽ川の本流と変わらない、角の丸まった安山岩や砂岩の河原石。

 

 だが、半日を過ぎた頃から、沢筋の景色が変わり始めた。

 

 

 

 足元の石の色が、違う。

 

 

 

 灰色に混じって、暗い緑の石が目につくようになった。苔の色ではない。石そのものが、深い緑をしている。水に濡れた表面が、鈍く、妙に滑らかに光っていた。

 

 先頭を歩いていたカントが立ち止まった。

 

「足が滑る。──この石、妙にぬるぬるしやがる」

 

 膝まで水に浸かりながら、足場の石を蹴った。靴裏が滑り、体が傾ぐ。カントが舌打ちした。弓の男の足は、雪の山道では揺るがない。だが、この沢底の石は、濡れた苔とも泥とも違う、石そのものが持つぬめりだった。

 

 

 

 ハルコルが屈み込み、沢から一つ拾い上げた。

 

 掌に載せると、ずしりと重い。表面は滑らかで、指の腹に吸い付くような手触り。乾いた部分は灰緑色だが、水に濡れた面が光ると、暗い鱗のような模様が浮き出る。

 

 

 

 ハルコルは、石を沢に戻した。

 

「カント。この先は、この種の石が増えそうだ。滑りやすい。足元に気をつけてくれ」

 

「言われなくても分かってらあ」

 

 カントが低く唸りながら、杖を突き直した。

 

 

 

 谷が狭くなっていく。

 

 両岸の崖が切り立ち、暗い緑の岩壁が迫ってきた。蛇紋岩の崖だった。割れ目に沿って白い筋が走り、ところどころに苔が這っている。岩の表面は磨いたように滑らかで、水が染み出す場所には、ぬらりとした光沢があった。

 

 アエトモが崖に手を当てた。

 

「……冷てえ。石なのに、獣の肌みてえだ」

 

 指先を引くと、薄い粉のようなものが付いた。崖の風化した表面が、指でこすると白っぽく剥がれる。

 

 

 

 隣でシノッが屈み込み、自分も同じように崖の表面に手を当てた。

 

「ほんとだ。──舟のカツラの幹に手を当てた時より、冷てえや」

 

 軽口の中に、わずかな興奮があった。義父が珍しいと言う場所に、自分も同じ手を当てていることへの。

 

 アエトモが横目でちらりと娘婿を見て、何も言わず岩肌に視線を戻した。

 

 

 

 沢水が岩壁の間を縫うように流れている。水は透き通っているのに、底の石が暗い緑であるせいで、水全体が深い翡翠色に見えた。

 

 エゾマツの影が水面に落ち、沢筋に淡い闇が溜まっている。

 

 空だけが、高い。初冬の薄い日差しが、谷の上端だけを白く照らしていた。

 

 

 

 ハルコルは歩きながら、崖の色の変化を見ていた。

 

 

 

 暗い緑だった岩肌に、黒い筋が混じり始めている。

 

 はじめは指の幅ほどの細い線だった。それが、歩を進めるごとに、少しずつ太く、濃くなっていく。蛇紋岩の緑の地に、墨を流したような黒い帯が重なる。

 

 

 

「……色が変わってきやがった」

 

 カニタが呟いた。足を止めず、しかし目は崖を離さない。

 

「さっきまで緑だった石に、黒え筋が出てきてる」

 

「ああ」

 

 ハルコルは頷いた。胸の奥で、脈が少し速くなっているのが分かった。

 

 

 

 

 

 さらに半刻ほど遡った。

 

 谷の最奥。沢が二股に分かれる手前で、右岸の崖が大きく露出していた。

 

 

 

「ハルコル様。──あれを」

 

 

 

 カントが、谷の奥の崖を指差した。

 

 

 

 

 

 岩肌の色が、完全に変わっていた。

 

 蛇紋岩の暗い緑は、もはや地の色ではない。崖の主役は、黒だった。

 

 

 

 黒い筋が幾重にも重なり、崖の表面を縞模様に染めている。層と層の間に、蛇紋岩の緑がわずかに残って、黒と緑の縞を成していた。雨に洗われた露出面は、鈍い艶を帯びて光っている。

 

