オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~   作:サウス

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第34話:芽吹く畝と、まどろむ大地【1663年 春】

 夜明けが、白かった。

 

 沙流川(サㇽ・ペッ)の水面に朝日が差し込むと、川霧は薄絹のように剥がれ、対岸の山並みがゆっくりと姿を現した。雪が消えて間もない河岸段丘の森から、エゾハルゼミ(ヤキ)の声が、波のように寄せては引いていく。──この大地で、一年のうち最も早く鳴く蝉だ。

 

 ハルコルは畑の縁に立っていた。十三歳になった背丈は、五年前の自分と並んでいた畝の柵を、今は見下ろしている。

 

 

 

 

 

 

 第一圃場の畝には、菜種が伸び始めていた。

 

 雪解けの土に播いた種が、若葉を広げ、畝の上に薄緑の絨毯を敷いている。その若葉の間から、ひょろりと立ち上がった茎の先に、黄色い花が、ぽつ、ぽつと開きはじめていた。畝のいちばん日当たりのよい列だけが、もう一面の黄に染まりかけている。

 

 ハルコルは、黄に染まりかけた畝を、端から端まで眺めた。

 

 (咲いた。──この花が散って、莢が膨らんで、茶色く色づけば、種が絞れる。秋だ)

 

 (花の付きを見るかぎり、種は、思ったより取れそうだ。──もっとも、どれだけ油が絞れるかは、まだ分からない。この村は、まだ一度も菜種を絞ったことがない)

 

 ハルコルは、指先で若葉に触れた。葉の裏に、薄く産毛が立っている。

 

 (だが、絞れさえすれば──獣の脂を皿で焚くより、ずっと明かりとして使い勝手がいいはずだ。煤も、匂いも、軽い)

 

 (来年、菜種畝を倍にする。──そうすれば、一冬を菜種の明かりで暮らせる)

 

 ハルコルは、黄色く染まりかけた畝に、もう一度目をやった。

 

 (去年の秋、この畝には、アワとヒエが実っていた。その前の年は大豆。さらにその前は、エモ。──そして今年、菜種が、この畝に回ってきた)

 

 第二圃場では、大豆が、ようやく地面から首を持ち上げたところだった。割れた地面のあちこちから、二枚貼り合わさった子葉が、固い殻を脱ぎかけて立ち上がっている。その間から、本葉の小さな手が、ほどけかけているものもあった。

 

 その向こうの第三圃場は、アワとヒエの畝。播いた種が芽吹いて、まだ指の高さほどの薄緑の細い葉が、風にいっせいに撫でられて、さわ、と鳴っていた。

 

 さらに奥、ここ二年で新しく拓いた畝には、エモ(ジャガイモ)が植わっている。雪解けのあとに種芋を埋めた畝から、緑の芽が伸び出して、いくつかは、もう手のひらほどの葉を広げかけていた。地面の下では──これから芽の力で、芋を太らせていく頃合いだ。

 

 ハルコルは胸の奥で、四つの畝を、もう一度数え直した。

 

 (菜種、大豆、アワ・ヒエ、エモ。──輪作四年の輪が、今年、ようやく一巡し終える)

 

 

 

 

 

 

 畑のあちこちで、村人が動き始めていた。

 

 女衆が鍬を担いで畝の間を歩く。鍬の頭は鉄だ。柄は手に馴染んだ白樺で、刃の先には、カニタの炉から出た自製の鉄が、白い朝の光を吸って鈍く光っていた。

 

 五年前は、鹿の角を縄で柄に括っていた。三年前は、和人から手に入れた古釘を叩き伸ばした薄い刃を、ようやく使い始めていた。

 

 今は──全ての鍬が、自分たちの鉄から打ち出されている。

 

「ハルコル」

 

 声をかけてきたのは、第二圃場で大豆の芽を見ていた女だった。日に灼けた頬、口の周りにうっすらと残る青黒い入れ墨。腰には自製鉄の小ぶりな鍬を提げ、片手で畝の女衆に「そっちはもう一列、向こうから寄せて」と指図しながら、ハルコルの方へ歩いてくる。──ハルコルの母、トゥレㇷ゚だった。畑の女衆をまとめ、村の女たちが何をどう仕込むかは、いつの間にかこの母の差配で回るようになっていた。

 

「今年の大豆は、芽の出が、よく揃っていますよ。土が、もう一段、肥えたようで」

 

「灰、撒いたんだね」

 

「ええ、撒きました。冬の間に炉から出た灰を、雪の上に置いておいたんです。雪と一緒に、土に染みて。──芽の力が、去年とは違いますね」

 

 母は穏やかに微笑むと、「お前も、朝のうちに何か腹に入れておきなさいね」と一言残して、また畝の方へと戻っていった。途中で水を運んできた娘を呼び止め、桶の置き場をやわらかな手つきで示している。

 

 ハルコルは、その後ろ姿を見送りながら、ふと思った。

 

 (七年前──天然痘で僕が生死の境を彷徨ったあの秋、母さんは泣きながら僕に抱きついていた。あの手が、今は、村の女たちをまとめる手になっている)

 

 (鉄が、暮らしの中に溶けた。──そして、母さんも、変わった)

 

 

 

 川の方角から、桶の取っ手が軋む音が聞こえてきた。

 