 崖の下には、風化して崩れ落ちた欠片が散らばっていた。沢水に転がりながら、角が落ちて丸くなったものもある。

 

 

 

 カニタが崖に近づき、崩れた欠片を一つ拾い上げた。

 

 重い。砂鉄ほどではないが、普通の石よりも、ずしりと手に来る。

 

 指で擦ると、黒い粉が指先に付いた。

 

「……何だ、これは。鉄じゃねえ」

 

「鉄じゃない」

 

 ハルコルが、静かに言った。

 

「だが、おそらくこれが鉄を変えるものだ」

 

 

 

 カニタが振り返った。

 

「鉄を変える?」

 

「この黒い石が砕けて、沢水に流されて、下流の合流点で砂鉄に混じる。──砂鉄と一緒に団子にして炉に入れると、鉄の性質が変わる。硬くて、粘る鉄になる」

 

 

 

(これはおそらくマンガン。あの緑の崖──蛇紋岩の地質帯。地球の深い場所から押し上げられた岩の層だ。その中に、マンガンの鉱床が挟まっている。地質学的には、ありうる。)

 

 

 

 カニタは、黒い石の欠片を掌の上で転がした。

 

「この石が、鉄を変える」

 

「変える」

 

 

 

 アエトモが崖の根元でしゃがみ込み、崩れた石を選り分けていた。

 

「これくらいの大きさのが、いくらでも落ちてる。崩れ残りだ。崖を叩けばもっと出るだろうが、手で拾えるぶんだけでも、かなりの量になる」

 

 丸木舟職人の目が、岩の割れ方を見ていた。木目を読むのと同じ目だった。

 

「この崖は、手前の緑の石と、奥の黒い石の層が、交互に重なってる。──黒い層だけを狙って崩せば、余計な石が混じらずに済む」

 

 

 

 シノッは既に背負い袋を肩から下ろし、義父が選り分けた石を片端から袋に詰めていた。

 

「義父さんが選ったやつだ、間違いねえ。──おっと、これは重え。ひとつで普通の石、三つ分はあらあ」

 

 軽口を叩きながらも、手の動きは速い。袋の口を縄で締め、次の袋を広げる。働き手としては、確かに腕が立つ。

 

 アエトモが、ぼそりと低い声で言った。

 

「シノッ。詰めすぎるな。担いで歩く道のりも考えろ」

 

「分かってまさあ、義父さん」

 

 

 

 カニタは、懐の革袋に、欠片を三つ入れた。他の者たちも、背負い袋に黒い石を詰め始めた。

 

「持って帰って、試す」

 

「ああ。──帰ったら、すぐに試そう」

 

 

 

 

 

 

 帰路は、来た道をそのまま戻った。

 

 

 

 蛇紋岩の谷を下る時、ハルコルはもう一度、暗い緑の崖を見上げた。

 

 水に濡れた岩肌が、夕方の薄い光を受けて、鈍く光っている。蛇の鱗。──アエトモの言った「獣の肌みてえだ」という表現が、正確だった。

 

 この地の底から押し上げられた岩が、何万年もの間、水に洗われ、風に削られ、今ここに顔を出している。そしてその岩の層の中に、鉄を鋼に変える黒い石が眠っていた。

 

 

 

(この山は、ずっと前から、ここにあった。僕たちが来る前から、この黒い石はここにあった。──ただ、それを必要とする者が、まだいなかっただけだ)

 

 

 

 ニプタイに戻ったのは、出発から二日目の夕暮れだった。

 

 

 

 

 

 

 翌朝から、カニタは炉に向かった。

 

 

 

 最初の試行。

 

 砂鉄団子に、持ち帰った黒い石を細かく砕いた粉末を、団子の重さの十分の一ほど混ぜた。多い方から試す。カニタの癖だ。

 

 

 

 製錬が終わり、鉄塊を金床に載せて叩いた。

 

 

 

 ガキィィンッ。

 

 

 

 硬い。──確かに硬い。

 

 だが、焼き入れをして試作の薄板を曲げた瞬間、パキンッ、と割れた。

 

「硬すぎる。──粘りがねえ」

 

 カニタが破断面を見つめた。結晶が大きく、粗い。

 

「多すぎた」

 