 

 

 ギシ、ギシ、ギシ。

 

 

 

 ハルコルが目を向けると、若い娘が二人、川辺から畝の方へ、両肩に天秤棒を担いで歩いてくるところだった。棒の両端には、樺の皮で編んだ大ぶりの桶が下がっている。水が、ちゃぷ、ちゃぷ、と桶の縁で揺れている。

 

 その後ろから、十歳ほどの子どもが、ひと回り小さな桶を一つだけ抱えてついてきていた。──朝の水運びだ。

 

 娘たちは、第二圃場の手前で桶を下ろさず、さらに奥の畝へ向かう。

 

 ハルコルは目で測った。

 

 川の汲み口から、第四圃場の最奥まで──百歩はある。畑が広がる前は、三十歩で足りた。

 

 娘たちは慣れた足取りで歩いているが、額には薄く汗がにじんでいた。

 

 

 

 (畑が、広がりすぎた)

 

 ハルコルは、内側で短く呟いた。

 

 (菜種が花をつけ、大豆が芽吹き、エモが葉を広げ始めたのは、いい。──だが、その全てが、これから夏に向けて、川から運ぶ水で育っていく)

 

 (旱(ひでり)の年なら、女衆と子どもの腰が砕ける。今は、まだ、運べているだけだ)

 

 

 

 ハルコルの脳裏に、別の絵が浮かんだ。

 

 

 

 (川上で、流れを少し脇に逸らす。土を掘って、細い溝を一本、畝の脇まで引いてくる。──水車を据えれば、桶で汲み上げるよりも、もっと楽になる)

 

 

 

 ハルコルは、もう一度、娘たちの後ろ姿を見送った。

 

 子どもの抱えた小さな桶から、水が一滴、地面に零れて、すぐに乾いた。

 

 

 

 川の方角から、子どもの笑い声が聞こえてきた。

 

 

 

 

 

 

 エモの畝の脇に、見慣れない数人の姿があった。

 

 占冠の沢筋から来た者たちと、夕張から来た者たちだ。雪解けの頃から滞在している。

 

 ニプタイの女衆が、その「学びの者」たちに、エモの土寄せを手ほどきしていた。

 

「芽が出てきたら、こうやって、根元に土を盛る」

 

「どれぐらい」

 

「畝の高さが、もう一段、上がるぐらい」

 

「なぜ」

 

「光が当たって、芋が緑になったら、食えない。緑になる前に、土で隠す」

 

 学びの者たちが頷きながら、自分で鍬を取って試している。鍬は、ニプタイで打った自製鉄だ。

 

 ハルコルは、その光景を遠くから見ていた。

 

 (種だけを渡す日々は終わった。今は、知恵まで渡している。──土寄せの仕方、灰のまぶし方、連作障害のこと。聞きたい者にだけ、無理に押しつけずに)

 

 (学びの者が、それぞれの沢に帰れば、その者がまた、自分の村で同じことを教える。占冠でも、夕張でも。──網は、種から知恵に進んだ)

 

 

 

 

 

 

 広場へ抜ける道に出ると、ニプタイの村が一望できた。

 

 チセが、四十棟を超えている。

 

 数え直す気は、もうしない。中央の広場を囲むようにして、円弧を描くように家々が並び、その外側には、新しく拓いた畝と、客人用の小さなチセが点在している。煙出しから細い煙が幾本も立ち上り、朝の支度の匂いが──干し鮭の焼ける匂い、エモを煮る湯気、囲炉裏の薪の香──風に乗って混ざり合っていた。

 

 広場の真ん中で、子どもたちが走り回っている。

 

 五年前、ニプタイのチセは八棟だった。子どもは、村全体で六人しかいなかった。冬になれば、その六人のうちの一人か二人が、春を迎えられずに死んでいた。

 

 今、子どもが、春の朝に走っている。

 

 その一人が、ハルコルを見つけて手を振った。三歳ほどの男の子。第一圃場の女衆の孫だ。

 

 ハルコルは手を振り返した。

 

 

 

 

 

 

 広場の端、大きなチセの前で、ミナが板を広げていた。

 

 五人の子どもが、地面に座って、ミナの板を覗き込んでいる。一番上は十歳ほど、一番下は六歳ほど。

 

「ひとつ。ふたつ。みっつ」

 

 ミナが板の上に、炭筆で短い線を引いていく。

 

「これは、一の印」

 

「ふたつ、よっつ──」

 

「違う。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。──一に、ひとつ足したら、いくつになる」

 

「ふたつ」

 

「そう。じゃあ、ふたつに、ひとつ足したら」

 

「みっつ」

 

 子どもたちが板を覗き込み、炭筆の動きを目で追う。ミナの声は穏やかだが、間違えた子には間違えたと、はっきり告げる。けれども、二度目に正しく答えれば、ミナはほんの少しだけ口角を上げて頷く。それだけで、子どもたちは小さく胸を張った。

 

 ハルコルは、その光景を遠目に見ていた。

 

 (二年前、父さんが言った。「帳簿をつけられる者を、ミナ一人からもっと増やしたい」──あの言葉が、今、ここで形になっている)

 