 

 

 二度目の試行。

 

 黒い粉末を大幅に減らした。ほんのわずか、砂鉄団子の百五十分の一。

 

 叩いた。

 

 

 

 キィィンッ。

 

 

 

 いつもの鉄と、ほとんど変わらない音だった。

 

「少なすぎるか」

 

 

 

 三度目。増やした。百分の一強。

 

 

 

 製錬が終わり、カニタは鉄塊を金床に載せた。

 

 槌を振り下ろす前に、一度、深く息を吐いた。

 

 

 

 叩いた。

 

 

 

 キィィィィンッ──。

 

 

 

 カニタの手が止まった。

 

 

 

 澄んでいる。──だが、いつもの鉄の澄み方とは、質が違う。音が長い。尾を引く。そして跳ね返りの奥に、あの──春に聞いた脇差の音に似た、芯の粘りがある。

 

 もう一度、叩く。

 

 

 

 キィィィィンッ──。

 

 

 

「……こいつだ」

 

 

 

 カニタは、焼き入れに進んだ。

 

 茜色で水に入れる。引き上げて、遠火で焼き戻す。板バネの時に掴んだ、あの手順。

 

 薄板に伸ばし、曲げた。

 

 

 

 曲がった。──そして、割れなかった。

 

 

 

 カニタは薄板の端を指で弾いた。弾いた指に、板が軽く震えて返ってくる。弾力がある。──硬いのに、折れない。

 

「これだ」

 

 

 

 

 

 

 ハルコルが工房に入った時、カニタは作業台の前に立っていた。

 

 薄板を一枚、掲げて見せた。

 

「砂鉄団子に百分の一強。──これ以上入れると脆くなる。これ以下だと効かない。この幅が、ちょうどいい」

 

 ハルコルは薄板を受け取った。指で弾いた。

 

 ──澄んだ音が、工房の天井に響いた。

 

「硬い。──だが、粘る。曲げても割れない」

 

「焼き入れと焼き戻しも通った。──板バネの時と同じ手順で行けた。あの時の手が、ここでも活きた」

 

 

 

 ハルコルは薄板を光にかざした。表面の結晶が細かい。

 

 

 

(──低マンガン鋼。前世の知識では、約一から一・五パーセントのマンガン添加。カニタは、その領域に届いた。板バネの焼き入れで身につけた温度と時間の感覚が、ここでそのまま使えた。──積み重ねた技術が、次の扉を開く鍵になっている)

 

 

 

「カニタ。──お前は今、鋼を作った」

 

「鋼」

 

「うん。これまで俺たちが作ってきたのは、鉄だ。矢じりに使える鉄、小刀に使える鉄、鉞に使える鉄。──だが、この薄板は、鉄ではない。鉄の上の、もう一段先にある。鉄だけではない、複数のものを取り入れてたどり着くもの、鋼だ」

 

「……鋼」

 

 カニタが、その音を口の中で転がすように、もう一度呟いた。

 

「鋼。──いい響きだ」

 

 

 

 ミナが帳簿に新しい項目を起こした。

 

「鋼の配合比」──砂鉄団子の百分の一強、黒い石の粉末。採取地:東の支流上流の露頭。

 

 

 

 

 

 

 鋼ができた翌日から、カニタの頭は銃身に向いた。

 

 

 

 これまでの方針は、和人式の二重巻き張り──内側に粘る鉄の筒、外側に硬い鉄の帯を螺旋に巻いて鍛接する──だった。

 

 だが、カニタの手の中に鋼が来た瞬間、その方針が、揺らいだ。

 

 

 

 カニタは鋼の薄板をもう一枚作り、掌の上で何度も曲げた。弾き、叩き、捻った。

 

 

 

「……硬え。粘る。曲げても割れねえ」

 

 

 

 帯にして螺旋に巻く工程のことを考えた。

 

 帯巻きは、螺旋に巻きつけて一周ごとに鍛接する。巻く角度、鍛接の温度、叩く力加減──すべてを一定に保たなければ、継ぎ目から隙間が生まれる。ここまでの試作で、外側の帯の鍛接がいつも問題になっていたのは、帯巻きの工程そのものが難しいからだ。

 

 だが──

 

 