 (ミナが教えているのは、数の数え方じゃない。物事を数で捉える目だ。獲った魚を、何匹で割れば全員に行き渡るか。育てた畑の収穫を、冬の何日分の食料に換算できるか。──それが分かる者が、十人になれば、この村はもう、僕一人がいなくても回る)

 

 ミナが顔を上げ、ハルコルと目が合った。

 

 ほんの一瞬。

 

 ミナは小さく頷くと、また板に視線を戻した。

 

 

 

 

 

 

 広場の反対側では、老人たちが朝の仕事をしていた。

 

 大きな棚に、サッチェプ(干し鮭)が、びっしりと並んでいる。──去年の秋に捕って、冬の風で乾かして、春から保管していたものだ。老人たちは一本一本手に取って、傷んでいないかを確かめ、傷んでいるものは選り分けて足元の籠に入れていく。

 

 その隣の棚には、別の干し物が並んでいた。エモの皮を剥いて切って、去年の夏の日に乾かしたもの。冬の煮物に入れる干しエモだ。

 

 さらに奥には、革袋がいくつも吊られていた。──大豆。アワ。ヒエ。それぞれの粒が、革袋の口から少しずつ覗いている。

 

 ハルコルは、それらを見渡しながら、胸の奥で数えていた。

 

 (食料だけでも、五百人を、半年は賄える備蓄がある。──いや、もっとある)

 

 (地下蔵の中には、まだ手をつけていない去年のエモが、半分以上眠っている)

 

 

 

 棚の脇では、もう一人の老婆が、新しい革袋を縫っていた。骨針で、太い革紐を刺し通しては引き抜く。

 

「ばあさま、それは」

 

「足らねえからな」

 

 老婆は、手を止めずに答えた。

 

「去年の秋までは、この棚で全部入った。今年は、新しい棚を、もう一つ要る」

 

 ハルコルは、棚の足元を覗き込んだ。

 

 地面と棚柱の接する部分が、薄く黒く湿っている。雨の日に水が染みているのか、地中から滲んでいるのか──ハルコルには、すぐには見分けがつかなかった。

 

 

 

 (蔵を、増やす。──地下蔵の数を増やすか、別の場所に建てるか)

 

 (湿気の上がる土の上では、革袋が傷む。床下に石を敷き、その上に板を渡せばいい。あるいは、蔵の壁を、もう少し厚く土で固めるか)

 

 

 

 ハルコルは、頭の隅にその仕事を書き留めた。

 

 

 

 

 

 

 広場の端から、川辺へ下りる小道がある。

 

 ハルコルは、そちらへ向かった。

 

 

 

 川岸には、丸太を渡しただけの小さな桟橋が、二つ並んでいた。

 

 上流から下ってくる丸木舟(チプ)が、今朝も三艘、もやっている。一艘は、占冠の学びの者たちが乗ってきた舟。残りの二艘は、上流のコタンから干し肉と毛皮を運んできた者たちの舟。

 

 その向こうに、もう一艘、舟が下ってきていた。──これも、さらに上流のコタンの舟だ。エモの種芋を分けてもらいに来たのだろう。

 

 ハルコルは、桟橋の手前で立ち止まった。

 

 

 

 (舟着き場が、足りない)

 

 (去年の夏は、桟橋一つで足りていた。今年は二つでも足りない。──占冠の学びの者、上流のコタンからの食料や毛皮、種芋を求めて下ってくる舟。荷の流れが、二年で倍を超えた)

 

 (桟橋を、もう二つ三つ増やす。岸に杭を打ち、丸太を渡す。──鉄の釘で固定すれば、流れの強い日でも崩れない)

 

 

 

 ハルコルの視線は、桟橋から、防柵の方角へ流れた。

 

 川辺の上に、下流に向けて築かれた防柵の輪郭が、朝の光を背負って黒く見える。

 

 

 

 あの防柵は、丸太を縦に並べて藤蔓で縛ったものだ。──強くはある。だが、十年は持たない。雨と雪と凍結を繰り返せば、蔓は伸びて、丸太は揺らぐ。

 

 

 

 (鉄の帯を、要所に巻く。──柵の支柱と支柱の間、丸太の付け根。鉄の輪で締めれば、藤蔓よりも長く持つ)

 

 (鉄が、銃身に回り、工具に回り、農具に回り、──次は、村を守る柵にも回る)

 

 

 

 ハルコルは、内側で頷いた。

 

 

 

 (だが、急ぐ仕事ではない。今すぐの脅威がない以上、──まずは桟橋からだ)

 

 

 

 川下の方を見ると、新しく下ってきた舟が、ようやく一艘分の空きを得て、桟橋の端に着こうとしているところだった。

 

 

 

 

 

 

 工房の方角から、規則正しい音が流れてきていた。

 

 

 

 キン。キン。キン。

 

 

 

 短く、澄んだ音だ。

 

 ハルコルは足を向けた。

 

 

 

 

 

 

 製鉄所は、村のはずれ、工房と隣り合った場所にある。

 

 製鉄所の戸口をくぐると、まず鞴の革のきしむ音が耳を打った。

 

 

 

 キシ──キシ──キシ──

 

 

 

 天秤鞴を踏んでいるのは、若い男が二人。一人が押し下げ、もう一人が反対側を押し下げる。交互に踏み込むたびに、炉の中の炭が、ボッと赤く息をする。

 