 

(この鋼なら、帯に巻かなくても行けるんじゃねえか)

 

 

 

 カニタの手が、止まった。

 

 

 

(板を巻けばいい。──帯を螺旋にするんじゃなく、板をそのまま筒に巻く。この鋼は粘りがあるから、板を筒に丸めても割れねえ。薄板のまま巻ける)

 

 

 

 熱した鋼の薄板を、金床の上で、ゆっくり丸めてみた。

 

 ──巻けた。割れない。端と端が重なるところまで、きれいに丸まった。

 

「……巻ける」

 

 カニタの声に、確信があった。

 

「帯を螺旋に巻くんじゃねえ。板を一枚、筒にする。鍛接は継ぎ目の一本だけだ。螺旋巻きの何十もの継ぎ目と比べたら、管理する場所が、圧倒的に少ねえ」

 

 

 

 カニタは作業台の上に、二つの筒を並べて描いた。指先で、見えない線を引く。

 

「一重目は、今まで通り。炭との付き合いが短い粘る鉄で、芯棒に巻いて筒にする。こいつは火薬の力を直に受ける側だ。粘りで、割れを防ぐ」

 

「二重目は、この鋼の板で筒にする。一重目の上に被せて、鍛接する。──一重目の継ぎ目と、二重目の継ぎ目を、ずらす。そうすれば、同じ場所に弱い点が重ならねえ」

 

 

 

 ハルコルは、カニタの指が描く構造を、じっと見つめた。

 

「帯の螺旋巻きを、やめるのか」

 

「やめる。──この鋼は、帯にして巻く必要がねえ。板のまま筒にできるほど粘る。それなら、帯巻きの手間を省いて、一枚板で筒にした方が、継ぎ目が少なくて強え」

 

「継ぎ目の管理が楽になる」

 

「ああ。──ここまでの失敗は、全部、帯の継ぎ目が原因だった。帯巻きをやめりゃ、その問題が消える」

 

 

 

 ハルコルはしばらく考えた。

 

「もう一つ、利点がある」

 

「何だ」

 

「帯巻きの筒は、厚みが螺旋の重なり分だけ増える。板巻きなら、板一枚の厚みで済む。──火縄銃より薄い壁でも、鋼の強度で十分持つなら、筒全体が軽くなる」

 

「軽くなる。──カントが言ってた、前が重え、が解決する」

 

 

 

 カニタは立ち上がった。

 

「やる」

 

 

 

 

 

 

 雪が本格的に降り始める頃まで。

 

 

 

 カニタは銃身の試作に没頭した。

 

 

 

 まず、一重目。芯棒にマキシノ(鉄の丸棒)を使い、炭との付き合いが短い粘る鉄の薄板を赤熱して巻きつける。継ぎ目を鍛接し、芯棒を引き抜く。──これは、春以来の試行で手順が固まっている。

 

 次に、二重目。鋼の板を、一重目の筒より少しだけ大きな径に丸める。一重目の継ぎ目から百八十度ずらした位置に、二重目の継ぎ目を置く。二つの筒を重ね合わせ、赤熱して鍛接する。

 

 

 

 鍛接の瞬間、カニタの槌が慎重に振り下ろされた。

 

 ──筒の内側にマキシノ(巻篠)を入れたまま叩く。内側が潰れないように。外側の鋼板が芯筒に密着するように。一打ごとに、少しずつ、筒を回す。

 

 

 

 カニタの額に、汗が光った。

 

 初冬の工房は寒い。だが、炉の前は灼熱だ。背中に当たる隙間風が冷たく、額から落ちた汗が顎の先で凍りそうだった。

 

 

 

 三日かかった。

 

 

 

 三日目の夕暮れ、カニタはマキシノを引き抜いた。

 

 

 

 二重の筒が、作業台の上に横たわっていた。

 

 

 

 カニタは筒の内側を覗き込んだ。──継ぎ目の段差が、指で触っても分からないほど滑らかに馴染んでいる。外側の鋼板と内側の粘る鉄の筒が、ひとつの壁になっている。

 

「……隙間がねえ」

 

 

 

 仕上がった筒の長さは、ロシア製マスケット銃よりわずかに短い。銃身の厚さもわずかに細い。だが、壁は二重の構造で、鋼の強度がある。

 