 踏み手の片方は、レウだった。二十一歳。右の膝を庇うように、左脚に体重を乗せて踏み込む。その左脚だけが、太く、鍛え上げられている。──膝を痛め、森を駆ける猟ができなくなった男だ。カントが「脚の代わりに腕を使わせろ」とカニタに頼み込んで、工房に入れた。今では、鞴を踏ませれば、この村の誰より粘る。

 

 炉の前に立っているのは、トゥイマだった。十九歳。下流のコタンから流れてきた、痩せた骨格の男。天秤鞴ができた最初の冬から、この工房で鞴を踏んできた。今は、その背中が、もう鞴踏みのものではない。炉の中を覗き込む目、長柄の鏨で炭をくべる手つき──全てが、製鉄をする者の動きになっていた。

 

 トゥイマは、ハルコルが入ってきたことに気づくと、短く頷いた。

 

「……鏃、五十本目です」

 

 声は訥々として、低い。

 

「今日の終わりまでに、八十本いきます」

 

「品は」

 

「炉が、そう言ってます」

 

 ハルコルは、それ以上は問わなかった。

 

 炉が言うなら、それでいい。

 

 (炉の音で鉄の機嫌が分かる男だ、とカニタが言っていた。──カニタの目に間違いはない)

 

 

 

 炉場の隅、棚の上に、新しい道具が並んでいた。

 

 ハルコルは足を止めた。

 

 長柄の鏨(たがね)が三本。小ぶりな金槌が二挺。目の細かい鑢(やすり)。──いずれも、津軽の商人から流れてくる鍛冶道具とは、頭の形が少し違う。柄の長さも、ニプタイの男の手に合わせて、ひと回り短く切り詰めてある。

 

 刃の付け根に、薄く、影のような縞が見えた。鍛え地(きたえじ)の流れだ。──昨年の冬、カニタが「これだ」と呟いたあの夜から、銃身のために巻いてきた鋼。それを、銃身の余り板で、別の形に打ち直した道具だった。

 

 ハルコルは、鏨を一本、棚から取り上げてみた。

 

 ずしりと、手応えがあった。

 

 冷たい。鉄よりも、もう一段、冷たい気がする。──気のせいかもしれない。だが、刃先の小さな照りが、津軽から流れてきた古い鏨とは、明らかに違っていた。

 

 トゥイマが、炉の前から振り返った。

 

「……それ、冬の朝、欠けねえんですよ」

 

 短い言葉だった。

 

「津軽の鏨は、冷えた朝に強く打つと、刃の角が、ぱりんと欠けることがあった。──この鏨は、まだ、一度も欠けてねえ」

 

「使ってるか」

 

「鏃の溝を、これで彫ってます。──彫りが、深く、まっすぐ通る」

 

 ハルコルは、鏨を棚に戻した。

 

 

 

 (銃身のために作った鋼が、工房の道具に回り始めた。──鋼が、銃から、暮らしの方へ、広がり出している)

 

 

 

 棚の隣には、小さな籠が置かれていた。中を覗くと、自製の小刀が四、五本、まだ柄をつける前の状態で並んでいた。刃は薄く、しなやかで、刃先には例の冷たい照りがある。

 

 (──これも、銃身と同じ鋼で打った刃だ。低マンガン鋼の小刀)

 

 冬の朝、凍った魚を捌く時に、和人の古い小刀は刃が欠けて使い物にならなくなることがあった。だが、この鋼の刃なら、欠けない。

 

 ニプタイの女衆の腰には、いずれ、この小刀が下がることになる。

 

 

 

 

 

 

 隣り合う工房へ進む。

 

 作業台の前に、カニタが座っていた。

 

 

 

 

 

 

 銃身があった。

 

 

 

 まだ筒になっていない。鋼の薄板を、芯棒に巻き付けようとしている途中だ。槌が、薄板の端を、コン、コン、と短く叩いて、芯棒に沿って起こしていく。

 

 ──カチ、カチ、コン。

 

 

 

「カニタ」

 

「あぁ」

 

 顔は上げない。視線は、薄板と芯棒の継ぎ目に張り付いている。

 

「二号、進んでるか」

 

「進んでねえとは言ってないぜ」カニタは槌を一度だけ強く振り下ろした。コンッ。「一号は、いい銃だ。だが、まだ届いてねえ場所がある」

 

「銃床の落ち(ドロップ)か」

 

「それもだ」

 

「触れ穴か」

 

「それもだ」

 

「銃身の三段削りか」

 

 カニタが、初めて顔を上げた。

 

 

 

「──分かってんじゃねえか」

 

 

 

 頬が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。

 

「肩に当てる時の角度、引き金を引いた時の落ち、銃口の太さ。──全部、俺らが沢で撃った時に、ここがこう違ってりゃ良かった、と思った場所だ。それを一つずつ、二号で直す」

 

 カニタは、薄板に視線を戻した。

 

「だがな、ハルコル様」

 

「ああ」

 

「俺の手は、二本しかねえ」

 

 ハルコルは黙って頷いた。

 

「だから、冬のうちに決めた通り、手を増やし始めた。──おい、ユキ」

 

 炉場の隅、明かり取りの下に置かれた小さな作業台から、若い娘が顔を上げた。十六歳ほど。膝の上に、瑪瑙の小さな顎金具と、撃発仕掛けの細い部品を並べている。指先が、細く、長い。