 

 

 カニタは筒を持ち上げた。

 

「……軽え」

 

 ロシア製マスケット銃の銃身より、明らかに軽い。

 

 

 

 

 

 

 圧力試験。

 

 

 

 筒に火薬を詰め、弾は入れずに、薬室側だけで燃焼させる。──筒が内側からの圧力に耐えるかどうかを確かめる試験。

 

 

 

 安全のため、離れたところから火縄で点火。

 

 

 

 ドンッ。

 

 

 

 筒は破裂しなかった。

 

 

 

 二度目。装薬量を三匁に増やす──ロシア製マスケット銃の標準装薬量と同じだ。

 

 

 

 ドンッ。

 

 

 

 筒は持った。

 

 

 

 三度目。三匁半。──強装。

 

 

 

 ドゴンッ、と音が太くなった。

 

 

 

 筒を回収して、内壁を覗き込む。──亀裂はない。煤は付いているが、鍛接の継ぎ目に煙が漏れた跡もない。

 

「……通った」

 

 カニタが、長く息を吐いた。

 

「三匁半まで通った。──山丹のやつと、同じか、それ以上だ」

 

 

 

 

 

 

 銃身が通った夜。

 

 

 

 工房の囲炉裏の前に、カニタとハルコルとミナが座っていた。

 

 作業台の上には、完成した銃身が横たわっている。その隣に、燧石式改造済みのロシア製マスケット銃。

 

 

 

「カニタ。──次は、この銃身に、撃発機構と銃床を組み付ける」

 

「ああ。撃発機構は、山丹のやつに付けた燧石式と同じ構造で、もう一組作る。板バネの焼き入れも、もう手順が固まってる。──ひと月あれば、組み上がる」

 

「銃床は」

 

「アエトモとシノッに、この筒を渡す。──寸法は決まった。筒に合う長さに、反りは浅めに削ってもらう。あの人らは、もう何本か試し木を削ってる。形は頭に入ってる」

 

 カニタは作業台の隅を顎で示した。削りかけのミズナラの試し木が、灯火の影の中に並んでいる。

 

「アエトモが木目を読んで線を引く。シノッが粗削りで肉を落とす。──二人で組んで動く手だ。最後の反りは、義父の方が詰める」

 

 ハルコルが頷いた。

 

「上流まで戻して仕上げてもらうか、ここで詰めてもらうか。──明日、本人らに聞く」

 

 

 

 

 

 

 その夜、もう一つの会話があった。

 

 

 

 ミナが帰った後、カニタが囲炉裏の火を見つめながら、ぽつりと言った。

 

「ハルコル様。──火薬の話だが」

 

「うん」

 

「夏に試射した時の、あの問題。壺の中で硝石と硫黄と木炭が分かれちまう話。──帰り道に俺が呟いた、あれ。覚えてるか」

 

「覚えてる」

 

「砂鉄の団子みてえに固めたらどうなる。──あの時はただの思いつきだったが、その後、ずっと頭の隅にあった」

 

 カニタは炉の火を見た。

 

「銃身の試作で、この半年、粉を混ぜる仕事をずっとやってた。砂鉄と黒い石の粉を混ぜて団子にする。──そん時に思ったんだ。火薬も同じことだ、と」

 

「同じこと」

 

「三つの粉を混ぜて、粘っこいもんで固めて、乾かして、砕く。──砂鉄の団子と同じ理屈だ。一粒一粒の中に、三つの粉が全部入ってる。分かれねえ。粒の大きさを揃えりゃ、火の点き方も揃う」

 

 

 

 ハルコルは、しばらく黙っていた。

 

「砂鉄の団子を、火薬でもやる、か」

 

「ああ」

 

「粘り気は何を使う」

 

「穀物のとぎ汁が良さそうだ。煮詰めて、糊のようにしたもの。──冬の間に試そう」

 

「やろう」

 

 

 

 

 

 

 工房を出ると、空は澄んでいた。

 

 

 

 冬の始まりの夜空。星が、冷たく、近い。初雪はもう何度か降ったが、まだ積もり切ってはいない。地面には薄い霜が光り、吐く息が白い。

 