 

「その顎、組み終わったら、こっちに持ってこい。──引き金で落とした時の、瑪瑙の食い込む深さを見る」

 

「はい。──もう少し。あと、ひと組」

 

 娘は、また手元に視線を戻した。骨の鏨の先で、瑪瑙の縁を、こり、こり、と削っている。

 

 ハルコルは、その手元を遠目に見た。

 

 (ユキ。母親が、村でいちばん手の細かいアットゥㇱ織りの名手だ。──その指を、カニタが見抜いた。瑪瑙の顎を組ませたら、自分より細けえ仕事をするかもしれねえ、と冬に言っていた、あの娘だ)

 

「あの娘と、鞴のレウ」カニタが、低く言った。「外から呼ぶより、もう、ここにいる手だ。レウは銃身の下ごしらえ、ユキは仕掛けの細工。──少しずつ、触らせてる」

 

「筋は」

 

「悪くねえ。──だが、まだ俺が傍にいねえと、危ねえ。仕込むのに、一冬や二冬はかかる」

 

 カニタは、薄板に視線を戻した。槌が、また、コン、コン、と短く動き始める。

 

「焦らねえ。──だが、もう、始めてる」

 

 

 

 

 

 

 工房の、さらに奥。

 

 

 

 布で覆われた長い棚が、二つ並んでいた。──だが、棚の上の布の下に、銃の影はない。

 

 ハルコルは、布の端を指で持ち上げた。

 

 空の銃床受け。空の銃身置き。銃架(じゅうか)の上には、銃口の形にすり減った窪みだけが残っている。

 

「カントが、両方持って出てる」

 

 カニタの声が、奥から飛んできた。槌を止めずに言う。

 

「今朝、夜明け前にな。──西の見張り台を回るついでに、山に入るとよ」

 

「猟か」

 

「ああ。──エゾシカが、新しい畑の縁まで降りてきてる。畑荒らしになる前に、と」

 

 ハルコルは布を戻した。

 

 

 

 空の銃架のすぐ脇には、小さな甕が三つ並んでいた。中を覗くと、それぞれ違う粗さの黒い粒が入っている。──大、中、小。雪の沢の試射で気づいた、火皿用の細粒と銃身用の粗粒を、篩で分ける作業の、まだ試作段階の品。

 

 ハルコルは甕の蓋に手を触れた。

 

 (粒は揃ってきている)

 

 

 

 甕の並びの、さらに奥。工房のいちばん隅の壁際に、白っぽい石が、ひと抱えほど、無造作に積み上げられていた。

 

 ハルコルは、その一つを手に取った。

 

 ずっしりと重く、表面は、ざらりと白い。割れ口を覗くと、内側まで同じ白だ。──占冠の沢で、ニウㇰに頼んで崩してもらった石灰の崖の石。去年、上流の舟が、少しずつ運び下ろしてきたものが、いつの間にか、これだけ積まれていた。

 

 (占冠の白い崖。──あの時は、何に使うとも決めずに、ただ「少し分けてくれ」と頼んだ)

 

 (焼けば、土に撒ける。酸の強い土を、和らげる。畑の土が痩せた時の備えに、と思っていた)

 

 ハルコルは、白い石を、もとの山に戻した。

 

 石灰の白が、炉の赤い照り返しを受けて、隅でぼうっと浮かんでいた。

 

 

 

 ハルコルが棚に背を向けようとした時、カニタが、ぽつりと言った。

 

「ハルコル様」

 

「ああ」

 

「製鉄の方なんだがな」

 

 

 

 ハルコルは、振り返った。

 

 カニタはまだ槌を握っていたが、視線はもう、薄板ではなく、戸口の外に向いていた。──煙が立ち上っているはずの、製鉄炉の方角に。

 

「煙が、最近、チセの方まで届く日がある」

 

「風向きか」

 

「春が深まると、南風が増える。──これから夏にかけては、南風が長く続く。炉の煙が、居住区のチセの屋根を、なめるみてえに通っていく」

 

「咳をする年寄りが、出てるか」

 

「まだ出てねえ。──だが、出る前に動いた方がいい」

 

 カニタは、薄板に視線を戻した。

 

「炉を、もう一つ建てるなら、別の場所がいい。──今の窪地は培養硝石の囲いに排熱が回って都合がいい。あれを動かす気はねえ。だが、新しい炉は、もっと風下に建てたい」

 

「風下──」

 

 ハルコルは、頭の中に村の地図を広げた。

 

 これから来る夏の南風の風下は、川向こうの斜面。冬の北西風の風下は、もっと谷を遡った場所。

 

 炉を一つ動かすには、製鉄所そのものを丸ごと造り直す覚悟が要る。

 

「すぐにか」

 

「すぐにじゃねえ」カニタは首を振った。「今年や来年の話じゃねえ。──だが、いずれだ。鉄が、もっと欲しくなる日が、もう見えてる」

 

「鉄が、もっと欲しい日」

 

「銃が増えれば、銃身の鋼が要る。村が広がれば、農具の鉄が要る。柵や蔵の補強が要る話も、もう出てきてるんだろう」

 

 

 

「カニタ」

 

「ああ」

 

「忘れない。──いずれ、必ず」

 