 

 

 ハルコルは、工房の裏手に回り、東の山を見た。

 

 あの山の向こうに、あの谷がある。暗い緑の崖が沢を挟んで切り立ち、水に濡れた蛇紋岩が鱗のように光っていた場所。その奥の、黒い筋が層をなして走る露頭。──あの崖から砕けた石の粉が、沢を下り、砂鉄に混じり、カニタの炉に入り、鉄を鋼に変えた。

 

 

 

(この大地が、僕らに素材を渡してくれた)

 

 

 

(カニタの耳が音を聞き分け、ミナの帳簿が場所を絞った。──揃って、鋼が生まれた。欠けていたら、あの黒い石は、ただの岩のまま崖にへばりついていただろう)

 

 

 

 

 

 

(この大地には、まだ眠っている鉱がある。──蛇紋岩の緑に挟まれた黒い筋は、誰かが沢を遡って、足を止めて、触れるまで、ただの岩だった)

 

 

 

(北の沢、東の山、南の浜。──まだ誰も足を踏み入れていない谷の奥に、別の鉱が眠っているはずだ。次に目覚めるのは、何だろう)

 

 

 

 

 

 遠くで、フクロウが鳴いた。

 

 

 

 工房の囲炉裏の火が、窓の隙間から細く漏れている。カニタがまだ中にいるのだろう。

 

 

 

 ハルコルは長く息を吐いた。白い息が、星空に溶けていく。

 

 

 

 

 

(来年の早春、銃が完成する。──ニプタイの鋼で作った銃身に、ヨイチの瑪瑙で火を起こす撃発機構を載せ、ニプタイの森のミズナラで銃床を彫る。すべてが、この大地から出た素材だ)

 

 

 

(その銃を、あの山間の沢地で、初めて撃つ日が来る)

 

 

 

 

 

 

 工房の方角から、かすかに、金属音が聞こえた。

 

 

 

 キィィィィンッ──。

 

 

 

 鋼の音だった。

 

 

 

 カニタが、新しい薄板を叩いているのだ。もう一本の銃身のための、二枚目の鋼板。

 

 ──一挺では、足りない。

 

 

 

 鋼の音が、冬の夜空に、長く、細く、尾を引いた。

 

 

 

 

 

 ハルコルは振り返らず、チセに向かって歩き出した。

 

 

 

 囲炉裏には、ミナが待っているだろう。帳簿を閉じて、膝の上に手を重ねて。

 

 

 

 

 

 鋼の産声が、ニプタイの夜に響いている。

 

 

 

 その音の向こうで、まだ名を知らぬ鉱たちが、この大地のどこかで、静かに、眠っていた。




第32話をお読みいただき、ありがとうございます!


少し過ぎてしまいましたが、5月10日は「地質の日」だったのは知っていましたか?

”明治9年(1876年)5月10日に日本で初めて広域的な地質図として 「日本蝦夷地質要略之図にほんえぞちしつようりゃくのず 」(200万分の1)が作成されたこと、明治11年(1878年)5月10日に地質の調査を担う組織(内務省地理局地質課)が設置されたことに由来して、平成19年(2007年)に産総研GSJをはじめとする地質関係の組織・学会が発起人となって、「地質の日」が制定されました。”

これを記念して、5月8日(金)~令和8年6月3日(水)の期間中に、経済産業省本館1階ロビー(正面玄関側)でパネル展が開催されています。
サブタイトルにも拝借いたしました「鉱(あらがね)眠る大地―地質調査が拓く鉱物資源―」です。

興味ある方は行ってみるとよいかもです。

「地質の日」経済産業省特別企画
https://www.gsj.jp/chishitunohi_meti/index.html

本作の舞台、蝦夷地に関係ある催しのため僭越ながら紹介させていただきました。



では、おまけの解説コーナーです。

【マンガン鉱と低マンガン鋼】
上流の蛇紋岩の崖で発見した、あの黒い石。これは現実の北海道日高山脈の地質に基づいて配置しています。

日高山脈の地質的特徴は、まさに「蛇紋岩とかんらん岩の山脈」と呼べるほどに、緑色の蛇紋岩帯が走っていることです。蛇紋岩は地球深部のマントル物質が地表近くまで押し上げられたもので、その中にはマンガン鉱・クロム鉄鉱・石綿・日高ヒスイなどの有用鉱物が点在します。実際、日高山脈一帯には大正から昭和にかけて多数のマンガン鉱山・クロム鉄鉱山が存在していました。