「うん」

 

 

 

 カニタは、それきり何も言わなかった。

 

 

 

 カチ、カチ、コン。

 

 槌の音だけが、また工房に戻ってきた。

 

 

 

 

 

 

 工房の戸口を出ると、また、子どもの笑い声が遠くから聞こえてきた。

 

 ハルコルは、空を見上げた。

 

 春の青が、高く澄んでいた。けれど、青の縁に、薄い雲が一筋、流れていた。

 

 雲は、西から東へ流れている。

 

 

 

 

 

 

 夕暮れになると、村は静かになった。

 

 

 

 畑の女衆も、工房のカニタも、製鉄所のトゥイマも、それぞれのチセに戻る。広場には、まだ子どもが二、三人残って、棒切れを振り回している。だがその子たちも、母親の声に呼ばれて、一人ずつ消えていった。

 

 ハルコルとミナは、囲炉裏の前にいた。

 

 ペカンクㇽが、二人の向かいに座って、薪を一本くべた。

 

 火が、パチリと爆ぜる。

 

 今日獲ってきたサクラマスの脂が、鉄串から滴って、囲炉裏の灰の上に落ちる音がした。ジュッ、と短く、それだけ。脂の匂いが、煙と混ざって、チセの天井近くを漂う。──雪解け水が落ち着いた頃、海から川を遡ってくる、春の魚だ。

 

 その隣で、エモを煮る土鍋から、ふわりと湯気が立ち上っていた。

 

 ペカンクㇽは、串を一本、火から外して、ハルコルに渡した。

 

「食え」

 

「ありがとう、父さん」

 

 ハルコルは、サクラマスの身を一口齧った。脂が、舌の上で溶ける。塩は加えていない。──だが、それで足りる。

 

 ペカンクㇽは、自分の串を持ったまま、火を見ていた。

 

 

 

 長く沈黙が続いた。

 

 

 

 やがてペカンクㇽが、ぽつりと言った。

 

「……大きくなったな」

 

 ハルコルは、その声の意味を、すぐには測りかねた。

 

 息子に向かって言ったのか、村に向かって言ったのか、それとも──。

 

「村が、ですか」

 

 ペカンクㇽは、答えなかった。

 

 ただ、火を見ていた。

 

 その横顔の、目尻の皺が、五年前よりも少しだけ深くなっていた。

 

「今は、棚にも蔵にも、入りきらねえほど干し物がある」

 

「ええ」

 

「──だが」

 

 ペカンクㇽは、初めてハルコルの方を見た。

 

「昔のつらさも忘れない」

 

 その一言だけで、ペカンクㇽは、また火に視線を戻した。

 

 

 

 ハルコルは、内側で、長く息を吸った。

 

 (忘れないでいる。──それが、父さんの仕事だ)

 

 (数字に出ない仕事だ。だが、最も重い仕事だ)

 

 

 

 

 

 

 チセの外で、靴音がした。

 

 戸口から、カントが顔を覗かせた。

 

 肩には、長短二本の影が交差して掛かっていた。──長い方が山丹の燧石式改造銃。短い方がニプタイ製銃一号。布で巻いた銃身が、戸口の薄明かりに、ぼうっと黒い線を引いている。

 

「上がれ」

 

 ペカンクㇽが言うと、カントは銃を二挺、戸口の脇の壁に立てかけてから、囲炉裏の端に腰を下ろした。串が一本、カントの前に置かれる。カントは無言で齧った。

 

 今日、カントは若い者たちを連れて、西の見張り台を回り、その帰りに新しい畑の上手の谷へ降りたはずだった。エゾシカが新しい畑の縁まで降りてきている、という話があった。

 

「新しい奴ら、見張り台、覚えたか」

 

「半分」

 

「残りは」

 

「明日、もう一度連れて行く」

 

 短い問答だった。それで十分だった。

 

 ペカンクㇽが、火に薪を一本足す。火が、ふくらむ。

 

 

 

 ペカンクㇽは、壁に立てかけられた二挺の銃を、ちらりと見た。

 

「シカは」

 

「二頭」

 

 カントは、串の脂を指の腹で拭いながら、低く答えた。

 

「一頭は、上の谷で。──ニプタイの方で撃った。一発で、肩に入った。雌ジカで、冬毛が抜けかけて、夏毛に変わりかけてた」

 

「もう一頭は」

 

「もう一頭は、川縁の藪で。──山丹の方を使った。こいつは、二発要った」

 

「──二発」

 

 ペカンクㇽの目が、静かに細くなった。

 

 

 

「あの長え奴は、藪の中じゃ取り回しが、悪い」

 

 カントは、串をもう一度齧ってから、続けた。

 

「銃身が、長すぎる。──森の中で藪をかき分ける時、銃口が、いちいち枝に引っかかる。樹を避けるのに、銃を持ち替えなきゃならねえ。獣に気づかれる前に、構えるのが、間に合わねえ時がある」

 

 ハルコルは、黙って聞いていた。

 

「あと、重さだ」

 

 カントは、串を置いた。

 

「あの長え奴は、銃口の方に重さが寄ってる。──長く構えて獣を待ってると、腕が、だんだん落ちてくる。藪の中で、息を殺して待つ猟には、向かねえ」

 