さて、その黒い石を砕いて鉄に混ぜたところに生まれた、新しい鉄──「鋼」。これは、史実で言えば、約百分の一強(1〜1.5パーセント)のマンガンを含む「低マンガン鋼」に相当します。

鋼にマンガンを少量加えると、靭性(粘り)と硬度(硬さ)が両立します。また、「低温脆性」にも優れます。普通の鉄はマイナス10℃〜20℃を下回ると、鉄の内部構造が変化し、粘り(靭性)が失われます。ですが低マンガン鋼ですと、マイナス40℃の極寒でも「粘り強さ」を失わず、衝撃を吸収することができるのです。これは現代の冶金学では常識ですが、組織的に「マンガンを意図的に添加した合金鋼」として体系化されたのは、案外新しい話です。1882年、イギリスの冶金学者ロバート・ハドフィールドが最初の鋼合金「マンガン鋼」の特許を取得したのが、近代冶金学における出発点とされています。本作は現在1662年なので、ちょうど220年前倒し。

ただし、史実を遡ると、人類が「マンガンを多く含む鉄を意図して使った」最古の例は、もっとずっと古い時代にあります。古代ローマ帝国が紀元前後から数百年にわたって軍隊の武器に広く使った「ノリクム鋼(Noric steel)」がそれです。現在のオーストリア・スロベニアにかけて広がっていたケルト人の王国ノリクムは、エルツベルク(鉱石山)と呼ばれる山々で良質な鉄鉱石を産出していて、その鉱石にもともとマンガンが多く含まれていました。紀元前16年にノリクムがローマに併合されてからは、ローマ軍の剣や鎧の主要素材としてイタリア半島まで運ばれて使われています。ノリクムの鍛冶師たちは、自分たちが「マンガン鋼」を作っていることを化学的には知らなかったでしょうが、低マンガン鋼の有用性そのものは、二千年前から戦場で証明されていたわけです。

そしてもう一つ、紹介したいのは、日本における低マンガン鋼の利用例です。東京・隅田川に架かる永代橋(1926年竣工)と清洲橋(1928年竣工)──関東大震災の復興事業として架けられた、いまも国の重要文化財に指定されている美しいアーチ橋と吊橋。この二つの橋のもっとも引っ張り力のかかる部材に、当時の最新ハイテク鋼材「デュコール鋼(Ducol steel)」が世界で初めて橋梁に使用されました。マンガンを1.5パーセント程度含む低マンガン鋼で、もとはイギリス海軍が戦艦の装甲用に開発し、日本では川崎造船所が海軍向けに製造していた素材です。

世界的には、当時こうした大きな引張力がかかる橋の部材にはニッケル合金鋼を使うのが主流でした。それでも帝都復興院橋梁課長の田中豊が、あえてデュコール鋼を選んだ理由は、「ニッケルは国内で産出しない。マンガンは国内で採れる。戦争などで破損した時、補修材料を国内で調達できなければ、橋は橋として続いていけない」という理由とされています。

ちなみにマンガンが1.5パーセントを超えると鉄は逆に脆くなり、10パーセントを超えるとまったく違う性質(衝撃で表面が硬化する「高マンガン鋼」)になります。



【火縄銃の銃身──二重巻き張り(にじゅうまきばり)】
銃身の作り方。「鉄を丸めて内側の筒に、外側に鉄を螺旋状に巻く」という製法は、史実の和銃で「二重巻き張り(にじゅうまきばり)」と呼ばれる、日本独自の銃身鍛造技術です。

工程はおおよそこうです。まず、銃身の内径に合わせた鉄の丸棒「真金(しんがね)」を芯として用意する。次に「瓦金(かわらがね)」と呼ばれる平たい鉄板を、この真金にぐるりと一周巻きつけ、縦の継ぎ目を赤熱して鍛接する。これが内側の筒、「荒巻(あらまき)」。さらにその外側に、もう一枚の細長い鉄板を螺旋状に巻きつけて鍛接していく。これが外側の筒、「巻板(まきいた)」。芯の真金を最後に引き抜けば、二重の壁を持つ銃身が出来上がります。