「どちらも、火縄じゃ、ねえな」

 

「ねえ。──二挺とも、瑪瑙の顎で火を起こす。火縄は、点さねえ」カントは、ふっと息を吐いた。「もし、これが火縄の銃だったら、猟になんぞ、まるで使えねえ。火縄の火の匂いと煙が、風で獣の方に流れる。──シカは、人より、ずっと鼻がいい。点した火の匂いで、近づく前に逃げられちまう」

 

「だが、二挺とも、火は点さない」

 

「ああ。──そこは、どちらも、同じだ。獣に勝てる」

 

 カントは指で囲炉裏の灰を一掬い、それを指の間で擦った。

 

「今日の二頭目は、藪の風下から、山丹の長え奴で狙った。火は点してねえから、匂いでは気づかれてねえ。──だが、藪の中で銃身が長すぎて、枝をかき分けるうちに構えが遅れた。シカは、最初の一発が外れた瞬間に、跳んだ。──二発目で、ようやく脚に当たって、追って仕留めた」

 

 ペカンクㇽは、火を見たまま頷いた。

 

「一頭目、ニプタイの方の話を、しろ」

 

 カントは、ほんの少し、顔を上げた。

 

「あれは、いい」

 

 短い、しかし、はっきりとした断定だった。

 

「寸法が、ちょうどいい。──森の中で構えても、銃身が枝に当たらねえ。樹の間を縫って撃つのに、邪魔にならねえ」

 

「山丹の長え奴と、どう違う」

 

「軽い。前が重くねえ。──構えてから、待てる。藪を低くかき分けながらでも、銃口が、すっと上がる」

 

「だから、近づける」

 

「近づける。──今日の一頭目は、三十歩まで近づいた。長え銃身じゃ、枝に取られて、こうはいかねえ」 

 

 カントは、串を持ち直して、もう一口齧った。

 

「それと──これは、弓と銃で、根本から違う話なんだが」

 

 ペカンクㇽが、目だけで先を促した。

 

「弓は、矢が、山なりに飛ぶ」

 

 カントは、右手を弓を引く形にして、矢が空に弧を描く軌跡を、指でなぞった。

 

「だから、上に枝が張った場所では、矢が枝に当たる。引っかかる。狙えねえ。──木の天蓋の下にいるシカを、上から枝が塞いでる時、弓では、抜けねえ」

 

「銃は」

 

「銃は、まっすぐだ」

 

 今度は、指を、火に向けて水平に伸ばした。

 

「弾は、ほぼ、まっすぐに飛ぶ。──上に枝が張ってても、枝の隙間を、まっすぐ抜ける。横の樹を一本避ければ、その先に、まっすぐ通る」

 

 ハルコルは、頷いた。

 

「今日の一頭目」カントは続けた。「あれが、まさにそうだった。シカが、太い樹の下に隠れていた。頭上は、枝でぎっしり詰まってた。──弓だったら、諦めて回り込んでた。だが、ニプタイの方は、樹の幹のすぐ脇を、まっすぐ抜けた」

 

 

 

 ペカンクㇽは、しばらく何も言わなかった。

 

 火が、パチリと爆ぜた。

 

 

 

 やがて、低く言った。

 

「武器が、変わる」

 

「ええ」

 

「猟が、変わる」

 

「ええ」

 

「──だが、頭は、変えるな」

 

 

 

 カントは、串を置いて、頷いた。

 

 

 

 ハルコルは、火を見つめていた。

 

 壁に立てかけられた二挺の銃の影が、火の揺れに合わせて、ゆっくりと長くなったり短くなったりしていた。

 

 

 

 

 

 

 川の対岸の方角から、別の声が、かすかに流れてきた。

 

 

 

 ──低い、長く伸びる声。

 

 

 

 モノクテ爺さんの声だった。

 

 今夜は、子どもたちに語る夜だ。チセの中ではなく、川縁の岩場に、十人ほどの子どもが座っている。ハルコルからは姿は見えない。だが、声だけが、川の水音に乗って、薄く、薄く、届いてくる。

 

 

 

 囲炉裏の三人は、誰も口を開かなかった。

 

 ペカンクㇽが、ハルコルを見た。ハルコルは、目で頷いた。

 

 

 

 (あの声が、聞こえる村に、僕らはいる)

 

 (数字と帳簿の村でもあり、語りの村でもある。──両方の村だ)

 

 

 

 ハルコルは、目を閉じた。

 

 

 

 川の水音が、蛙の声に重なり、その奥で、モノクテの低い声が、ゆっくりと続いていく。

 

 

 

 

 

 

 夜が、深くなった。

 

 

 

 囲炉裏の薪は、もう熾火だけになっていた。赤い灰の中で、ぽつ、ぽつ、と火の粒が瞬いている。

 

 ミナはとうに眠っていた。母のトゥレㇷ゚も、隣のペカンクㇽも、寝床に下りていた。

 

 チセの中は、静かだった。

 

 外も、静かだった。──いや、蛙の声だけが、深い闇の底から湧き上がっている。

 

 ハルコルは、まだ目を開けていた。

 

 寝具の中で、横向きに、囲炉裏の熾火を見ていた。

 

 

 

 (明日は、第四圃場のエモを、もう一度見回る。──葉の色が、少し気になる)

 