ヨーロッパの初期の銃身は、一枚の鉄板を丸めて一本の縦継ぎだけで作る「一重張り」が主流でした。これに対し、和人の鉄砲鍛冶は内外の二重構造にすることで、内側は火薬の圧で薄くなっても外側がそれを抱え、銃身全体の破裂を防ぎました。


本作では史実を土台に、和人式の二重構造に独自の工夫を加えています。
一つ目は、外側を「螺旋に何度も巻く帯」ではなく「一周だけ巻く板」にしたこと。和銃の螺旋巻きは、螺旋状に巻き締めることで強度を上げていますが、長い継ぎ目が一本の螺旋になって銃身全体を走るため、そのどこか一箇所でも鍛接が甘ければ、そこから裂けてしまいます。

二つ目の工夫は、二重の継ぎ目を百八十度ずらして配置したこと。内側の継ぎ目と外側の継ぎ目が同じ位置にあれば、そこが弱点として一直線に並んでしまう。ずらせば、内側が薄くなった場所を外側の鋼板の「無傷の部分」が抱えます。

そして三つ目──そもそも外側の鉄を「鋼」にしたこと。和銃の二重巻き張りは、内側も外側も同じ砂鉄から取った鉄を使うのが基本でした。日本刀の和鋼は曲げることには向かないからですね。本作は、そこにマンガンを足した低マンガン鋼を外側に巻く、という、現代の冶金学で言えば「合金鋼の二層複合材」に近い構造にしました。



【黒色火薬の顆粒化──コーニング(corning)】
顆粒火薬。これは、史実では十四世紀末から十五世紀にかけて、ヨーロッパの火薬職人たちが独立に到達した技術で、「コーニング(corning)」と呼ばれます。語源は英語の「corn(穀粒)」。出来上がった粒の大きさが、当時の人々にとって最も身近な穀物の粒に似ていたところから付いた名前です。

それまでの黒色火薬は、硝石・硫黄・木炭をすり鉢で砕いて粉のまま使う、いわゆる「サーペンタインパウダー(serpentine powder)」でした。だがこれには三つの大きな弱点があります。
①樽に入れて運ぶ間に振動で三つの成分が分離してしまい、底に重い硝石、上に軽い木炭が偏ってしまいます。
②湿気を吸いやすく、雨や霧で湿った火薬は不発の原因になる。
③粉のままでは砕いた粒子の大きさが揃わず、燃え方が安定しません。

これを解決したのが顆粒化です。三つの原料を水や酒で湿らせて練り、塊にして乾かし、それを篩で砕いて粒を揃える。一粒一粒の中に三つの成分が均等に閉じ込められるため、もう分離しない。表面積が減るので湿気も吸いにくい。粒の大きさで燃焼速度を調節できるため、大砲用には大きい粒、銃身用には中くらいの粒、火皿用には細かい粒──と用途別に篩い分けることもできます。

また、燃焼効率の向上により、弾を押し出す力(初速)の増加と燃え残りも少なくなるため、銃身内部の煤(汚れ)が減るという利点もあります。
歴史的にはこのコーニング技術が「黒色火薬がようやく実用兵器の燃料として完成した瞬間」とされ、銃や大砲がヨーロッパで本格的に戦場の主役になっていく背景となりました。



【鉱(あらがね)】
「鉱(あらがね)」というのは、まだ精錬されていない原石、いわば「鉱物の素のままの姿」を指す古い和語です。万葉集にもこの語形で歌われており、「あら」は荒・粗・新の意味を、「がね(金)」は金属一般を意味します。






本作は技術開発を繋いでいくものとして描いています。
別の場面で培った技が、別の場面で扉を開ける鍵になる。本作のテーマの一つです。
一つの発想がいくつにも応用でき、次の技術につながっていく。
技術が広がっていくさまを感じ取っていただければ幸いです。

ここのところ、あとがき解説が本文と同じ時間かかってます・・・。
でも、調べるうちに新しいアイデアも出てくるので悪くないですね。



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