 (カニタの工房に寄って、火皿用の細粒の試作の進み具合を聞く。──カントの今日の話も、伝えなければ。藪での取り回し、直線弾道の効き)

 

 (ミナと、占冠の学びの者たちが帰る前の、土産の話を詰める)

 

 (川の水を、畑まで引いてくる仕掛けの話──いつ切り出すか。今ではない。だが、頭の隅には、ずっと置いておく)

 

 (製鉄所を、もう一つ、別の場所に建てる話。──これも、いつかだ。父さんに話す時を、選ぶ)

 

 (そして……)

 

 

 

 その時だった。

 

 

 

 ──ドオン。

 

 

 

 いや、音は鳴っていない。

 

 

 

 

 

 体の下で、地面が、ぐらり、と動いた。

 

 

 

 

 

 

 

 チセの柱が、軋んだ。

 

 

 

 ギシッ──。

 

 

 

 天井の梁から、何かが落ちる音。乾いた砂の粒のような、軽い音。

 

 壁に吊られたサッチェプの棚が、揺れる。乾いた鮭が、棚の上で、コトリと小さく音を立てて、ぶつかり合った。

 

 囲炉裏の灰が、ふわりと立ち上った。

 

 

 

 

 

 

 

 揺れは、長くは続かなかった。

 

 

 

 短い、横向きの揺れ。──ぐらり、ぐらり、と二度、三度。それで止まった。

 

 

 

 蛙の声が、一瞬、消えていた。

 

 

 

 チセの隅で、ミナが寝返りを打つ音。

 

 奥で、ペカンクㇽが小さく咳をする音。

 

 

 

「……揺れたか」

 

 

 

 ペカンクㇽの声だった。寝床から、半身を起こしている。

 

「──寝ろ」

 

 ペカンクㇽが、低く言った。

 

 誰も騒がない。

 

 この大地で、地震は、珍しくない。年に何度か、必ず、こうして大地は寝返りを打つ。横揺れだろうが、縦揺れだろうが、棚が傾かなければ、それで終わる。

 

 ミナの寝息が、すぐにまた、規則正しくなった。

 

 

 

 

 

 ハルコルだけが、目を開けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハルコルは、闇の中で、息を整えた。

 

 

 

 

 

 

 (僕は、知っている)

 

 (──七千年眠っていた山が、もうすぐ、目を覚ます)

 

 

 

 

 

 備蓄は、整っている。地下蔵には、たっぷりの食料。各コタンに、エモの種芋。

 

 できることは、全部やった。

 

 

 

 (あとは──いつ来るか、だ)

 

 

 

 

 

 ハルコルは、目を閉じた。

 

 

 

 蛙の声が、闇の中に、ゆっくりと戻ってきていた。

 

 大地は、もう、動かない。

 

 

 

 

 

 

 夜が明けるまで、ハルコルは、何度か、目を開けた。

 

 その度に、蛙の声を確かめた。

 

 蛙が鳴いていれば、大地は静かだ。

 

 

 

 

 

 蛙の声は、戻っていた。

 

 

 

 揺れは、一度きりだった。

 

 大地は、再び、眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──だが、その眠りが何日続くのか、ハルコルには、分からなかった。




第34話をお読みいただき、ありがとうございます!


おまけの解説コーナーです。

【エゾハルゼミとサクラマス】
エゾハルゼミは、北海道では初夏の六月ごろに鳴くセミです。本州の「蝉=真夏」とは違い、雪解けからひと月ほど経った時季にもう鳴きだすので、北の人々には「ようやくストーブを片づけてよい季節」の合図になります。一匹が鳴くとつられて林じゅうが重なり、輪唱のような蝉時雨になります。

サクラマスは、渓流のヤマメ(北海道ではヤマベ)が海へ下って大きく育ち、春に生まれた川へ戻ってきたもの。海の餌で太った銀色の魚です。産卵は秋。春に遡った親魚は餌をほとんど摂らずに夏を越し、桜色に染まって産卵し、短い生涯を終えます。「サクラマス」の名は、桜の咲く頃の遡上と、この産卵期の体色に由来します。

暦を持たないアイヌの民にとっては、蝉が鳴けば夏、銀の魚が川を上れば雪解けの終わり。大地と川そのものが、もう一つの暦でした。



【口辺の入れ墨と、トゥレㇷ゚という名】
本当は投稿を始めるのは4月頃からの予定でした。
そのため、詰めが甘く第一話以降の母の登場が抜け落ちるという失態。
ズルズル機会を逃した挙句、ようやくここでハルコルの母に初めて名前と顔を与え登場させました。
そのうち、しれっと改稿したエピソードにいるかもしれません。

口元の入れ墨は、アイヌ語で「シヌイェ」と呼ばれる女性の習俗です。幼いころ手の甲に小さく入れ始め、結婚に近い年頃に口の周りへ広げる、一人前の証でもありました。地域差があり、トゥレㇷ゚たちの暮らす日高では、口の入れ墨の端が頬まで伸びる形だったと伝わります。

名前のトゥレㇷ゚はオオウバユリのこと。その球根から採れる澱粉は、女性たちが掘り・砕き・水にさらして作る大切な保存食でした。村の食を差配する奥方に、食を支える山の恵みの名を与えた──そんな含みです。



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